六十数年前。パンツァーは、人型戦車ティーゲル・アインとして生み出された。 だが、その頃の記憶はない。部品に刻まれている製造年月日の中で、最も古い日付がそれだというだけだ。 世界は戦いに次ぐ戦いで混乱を極め、軍需産業が発達した末に製造された狂気の沙汰の兵器の一つだった。 連日のような激戦で兵力となる自国民の消耗を恐れた軍の技術部が、人工の命と知性を持つ兵士を開発した。 しかし、発展途上の科学技術では人工知能をプログラムすることも出来ず、それを収める回路も作れなかった。 そこで、軍の研究部は、産業革命時代にも負けずに細々と伝えられていた魔術を用い、人間の意識を移植した。 だが、移植するための意識を抜き出された人間は悶死し、死なない兵士を一体作るために兵士を一人死なせた。 本末転倒な結果になったため、死なない兵士の開発は頓挫し、彼らは中途半端な状態で放り出されてしまった。 ティーゲル・アインはその中の一体だった。だが、自我を持った後、同型の兄弟と出会ったことは一度もない。 戦中戦後の混乱で一連の死なない兵士の開発計画に関わった人員は散り散りになり、研究結果も同様だった。 そのため、ティーゲルを始めとした死なない兵士の機体は、分解されて屑鉄になり、他の兵器に転用されていた。 ティーゲルが生き残っていたのは幸運としか言いようがなく、ティーゲルはたまたま仮組みされていた機体だった。 なぜ自分が機械の体なのか、どうして薄暗い倉庫にいるのかは解らなかったが、兵士としての自覚は持っていた。 戦時犯罪の調査を行うために乗り込んできた連合軍の目を逃れ、外へ出たティーゲルは、訳も解らずに逃げた。 戦うために生み出された身なのだから上官がいるはずだ、戦地があるはずだ、と思い、キャタピラの足で駆けた。 しかし、実用化前に廃棄された人型戦車のための部隊は存在せず、当然ながら、上官も部隊も戦地もなかった。 石炭や石油を喰らいながら、廃墟だらけの国土を駆け回った末、ティーゲルは国外に脱出して戦地を探し求めた。 戦いだけが、空虚な心を満たしてくれると信じていた。 それから、ティーゲルは闇雲に戦った。 大戦後に勃発した紛争地域で人に近い形状だが人ではない面々と出会い、兵士として雇われることになった。 弾丸の飛び交う場所に立っているだけで心の底から落ち着き、砲身から全力で砲弾を放つ瞬間が悦楽だった。 彼らが何のために戦っているのかも解らず、敵対している相手が何なのかも解らなかったが、戦い続けていた。 目的も理由も定められずに、戦い、戦い、戦い続けて、ティーゲルの周りには誰一人として生き残らなかった。 当初、ティーゲルを同胞だと言って仲間に引き入れてくれた人外の戦友達は、数年と立たずに全滅してしまった。 その後にティーゲルを買い付けてくれた人間も、ティーゲルを友人だと言ってくれた怪人も、皆、死んでしまった。 けれど、ティーゲルだけは死ななかった。頭を撃たれても、腕を撃たれても、腹を撃たれても、死ねなかったのだ。 生きている機械ではあるが生命に相応しい血肉を持たないが故に、どんな目に遭っても意識は途切れなかった。 どれほどひどく破損しても、部品さえ交換すれば元通りになる。頭脳回路が破損しても、難なく思考出来てしまう。 日々空しさだけが募り、仲間達の墓標だけが増え、ティーゲルは次第に戦うことに疑問を抱くようになっていった。 だが、戦うことを止められなかった。人型戦車であるティーゲルには、戦い以外に出来ることがなかったからだ。 ティーゲルが戦い始めてから、三十年以上は過ぎた。僅かに栄えた街も滅ぼされ、宗教戦争が始まった。 