南海インベーダーズ




懲罰的着衣週間



 肉体的にも、精神的にも、息苦しい。
 監視役の域を超えた近さで忌部を見張ってくる翠の視線が、体のあらゆる部分に突き刺さっている。制服も包帯も 透き通っているかのように感じ取ってしまい、神経がひりひりする。包帯で戒めていたせいでうっすらと汗ばんだ肌を 湯に浸すと、少しだけ緊張が解れた。一日目でこれでは先が思い遣られる、と思いつつ、忌部はほとんど明かりの ない風呂場にため息を吐き出した。古めかしい内装に似合わない電気給湯器の操作パネルだけが眩しく光って いて、他が暗すぎるせいで目に痛いほど明るく感じた。凝りに凝った肩を回し、だだっ広い湯船に手足を伸ばした。

「ああ、もう……」

 翠のことを思い浮かべるだけで、心底うんざりする。だから、着衣を全て脱ぎ捨てて風呂に入れば気分も晴れると 思っていたのだが、あんなにまとわりつかれると忘れようにも忘れられない。忌部が少しでも身動きすれば反応し、 便所にまでくっついてくる始末で、追い払おうにも相手の物腰が柔らかすぎるので強い言葉が使いづらく、逃げよう にも逃げ切れないことは解り切っている。いっそのこと翠さんに流されちまおうか、との考えが頭を掠めたが、それ ではあまりにも情けない。そんなことのために、閉じ込められたわけではないのだから。

「要するに、己を顧みて反省しろってことだろ?」

 暗がりの中では自分でも目視しづらい腕を組み、忌部は自嘲した。

「甘っちょろいんだよ、俺は」

 インベーダー達を監視し、行動を抑制しつつ、情報収集に努める。それが現場調査官たる忌部次郎に与えられた 任務であり、変異体管理局が求めている成果だ。それなのに忌部という男は、忌部島に配備されてすぐに元の姿に 戻りたいという私利に負けてゾゾに接触し、インベーダー達に存在を認識されたばかりか良いように扱われている。 敵対組織のスパイに住居の留守番を任せるぐらいなのだから、相当に舐められている。実際、忌部には四人のうちの 誰一人して倒せないだろう。斎子紀乃に至っても、能力が覚醒した今では伊号に匹敵する大量破壊兵器だ。
 だったら、紀乃が裏切った段階で処分すれば良かったのだろうか。廃校の自室で無防備に眠る紀乃に手を下す 機会ならいくらでもあったし、ただの少女に過ぎなかった頃の紀乃なら忌部の腕力には敵わなかっただろう。忌部の 役割は監視であって暗殺ではないが、水際で最悪の事態を防ぐのが仕事であって。

「だったら、どうすりゃいいんだよ」

 裏切りは罰するべきだ。しかし、紀乃を裏切りに駆り立てているのは、他でもない人類が紀乃を裏切ったからだ。 ごく普通の中学生として生きていた彼女から何もかも奪い去り、爆弾も同然に化け物だらけの島に放り込んだのは、 他でもない変異体管理局であり日本国政府だ。反旗を翻されて文句を言えない、とは思うが、政府側の人間と しての判断をするなら、役に立たない兵器は処分するべきだ、となる。忌部が甘ったるい部分を切り捨てて、職務に 忠実な局員になれたとしたら、躊躇わずに殺処分許可を得ていただろう。けれど、忌部には無理だ。人間どころか 世界に絶望して泣きじゃくる少女に銃を向けられるわけがない。

「いっそのこと、俺も変異体管理局を裏切れれば話は早いんだろうが」

 生憎、忌部は悪い意味で大人になってしまった。打算と利潤に保身を忘れずに立ち回れる、薄汚くて薄っぺらくて つまらない人間だ。変異体管理局に入ったのも、実験台でもいいから生き延びたかったからだ。調査官に志願した のも、少しでも良い給料をもらうためだ。今はほとんど手を付けていないが、思い切り働いてたっぷりと金を貯めて、 いつの日かまともな体に戻るための資金にする。それが出来なければ、忌部島のように人界から遠く離れた場所で ひっそりと暮らすために使う。それすらも出来なければ、金に物を言わせて空しい自分を満たすために使う。

「だが、それでいいのか?」

 闇が溶けた湯を掴む手は、指の間から滴る水よりも透明度が高かった。なのに、己の本心は上手く見通せない。 骨も肉も透き通っているのに、心の中は淀んでいるからだ。

「くそぉっ!」

 自分への苛立ちとインベーダー達への思い入れが振り払えない甘さが相まって、忌部は拳で水面を殴り付けた。 高く水柱が上がって髪も顔も濡らしたが、その髪すらもよく見えない。湯船よりも余程熱く煮え滾った頭を持て余した 忌部は、一旦頭を冷やそうと風呂から上がった。

