「あの人の名前ってさぁ」 報道を繰り返すテレビを眺めながら、紀乃は気怠げに頬杖を付いた。 「忌部さんって言うんだね。島と同じだね」 「なぜそれを御存知なのですか、紀乃さん?」 朝食の後片付けを終えたゾゾは紀乃の向かい側に座り、湯飲みに熱いドクダミ茶を注いだ。 「ほら、昨日さ、帰ってくる途中で爆睡しちゃったじゃない? 超能力疲れで。だから、真夜中に目が覚めちゃって、 ガニガニと一緒に散歩に出掛けたの。そしたら、海岸にヘリコプターが下りて武装した人が一杯出てきて、あの目に 見えない人を捕まえていっちゃったの。その時に、インベジロウ、って呼んでいたから。字も島のと同じなんでしょ? 忌まわしい部、で、ジロウは次、それとも二?」 「次、の次郎ですよ。そうですか。知ってはいけないことを知っていることを知っていてはいけない方でしたが、知って しまったのであれば仕方ありませんね。知っていることを知っているのですから」 ゾゾはドクダミ茶を啜り、ほうっと肩の力を抜いた。昨日の激闘とは打って変わって、紀乃はいつものような態度に 戻っていた。表情は少しぼんやりしていて欠伸混じりなので疲れは抜けきっていないようだったが、頭痛も訴えず、 倦怠感もないようなので大丈夫だろう。彼女の丈夫さに感心しながら、ゾゾは紀乃の湯飲みにお代わりを注いだ。 朝になったばかりなのに、開け放った窓から吹き込んでくる潮風は濃密な暑さだった。冷えたお茶ばかりでは胃腸 が弱ってしまうだろう、と熱い茶を入れたが、文句を言わずに飲んでくれて何よりだ。四本指で湯飲みを包み込んだ ゾゾは、東京湾近海の中継映像に単眼を向けた。 無茶苦茶な戦いではあったが、結果は五分五分だった。変異体管理局は小松の作ったミサイルを破壊するべく、 パトリオットミサイルを放ったが、光学衛星を落としていたためか失敗した。すると、すぐに作戦を転回してF−15の 編隊で船ごとゾゾらを殺そうとしてきた。今度はそのF−15を紀乃が落とし、仕返しに小松のミサイルをねじ込んで 撃ち返したが、五機の戦闘機型ミサイルは全て破壊された。双方、人的被害が出なかったのは幸いだ。 「なんか、凄い騒ぎになっちゃったね」 紀乃は自分の湯飲みを軽く浮かばせながら、神妙な顔をした。 「あのままじゃ皆がやられちゃうって思ったから頑張ったけど、何がなんだかよく覚えてないや」 「最初の戦いはそんなものですよ、紀乃さん。死なないためには、戦うしかないのですから」 「うん。そうだよね。だから、あれは悪いことじゃないんだよね」 紀乃は二杯目の熱いドクダミ茶を飲み干してから、腰を上げた。 「ヤギを追いかけ回して乳を搾って、ニワトリの卵を拾い集めて、ガニガニの餌も集めて、薪拾いだったよね」 「米の脱穀と野菜の収穫と畑の草むしりは私の仕事ですので、どうぞお構いなく」 「じゃ、行ってくるね」 ごちそうさま、と紀乃は湯飲みを洗い場に運んでから、居間兼食堂の教室を後にした。青いセーラーをなびかせる 後ろ姿に手を振りつつ見送ってから、ゾゾは程良い苦みのドクダミ茶を啜った。ガニガニー、と巨大ヤシガニの名を 呼ぶ紀乃の声が遠ざかり、廃校に響くのはテレビの音声だけになった。直接的な攻撃を受けたからか報道は過熱 していて、インベーダーに詳しい評論家とやらが当てずっぽうの論評を行っていた。紀乃は最初から人間じゃない、 だの、軍事力はどこぞの国に匹敵する、だの、いっそのこと忌部島を空爆すべき、だの、自分達に直接的な被害が 及ばないのをいいことに言いたい放題だ。特にゾゾに対する評価はとんでもないもので、特撮番組に出てくる宇宙 怪獣のように考えられているのか、画面に映し出されたゾゾの想像図は恐ろしげだった。ゾゾはくすぐったい気持ちに なり、笑いを噛み殺した。人間には、好き勝手に言わせておけばいい。 どうせ、何も変えられやしないのだから。 凄まじい閉塞感で、息どころか血管も詰まりそうだ。 