神も仏も信じたことのないティーゲルにとってはどうでもよかったが、戦わなければ体を保てないので戦っていた。 弾薬も燃料もタダではない。だから、いくつもの武装組織に雇われたが、いくつもの武装組織が滅ぼされていた。 ようやく腰を据えられる場所を見つけたと思っても、数日後には武装組織の構成員が殺され、死体の山ばかりが築かれた。 血と硝煙、黄土色の砂埃。信仰心と憎悪が充ち満ちた世界。その日も、ティーゲルは廃墟同然の街にいた。 細かい理由など覚えていないが、武装組織同士の衝突を引き起こすための囮として前線に出されたはずだった。 黄土色の砂混じりの風が吹くと空の薬莢が転がり、からからと鳴る。強烈な日差しが、分厚い外装を焼いてくる。 数店の店舗は店としての機能を果たしているのかは怪しく、色彩のない世界で独裁者のポスターだけが派手だ。 敵国の代物だ、と武装組織の男がいきり立ちながら見せてきた、西部劇の映画に似ているなと思ってしまった。 さしずめ、ティーゲルはごろつきの鉄砲玉だろうが、自警団も用心棒もいないのでいつもの戦闘になるだけだろう。 「……ん」 道端に、不審なワゴン車が留まっていた。錆が浮いているがまだまだ走れそうなのに、誰も盗もうとしない。 「誘爆しといた方が楽かもな」 いつもの自動車爆弾だ。ティーゲルは背部から迫り上げて右肩に載せた主砲を、ワゴン車に照準を据えた。 砲弾を装填し、腰を落として砲身を支える。発射態勢に入ったティーゲルの頭上で、ほんの少し太陽が陰った。 「どおぁあああああああっ!」 罵声を放ちながら落下してきた人影が、ティーゲルとワゴン車の間に入った。 「んなっ!?」 驚いたティーゲルが発射寸前の砲弾を飲み込みかけると、赤と金の派手な人影は飛び掛かってきた。 「パゥワァナックルゥウウウウッ!」 やたらに力が入った掛け声と共に拳が放たれ、ティーゲルは胸部に凄まじい重量の打撃を受けた。 「うぐえあっ!」 「貴様ぁっ、何をするぅっ!」 拳を放った姿勢のまま、赤と金の派手なヒーローは喚いた。 「戦車っつうのは、物を壊すもんだろうがよ」 倒れかけたが踏み止まったティーゲルに、赤と金のヒーローは無駄としか言いようがないポーズを付けた。 「パワー・オブ・ジャスティス、パゥワァーイィーグルゥッ!」 「何をしに来やがった、若造。お前さんの陳腐な正義なんか、誰もお呼びじゃねぇんだが」 ティーゲルが辺りを窺うと、既に控えていた双方の武装組織の戦闘員が銃を構え、二人に銃口を据えていた。 「お前さんみてぇなのは、大都会の街中でイカれた能力を持った連中と殴り合ってるのがお似合いだぜ」 「ああ、俺もそう思う!」 パワーイーグルも銃口を一瞥したが、ティーゲルに向き直った。 「だが、俺は俺の正義を知りたい! だから、俺は戦うことに決めたんだ!」 「ほう、何と?」 「世界とだぁあああっ!」 パワーイーグルは大きく振りかぶり、ティーゲルの懐を殴り付けたが、ティーゲルは両腕でその拳を受け止めた。 「だったら、尚更こんなところに来るんじゃねぇよ!」 「俺の世界とは、俺が見知ってきただけの世界に過ぎない! だから、俺は、あらゆる世界を知る必要がある!」 打撃の反動でずり下がったパワーイーグルは、筋肉がくまなく付いた胸を張った。 「んで、手始めに紛争地帯っつうわけか。ありがちだな!」 先程発射し損ねた砲弾を至近距離で発射したティーゲルは、爆心地の煙が晴れる前に廃熱動作を行った。 「だが、ここはお前さんなんかに守れる世界じゃねぇ。御都合主義が通用しねぇんだからよ」 「……だからこそだ!」 直撃を受けても動じずに爆心地に立っていたパワーイーグルは、両腕を降って煙を払った。 