純情戦士ミラキュルン




第二十八話 それぞれの決意を胸に! 最終決戦前夜!



 三年前。名護刀一郎は、大神弓子と結婚した。
 自分でも驚くほど早く決めた結婚だった。恋人同士になってから、三ヶ月にも満たなかった。プロポーズを 弓子が快諾してくれたこともあるが、名護自身も弓子を逃したくなかった。それほどまでに、弓子は理想だった。
 小柄だが肉付きが良い体型、灰色を帯びた茶色い瞳、可愛らしく整った顔立ち、オオカミの耳と尻尾。 会社の制服のベストからはみ出した尻尾を振る様を見ていると、名護の心中で庇護欲にも似たものが生まれた。 最初の頃は動物に対して抱く心境に近かったが、社員食堂や社内の廊下で顔を合わせるたびに加速していた。 新入社員の弓子とエリートコースに乗った名護の接点は少なかったが、その度に弓子は名護に話しかけた。 出会った切っ掛けは、会議室に資料を運ぶ途中で道に迷ってしまった弓子を名護が案内してやったことだった。 弓子は何度も礼を言った後、盛大に転んで資料をぶちまけたので、名護は特に急いでいなかったので手伝った。 それからというもの、弓子は名護に対してやたらと敬愛を抱くようになり、社員食堂では礼だと言って奢ろうとした。 名護の方が給料も良いし、先輩の見栄もあるので名護は当然ながら断ったが、弓子は譲ろうとしなかった。 あまりにも食い下がるので食後のコーヒーを奢っても良いと言うと、弓子は太い尻尾を派手に振りながら喜んだ。 その様は、子供の頃に飼いたくても飼うことを許されなかった愛玩犬を思い起こさせ、名護はつい笑顔になった。
 程なくして名護は弓子と交際を始めた。弓子の性格がとにかく幼いので、中高生よりも余程初々しかった。 学生時代に全く色気がなかった名護にとっては弓子は生まれて初めての恋人で、どこに行こうとも楽しかった。 交際を始めて間もなく名護は弓子と連れ添いたいと思うようになり、三回目のデートで弓子に結婚を申し込んだ。 弓子は真っ赤になって照れ、承諾してくれた。だから、名護は弓子を実家に紹介するべく地元に連れて行った。
 しかし、それが間違いだった。


 車で二時間掛けて訪れた実家には、誰もいなかった。
 名護は合い鍵で玄関のドアを開けたが見慣れた実家は静まり返り、家人の靴はなく空気も冷えている。 事前に来ると連絡したはずなのにガレージに車もなく、靴箱には父親の字で名護に宛名が書かれた封筒があった。 名護は緊張した面持ちの弓子にもうしばらく外で待っていてくれと伝えてから、封筒を開けて手紙を取り出した。 その内容を見た途端、名護は愕然とした。両親は、名護の気付かない間に名護と弓子の身辺調査を行っていた。 手紙と一緒に入っていたのは、弓子の実家の家業が悪の組織だということを調べた興信所からの報告書だった。 その他にも、弓子の写真、その兄弟や家族の写真があり、弓子は化け物だから別れるように、との手紙だった。 手切れ金と思しき小切手もあり、別れられないなら弁護士に頼めと言わんばかりに弁護士の名刺も入っていた。

