純情戦士ミラキュルン




第三話 息詰まる戦い! 水面下の攻防!



 送るべきか否か。
 大神は茶色の体毛に覆われた大きな手で携帯電話を握り締めたまま、かれこれ十分以上は硬直していた。 液晶画面ではメールが作成され、アドレスも打ち込まれているが、どうしても送信ボタンを押す勇気がなかった。 内容は他愛もないもので、短い挨拶とこちらのメールアドレスと携帯電話の電話番号を伝えるだけのものだった。 なのに、どうしても勇気が出ない。喉の奥から獣じみた唸りを漏らした大神は、己の不甲斐なさに歯噛みした。

「なっさけねぇ」

 それでも自分は悪の秘密結社の総統か。何度となく己を奮い立てようとするが、やはりボタンが押せなかった。 悩みに悩んだ末に携帯電話のフリップを閉じ、枕元に投げてから、大神は意味もなく布団を殴り付けてしまった。 だが、それほど拳に力は入れていない。大神が住んでいる悪の秘密結社ジャールの社宅は安普請だからだ。
 昭和の遺物のような風呂トイレ共同の木造二階建てで、六畳一間にはお情けのような台所設備が付いている。 だから、床など叩けば真下の部屋どころか両隣まで聞こえるほど壁が薄く、立て付けの悪い窓やドアが揺れる。 社宅のアパートに住んでいるのは、契約社員の部下達だが、仕事で疲れている彼らを苛立たせるのは良くない。 取締役であり、世界征服を企む暗黒総統だからといって、横柄に振る舞うのは大神の心情に反しているからだ。

「でも、今日中に送らなきゃ悪いよなぁ」

 大神は綿が減った布団に寝転がり、携帯電話を取ったが、やはり送信ボタンを押せなかった。

「けど、送ったところで話題が続かないんだよなぁ……」

 何せ、相手は女子高生だ。大神より五歳も年下なので、話題が合いそうでも噛み合わないことは明白だった。 コンビニの店員をしていても、その手の話題に明るいわけではない。それはむしろ、同僚の中村の領分だ。 奥手極まる大神とは違い、異性関係に奔放な中村は友人達と度々合コンを開いては女性達と遊び回っている。 女性達の年代も様々で、高校生や大学生だけでなく、時には社会人の女性達とも夜遊びをしているようだった。 大神も何度か誘われたことはあるのだが、ジャールでの仕事もあるので、夜遊びに呆けることは出来なかった。

「美花ちゃん、かぁ」

 大神は、目下の悩みの原因である女子高生から渡された手紙を取ると、ピンクの文字の文面を読み直した。 ファンシーなマスコットが薄く印刷されたメモ用紙には、彼女の人格を感じさせる丸みのある文字が並んでいた。 メールアドレスと携帯電話の番号が書かれた下には、控えめな大きさで彼女自身の名前が書き記されていた。
 野々宮美花。名前の字面だけでも超可愛いじゃないか、と思ってしまった大神は自分が重症なのだと痛感した。 以前なら、そこまで考えなかっただろう。だが、今の大神の脳内は初恋の生温いピンク色に塗り潰されている。 次に会った時は何を話そう、どんな言葉を掛けよう、などと考えそうになったが、メールすら送れていないのだ。 そこまで飛躍するのは良くない、と自戒した大神は美花の手紙を折り畳んだが、元の折り方には戻せなかった。 美花の手紙を会社のスケジュールを書き記した分厚い手帳の間に挟んで隠してから、大神は携帯電話を取った。