「いかなる理不尽、いかなる暴力、いかなる狂気に対しても、俺の正義が通用するのか知りたいんだぁあああ!」 「通じなかったら、どうするつもりだ」 「解らん!」 「はあ?」 ティーゲルが単眼を一瞬点滅させると、パワーイーグルは大股に歩いてきた。 「俺はどんな強敵からも逃げたことはなかった! また、諦めたこともなかった! だが、それは俺の正義が絶対だと 信じていたが故のこと! その絶対が崩れた時、俺は自分がどうなるのか知らなければならない!」 「そいつぁまた、どうしてだ」 「決まっている! 俺が俺を見失わないためだ!」 「御立派すぎて笑えてくらぁ!」 廃熱を終えて動作環境が戻ったティーゲルは、ぎゃりりぃっ、と両足のキャタピラで地面を噛んで突進した。 来いっ、と叫んだパワーイーグルはティーゲルの突撃を受け止め、並の人間とは違って吹き飛ぶことはなかった。 ヒーローと出会うのは初めてではないが、力の桁が尋常ではない。キャタピラの回転数を上げてもびくともしない。 このままではキャタピラが損傷する、とティーゲルが推進力を緩めて後退すると、パワーイーグルは構え直した。 生まれて初めて味わう感覚の連続に、ティーゲルはぞくぞくした。ただの人間を破壊するより、何十倍も高揚する。 殺戮に快楽を覚えたことはなかったが、この男だけは徹底的に破壊したいと本能のようなものが騒ぎ立てている。 激闘を始めた二人に双方の武装組織から機銃掃射が始まっても、攻撃の手を緩められず、戦いに溺れてしまう。 それが、どうしようもなく恐ろしかったが、それ以上の悦楽に襲われ、ティーゲルはパワーイーグルと戦い続けた。 パワーイーグルは強かった。殴っても、蹴っても、撃っても、潰しても、投げても、落としても、立ち上がった。 だから、ティーゲルは全力で戦った。廃熱の限界を超えて砲身が溶けるほど発射し、拳が歪むほど殴り付けた。 戦っていると、空しさが少しだけ埋まる気がした。今まで生きてきて、感じたことのない感情が回路を駆け巡った。 ティーゲルの人格の元となった兵士の意識から模倣した感情とは異なる、ティーゲル自身が感じた感情だった。 混迷。恐怖。困惑。躊躇。切望。願望。そして、疑問。オイルの滴る拳をぐっと握り締め、ティーゲルは排気を荒げた。 戦えば戦うほど、感情ばかりが生まれていく。増大しすぎた情報が集積回路を圧迫し、過電流が痛みを呼ぶ。 何時間戦ったのか解らないほど戦い続けたため、パワーイーグルも疲弊していたが、膝を折ることはなかった。 金属をも突き破る拳を守る白いグローブには、ティーゲルのオイルと共に彼の拳から滲み出た血が染みていた。 気付けば、双方の武装組織は退避しており、市街地に残されたのはティーゲルとパワーイーグルだけとなった。 天高く昇っていた太陽もいつのまにか傾いていて、空の青と砂の黄色だけしかなかった景色が暗く沈んでいた。 「まだ、やるってぇのかよ」 ティーゲルは過熱しすぎて溶解しそうな両腕をだらりと下げると、破損したキャタピラがばらばらと落下した。 「無論だ!」 パワーイーグルはマスクを拭うと、手の甲には汗と血の混じった体液が付いた。 「おい、お前さん、血ぃ吐いてんじゃねぇのか」 ティーゲルが潰れた指先でパワーイーグルの手の甲を指すと、パワーイーグルは自嘲した。 「ここ一週間、ろくに喰いも休みもしなかったからな。胃でも破れたか」 「お前さんはヒーローだが人間だろうが。そこまでする必要があるのかい」 「あるんだよ、いくらでも」 パワーイーグルはバトルマスクの口元を開いて、血混じりの唾液を足元に吐き捨てた。 「お前が言ったように、俺は都市で戦っていたんだ。