全身にくまなく巻いた包帯のざらつき、腰を締めるベルトの硬さ、首周りを固めるカーラーのきつさ、そして何よりも 衣服の重たさが煩わしかった。今すぐにでも脱ぎ捨ててしまいたかったが、そうもいかない。忌部は包帯の隙間から 喘ぐように呼吸しながら、長い通路を歩いていた。海上基地の地下階は、明かりが付いていても隅に暗さが淀み、 心なしか空気も重たく濁っている。忌部の革靴の足音に重なるのは、山吹のジャングルブーツの足音だった。 「まー、なんつーか、御愁傷様っす」 山吹は自衛隊の迷彩服に身を固めていて、自動小銃を携えていた。 「乙型一号こと斎子紀乃の謀反と暴走、インベーダーらの脱走、首都圏への攻撃、そのいずれも阻止出来なかった ってーことで、一週間の停職処分と謹慎、っつーか監禁っすね。俺もなんとかしようとしたんすけど、いやはや」 「で、お前はどうなったんだ。伊号の暴走を許してレーダー衛星をダメにしちまったんだろう?」 忌部が年下の上司を見上げると、山吹は大きな肩を竦めた。 「俺っすか? 見ての通り、管理職から現場の人間に格下げっすよ。まあ、これも一週間ぐらいで終わらせるっつー 話っすから、大丈夫だと思うっすけどね。自動小銃なんて握るのマジ久々っすけど、この体だと結構軽いっすね」 「そういえば、お前は自衛隊上がりだったな」 「むーちゃんを守れるんだったら、俺は変異体管理局だろうが自衛隊だろうがどっちでもいいんすけどね。今は体が 体だから、そう簡単には死なないっすし」 「国防に従事する人間らしく、解りやすい動機で結構じゃないか」 「そういう忌部さんはどうなんすか、こっちの方面は」 山吹が小指を立ててみせると、忌部はその仕草の古めかしさに脱力した。 「お前、本当に俺より年下なのか? ていうか、今の時代、それが通じると思ってんのか?」 「いいじゃないっすか、忌部さんにゃ通じるんすから。んで、どうなんすか?」 山吹に詰め寄られ、忌部は半歩身を引いた。 「離島暮らしの俺に、浮いた話があるとでも思うのか? 大体、あの島の女っ気なんてのはガキ臭い女子中学生と 寄生虫女ぐらいであってだな……」 そうこう言っている間に、二人は分厚い扉に行き着いた。天井とその周囲も金属板に固められ、銀行の地下金庫 のような錠前に閉ざされている、扉と言うよりも隔壁と言うべき代物だった。山吹は扉に備え付けられたテンキーを 押してパスワードを入力し、カードキーを滑らせると、扉の内側で錠が外れた。モーターが唸り、自動的に扉が開くと、 地下室らしからぬ植物と土の匂いが通路に流れ出してきた。 「じゃ、俺はこれで失礼するっす! 服、脱いじゃダメっすからね! それも懲罰の一部なんすからね!」 山吹はくるりと身を反転させると通路に戻り、分厚い扉を閉めてしまった。そして、外から施錠された。 「……マジで監禁しやがった」 忌部は血の気が引き、頬を引きつらせた。扉の内側には開閉装置は見当たらず、カードキーのスロットはおろか テンキーすらも見当たらない。監禁するなんて言葉のあやだろう、と頭の片隅で思っていたが、まさか本当にそんな ことをされるとは。余程信用されていないのか、或いは研究対象としていじくり回す気なのか。だが、変異体管理局 には現時点で多数の変異体が管理されているので、研究対象に事欠かないはずだ。今更、透明人間であるだけで 大した能力もない忌部に興味を抱かれたとは思いがたい。となれば、やはり、古典的かつ効率的な懲罰だろう。 「いらっしゃいまし」 聞き慣れぬ女の声に振り向くと、ストールを羽織った着物姿の女性が立っていた。だが、その素肌は忌部と同じく 黒い包帯に覆われていて、隙間から覗く眼球の瞳孔は縦長で、人間らしさは皆無だった。四角い箱のような地下室を 満たす出来の良い日本庭園に馴染みすぎていて、庭木のように存在感が薄い。忌部は向き直り、一礼した。 「どうも。