「待てよ」

 いきなり美花ちゃんはまずくないか。馴れ馴れしすぎて気持ち悪くないか。

「それは拙い!」

 大神は慌てふためいてから、考え直した。

「それじゃ、野々宮さんか」

 野々宮さん。それならば、同級生から呼び掛けられるような気安さもあり、ちゃん付けよりは気持ち悪くない。

「よし、よおし!」

 妙に意気込んだ大神はすぐさま携帯電話を取り、メール作成画面を表示したままの携帯電話を操作した。 だが、多少文面をいじっただけで消沈した。呼び方が決まったからと言って、話題が出来たわけではないのだ。 美花との会話の取っ掛かりを見つけることが出来なければ、挨拶のメールを交わしただけで終わってしまう。 それだけでは終わりたくないからこそ、こんなにも悩んでいるのだが、どれだけ悩んでも妙案は思い付かない。 かといって、中村やジャールの部下達には聞くわけにはいかない。大神にもそれなりのプライドがあるからだ。
 悩みに悩んだが、大神は美花にメールを出せなかった。明日も朝が早いんだから、と言い訳して布団に潜り込んだ。 だが、やはり出すべきだと布団から飛び起きたものの、メールに書ける話題が思い付いたわけではなかった。 大神のアドレスは渡していないので美花からメールが来るわけもなく、こちらから話題を振るしかない。けれど、その肝の 話題が出てこない。悶々としたまま寝入った大神は、美花の前でミラキュルンに大敗する夢を見た。
 うなされるほどの悪夢だった。




 一睡も出来なかった。
 ベッドに一晩中横になっていたのに眠気に襲われることもなく、天井と携帯電話を交互に見るばかりだった。 おかげで、朝から疲労困憊していた。美花は鉛のように重たい頭で、瞼を開く努力をしながら朝食を食べていた。 こんがり焼けたフランスパンのトーストとバターの香りがするスクランブルエッグだったが、味が良く解らなかった。 食卓の向かい側に座る兄、速人は、美花の顔色と表情が冴えないことが気掛かりなのか、目を向けてきていた。

「風邪でも引いたのか?」

「違う。ちょっと眠れなかっただけ」

 美花はトーストを押し込み、咀嚼してから、カフェオレで流し込んだ。

「具合が悪いわけじゃないから、心配しないで」

「だったら、尚更まともに喰っていけよ。それでなくても、お前は血圧が低いんだから」

 血糖値上げておけ、と速人はガラスの小鉢にフルーツヨーグルトを盛り、美花の前に置いた。

「うん、食べる」

 美花はそれを受け取り、酸味の効いたヨーグルトが絡んだイチゴを食べた。

「別に、ジャールの連中が強いわけじゃないんだろ?」

 速人は自分の皿にサラダのお代わりを盛り、手製のドレッシングを掛けた。

「弱いわけじゃないんだろうけど、私でも勝てちゃうような人達だから、そんなに強くはないのかもね」

 美花はフルーツヨーグルトを混ぜ、カットされたイチゴに混じっているブルーベリーを掬って食べた。

「お兄ちゃんの時はどうだった? 別の組織と戦ったんだよね?」

「戦ったって言うより、俺が勝手に壊滅させただけだからなぁ。面倒だったんだよ、大学受験もあったし」

 速人はフォークでサラダを食べながら、素っ気なく答えた。

「戦闘員とか怪人とか一人一人潰していくのがウザかったから、幹部の怪人を叩き潰して本部の住所を吐かせて、 その足で直行して本部壊滅。組織自体を壊滅させるのにも、一ヶ月も掛からなかった気がするな。敵の怪人からは ぐだぐだ文句言われたけど、俺にも俺の都合ってのがあるんだよ。美花も、面倒だったらジャールの本社ごと潰してやれ。 たまに求人広告出してるから、住所は割れてるしな」