一般市民に危険を及ぼすミュータントや怪人を倒し、悪の組織を倒し、 犯罪者を倒し、テロリストを排除した。だが、いくら戦おうとも終わりがない。倒したと思っても、また新しい敵が現れ、俺はまた 新しい戦いを始めなければならなくなる」 「だから、諸悪の根源を探しに来たってぇわけか」 「それもある。それと、あの街は、俺が守る必要があったのかどうかも知りたくなったんだ」 パワーイーグルはバトルマスクを元に戻し、砂と血液で咳き込んでから、深呼吸して肩を上下させた。 「この世界にはヒーローはごまんといて、俺はその中の一人でしかない。俺がいなくても誰かが世界を守ってくれる、 俺じゃなくても誰かが悪を倒してくれる、俺以外のヒーローが世界を救ってくれるんじゃないか、とな」 「んで、どうなんだ。お前さんがその都市を離れた後に、何か変わったことがあったか?」 「犯罪者の検挙数が下がって、交通事故の死亡者数が増えて、市民が何人も誘拐されてそれと同数の改造人間が 出来上がっていた。俺が下らないことで悩んでいる間にも、敵は動いていたんだ。俺が戦いを投げ出そうとも、連中は 世界征服を諦めたりはしない。むしろ、俺がいなくなったことで活気付いていやがった」 「そいつぁ、豪儀だな」 「だが、その間、俺がこの国で守れたものはない。助けたはずの人間から撃たれ、刺され、子供からは花束に偽装した 爆弾を渡され、死体を人目に付かない場所に動かそうとすればその死体が爆発し、思想が違うと言って憎悪の限りをぶつけられる。 この国は、俺の力など及ばない戦場だったんだ」 「だったら、さっさと帰ったらどうだ。お前さんに相応しい戦場によ」 「そうするつもりだ。俺の力ではこの国は救えないかもしれないが、改造人間達は救い出せるだろう」 パワーイーグルは拳を緩めると、ティーゲルのオイルの飛沫が染みた翼状のマントを翻し、背を向けた。 「名を聞こう。貴様は、いや、お前は、俺の素晴らしき戦友だ。最後まで付き合ってくれて嬉しかったよ」 「何を言いやがる。俺はただの兵器で、お前さんは御立派なヒーローだ。覚えておく価値もねぇよ」 「名を知らなければ、呼び方に困るじゃないか。それと、お前と酒を酌み交わしたいと思ってな」 「アルコールか? 有機体があんな揮発性の高い燃料を経口摂取したところで何が楽しいんだよ」 「少しだけ世界が明るくなるんだよ。それで、お前の名は」 「ティーゲル・アイン。銘板にはそう書いてある」 「解った。ティーゲル、日本に来た時は俺の名を呼べ。どこにいようとも、助けに行ってやる」 「お前さんみたいな若造に守られるほど、弱くはねぇよ」 ティーゲルが一笑すると、パワーイーグルは後ろ手に手を振ってみせ、鮮烈な西日に焼かれた空に消えた。 彼は答えを見つけたのだろうか。きっと見つけられたのだろう、と漠然とした確信を得たティーゲルは崩れ落ちた。 とっくに限界を超えていた関節が破損し、腕が落ち、足が曲がり、排気筒とラジエーターが黒煙を噴き上げている。 今まで立てていたのが不思議なくらいだ。千切れたケーブルからばちばちと漏電し、オイル溜まりが広がっていく。 それなのに、いやに気分は爽快だった。パワーイーグルの言葉の一つ一つが記憶回路に焼き付いているからだ。 世界を知る必要がある。彼のような男が他にもいるのなら、こんな紛争地帯で果てるのはあまりにも惜しい。 そう思った途端、活力が湧いた。燃料タンクは当の昔に干涸らびているはずなのに、足が勝手に前に動き出した。 初めて、戦い以外のことを知りたいと思った。 紛争地帯を脱したティーゲルは、諸国を彷徨った。 二十数年ぶりに祖国に辿り着くと、西と東を隔てる分厚く長い塀が連なっていて、街が区切られていた。 