同、土曜日。 体よりも心が悲鳴を上げている。雨と泥に汚れた軍服を脱いで元に戻った大神は、奥歯を噛み締めた。 泣き叫べるものなら、我を忘れて泣いてしまいたい。自分を責めて、責め抜いて、全てを投げ出してしまいたい。 けれど、それだけは許されない。大神は雨水と汗が吸い込まれたワイシャツを脱ぐと、洗濯カゴに投げ捨てた。 冷たい布団の上に横たわる美花は、未だに目を覚まさなかった。体温を下げないように毛布を被せてやったが、 触れることすら恐くて、額から流れた血は拭き取って絆創膏を貼ったがそれ以外のことは出来なかった。 これ以上触れてしまえば、美花を壊してしまいかねない。美花こそがミラキュルンだと知ったから、尚更だった。 ミラキュルンと戦っている最中の激情と高揚感が胸中で燻っており、火照った筋肉が打撃の快楽を覚えている。 どれだけ自分を取り繕おうとも、誤魔化そうとも、逃れられない本能であり、怪人でなければ感じない征服欲だ。 壁掛け時計を見上げると、いつのまにか午後一時を過ぎていた。相当疲れているのに、空腹はまるで感じない。 大神は濡れた体毛と傷口から滲んだ血を拭き、手近なシャツを着てジーンズに履き替えると、腰を下ろした。 入院中は全く吸っていなかったタバコを吸ったが、案の定拙く感じ、咳き込みつつも濃い煙を肺に吸い込んだ。 カーテンレールに下げた軍服とマントはざらついた畳の上にいくつもの雫を落とし、大神の代わりに泣いていた。 「……ぅ」 美花が小さく呻いて身を捩ったので、大神は吸い始めたばかりのタバコを灰皿にねじ込み、美花に近付いた。 「野々宮さん」 「あ、れぇ……」 ヴェアヴォルフに負けて、それから。美花はずきずきと痛む額を押さえながら、起き上がった。 「大神君?」 瞬きを繰り返した後、大神を見つめた美花は、見開いた目からぼろぼろと涙を落とした。 「大神君だぁー!」 「えっ、あっ」 大神が慌てると、美花は服が汚れるのも構わずに袖で涙を拭った。 「よっ、良かったぁ、やっぱりヴェアヴォルフさんのは嘘だったんだぁ! そうだよ、そうだよぉ、ヴェアヴォルフさんが 大神君を殺すなんてことするわけがないんだぁ、出来るわけないんだぁ!」 「ごめん」 勢いに任せたとはいえ、言い過ぎたのだ。大神が謝ると、美花はぶんぶんと首を横に振った。 「違う、違うの、大神君は悪くないの、悪いのは」 「俺だよ」 大神は雨水を吸って布の色が変わった赤い軍帽を取り、被ってみせた。 「ほら。俺がヴェアヴォルフなんだ」 「ふぇ」 美花は口を半開きにし、軍帽を被った大神とカーテンレールに下がる軍服を見比べた。 「言えるわけなかったし、言いたくなかったんだ。だから、ずっと教えられなかったんだ。家業が何なのか」 軍帽を膝に置いた大神は、間を作らないためにタバコを取ろうとしたが、止めて畳に放り投げた。 「だけど、もっと早く教えてほしかった。あんなことになっているのに、強がることなんてないじゃない」 美花はぐいぐいと涙を拭いながら、しゃくり上げた。 「そりゃ、私は経験が少なくて、実力も大したことないヒーローだけど、それでもヒーローなんだよ。セイントセイバーって 人がどんなに強いかは知らないけど、少しぐらいは役に立てるはずだよ。もういい、大神君がどれだけ嫌だって言っても、 私は大神君を、じゃなくて、ヴェアヴォルフさんを、えっと、あれ?」 どっちがどっちなのだ、と美花は悩んでしまい、自分の両手を見下ろして気付いた。素手だ。 「うひゃあ! あ、なんで、いつのまにバトルスーツがぁ! それじゃ、私、今の今まで!」 「俺に負けた後、すぐに解除されちゃったんだよ、野々宮さんのバトルスーツは」 大神が説明すると、美花は途端に赤面して小さくなった。 「そ、それじゃ、私、あんなに偉そうなこと言うんじゃなかった……。色々言い過ぎた、テンション上がりすぎて……」 ううぅ、と羞恥心と後悔に駆られて項垂れた美花に、大神は苦笑いした。 「いや、俺も色々と言い過ぎたよ」 美花はちらちらと大神の様子を窺っていたが、膝をずらして大神に向き直った。 「ごめんなさい。今までずっと、ヒーローであることを内緒にしていて」 「それは俺も同じだよ。誤魔化せなくなる時が来るって解っていたから、今日のデートで、全部を終わらせるつもりでいたんだ。 セイントセイバーとの戦いに専念するために」 大神は美花の額の傷を見、苦笑いした。どんな表情を作ればいいのか解らなかったからだ。 「ミラキュルンの中身が野々宮さんだって解っていたら、もうちょっと手加減したんだけど、もう手遅れだよな。女の子の顔に 傷を付けるなんて最低だ。