「名護さん?」

 一人取り残されて不安になったのか、弓子は名護に近付いてきた。

「なんでもないよ」

 名護は封筒の中の全てを握り潰してポケットに押し込み、振り向いた。

「急用が出来たから、出掛けることになったってさ。心配ないよ。ちょっと都合が悪くなっただけだから」

「そっか、じゃあ仕方ないですね」

 弓子は残念そうに耳を伏せたので、名護は笑顔を見せた。

「ここまで来たんだから、遊んで帰ろうか。じゃないと、勿体ないよ」

 名護が弓子を自車に促すと弓子は名残惜しげに振り返っていたが、名護に従って助手席に収まった。 名護は捻り潰した封筒の中身を灰皿に突っ込み、車のエンジンを掛けてから、実家に対する憤りを押し殺した。 弓子が獣人ではなく怪人だということは、名護も知っていたが、そこまで徹底して弓子を貶めることはないだろう。 興信所の報告書には社内での弓子の評判もあり、出世コースの名護に擦り寄るメスイヌだ、との陰口があった。 弓子は淫蕩で奔放だから女性に免疫の薄い名護をくわえ込んでいるのだ、とも書かれ、強調線も引かれていた。 だが、弓子はそんなものではない。どちらも恋愛に疎いので、付き合うようになっても一線を越えていなかった。
 弓子は人とは違わない。特殊能力もなく、特異体質もなく、オオカミの耳と尻尾が生えているだけの女性だ。 家業が世界征服を企んでいようとも、弓子は実家を継がない。長男である弟が継ぐのだ、と以前弓子から聞いた。 それなのに、実家は弓子の人格を見ようともせずに弓子を怪人だからと嫌悪して名護から引き離そうとしている。 けれど、怒りを吐き出す術を持たなかった名護は、溶岩のように煮え滾った憤怒を押し込めて日々を過ごした。
 それが、ヒーロー体質が目覚めた一因だった。


 今年の七月の終盤。名護は、またも実家との戦いに敗れていた。
 弓子の祖父であり有力者でもあったヴォルフガングが亡くなってからは、ますます名護の実家は増長した。 名護が出向かなければ、大神家に弓子に対する中傷の手紙が届く。だが、行けば行ったで、愚痴を並べられる。 自分達から弓子をはねつけておいて、挨拶に来ない、顔も見せない、手紙も電話も寄越さない、と理不尽を言う。 結婚式の写真のパネルは実家に送ったが、弓子の部分を切り取られていたので、奪い取るようにパネルを持ち出して捨てた。
 その日もまた、名護は両親と兄弟から浴びせられた文句を振り切れないまま、大神邸への帰路を辿っていたが、 どうしても堪えきれなくなって途中で車を止めて涙を拭った。ただ、弓子が怪人であるというだけなのに。弓子は、 家事の一切が不得意でちょっと要領が悪くて精神年齢は全く成長しないが、名護には世界一の愛妻だ。
 寂れたコンビニのだだっ広い駐車場の隅にある自動販売機で缶コーヒーを買ってから、名護は気を取り直した。 泣いている暇があったら、弓子と大神家の面々にお土産でも買って帰ろう。今日こそは、芽依子に優しく接しよう。 弓子に気を割くことで消耗しているからか、大神家のメイドで物静かで大人しい芽依子には攻撃的になってしまう。 彼女がコンプレックスに感じていることを指摘したり、惨い言葉を浴びせると、名護は少しだけ快楽を感じてしまう。 子供染みた愚行だと解っていても、芽依子に何の罪もないと解っていても、苛立ちが押さえられなくなる。その上、 芽依子が我慢強くどんな言葉も受け止めてしまうから、何をしても許されるのだと勝手に錯覚してしまっている。