紛争地帯では世界情勢がもろに響くので情報を細かく集めていたため既に知っていたが、目にすると異様だった。 西と東では経済構造も違えば物資の質も差があり、四十年ほど前に起きた大戦がまだ終わっていないのだと知った。 上手く東側に入り込めたティーゲルは、秘密警察の監視の目をかいくぐりながら、静まった街並みを見て回った。 ティーゲルらが製造された兵器工場を探してみようか、と思ったが、派手に動くと逮捕されかねないので断念した。 西側に比べ、東側の街はどんよりと淀んでいた。人間の表情もだが、排煙で大気が濁り、建物を黒く汚していた。 乾いた砂塵と硝煙の匂いにまみれていた紛争地帯で感じたものとは違っているが、似たような空気を感じていた。 夜になると、黒い街は闇に覆い隠された。家の窓明かりも少なく、市街地を通る車もなく、物音一つしない。 廃坑のトンネルの奥で息を潜めていたティーゲルはそっと顔を出し、暗視に切り替えた目で周囲の様子を探った。 青い月明かりが眩しく、虫の声が騒がしい。足音を殺しながらティーゲルは廃坑から外に出ると、声を掛けられた。 「月光浴に付き合ってもよろしいかな?」 廃坑には似つかわしくない礼服を着たオオカミ獣人の老紳士が、出入り口の傍に立っていた。 「何者だ!」 ティーゲルが反射的に砲身を下ろそうとすると、背後から差し出されたレイピアに砲身を止められた。 「無礼な。大旦那様に武器を向けるとは、命知らずにも程がある」 砲身よりも遙かに脆弱なカルシウム製のレイピアであるにも関わらず、重量に負けるどころか押し返していた。 「こらこら」 老紳士はティーゲルの背後に視線を向けてレイピアの主を諌め、レイピアを引かせた。 「いや、すまんね。彼は私の側近なのだが、過保護なのが困り者だ」 「何を仰いますか、大旦那様。大旦那様の身を案じているからこそで」 レイピアの主であるカブトエビ怪人は、少々不満げにレイピアを下ろした。 「貴様ら、俺を秘密警察に密告するのか?」 ティーゲルが警戒を緩めずにいると、老紳士は打ち捨てられたトロッコに腰掛けた。 「そんなつもりはないさ。戦友達の墓参りを兼ねて、故郷を廻っている途中なのでね」 「こちらにおわす御方は、最強の人狼族であるヴォルケンシュタイン家の末裔であり、元ドイツ軍将校であり、悪の秘密結社 ジャールの暗黒総統であらせられる、ヴォルフガング・ヴォルケンシュタイン様にございます」 カブトエビ怪人が仰々しく肩書きを並べ立てながら老紳士を示すと、老紳士は苦笑して彼を示し返した。 「彼の名は、レピデュルス・トリオプス・ヴォルケンシュタイン。私の兄弟であり、側近であり、元ドイツ軍大尉であり、悪の秘密結社 ジャールが幹部社員の一人だよ」 「軍人なのか?」 ティーゲルは警戒心は緩めなかったが、砲身を背に戻して戦闘態勢を解除した。 「いや、それは昔々の話だ。今の私は、世界征服を目論む悪の総統だ」 老紳士、ヴォルフガングはハットを外し、膝の上に置いた。 「どうだね、この国は。少し目を離していた隙に、とんでもないことになっている」 「俺はこの国で生まれたが、この国のことはまるで知らない。だが、良くないことだとは解る」 ティーゲルが窓明かりのない夜景を見下ろすと、ヴォルフガングは頷いた。 「だから、私は世界を征服するのだ」 ヴォルフガングは灰色の尻尾を緩やかに振り、口元を綻ばせた。すると、すかさずレピデュルスが持ち上げた。 「大旦那様の理想は崇高にして高尚であり、そして」 「いい加減にしてくれんか。お前は私を買い被りすぎなんだよ」 「ですが、大旦那様」 「褒め言葉なら、宿への帰り道に蕩々と語ってくれたまえ。