一週間厄介になります、現場調査官の忌部次郎です」 「乙型二号、滝ノ沢翠と申します。以後、お見知りおきを」 翠は腰を曲げて丁寧に礼をしてから、日本家屋に忌部を促した。 「どうぞ、こちらへ。局長さんから事情は窺っておりますので、お部屋の支度も出来ております」 「それはどうも、お気遣いありがとうございます」 「いえいえ。御客様が逗留して下さるなんて、滅多にないことですもの。張り切ってしまいますわ」 翠は紺色の着物の袖で、黒い包帯に隠れている口元を覆った。その仕草はたおやかで、品の良さを窺わせた。 会話だけ見れば良家に泊まりに来た来客と家人のようだが、忌部は懲罰の一環で地下室に監禁されるのであり、 翠は元から隔離されている身だ。だから、焦ったり混乱してもどうしようもない。自業自得なのだし、甘んじて処分を 受ける他はない。翠に案内されて敷石が連ねられた前庭を通った忌部は、整えられた庭木を見回した。 「剪定は御自分で?」 「ええ。どうせ、私しかおりませんゆえ」 翠はからころと下駄を鳴らしながら、玄関の引き戸を開けた。立て付けが悪くなっているらしく、がたがたと揺れる ばかりで上手く滑らなかった。見かねた忌部が引き戸を開けてやると、翠は深く頭を下げた。 「これはどうも」 「いえ、お気になさらず」 翠に続いて、忌部も家に入った。土が剥き出しになった土間に段差の高いあがりまちのある薄暗い玄関に入った 翠は下駄を脱いで揃えてから、ほとんど足音を立てずに艶のある廊下を歩いていった。忌部は革靴を脱いで揃えて から、靴下越しに床板の滑りの良さを感じ取った。地下室で光源が少ないせいでもあるのだろうが、家の中はいやに 暗かった。太い梁に丈夫そうな柱、年季の入った雨戸、僅かにカビ臭い空気。忌部の記憶の底にうっすらと残る、 本家の思い出が過ぎった。物心付く前だっただろうか、両親に兄弟共々連れて行かれた古い家の床の間に、両親 を含めた親戚が、簾の奥に座っている相手と剣呑な話し合いをしていたような気がする。けれど、何を話していた かまでは覚えていない。大人達の剣幕を恐れて泣き出したことだけは、うっすらと覚えているのだが。 「こちらですわ」 翠は障子戸を開き、床の間に面した居間に忌部を通した。コイの滝昇りの掛け軸が下げられている床の間には 仏壇はなく、一瞬違和感を覚えたが、ないのが当たり前なのだとすぐに思い直した。翠しか住んでいない家に仏壇が ある方がおかしい。家に見合った古さのちゃぶ台に付いた忌部の前に、翠は緑茶を出してきた。 「どうも」 「どうぞ、お上がり下さいまし」 翠は裾に手を添えて正座し、自分の分の湯飲みに手を付けた。ちゃぶ台の上にある漆器の菓子鉢には翠の手製と 思しき和菓子が盛られていて、忌部はそれに手を伸ばすか否か迷った末に一つ取った。柔らかな皮に粒あんが 包み込まれたまんじゅうで、甘すぎずおいしかった。だが、まんじゅうの皮の白さとは裏腹に居間もまた薄暗いので、 味がなければ何を食べているのかまるで解らない。こんな生活で、翠はやりづらくないのだろうか。 「私、局長さんから連絡を受けた時に御命令も頂きましたの」 忌部が包帯の隙間から食べる様を観察していた翠は、膝の上で手を重ねた。 「忌部さんが局長さんのお言い付けを守られるかどうか、ちゃんと見張っておいてくれと」 「でしょうね」 忌部は緑茶で喉を潤し、苦笑いした。翠は僅かに目線を彷徨わせてから、恥じらい混じりに呟いた。 「ですので、これから一週間、ずっと御側にいさせて頂きますわ。床も……湯浴みも」 「……え」 なんでそんなに古い言い回しなんだよ、と忌部は本題から外れたことが気になったが、突っ込むべき部分はそれ ではない。翠が了承したことも不可解だが、そんなことを翠に命じた局長の考えが一番不可解だった。 「お嫌でしょうが、これは私に命じられた任務ですわ。ですので、忌部さん。どうかご容赦下さいまし」 「ちょっと待って下さい」 「はい、なんなりと」 「傍にいろ、ってのは解ります。