「いや、違うな。ただの言い訳だ」

 名護は缶コーヒーを傾けながら、芽依子に対する感情を見つめ直した。

「僕は、あの子が嫌いなんだ」

 芽依子は半分だけだが、弓子と同じ怪人だ。だから、妬ましくて疎ましくて腹立たしくてたまらなくなる。

「僕も怪人だったら、良かったんだろうけど」

 そうすれば、芽依子に苛立ちは感じない。弓子と同じ世界を見、弓子と同じ感覚を共有出来るはずだ。 だが、名護は一生人間だ。名護の一族には怪人の血は一滴も混じっておらず、ヒーロー体質の身内もいない。 人智を越えた力を得る以前に、人智を越えることすら出来ない。人間の中ではそれなりでも、所詮人間なのだ。 怪人一家である大神家と接し、間接的に悪の秘密結社ジャールの怪人達に接すると、人間の無個性さが解る。
 人間は同じ寸法の中で足掻くしか能がない。そのくせ、頭一つ分突出したり、頭半分沈んだだけで差別する。 優れていることを求められ、その通りに生きてきた名護には、怪人の世界はカルチャーショックの連続だった。 四天王にしても、妙な者ばかりだ。化石と同年齢の男、戦時中の遺産の人型戦車、水商売上がり、前科者、と。 世間に出れば、どれもこれも侮蔑される者だ。人間は声高に個性を叫ぶくせに、個性を認めようとしないからだ。 けれど、怪人の世界はそうではない。同系の怪人はいても、同型の怪人はほとんどおらず、世界に一人きりだ。 それでも、怪人の中に馴染めば弓子は浮いていた。怪人体にも変身出来ず、人間体にもなりきれないからだ。 大神家でもそうで、父親の斬彦、母親の鞘香、長男の剣司、次男の鋭太と並ぶと、弓子だけが浮いてしまった。 弓子自身は浮いていないと言っていたし、大神家の皆は仲が良いが、それでも名護にはどうしても気になった。
 だから、近頃はこうも思っていた。大神家に生まれたから、弓子は理不尽な差別を受けているのだと。 大神家が悪の秘密結社ジャールを経営せず、世界征服など企んでさえいなければ、弓子はただの御嬢様だ。 そう考えてしまうと、それまでは敬意すら抱いていたヴォルフガングに憤りを覚え、名護は怒りの矛先を変えた。 名護の実家が非常識なのは重々承知しているが、それに輪を掛けて非常識極まりないのは大神家では、と。

「ん……」

 缶コーヒーを飲み終えた名護は、異音を聞き取った。数秒後、高速で落下した物体が駐車場に叩き付けられた。 それは、古めかしい形状の重爆撃機怪人だった。着陸脚らしきものが出ていたが、使う前に墜落したようだ。 アスファルトの破片から足を抜いて立ち上がった重爆撃機怪人は、レンズ状の目で名護を捉え、指差してきた。