「忌部さん、どうなさいました?」

 引き戸が開き、たすき掛けをした翠が現れた。

「なんでもありません。それより、何をしに来たんですか」

 苛立ち紛れに忌部が語気を強めると、翠は黒い包帯の下で僅かに目を彷徨わせた。

「湯浴みを共になさらないのでしたら、せめてお背中でもと思いまして」

「結構です。もう上がりますから」

 忌部はすのこを引いた床を歩き、翠の横を擦り抜けて脱衣カゴからタオルを取って乱暴に体を拭った。

「でしたら、お召し替えのお手伝いだけでも」

「いらないって言ってるだろうが!」

 忌部は手を伸ばしてきた翠を振り払い、頭に血が上った勢いで喚いた。

「あなたは俺を見張っていればいいだけだ! 俺が何をしようと勝手じゃないか!」

「ですけれど」

「どうせあなたも俺と同じだ、人間に害を成すかもしれないから、訳が解らないから、気持ち悪いから、こんな場所に 閉じ込められている! ただ生きているだけでだ!」

 忌部は壁まで後退った翠に詰め寄り、数センチほど開いた雨戸の隙間から差し込む光の中で声を荒げた。

「だが、俺は人殺しも出来なければ兵器にもなれない、自分でも訳が解らないモノだ!」

「忌部さん……」

 翠は怯えたように肩を縮め、包帯の下で目を伏せている。その態度の弱々しさがやけに癪に障り、忌部は彼女の 肌を覆い隠す黒い包帯に手を掛けた。

「どうせ俺以外は誰も見ない、あなたにも俺は見えていない、だったら見えていない相手に隠すものなんてあるか!  体がまともに見えているだけでも、充分じゃないか! それなのに、なぜ隠す!」

 忌部の濡れた指は黒い包帯を歪ませ、緩ませ、押し広げた。自分の体を隠しているのは隠したいからではない、 見えていないから見えるようにしたいだけだ。翠は見えているのに隠している。だから、腹立たしい。
 か細く頼りない光の筋が、翠の素顔を淡く照らした。日光よりも弱く、紫外線を除去しているせいで暖かみすらない 白い人工光が、ひび割れた緑の肌を浮かび上がらせた。金に似た色の目にはほとんど白目はなく、瞳孔は縦長で、 鼻筋は上顎と一体で、耳朶はなく、口は鼓膜の下まで裂けていた。頭部の包帯を剥ぎ取ると一対のツノも現れ、翠の 正体はトカゲでも人間でもない生き物、竜人なのだと忌部は思い知った。

「仰る通りですわ」

 忌部の体の下で、素顔を曝された翠は厚いウロコに包まれた喉を上下させた。

「私はまともではありませんし、誰かを傷付けてしまうかもしれませんし、自分でも気色悪い生き物ですから、こんな 場所でしか生きることが許されておりません。けれど、それで終わりたくはありませんし、やりたいことも、見たいものも、 行きたいところも、いくらでもございますの。けれど」

「どこにも行けやしない。俺もあなたも、同じだからだ」

 我に返った忌部は翠の上から身を引き、包帯を元に戻そうとしたが、翠が忌部の手首を押さえた。

「構いませんわ。自分で直せますもの」

「すみません」

 居たたまれなくなった忌部が翠に背を向けると、翠は壁から背を離し、立ち上がった。

「お気になさらず。私も気にしませんわ。だって、いつも思っていることですもの」

 しゅるりと衣擦れの音がし、翠は包帯を巻き直していた。ずらりと牙が並ぶ口元、穴だけの鼻、硬そうな頬、首筋が 布に隠されていく。罪悪感と好奇心が混ざった忌部が目を向けるか否か迷っていると、翠は手を止めた。

「どうかなさいまして?」

「いえ……」

 忌部が言葉を濁すと、翠はくすりと笑んだ。

「見たいのでしたら、そう仰ればよろしいのに。どうせ、忌部さん以外に見て下さる方はいらっしゃいませんもの」

 巻き直したばかりの包帯の締め付けを緩めた翠は、しゅるしゅると解いて足元に落としていった。忌部の脱衣カゴから 零れ落ちている白い包帯に翠の黒い包帯が積み重なっていく様は、奇妙に淫靡だった。翠の黒が忌部の白を 塗り潰し、その上に解いた帯と着物が投げ出されると、翠の肌を覆うものは白い肌襦袢だけになった。なだらかな 肩と丸みのある体型は、資料にあった通りの二十歳の女性には違いない。だが、肌襦袢の背中からは一対の翼が 飛び出し、裾からは太い尻尾が垂れ下がり、両手足の五本指の間には薄い膜が張っていた。

「どうぞ」

 翠から手を差し伸べられ、忌部は躊躇いつつもその手を取った。最初に感じたのは肌の硬さと爪の鋭さで、次に 人間らしからぬ体温の低さだった。翠はその両手で忌部の手を包み込むと、面差しを和らげた。

「忌部さんの手は、温かいのですわね」

「風呂に入っていたせいだと思いますけど」

 忌部は急に恥ずかしくなり、薄着の翠から目を逸らした。体が透き通っているせいか、忌部は暗がりでもやたらと 目が利く。光源があれば尚のことで、常人には豆電球よりも弱く薄い窓明かりだけで翠のあられもない姿もはっきりと 見えている。翠の姿形がトカゲだったことが幸いして、欲情せずに済んでいるが。