セイントセイバーにツヴァイヴォルフがやられたせいで頭に血が上ったからって、あんな必殺技まで 出して、何度も何度も殴っちまって……。痛かったよな。本当にごめん」 「大神君は悪くない。何がどうなっているかを知らないのにしゃしゃり出た、私がいけないの」 美花は額の絆創膏を隠すために手で押さえ、目元に滲んだ涙を拭った。 「ヒーローだからって、なんでも許されるわけじゃないのに。私も動転しちゃって、そのことを忘れちゃってた。ヴェアヴォルフさん、 えと、大神君はジャールのことが大事で、怪人の皆さんを大事にしているから、私も一緒に守れればって思って……。でも、それは、 大神君とジャールの皆さんを馬鹿にすることなんだってことが解らなかった。怪人さんは怪人さんで強いのに、ちゃんと戦える力が あるのに、敵対している相手の力なんて借りるのは嫌だよね。意地っ張り、なんて言っちゃったけど、それが誇りだから当たり前だよ。 ごめんなさい、大神君、私こそひどいことを!」 泣き崩れた美花に、大神は目元を押さえた。 「いいんだ。もう。だから、泣かないでくれ」 「わっ、私だって泣きたくないけど、情けないけど、でも、悔しくて悔しくて悔しくてぇっ!」 美花は何度も涙を拭うが、止めどなく溢れてきた。 「目の前に助けたい人がいるのに、どうして私じゃダメなの!? ヒーローじゃなくて怪人だったら良かったのに!」 大神は心を抉られ、喉が詰まった。慰める言葉を掛けようとしても、労る言葉を言おうとしても、出てこなかった。 それは、長らく大神が抱えていたジレンマだ。自分は獣人でなく怪人だから、と、美花に近付くことを躊躇っていた。 美花に好意を向けられていることを薄々感じ取ろうとも、踏み出さず、確信を得ようとせず、一定の距離を保った。 怪人だと知られたら嫌われるとばかり思い込んでいた。だが、美花は、怪人であろうと誰であろうと平等に接する。 ジャールの面々と普通に会話している時点で知っていたのに、嫌われないと解っていたのに、逃げを作っていた。 暗黒総統だ世界征服だと言い続けているのに、一人の女子高生に好きだと言うことを馬鹿みたいに恐れている。 「もういいっ!」 泣きすぎて気が立った美花は、毛布を蹴り飛ばす勢いで立ち上がった。 「私がセイントセイバーと戦う! そうすれば、大神君やジャールの皆さんは痛い目に遭わなくて済む!」 「ちょ、ちょっと!」 慌てた大神が美花の腕を掴むと、美花は髪を振り乱して叫んだ。 「どうして止めるの、大神君! 私は皆を助けたいだけなんだよ!?」 「でも、それじゃ、俺は何のために」 美花の腕を掴む手に力を込めて、大神は口元を歪めた。誰のために、何のために、世界を求めたのか。 美花を傷付けないために、美花を悲しませないために、美花を泣かせないために、世界の全てを手にしたかった。 だが、それは建前だ。本当は、大神が美花を好いても傷付かないような、自分に都合の良い世界にしたかった。 恋は戦いに似ている。誰かを好きになれば、普段は隠している弱い部分が剥き出しにされて傷付いてしまう。 大神は、人間である美花に恋をしたことに溺れていながらも、美花に否定されることを何よりも恐れていたのだ。 しかし、向き合うべき現実から目を逸らし続けた結果、ミラキュルンである美花と戦い合い、強引な勝利を収めた。 けれど、大神はその美花に守られそうになっている。守りたい相手から守られることほど、情けないことはない。 「格好悪いな、俺」 美花の腕を離し、大神は肩を落とした。 「俺は、野々宮さんのことを言い訳の道具にしてきたんだ。だから、こんなことになったんだ」 「え……」 美花は勢いを失い、大神の前に座った。 「だけど、もうそんなのは終わらせるんだ。じゃないと、セイントセイバーに勝てるわけがない」 大神は両耳をぴんと立ててから、美花に迫った。 「野々宮さん!」 「はっ、はひぃっ!」 いきなりのことに驚いた美花が声を裏返すと、大神は美花を抱き締めた。 「俺はもう、俺を騙しはしない!」 「ひぁあああっ!?」 美花は限界まで赤面し、大神の腕の力強さと暖かさに目眩がした。 「野々宮さぁあああんっ!」 大神は後ろに倒れそうになった美花を一層強く抱き竦め、尻尾をばっさばっさと激しく振った。 「う、ぁ……」 シャツ越しでも感じる体毛の深さを味わいながら、美花は虚ろな目を動かし、大神に向けた。 「おおがみくぅん……」 「ヤベェやり過ぎた」 はたと我に返った大神は照れに襲われ、美花を離そうとしたが、今度は美花の手が大神の背を掴んできた。 