「貴様だな?」

「なんだ、お前は」

 恐怖に駆られた名護が腰を引くと、重爆撃機怪人、ウンリュウは両肩に付いたプロペラを唸らせた。

「しらばっくれるな、愚民が! 我ら超世界帝国軍に依頼された任務、帝国軍人の名に駆けて遂行してくれる!」

「いや違う違う、違うってばウンリュウ!」

 慌てた声と共に降ってきた小柄な戦闘機怪人は、ウンリュウの背後に着陸して、コピー用紙を広げた。

「僕らに仕留めろって依頼されたのは、こっちのイヌ耳女の方だよ! 大佐の命令、聞いてなかったの?」

「何を言うか、ヒエン!」

 ウンリュウはの手元のコピー用紙を覗き込み、首を傾げた。

「あ、すまん。自分の誤認だった」

「だから違うって言ったでしょ、ウンリュウ。物忘れがどんどんひどくなってない?」

 ヒエンが呆れると、ウンリュウは頭を小突いた。

「自分の記憶回路は古いからな。そろそろ交換しなきゃならんな」

「しっかりしてよね。そんなことじゃ、僕らは世界征服なんて出来ないよ」

 ほら行くよ、とがウンリュウを急かして浮かび上がろうとしたので、名護は引き留めた。

「待て!」

「なあに?」

 ヒエンは面倒そうに振り向き、ウンリュウもプロペラの回転を止めた。

「自分達は任務で忙しいのだ。愚民など構っていられるか」

「誰を仕留めろって依頼されたんだ!」

 嫌な予感に駆られた名護が二人に迫ると、ヒエンは機銃を構えた。

「頼まれたって言えるもんか! 僕らだってこんな任務はごめんだけど、仕事を選んでる余裕がないんだもん!」

「そうとも! たとえ依頼主が人間で、標的が悪の秘密結社ジャールの関係者だが非戦闘員であろうとも、大佐から 倒せと命令を下されれば……」

「だーかーらぁー!」

 半泣きになったヒエンは、両腕を振り回してウンリュウを殴り付けた。

「そうやってべらべら喋るくせを直してって言ったでしょ! 戦えば強いに、どうしてこう頭は弱いかなぁ!」

「貴っ様ぁ、上官に向かって何という口の利き方か! 帰還したら営倉入りだ!」

 ウンリュウが言い返すが、ヒエンも負けなかった。営倉に入るのはそっちでしょ、と甲高い声で叫んでいる。 だが、名護の耳にはどちらの言葉も届かなかった。ジャールの関係者の非戦闘員、と言えば鋭太か弓子だろう。 そして、女といえば母親の鞘香か弓子だけだが、存在自体を疎まれるほどの嫌悪を向けられているのは弓子だ。 依頼したのは、想像しなくても察しが付いた。名護は怒りと呼ぶには生易しい憎悪が噴出し、震える拳を固めた。
 固めた拳に入ったのは、自分の腕力以上の力だった。指を食い込ませた手のひらに痛みはなく、手応えが違う。 右手から白い閃光が迸り、力が湧いてくる。名護は自分の内で目覚めたものの正体を知らぬまま、叫びを放った。

「変身!」

 叫んだ瞬間、思い浮かべたのは、気高く雄々しい聖騎士の姿だった。

「え? 僕、こんなの聞いてないよ?」

 名護の異変に気付いたヒエンが戸惑うと、ウンリュウは拳を固めて黒煙を噴き出した。

「たとえ不測の事態になろうとも、帝国軍人は狼狽えないっ!」

「神に選ばれし正義の使徒!」

 光が弾け、全身を銀色の甲冑に包まれた名護は、どこからともなく降ってきた聖剣を手にした。

「神聖騎士セイントセイバァアアアアッ!」

「ヤバいよヤバいよ超ヤバいって、早く退却しないとバラバラになっちゃう! 僕らって造りが古いから!」

 ヒエンはウンリュウの翼を引っ張って逃げ出そうとするが、ウンリュウは頑固に踏ん張っていた。

「この根性なしが! それでも貴様は帝国軍人か!」

 ウンリュウはヒエンの足を掴むと、おもむろにセイントセイバー目掛けて投げ飛ばした。

「ウンリュウこそ人でなしだぁああああっ! ていうか怪人だしぃいいいいっ!」

 悲鳴を撒き散らしながら投擲されたヒエンが向かってきたので、名護、もとい、セイントセイバーは構えた。

「うぉああああああっ!」

 足元を踏み切ると呆れるほど容易く体が飛び出し、一瞬のはずなのに、ヒエンが飛んでくる様がよく見えた。 手にした聖剣も巨大なのに羽根の如く軽く、使い方も知っている。そして、ヒエンが迫った瞬間、刃を振り抜いた。 うあっ、とヒエンが驚愕の声を漏らした直後、ヒエンの細身の胴体は真っ二つになって機械油が飛散した。

「ヒエン!」

 ウンリュウは翼の下に装備したミサイルランチャーを展開し、発射した。

「よくも我が同志を!」

「それは僕が、いや、私が言うべき言葉だっ!」

 ウンリュウの放ったミサイルを全て切断し、空中で爆砕させたセイントセイバーは、ウンリュウに斬り掛かった。

「よくも私の弓ちゃんを狙ったなぁあああっ!」

 一閃、白銀が煌めく。軽い手応えの後、セイントセイバーが膝を擦らせながら着地すると頭が転げ落ちた。 黒く艶やかな飛沫を上げながら、アスファルトに転がった頭部を一瞥して、セイントセイバーは歓喜に打ち震えた。

「なんだ……この力は……」

 ヒーロー体質は特異体質だと思っていた。だが、この変身能力と戦闘能力は、間違いなくヒーローのそれだ。 鬱屈した感情の数々と噴出寸前だった憎悪が一掃され、その代わりに凄まじい解放感と万能感が溢れ出した。 それは全て、戦う力を得たからだ。名護が欲しても手に入らなかったものが、今正に名護の身に訪れたのだ。