「他の方に触れるのなんて、何年振りになりますかしら」

 翠は忌部の手を自身の頬に寄せ、切なげに厚い瞼を伏せた。

「もう少しだけ、私に触っていて頂けませんこと。そうすれば、余計なことはいたしませんわ。御布団だって別の部屋に お引きいたしますし、みだりに近寄ったりはしないと約束いたしますわ」

「それだけで、いいのなら」

 忌部は手のひらに重なる翠の頬に指を添え、形をなぞった。翠はため息とも喘ぎとも取れる声を細く漏らし、忌部の 手が頬をなぞる感触を味わっていた。ざらざらとした肌触りに硬い手応えは爬虫類であり、体毛が一本も生えて いない代わりにツノが生え、牙も備えた翠は忌部以上の異形だ。乳房の膨らみと腰の華奢さを見逃せば、女性だと いうことも解らないだろう。感極まったのか、翠は膝を折ってよろめいた。忌部が戸惑いながら受け止めると、頑丈 そうな見かけとは裏腹に驚くほど体重が軽かった。ウロコの下の肉は薄く、骨張っている。忌部の手が支えた肩は 小刻みに震え、嗚咽を堪えて喉を引きつらせている。強烈な同情に襲われ、忌部は翠を抱き締めた。
 腕の中で泣いたのは、ただの痩せた女だった。




 滑りが良くなった引き戸を、何度も開け閉めする。
 忌部は昨夜の自分の行動を何度となく後悔しながら、滑車の動きを確かめた。玄関の枠の歪みが原因だったら、 忌部ではどうにも出来なかっただろうが、幸いなことに滑車が錆び付いていただけだったので注油するだけで充分 だった。からからと気持ち良く前後する引き戸を止め、忌部はその場に座り込んだ。翠を抱き締めた手応えが未だに 抜け切らず、細い骨格の頼りなさと硬い肌の滑らかさが染み付いている。手を出さないつもりでいたんだけどな、 いやあれは手を出したわけじゃない、と忌部は自分に言い訳するかどうかを悩みながら、引き戸を開けた。

「直りまして?」

 すると、翠が現れたので、忌部はちょっと驚いた。

「え、ええ、まあ」

「良かったですわ。滑りが悪くて、ずっと不便でしたの」

 翠は黒い包帯の下から微笑みかけてから、家の中を示した。

「それと、忌部さんに御電話ですわ。山吹さんからですの」

「電話?」

 基地内との連絡手段があってもおかしくはないが。忌部は革靴を脱いで玄関から上がり、居間に入った。壁際の 茶箪笥にはこれまた古めかしい黒電話があり、受話器が横たえられていた。

「忌部だが」

 忌部が受話器を耳に当てると、山吹の能天気な声が届いた。

『おはようっす忌部さん、元気してたっすかー? てか、ぶっちゃけ翠さんとどうなったんすかー?』

「最初に聞く用件がそれか、監督官どの」

 山吹の気楽さに忌部が軽く苛立つと、山吹はへらへらと笑った。

『いいじゃないっすかいいじゃないっすか、定期連絡なんて普通にしたってつまんないんすから』

「俺はその普通を追求する男であってだな。んで、そっちはどうなんだ」

『外の方は相変わらずっす、相変わらずー。だから、忌部さんが心配することないっすよ』

「いや、心配するべきだろうが、俺の立場上。もっとこう、建設的な言葉を掛けてくれよ、管理職なんだから」

『いやいや、しがない中間管理職っすよ、中間管理職。だから、こんなことは二度はごめんっすからね? 上と下との 板挟みー、ってほどひどくはないっすけど、俺だって色々と苦労してるんすから』

「ああ、もちろんだ。以後気を付ける。お前も田村に心配を掛けないよう、ちゃんとやれよ」

『そんなん、言われるまでもないっすよ。んで、忌部さんは翠さんとはフラグがビンビンに立ったはずじゃ』

「交信終了!」

 がちゃんと受話器を下ろし、忌部は通話を切った。障子戸の隙間からは翠が忌部を窺っていたので、忌部は顔に 巻き付けた白い包帯の下から笑い返した。

「なんでもありませんよ。次は何をすればいいんでしょうか?」

「そうですわね、あの木の枝なんですけれども」

 翠は枝振りが良くなりすぎた庭木を指したので、忌部は再び玄関から外に出た。包帯のざらりとした違和感が肌を 擦って背筋に寒気を呼ぶが、翠の前では服を着ていなければならないような気がした。理由は異なるが、同じように 包帯で素肌を隠している彼女と並ぶと、ほんの少しだけだが引け目が失せる。包帯に隠れて見えないが、翠の声色 も柔らかくなるような気がする。いずれも気がするだけであり、根拠はどこにもないが。翠を支えられるようになれば、 忌部自身にも芯が出来るかもしれない。もっとも、翠にとっては迷惑なだけかもしれないが。
 残りの六日間も、命令通りに服を着て過ごそう。素肌を外気に曝せないせいで鬱積するものはいくらでもあるが、 それは忌部島で発散してしまえばいい。今は、自分を律し、罰し、見つめ直すために必要な時間なのだ。
 内なる世界ほど、目に見えないものだ。





 


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