「でも、そんなことしちゃ悪いよ。だって、それがジャールの怪人さん達の仕事なんでしょ?」

「仕事は仕事かもしれないけど、反社会的極まる行為だぞ? 世界征服ってのは」

 美花の的外れな言葉に速人が眉根を曲げると、美花は首を傾げた。

「でも、会社ってことは取引先とかあるんだろうし、怪人達にも生活があるだろうし、壊滅させるのはちょっと」

「怪人なんかに気を遣ってどうすんだよ」

「なんか、ってほど、無益な人達じゃないように思えるんだけど」

「それじゃ何か、世界征服活動が有益だってのか?」

「そうは言ってないけど……」

 美花が口籠もると、速人はサラダを食べ終え、バターを塗り付けたトーストを頬張った。

「お前なんかにやられるようなヘボい組織でも、悪は悪だ。手加減するなよ」

「うん。頑張る」

 美花は頷き、フルーツヨーグルトを食べ切った。

「ごちそうさま」

「なんだ、もういいのか?」

 速人が皿を重ね始めた美花を見やると、美花は立ち上がった。

「もうお腹一杯だし、そろそろ学校に行かなきゃ遅刻しちゃうし。おいしかったよ、お兄ちゃん」

「夕飯は何にするつもりだ?」

「スパゲティーにしようと思ってるんだけど、どうかな」

「またナポリタンか? 腹持ち悪そうだなぁ」

「だって、好きなんだもん。ナポリタン」

 美花はシンクに食器を入れて水に浸してから、キッチンを後にして、バスルームの傍の洗面台に向かった。 歯を丁寧に磨いてから、長い髪をブローして整え、整髪料を付けてまとめ、制服が乱れていないか確かめた。 ダイニングキッチンと面しているリビングに戻り、ソファーの上に置いてあった通学カバンとスポーツバッグを取った。

「それじゃ、お兄ちゃん。いってきます」

「ああ、気を付けてな」

 速人の少しやる気のない言葉を背に受け、美花は玄関でスリッパからローファーに履き替えて玄関を出た。 オートロックのドアを閉めてからエレベーターホールに向かい、ボタンを押してエレベーターの到着を待った。 その間、美花は欠伸を噛み殺していた。兄の前では体面を保ったが、一人になると気が緩んでしまうようだ。 携帯電話を取り出して開くが、新着メールはなかった。盛大なため息を吐いてから、美花は独り言を呟いた。

「やっぱり、ウザがられたのかなぁ」

 昨日の出来事を思い出すだけで、顔から火が出そうだ。我ながら、大胆すぎて無謀な行動に出てしまった。 美花はかあっと頬に血が昇るのを感じたが、どうにも収められず、変な唸り声を漏らしながら俯いてしまった。
 大神に話し掛けるだけでも精一杯だったのに、電話番号とメールアドレスを書いた手紙なんか渡してしまった。 友達になって下さい、と申し出たまでは良かったが、ろくに会話もしていないのにそれは早急すぎやしないか。 自分だったら間違いなく怪しんでしまうだろう。だから、大神もきっと美花を変な女子高生だと思ったに違いない。 だとしたら、メールなど送ってくれるわけがない。下手に反応して妙なことになったら困る、と考えたなら尚更だ。