「は、ははははは、はははははははははは!」

 セイントセイバーはバトルマスクを反らし、笑った。

「怪人など目ではない、私は正義を行使出来る! 私こそが正義の権化なのだ!」

 名護の手で、愛おしい弓子を守れる。また誰かに狙われたとしても、今のように倒してしまうことが出来る。 大神家の誰にも頼らずとも、ジャールの怪人達に頼らずとも、名護自身が弓子の安寧を守る騎士となれたのだ。 それでなくては、名護がいる意味がない。だが、単純に守るだけでは本当に弓子を守ることにはならないのでは。
 弓子は、怪人だからこそ疎まれている。怪人と人間の合間に隔たる分厚く頑強な壁が、破られずにいるからだ。 だが、人間を倒すことは出来ない。人間は怪人よりも脆く、ヒーローであろうとも傷付ければ罪に問われるからだ。 しかし、怪人ならば別だ。ヒーローとして変身してさえいれば、どんなことをしても許される。正義の味方だからだ。
 覚えてやがれこのぉ、と言い残し、頭を強引にくっつけたウンリュウは両断されたヒエンを担いで飛び去った。 車に戻り、変身を解除すると、どっと疲れに襲われた。ほんの僅かな時間とはいえ、肉体を酷使したからだろう。 名護は両腕に残る切断の手応えと手足の重たさに辟易しながらも、頭を働かせて、怪人掃討作戦を組み立てた。 少々遠回りをして攪乱してから、悪の秘密結社ジャールと大神家を滅ぼし、弓子を悪の呪縛から解き放つのだ。
 それが、名護の見つけ出した正義だった。




 人間であることは、偉いことでも何でもない。
 名護は、常々そう思っている。セイントセイバーとして怪人達を切り捨てると、尚更それが実感出来てくる。 それなのに、人間は正しさの頂点にいるような顔をして生きている。テレビのヒーローものにしても、そうだった。 ヒーローの参考にと見たヒーローもので人間が怪人と化しているシリーズもあったが、躊躇いもなく倒されていた。 人間体でいる時には攻撃すらしないのに、怪人体に変身した途端にヒーローは豹変し、変身して殺しに掛かる。 だが、誰もそれを非難しない。人であったものも、人でなくなってしまえば、人権も人格も失うと言わんばかりだ。
 人間と怪人の境界。怪人と人外の境界。人間と人外の境界。そして、人間と人間の境界。いずれも壊れない。 目に見えないものほど壊れづらい上に、壊そうとしても馬鹿を見るだけだ。だから、物理的なものを壊すしかない。

「もうすぐ、全部が終わる」

 名護は夜風が吹き荒れるビルの屋上に立ち、闇の帳に覆われた都心を見下ろした。

「弓ちゃん」

 名護は携帯電話を開き、待ち受け画面の弓子の笑顔に目を細めた。

「もうちょっと待っていてくれ。明日には、ちゃんと帰るから」

 明日、採石場で暗黒総統ヴェアヴォルフを倒す。そうすれば、悪の秘密結社ジャールは致命的な打撃を受け、 その上で何度となく戦いを仕掛けて畳み掛ければ倒産は免れない状況にまで追い込める。更に大神家の資産を解体し、 没落させ、弓子を大神家から解放すれば、弓子は名護だけの家族になる。芽依子は使い物にならないが、まだカメリーがいる。 そして、名護の手には聖剣カラドボルグが戻ってきた。劣化コピーに過ぎない芽依子ではなくオリジナルの名護が操れば、 四天王だけでなくヴェアヴォルフも容易く倒せる。そうすれば事は終わり、名護の信じる正義を貫き、目的を果たした日には。
 セイントセイバーは、世界で最も正しい者となる。




