フンドシが宙に浮いている。 その様を見、紀乃は反射的に声を潰した。確かに、そうしろと言ったのは自分だし、相手もそれで納得してくれた ので、こんな状況になっている。だが、脳が現実に追い付くまでは少々時間が掛かる。ちなみに、フンドシは床から 八十センチ程度の位置に浮いていて、床板にはうっすらと湿り気のある二つの足跡と白い砂粒が落ちている。 「少しは慣れてくれないか」 忌部次郎の声が頭上から掛かり、紀乃は複雑な思いで顔を歪めた。 「そう言われてもなぁ……」 透明人間と一緒に暮らし始めて三日も経っていないのだから、慣れろと言う方が無理だ。ゾゾや他の面々も充分 奇妙だが、忌部はまた違う奇妙さがある。本人の性格はどこにでもいそうな凡庸な男で、服を頑なに着たがらない 点を除けば掃いて捨てるほどいるであろう人種である。仕事には真面目だが成果が今一つ上がらず、何かと空回り しがちであり、女性と仲良くなってもいい人と呼ばれるだけで終わるであろう雰囲気が漂っている。しかし、透明だ。 皮膚も筋肉も骨も神経も内臓も体液も透き通っていて、輪郭すらも目にしづらい。だから、相手にもしづらい。 「大体、これは君が言い出したんじゃないか」 忌部は紀乃の横を通り過ぎたらしく、フンドシが平行移動して教室に向かっていった。 「あー、うん、そうなんだけど」 我ながら、変なことを言ってしまった。紀乃は三日前の自分の言動に少々腹を立てながら、忌部が自室として 割り当てられた教室に入る様を見送った。やはり、フンドシしか見えなかったのだが。 謹慎処分を解除され、忌部島に再び派遣された現場調査官の忌部次郎は、通信機材一式を抱えて廃校を訪れ、 これからはここに住まわせてくれと懇願してきた。それまでの忌部は存在を隠し通そうとしていたので、紀乃はその 行動が不可解でたまらなかったが、ゾゾは快諾した。小松は少し渋り、ミーコはげらげらと笑い、ガニガニはちょっと 人見知りしているのか巣に隠れてしまった。だが、いくら目に見えないとはいえ、成人男性が素っ裸で生活圏を闊歩 するのは良くない、ということで、せめて下着だけは付けてくれと紀乃が押し切った。しかし、露出狂である忌部には たとえパンツだろうがトランクスだろうが布が擦れるものは我慢出来ないらしく、妥協出来るラインがフンドシだった。 そして、ゾゾが半日もせずにフンドシを拵えて忌部に履かせたのだが、そこはやはり透明人間というわけで。 「解せない……」 紀乃が頭を抱えていると、今度はゾゾがやってきた。 「おやおや、紀乃さん。どうかなさいましたか」 「やっぱりフンドシはまずかったんじゃないのかなぁ、忌部さんの下着」 「ですが、目に見えないのを良いことにぶらんぶらんされるのは許し難いと仰ったのは紀乃さんではありませんか」 そう言ったゾゾの手には、半透明の筒が収まっていた。その中に、上下に棘が生えた生き物が入っていた。体長 三センチにも満たず、体表面の色は淡いピンク色だった。どちらが上か下かは解りかねるが、甲殻類のように硬い 棘といかにも柔らかそうな棘が、上下合わせて十数本生えていた。顔のような部分は細長く伸び、下方に向けて穴が 開いていて、きっとこれが口だろう。だが、魚でもなければ甲殻類でもなさそうだ。 「な、何それ?」 紀乃は身を引くと、ゾゾは、ああ、と筒を掲げた。 「ハルキゲニアですよ、ハルキゲニア」 「いや、さっぱり解らないんだけど」 「何年も前に海底の地層から掘り起こしたアノマロカリスの化石の消化器官の中にあったのが、このハルキゲニア の化石だったのですよ。石化した細胞を再生させるのは私の技術でもなかなか難しいので、会心の出来ですね」 「で、その気持ち悪いムカデもどきをどうするの?」 