南海インベーダーズ




突発的鉄屑流星群



 翌日。携帯電話のストラップの革紐を通し、勾玉はペンダントにした。
 それを首に提げた紀乃は、ガニガニの散歩の名目で海辺に向かった。集落の中では、うっかり超能力が暴発して ゾゾの田畑や廃校が壊れてしまうかもしれない。だったら、最初からモノがない場所で練習すればいい。珊瑚礁の 砂浜にやってきた紀乃とガニガニは、超能力の練習をしても大丈夫そうな、浅瀬に面した岩場を見つけた。カニは カニでも泳げないガニガニは、海に入れないので木陰から見守ってくれていた。

「さあて!」

 紀乃は岩場に仁王立ちすると、一際強い潮風がセーラーと髪を揺らして通り過ぎた。

「まずは物を浮かせる練習からしなきゃ」

 紀乃は少し考えてから、海面を見下ろした。海水は見るからに扱いづらそうだが、いい練習になりそうだ。昨日、物を 動かした感覚を懸命に思い出しながら、紀乃は両手を差し出した。目に見えない手を伸ばすかのような気持ちで、 力を外に出す。本当は触っていないのに手応えがあり、海水の粘り気と重みが見えない手に絡む。ぐっと掴む、 はずだったが、ごぼりと崩れて大きな気泡が立った。途端に手応えも失せ、紀乃は詰めていた息を緩めた。

「難しい……」

 屈んで波間に手を入れ、掬い取ってみるが、指の間から生温い海水が滴り落ちた。手で触れても上手く掴めない 物体を、果たして超能力で持ち上げられるのだろうか。いきなりレベルを上げすぎたかな、と早くも挫折しかけたが、 ここで踏ん張らなければいつまでたっても中途半端なままだ。紀乃はばしゃりと海水を握り潰し、立ち上がった。

「努力と根性だ! それさえあれば宇宙だって救えるってどこぞの誰かが言っていた!」

 紀乃は海水に濡れた手に拳を当て、声を張った。木陰からは、ガニガニが鋏脚を上げて応援してくれていた。

「見ててよね、ガニガニ! 頑張っちゃうんだから!」

 親指を立てて応えてから、紀乃は遙かなる海原に向き直った。頭の中に凝る力を広げられるだけ広げ、掴めそうで 掴めない海水に届かせた。すると、肌を舐めるように波の揺らぎが伝わってきた。潮の匂いよりも濃い体液じみた 液体の気配が直接鼻腔を突き、濡れてもいないのに泡立った飛沫の冷たさが至る。自分の手が、体が、あらゆる ものが拡大していく。背後の枝葉の硬さや風の優しさや日差しの鋭さや、紀乃を包む全てのものが感じ取れた。
 とぷん、と大きめの波が、岩場にぶつかって持ち上がった。それを見定めた紀乃が腕を振るうと、波が断ち切れ、 波の形のまま空中に掬い上げられた。数秒と立たずに崩れて流れ落ちたが、確かに波を切り取れた。

「うお」

 自分のことながら感心した紀乃は、間を置いてから嬉しくなった。

「じゃあ、もっと凄いことが出来るかも!」

 感覚さえ捉えられれば、目標物に触れられる。そして、動かせる。目に見えない刃を放つように、紀乃は次々に波を 切り取っては崩れさせた。上手くいくと二三の波が一度に切り取れ、飛沫の粒を空中に縫い付けられた。海水を 切る感覚に慣れてくると、次はその下に感覚を伸ばした。硬く細かな砂粒と珊瑚の欠片に手を突っ込んだかのような 感触が、肌ではなく神経に直接入り込んでくる。神経から脳に、脳から外側に、目に見えない感覚に。

「どぁあああっ!」

 気合いと共に紀乃が両腕を突き上げると、海水が裂けて浅瀬の底から砂が噴出した。

「すっげーマジ自分すっげー! 凄いよね、ね!」

 紀乃がガニガニに同意を求めると、ガニガニは拍手するように鋏脚を打ち鳴らした。

「よおし、んじゃ次は」

 自信が付いてきた紀乃が海面を見据えるが、その波間が歪んだ。あれ、と違和感を感じた時には手遅れで、体が 傾いて海面に打ち付けられた。その衝撃と口と鼻に滑り込んできた海水の塩辛さで意識を戻し、立ち上がったが、 またも目眩に襲われて岩場に手を付いた。せめて海から離れなければ、と歩き出すが、波と砂に足を取られた上に 服が濡れて重たい。苦労して砂浜に這い上がったが最早限界で、紀乃は捻れて回転する世界と戦っていた。