「あ、あ、あぁ……」

 美花は頭を抱え、座り込んでしまいたくなったが、辛うじて堪えて壁に寄り掛かった。

「不審者確定だよぉ、ていうか私、暴走しすぎだよぉ……」

 取り消せるものなら、昨日の行動を抹消してしまいたい。だが、美花の能力では時間超越など不可能だ。

「どうしよ、どうしよ、ああ、あの店の前通るだけでも怖いよぉ……」

 美花が泣きそうになっていると、不意に肩を叩かれ、飛び上がらんばかりに驚いた。

「うきゃあ!」

「おい」

 振り返ると、弁当箱の入った包みを下げた速人が立っていた。

「弁当、忘れたぞ」

「あ、ああ、うん、ごめんなさい、ありがとう」

 美花は取り繕いながら受け取ったが、速人は訝った。

「さっきから、お前、何をごちゃごちゃ言ってんだ?」

「なんでもないなんでもない、だから気にしないで!」

 美花は両手を大きく振るが、速人は表情を変えなかった。

「本当にそうか?」

「うん、大丈夫だって! あ、エレベーター来たから、じゃあね!」

 美花はすぐさまエレベーターに飛び乗ると、速人に背を向けたままドアを閉め、ボタンを押してへたり込んだ。 まだ速人には大神のことを感付かれてはいないようだが、美花は誤魔化すのが下手なので時間の問題だろう。
 知られたら一体どうなるのだろう。小学校の頃、速人は美花にちょっかいを出した男子を本気で倒したのだ。 美花としてはいじめられたとは思っていなかったし、気弱なので些細な意地悪をされることは日常のことだった。 だから、下校時に傘を取られてからかわれるのは初めてではなかったし、別に大したことではないと思っていた。 だが、その場を目撃した速人は、変身前でも使用可能な加速能力を使って美花の傘をほんの一瞬で奪い返した。 そして、加速能力を用いたまま、驚いている男子を倒して転ばせると、腹の底から怒鳴って男子らに説教した。 速人のおかげでそれ以降は美花がちょっかいを出されることはなくなったが、子供心にやりすぎだと思った。 あの時は小学生が相手だったので殴りはしなかったものの、大神は成人している。もしかしたら、もしかするかも。

「お兄ちゃんには黙っていよう」

 それが速人と大神のためだ。美花は携帯電話を閉じて通学カバンに入れ、到着したエレベーターから降りた。 中層階から下層階に繋がるエレベーターに乗り継ぐと、中層階の住人と乗り合わせた。スーツ姿の男は新聞を 手にしていたので、美花が何の気なしにその見出しを見てみると両親の名が踊っていた。
 パワーイーグル、ピジョンレディ、共に大活躍。それは一面ではなくて中程の紙面にある海外の話題だ。 パワーイーグルこと野々宮鷲男は、速人と美花の父親で、二人が生まれる以前から活躍する現役のヒーローだ。 そして、ピジョンレディこと野々宮鳩子は母親であり、こちらもまた未だに現役で活躍しているヒーローなのである。 その名の通り、二人のモチーフはワシとハトだ。当然飛行能力に秀でていて、その遺伝子は速人に継がれている。 だが、美花はそうではない。変身後は飛行能力も付加されるが、おまけのようなもので大して速度も出ないのだ。
 パワーイーグルとピジョンレディは強い。強いったら強い。娘の目から見てもそう思うだから相当なものだろう。 ヒーロー達を長年悩ませていた世界規模の悪の組織も倒してしまい、侵略を目論む異星人だって倒してしまった。 ヒーロー体質も桁違いで、特定の怪人には出来てもヒーローには出来なかった巨大化だって難なくこなしてしまう。 学歴だって高く、二人とも大卒だし、頭の回転が早くなければこんなに活躍し続けられるわけがない。だが、そんな 二人にも欠点がある。ヒーローとしての自分が好きすぎて、なかなか家庭を顧みてくれないことだ。
 次はいつ会えるんだろう、とぼんやりと考えた美花は、新聞の見出しからエレベーターの回数表示に目を向けた。 しばらくすると、エレベーターに到着したので、美花はサラリーマンと一緒に下層階のエレベーターに乗り継いだ。 マンションのホールを出る前に弁当箱を通学カバンに入れ、マンションを出て私鉄の駅に向かっていると、通学カバンの中で 携帯電話が短く鳴った。メールの着信音に違いなかった。慌てて通学カバンから携帯電話を出すが、サブウィンドウに 表示されているアドレスは見慣れすぎたものだった。

「なんだ、七瀬か」

 美花はほっとしたような残念なような気持ちになりながら、フリップを開いて七瀬の簡潔なメールを読んだ。 七瀬には、美花が大神にアドレスを渡したことを報告してあるので、結果を乞う旨が短い文章で綴られていた。 美花は苦笑してから、進展どころか後退しちゃった、と七瀬に返信してから携帯電話を通学カバンに突っ込んだ。
 定期券を出して改札を通り抜け、いつも乗る時間の電車に乗ってから、美花はまたもや考え込んでしまった。 大神の勤めるコンビニでピーチティーを買っていくべきか否か。眠気覚ましに、あの甘さが欲しいと思っていた。 けれど、あんなことをした直後に顔を合わせるのは恥ずかしすぎる。でも、会えるものなら大神に会いたかった。 しかし、気力は昨日で使い果たしてしまった。美花はしばらく悩んでいたが、コンビニに寄らないことを決意した。 ただでさえ眠くて頭がおかしくなりそうなのに、大神の前に出てしまったら、緊張してますます頭がおかしくなる。
 だから、何もしないことが最善だ。





 


09 6/29