「失敬な。ハルキゲニアです」 ゾゾはちょっと拗ね、ハルキゲニアの入った筒を大事そうに抱えた。 「今の時代にも適応出来るか調べるために、海に放してみようと思いましてね。もしも繁殖したら、どんな味がするのか 気になるので、食べてみようと思っております」 「私は食べないからね! そんな気持ち悪いの、絶対に食べないからね!」 「食べてもらわなくても構いませんよ。私のだーいじなハルキゲニアですからね」 紀乃さんったらひどいですねぇ、と培養液に浸ったハルキゲニアに話し掛けつつ、ゾゾは昇降口から出ていった。 ゾゾが紀乃以外に執心する様を見るのは初めて見たが、素直に気味が悪かった。大体、あんなに奇妙な生き物の どこに愛着を感じるのだろうか。化石から生き物を再生させて生み出したのは凄いとは思うが、それだけだ。 「ガニガニー、散歩に行くよー」 昇降口から出た紀乃は校庭に周り、ガニガニに声を掛けた。巣の中から顔を出したガニガニは、飛び出した二つ の目をじっとゾゾに向けていた。紀乃がなんとなく彼の視線を辿ると、うきうきしながら海に向かっていくゾゾの尻尾 が左右に揺れていた。ムカデのようで気持ち悪いハルキゲニアのことは好きになれないが、ゾゾが楽しいんだったら それでいいかもな、と妥協した紀乃は、サイコキネシスでガニガニの甲羅に飛び乗った。 今日も楽しい散歩の始まりだ。 翌朝。朝風呂に入ろうと、紀乃は着替えを周囲に漂わせながら浮遊していた。 忌部島の気候に体が慣れたと思っていても、寝苦しくて敵わない夜はある。廃校の外で何やら騒がしかったのも、 よく寝付けなかった原因だった。草木が風で鳴る音とも、波の音とも違う異音が、板壁の向こう側で何時間も続いて いた。喩えるならば、ガニガニの外骨格と外骨格が擦れ合う軋みを軽くしたような。その夢のせいで三センチほどの ガニガニが大量に増えた夢を見てしまったが、小さなガニガニと戯れることが出来たので良しとしよう。 ようやく眠気が覚めてきた紀乃は、スニーカーを突っかけて廊下に足を付けると、着替えやタオルを一塊にした。 ここからは自分の足で歩こう、と風呂場に繋がる引き戸を開けると、青々と茂る雑草の間にピンク色のものが無数に 挟まっていた。訳が解らなくて何度も瞬きしていると、紀乃の足元にピンク色のものが這い上がってきた。 「あぁ……?」 ハーフパンツを履いているので露出している脹ら脛に触手じみた足が掛かり、筒状の口が上げられた。それは、 昨日、ゾゾが嬉々として海に放しに行った奇怪な古代生物、ハルキゲニアだった。 「ひぇあおっ!」 思わず紀乃が仰け反ると、その拍子に暴発したサイコキネシスが波状に草むらに広がり、雑草の間に隠れていた ハルキゲニアが次々と吹っ飛ばされて宙を舞った。視界がピンク色に染まるほど大量だった。余波を受けて揺れた 風呂場の屋根からも風呂場の入り口からもハルキゲニアが飛び出し、非常事態に驚いたハルキゲニア達が群れを 成して紀乃の周囲から逃げ出した。その際に、寝苦しさの原因である細かな騒音が大量に発生し、ざざざざざあっ、 と音を立てて遠のいていった。あまりのことに紀乃は呆然としていると、手に肩が置かれた。 「おい、大丈夫か」 「リアルにヤバくない?」 恐怖と嫌悪感が一巡して冷静になった紀乃は、フンドシ一丁の忌部と向き合ったが、おのずと見えるものに目が 向かってしまった。が、気を取り直して顔を上げるが、忌部の顔がどこにあるのかまるで解らなかったので、紀乃は 忌部と目を合わせているつもりで目を上げた。 「これさぁ、ハルキゲニアだよね?」 紀乃が草むらを埋め尽くす古代生物を指すと、忌部は訝った。 