「おい、大丈夫か」

 頭上から、小松ともゾゾとも違う声が掛けられた。

「う、うげぇ」

 紀乃は言葉を返そうとしたが、頭痛と目眩に伴う気持ち悪さでえづいた。

「いきなり調子に乗るからだ。ほら、立て」

 誰かの手らしきものが紀乃の両脇を支えて持ち上げてくれたが、やはり姿は見えない。混乱しながらも、その誰かに 引き摺られて日陰に連れ込まれると、ガニガニが心配そうに近付いてきた。

「能力の扱いに慣れていないミュータントにありがちな症状だ、少し休めば治る」

 目に見えない誰かは紀乃を横たわらせると、傍に座ったらしく、砂が擦れてへこんだ。

「あー、そう、なの?」

 疲れ切った紀乃が力なく呟くと、目に見えない誰かはガニガニから距離を置くように体をずらした。

「そうだ。ろくに訓練も積んでいないのに、大物に手を出す奴があるか。物事には手順というものがある」

「うー……。気持ち悪いぃ……」

 乗り物酔いと貧血と風邪が一度に来たような具合の悪さに、紀乃は低く呻いた。調子に乗っていたなんて思って いなかったし、まだまだやれると踏んでいた。だが、予想以上にエネルギーの消耗は激しかったらしく、頭痛と同時に ひどい空腹も訪れた。しかし、こんな状態で物を食べたら絶対に吐いてしまうので当分は我慢しなければ。
 そういえば、この人はなぜ姿が見えないのだろう。けれど、声も聞こえるし、紀乃を支えてくれたし、あの夜はゾゾが 作った夕食を食べていた。となれば、幽霊ではないのだろうが、姿形見えないのは妙だ。思考回路が上手く噛み 合わないながらも考えた紀乃は、ようやく察した。

「透明人間、とか?」

「なぜ解った?」

 目に見えない誰かは動揺したらしく、語気が上擦った。紀乃は濡れたスカーフを抜き、額に乗せた。

「だって、目に見えないのに触れたりするのってそういうことじゃん?」

「まあ、そうだな」

「消去法するまでもないって感じ?」

 紀乃はスカーフで目元を覆うと海水が目に染みたが、心地良さには変えられなかった。

「管理局の人なんだよね? それじゃあ、私みたいな力があったりするの?」

「生憎だが、俺はマーブルヒーローじゃない。多少目に見えづらいだけで、スーパーパワーなんて持っちゃいない」

「それって楽? それとも残念?」

「どっちもだ」

 目に見えない男の声色は平坦で、簡潔だった。紀乃が超能力をまともに扱えるようになる前に抱いていた感情と 同じで、立場は違えども通じるものがあるようだ。けれど、この男は味方ではない。紀乃を乙型生体兵器にした連中の 一員だし、最初に助けてくれなかった。だから、信じるつもりはない。

「一応、忠告しておく。力が扱えるようになったからといって、派手なことはするな。今度こそ目を付けられる」

「そりゃどうも。でも、こんなんじゃ、派手なことなんて出来ないよ」

 紀乃がひらひらと手を振ると、目に見えない男は一笑した。

「それもそうかもしれないな。だが、俺はお前らの行動を監視し、阻止するのが仕事だ」

「その割に、ミーコさんが暴走しまくってんだけど。職務怠慢もいいとこじゃん」

「ただ透明なだけの人間が、体長数十メートルの巨大生物をどうこう出来ると思うのか」

「あ、ごめん」

 紀乃が平謝りすると、目に見えない男は腰を上げて砂を払った。

「熱中症にならないうちに帰ることだな。お前の身に何かあったんじゃ、俺がゾゾに殺される」

「だね。そうするよ」

 紀乃が頷くと、目に見えない男の足音が遠ざかっていった。代わりにガニガニの顎の音が近付いたので、紀乃は スカーフを目元から上げて手を差し出し、不安げに触角とヒゲを下げたガニガニの顎を撫でてやった。そのお返しと 言わんばかりに触角の先で頬を撫でられ、紀乃は少し笑った。気分の悪さはまだ抜けていなかったが、ガニガニと 一緒なら廃校まで帰れる。そのためには、ひとまず起き上がれるようにならなければ。
 超能力の余韻は、頭どころか全身に倦怠感を生んでいた。