「や……」 「あ、あの」 大神が美花を見下ろすと、美花は大神の胸に顔を埋めて呻いた。 「離さないで。だって、だって、大神君なのにぃ」 途端に、大神は尻尾が大きく膨らんだ。美花は大神にしがみつきながら、上目に見上げてきた。 「すぐに離れるなんて絶対に嫌だよ。だって、デート出来なかったし」 「それとこれとは違うんじゃないのか?」 「違わないよ! 尻尾もモフモフだったけど、大神君はもっとモフモフしてる!」 「そりゃどうも」 嬉しさと恥ずかしさが入り混じり、大神は変な笑みを作った。おかげで、背中の痛みをすっかり忘れた。 美花は大神の胸に縋り付き、甘えた声を漏らしている。泣き声にも聞こえるので、涙はまだ残っているのだろう。 触れることを一瞬躊躇ったが美花の髪に手を添え、気を落ち着けてやれれば、とゆっくりと乱れた髪を撫でてやった。 手を握った時にも思ったが、美花はどこもかしこも繊細だ。それなのに、中身は意外に根性がある。そうじゃなきゃ ヒーローなんてやらないよな、と感心しつつも納得もした。 「大神君」 美花は大神の胸に額を当て、決意を固めるように呟いた。 「私、大神君がヴェアヴォルフさんでも構わない。むしろ、どっちも大事。どっちも大神君だから」 「ありがとう。俺も、ミラキュルンを倒そうとは思うが、抹殺しようとは思えなくなった」 大神は美花の頬に手を添えて顔を上げさせ、目線を合わせた。 「だって、野々宮さんなんだから」 「大神君、私も一緒に戦わせて。セイントセイバーがどれだけ強くても、挫けたりしないから」 身を乗り出してきた美花に、大神は頷いた。 「ああ。だが、セイントセイバーを倒したら、今度こそ俺達ジャールがミラキュルンを倒してやる」 「もちろん受けて立つよ。でも、負けないから」 ようやく笑顔を見せた美花に、大神はほっとして頬を緩めた。 「それは俺のセリフだ」 「そういうこと、大神君が言うとちょっと不思議な感じがする。だって、今はヴェアヴォルフさんじゃないんだもん」 美花ははにかんだ笑みを浮かべてから、視線を彷徨わせたので、大神は仰け反って距離を保った。 「えっと、その、今はまだこれだけでいいんじゃないかな」 「え、なんで? だって、なんか、勿体ない……」 美花が物欲しげに唇に指先を添えたので、大神はぎくりとしたが顔を逸らした。 「いやあほら、なんというか、その、勝利のためには目標が不可欠というかで!」 「うん、そうかも、うわぁ何これ超恥ずかしいー!」 急に照れた美花が大神から離れて顔を覆ったので、大神も背を向けた。 「俺だって恥ずかしい! 格好付けすぎでキザいっつうか臭いよもう!」 背を向け合った二人は、揃って己の鼓動の高鳴りを聞きながら硬直していると携帯電話が着信した。 またもや揃ってびくっとした二人は、同時に着信音を上げたそれぞれの携帯電話を取り出して、フリップを開いた。 美花の元には七瀬からのメールが、大神の元にはカメリーからのメールが届いていたが、内容は全く同じだった。 明日の明朝、大神採石場にて決着を付ける。神聖騎士セイントセイバー。美花はメールから目を上げ、首を捻る。 「七瀬はカメリーさんと付き合っているけど、怪人じゃないから、関係ないはずなのに」 「その辺のことを突き詰めるためにも、セイントセイバーと戦おうじゃないか」 大神は携帯電話を閉じ、バッテリーが切れかけていたので充電器に差し込んだ。 「一時半近くになっちまった。近くで昼飯でも買ってくるよ、野々宮さんは休んでいて」 「あ、うっ」 美花は少し迷ったが、大神の腕を引っ張った。 「私も一緒に行く! だって、デートなのに、ちっともデートらしいこと出来なかったんだもん」 「そうだな。一緒に行こう」 大神は美花の手を一旦解かせてから、財布を取ってポケットにねじ込んだ。 「あ」 美花は口に手を当て、目を丸めた。 「私、ずっと敬語じゃなかった。ごめんなさい、大神君」 「気にしなくていいよ。それに、そっちの方が可愛いし」 大神がにやけると、美花は赤面した。ほら行くよ、と大神が急かすと、美花は慌ててバッグを持ってきた。 アパートの廊下に出ると、事の次第を立ち聞きしていたらしいムカデッドが俊敏な動作で天井へと這い上がった。 大神はムカデッドにカタストローフェシュラークを浴びせたくなったが、総統の理性で堪え、美花を連れて外へ出た。 雨は既に上がり、鉛色の雲間から白い日差しが降りていて、黒く濡れたアスファルトを眩しく輝かせていた。 先に玄関から出た大神が手を伸ばすと美花は躊躇わずに大神の手を取り、二人は固く手を繋いで歩き出した。 ようやく、手が届いた。 09 10/19 |