 携帯電話を閉じた七瀬は、意味もなく顎を軋ませた。
 美花にメールを送り、鋭太に会って伝えた時点で、七瀬はセイントセイバーの企みに一枚噛んだことになる。 行動する前はどうしたものかと迷ったが、いざ動くと、背徳感に煽られた奇妙な清々しさが体液の中に広がった。 素行は今一つ良くない割に根が真面目なせいで悪いことはしたことはなかったが、何か楽しいと思ってしまった。 けれど、清々しさが体液に馴染んで消えると、今度はむず痒い罪悪感が生じてきて七瀬は顎をぎちりと鳴らした。
 見知らぬマンションの非常階段は寒々しく、コンクリートの冷たさが外骨格に染み渡り、体液も冷えていた。 いい加減に移動しなければ、人型昆虫の低い体温が外気に奪われてしまいかねないが、なぜか動けずにいた。 七瀬の一つ下の段に座っているカメリーはタバコを蒸かしていて、夜気に冷やされた風に紫煙を靡かせていた。 あれほど冷たく激しかった雨は昼になると雨脚が弱まり、鉛色の雲も千切られ、夜空には星が見え隠れしている。 非常階段から見下ろす街並みにもネオンサインや窓明かりが灯り、家路を急ぐ人々が駅から吐き出されている。

「ねえ」

 七瀬がつま先でカメリーの後頭部を小突くと、カメリーは片目を上向けた。

「何よ」

「あんたさ、どうして私のことなんか好きなわけ?」

「聞きたい? んじゃ、お話ししてあげよっかなん」

 カメリーはタバコを口元から外し、ぽんと大きな煙を吐き出した。

「なんていうか、ぴったり収まるのよね。俺ってさ、ほら、見ての通りダメな男じゃない? 怪人の中でも堅気じゃない ことしてるし、悪意と悪意の隙間を縫って生きているじゃない? だから、そんな俺には七瀬が丁度良いのよ。バイト先で ちょっと話しただけで、ああこれだ、って思っちゃったくらいぴったりなの」

「それって、好きってこととは違わないんじゃね?」

「んー……。遠くはないと思うけどねぇん」

 カメリーは缶コーヒーの空き缶に灰を落とし、頬杖を付いた。

「ていうか、俺はね、若旦那やセイントセイバーみたいな情熱が溢れすぎてギラギラした恋愛は出来ない男なのよ。ああ好き だなぁって思っても、七瀬のことは食べられないし、襲えないのね。手元に置いて、眺めて、ちょっかい出したり出されたりするだけで 充分なのよ。だから、今だって、充分幸せなの」

「ふぅん」

 七瀬は気のない返事をしたが、カメリーは滅多に自分のことを話さない男なので心中に残った。

「俺はね、そういうのが好きなの。だから、正義と悪の戦いに参加するのは疲れちゃうんだよ」

 カメリーは新たなタバコを抜いて先細りの口に挟むと、ライターの火を手で覆いながら火を灯した。

「ねぇ」

「ん、今度はなぁに?」

「ジャールに入ったら、結婚を考えてやってもいいけど」

 七瀬は財布から折り畳んだ紙を出して広げ、カメリーの目の前に下ろした。

「随分前に大神君から寄越された、ジャールの労働者派遣契約書。給料はビタ一文出せないけど、こいつであんたを 雇って試用してから結論を出す。ってのでどう?」

「あんれまぁ」

 七瀬の言葉にカメリーは両目をぎょろぎょろと動かしたが、喉の奥で笑った。

「今さっき苦手だって言ったばっかりじゃない。おまけに条件もきっついねぇ。でも、うん、七瀬がそう言うんだったら、ちょっくら 頑張ってみようじゃないの。悪の秘密結社ってのをさ」

「せいぜい頑張りな」

 七瀬は触角を揺らしてカメリーのタバコの煙を払って投げやりに呟いたが、カメリーが本気だと解った。 告白されたばかりの苦手を強いて、結婚する交換条件として悪の組織に入れと命じてもすんなり快諾したのだから。 そこまでされると、さすがに心が揺らいでくる。カメリーの熱っぽさを好まない恋愛観も、七瀬には丁度良い感覚だ。 この先も様々な異性と出会うだろうが、カメリーほど収まりの良い相手は現れないだろう、と七瀬も思ってしまった。 どこをどうひっくり返しても恋ではないし、愛というには異質だが、これも人外の生き方の一つなのかもしれない。
 捕食者と被捕食者の間で愛が成立するのかどうかも、試してみたくなっていた。





 


09 10/20