 頭痛が治っても、上手く寝付けなかった。
 何十回目か解らない寝返りを打ち、強引に閉じていた瞼を開けた。暗がりに目が慣れ切っていたので、月明かり だけで部屋の様子を捉えられた。窓の外からは涼やかな虫の音色が聞こえるが、今は耳障りでしかない。体温と汗が 染み付いたベッドに横たわっているのが耐えきれず、紀乃はタオルケットを跳ね上げて起きた。カーテンを開けて 青白い光に照らされた外の景色を窺うと、ガニガニの巣は空っぽだった。夜行性なので、夜中に一人で散歩に出た ようだった。ガニガニまでいないとなると、後はラジオで暇潰しでも、と思ったが、遠くから聞こえてくる声を聞くだけ では物寂しい。カーテンを締め、紀乃は意を決した。

「ゾゾのところに行こう」

 こんな夜中に起きていそうなのは、ゾゾぐらいなものだ。いくら寂しくても、小松やミーコは当てにならない。紀乃は 電灯を付け、顔を軽く洗ってから寝癖の付いた髪を梳かし、一応の体裁を整えてから、衛生室を出た。
 昼間は暑苦しい廊下も、夜中は程良く涼しい。かかとを潰して突っかけたスニーカーをぱたぱたと鳴らしながら、 今までは近付いたこともない職員室に向かった。衛生室や他の教室と同じく達筆すぎて読みづらい表札が掛かって おり、引き戸の磨りガラスからは長方形の明かりが伸びていた。若干緊張しながら、紀乃は引き戸を開けた。教室 より一回りほど狭い部屋には木製の事務机が並び、天井にまで届く本棚には使途不明の本が詰め込まれていた。 だが、机の回りにゾゾの姿はなく、明かりが付いているのは黒板がある側だった。しかし、そちらにもいない。

「ゾゾ、いる?」

 紀乃が中を見渡していると、黒板の左隣にあるドアが開いてゾゾが顔を出した。

「おやおや、紀乃さん。いかがなさいましたか」

「あれ、そっちにも部屋があるの?」

 紀乃が不思議がると、ゾゾは彼の体格には狭すぎる枠から巨体を引き摺り出した。

「ええ。職員室は知的好奇心を満たす場として使用しているので、校長室で寝起きしているのです」

「そういえばそうだよね。校長室って職員室に繋がっているもんね」

「それで、今夜はどうなさいましたか。夜這うおつもりですか」

「んなわけないじゃん」

「では、いかなる御用で」

「寝付けないだけだよ。でも、一人でいるのはつまんないから」

 手近な机の椅子を引いて紀乃が腰掛けると、ゾゾはその隣に座った。

「それで私のところへと。とてもよろしい判断です」

 太い尻尾の先が床を擦り、横に揺れていた。オレンジ色の電球の光を背中から浴びたゾゾは、逆光ながらも表情は よく解った。至近距離だからというのもあるが、単眼は大きく見開かれ、耳元まで裂けた口元が緩んでいたからだ。 そんなに喜ばれると却って気恥ずかしくなったが、今更引き下がれまい。

「昼間に超能力使ってぶっ倒れたから、そのせいだと思うんだけど」

 紀乃が額を押さえると、ゾゾは頬杖を付いた。

「それはそれは。さぞお困りでしょう」

「でも、ガニガニも巣にいないし、まさかあの二人と話して暇潰しするわけにもいかないしで、だからゾゾのところに 来ただけ。ガニガニがいたら、そっちに行ってたもん」

「承知しておりますとも」

 ゾゾは頷いたが、落胆を隠し切れていなかった。だが、二人きりで同じ部屋にいるというのも落ち着かない。また 変なことをされては困るし、疲れが抜け切っていないのに超能力が暴発したら頭痛どころではなくなりそうだ。となれば、 体を疲れさせて眠るに限る。紀乃はじっとこちらを見つめてくるゾゾの様子を気にしながら、話を切り出した。

「あの、さぁ」

「はい、なんでしょう?」

「外、行かない? じっとしてても眠くならないだろうから、その辺歩き回った方がいいような気がして」

「異論はありません。では、参りましょう」

 ゾゾは椅子から腰を上げると、四本指の手を差し伸べてきた。紀乃は目線を彷徨わせて躊躇ったが、ゾゾの手に 自分の手を重ねた。ゾゾの肌にまともに触れたのはこれが初めてだったが、思っていたよりも冷たく感じなかった。 ガニガニの冷たい外骨格で慣れているせいかもしれない。肌は見た目通り分厚いがざらつきはなく、家事をこなす 手に相応しい硬さがあった。無理矢理引っ張られるんじゃないかと危惧したが、ゾゾは紀乃を立ち上がらせただけで 手を離し、戸棚を開けて懐中電灯を取り出して紀乃に渡してきた。それを受け取った紀乃は、ゾゾに先導されて 職員室を後にすると、揃って昇降口から外に出た。
 無数の虫の声が、二人を出迎えてくれた。





 


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