だが、今は彼がいるだろう、少しは遠慮してくれ」 やりづらそうなヴォルフガングとは対照的にレピデュルスは食い下がり、褒め言葉をずらずらと並べていた。 それが馬鹿馬鹿しくもあり、なぜか羨ましくもあり、ティーゲルは特に文句も言わずに二人の様子を眺めていた。 家族というものがいたら、こうなのかもしれない。記憶にはないが、精神の片隅にうっすらと付着している感覚だ。 「私も軍にいた身だ、君達の存在は耳にしたことがある。これまで、随分苦労してきたのだろうな」 レピデュルスとの会話を一区切りしたヴォルフガングは、ティーゲルに向き直った。 「見たところ、君の外装も部品も純正品はほとんどないようだね。在り合わせで間に合わせているのか?」 「仕方ないだろう。純正品を使おうにも、俺にはその純正品がないんだ」 ティーゲルは急拵えなので今一つ噛み合わせの悪いギアを回転させ、右腕のキャタピラを回した。 「だから、そこら辺の鉄屑を拾って自分で叩いてるのさ。おかげで機械いじりの腕はかなり上がったがな」 「無理にとは言わんが、どうだね、君、私と一緒に世界征服してみないか?」 「俺は、その世界をまるで知らないんだ。戦うしか能がないことに疑問は持ったが、それだけだった。何か解るんじゃないかと 思って手当たり次第に国を回ってみたが、からっきしだった。だから、俺は世界征服なんか出来ねぇよ」 「ならば、尚更だ。私と共に世界を知り、征服すれば良い」 「だが、俺は人間でもないし、生き物でもない。ただの兵器だ」 「ただの兵器ならば、私と話し込んだりはせんだろう。ここでは冷えてしまう、私の宿へと来ないか?」 「なぜだ」 「大戦で破壊された実家の地下倉庫から二百年物のワインがごろごろ出てきてね、一人で飲むには多すぎるんだ」 ヴォルフガングが笑うと、レピデュルスはかつんとレイピアで足元の枕木を小突いた。 「東側ですので大したものは用意出来ませぬが、暖気にはなりましょう」 「酒ってのは、そんなに旨いのか?」 パワーイーグルもそんなことを言っていた。ティーゲルが訝ると、ヴォルフガングは頷いた。 「知らないのであれば、教えてやろう」 「酒に酔える体でなくとも、雰囲気で酔うことは叶いましょう」 レピデュルスはレイピアを下げ、ヴォルフガングの傍に控えた。 「そうだな。酒ってのはどんなもんか、一度飲んでみたかったんだ。退屈凌ぎに付き合ってやってもいいぜ」 ティーゲルが砕けた物言いで言うと、レピデュルスがレイピアを上げかけたのでヴォルフガングが押さえた。 「だから、いい加減にしないか。私は爵位も階位も勲章も返上した、ただのオオカミ男なのだから」 「ですがね、大旦那様」 レピデュルスは物足りなさそうだったが、ヴォルフガングが歩き出したので仕方なく主を追って歩き出した。 ヴォルフガングに手招きされ、ティーゲルは二人の後に続いた。その間も、レピデュルスはくどくどと語っていた。 ヴォルケンシュタイン家がどれほど名家だったか、人狼族がどれほど能力が高いか、戦時中の手柄、などなどと。 他人の人生には興味はなかったが、レピデュルスがあまりにも力を込めて語るのでなんとなく聞き入ってしまった。 ヴォルフガングはレピデュルスの語りに心底飽き飽きしているらしく、両耳をぺったりと伏せていて聞き流していた。 だが、レピデュルスは主の態度も気にせずに語り続けているので、忠誠心があるのかないのかよく解らなかった。 けれど、楽しいと思った。こうも長く他者と触れ合うのは久し振りなので、ティーゲルは動力機関に淡い熱を感じた。 彼らと共に、世界征服してみるのもいいかもしれない。 09 10/3 |