俺は処分を受けている身ですし、監視されるべき対象でしょう。でも、なんでそれが 翠さんなんですか? 他の職員でも自衛官でも何でも良さそうなものを」 「私には、局長さんのお考えは解りかねますわ。ですけど、私、嬉しいと思ってしまいましたの」 翠は袖を下げると、顔を下向きに傾けつつも忌部に視線を向けてきた。 「私に会いに来る方なんて、ほとんどおられませんもの。たまに誰かがいらしても、私の体を調べるお医者様ぐらいな ものでして、一時間もせずに帰られてしまいますの。御茶をお出ししても頂いてもらえないし、御菓子なんて以ての外 でしたの。ですから、一週間も逗留なさるなんてとても嬉しゅうございましてよ」 「あなたは、本当にそれでいいんですか?」 翠の素直さに畏怖を覚えた忌部が腰を浮かせると、翠は年相応に明るく笑んだ。 「ええ」 「俺は多少常人離れしているところはありますが、男は男ですよ。その、何かされるとか思わないんですか」 「されたとしても、後悔することなどありませんわ。だって、私の体に触ってくれる方なんておりませんもの。お医者様 だって、私に触れる時は防護服越しですもの。日差しを浴びてはいけないからいつもこの格好ですし、自分でも自分 の体を見たくありませんから、宅の鏡は全て取り外してしまいましたの。ですから、私の体に興味を持って頂けるなんて、 恥ずかしいけれど喜ばしいと思いますの」 「それは、解らないでもありませんけど」 座り直した忌部は制服の袖を捲り、包帯の隙間から垣間見える透き通った腕を見下ろした。忌部の肉体に興味を 持つのは、翠の言う通り変異体管理局の研究者しかおらず、山吹や秋葉を除いては忌部に進んで触れてくる人間 はいない。目視しづらいのに存在している肉体なんて、普通の感覚では気持ち悪いだけだ。 「ですので、忌部さん」 半身をずらした翠は、三つ指を突いて頭を下げてきた。 「何卒、よろしくお願いいたしますわ」 「……何をですか」 よろしくと言われても、何をよろしくやればいいのだ。忌部も三十路を過ぎた男なので、察しが付かないこともない のだが、今日が初対面の相手にそんな感情を抱くわけがない。増して、忌部も翠もミュータントであって、そういった 方面に向かうべきではない生き物だ。突然変異の原理すら解明されていないのに、無闇に交配を行ってしまえば、 素人考えでも良くない結果が出ると解っている。翠もそれを解っているはずだ。だから、そういう意味だと思った自分が おかしいのであって、と忌部が納得しかけていると、翠は着物の合わせ目に指を入れた。 「どうか、優しくして下さいまし」 「やっぱりそういう意味だったんですか、ていうか安直すぎやしませんか!」 忌部が腰を浮かせると、翠は頬に手を添えて恥じらった。 「こんな機会は二度とありませんでしょうし、殿方が長逗留されるのですから、そういうことでございましょう?」 「すみません、俺、帰ります」 「ああ、お待ちになって」 地下五十メートルの隔離施設からでは帰れるわけもないのだが。忌部は翠を振り解くべく居間を飛び出したが、翠は 忌部に追い縋ってきた。出会ったばかりの女性に迫られるのは男冥利には尽きるが、忌部の性癖は露出趣味 以外は至って普通だ。普通に性格が良くて普通に魅力的で普通に家庭的な女性が好きなのだ。だから、間違っても 黒い包帯で全身を覆い隠しているミュータントではない。忌部も翠も同じ立場なのだから、こんな態度が失礼だとは 解っているが、あのままでは貞操が危ういと思ってしまった。三十過ぎになって今更守るような操などないのだが、 気持ちの問題である。玄関まで革靴を取りに戻る時間がなかったので、庭履きの雪駄を引っ掛けた忌部は、当ても なく逃げ回った。だが、二百メートル四方の箱庭から出る術はなく、数分後には翠に捕まえられた。 せめて、服を脱ぎ捨てる時間が欲しかった。 10 7/15 |