「ハルキゲニア? それがこのピンクムカデモドキの名前なのか?」 「そうらしいんだよ。昨日、ゾゾが化石から再生させたとかで海に放しに行ったんだけど」 「一夜明けたら大増殖したってわけか。だが、どうして」 「私に聞かれても困るんだけど」 実際、困っている。紀乃はぼさぼさの髪と汗ばんだ肌を持て余し、むくれた。寝起きにひとっ風呂浴びなければ、 体中べたべたのまま、一日を過ごさなければならなくなる。常夏の島なので何をしなくても汗を掻いてしまう環境では あるが、そこは年頃の乙女心というもので、着飾ることが出来ないのならばせめて清潔にしていたいと思っている。 だが、無数のハルキゲニアが蠢いている裏庭に出る勇気はなく、ハルキゲニアに満ち溢れているであろう風呂場に 無防備な格好で入る根性もない。サイコキネシスで吹っ飛ばしたところで、これだけ大量にいては、すぐに風呂場に 侵入してくるだろう。忌部ではあるまいし、素っ裸で古代生物とやり合うような度胸は持ち合わせていたい。 「あ、そうか」 だったら、その忌部に戦ってきてもらえばいい。紀乃はおもむろにフンドシの紐を掴み、風呂場を指した。 「忌部さん、お風呂場のハルキゲニア、退治してきて」 「ゴキブリじゃないんだから、さらっと言うな。俺だって嫌だぞ、変な生き物を踏んづけるのは」 「だって、お風呂に入りたいんだもん」 「そういうことは自分でやってくれないか。大体、君の場合は触らずに動かせるだろうが」 「ハルキゲニアなんて見るのも嫌。でも、お風呂に入りたいの。だから、忌部さんに頼んでるんじゃない」 紀乃が忌部のフンドシの紐をぐいっと引っ張ると、忌部らしき朧な影が跳ねた。 「ふおっ!?」 「お風呂の残り湯を汲み置きの水と入れ替えて、湯船を掃除して、脱衣所の砂を履き出して、かまどに火を入れて、 お風呂を丁度良い温度に沸かしてくれるだけでいいんだから!」 更に紀乃がフンドシを引っ張ると、ごん、と忌部らしき透き通った物体が引き戸に頭をぶつけた。 「ちょ、ちょ、ちょっと、それはダメだからっ! 痛い、ていうかきつい!」 「じゃあ、いいや。ゾゾにでも頼んでみる」 紀乃がフンドシの紐を放すと、忌部が内股になって前のめりになったのか、フンドシが内側に縮まった。 「最初からそうしてくれ……。それと、もうちょっと情けを掛けてくれ、内臓が丸出しになってんのと同じなんだから」 おお痛い痛い、と忌部が情けない声を出していたが、紀乃は風呂にすぐに入れない不満と寝不足による不機嫌が 積み重なっていたので無視した。だが、やっぱり風呂には入りたい。湯を湧かす時間がないのなら、水浴びだけでも 充分だ。しかし、そのためにはハルキゲニアの群れの上を行かなければならないわけで。 「おおい」 ぐっちょんがっちゅん、と妙に粘っこい足音を立てながら、体育館の方向から小松が現れた。 「あ、おはよう、小松さん」 手近な窓を開けて顔を出した紀乃が挨拶すると、小松はハルキゲニアの轢死体が大量に貼り付いている六本足に メインカメラを向け、肩を落としたかのように左右の多目的作業腕を落とした。足音の粘り気の元は、そこら中を蠢く ハルキゲニアを踏み潰したのが原因らしく、海産物の死体特有のぷんとした潮の匂いが立ち込めていた。小松の 十数トンの体重を思い切り浴びたハルキゲニアは、チューブ状の口から変な色の内臓を吐き出していたり、足が 取れていたり、上か下かは解らないが半分だけになっていたり、と、解剖図を書くのには困らない状況だった。 「紀乃でも忌部でもいいんだが、これを洗うの手伝ってくれないか」 「夏場の夜中に車で農道を通ると、丁度そんな感じになるよな。あの場合はカエルだが」 早々にダメージから回復したらしい忌部が言うと、小松は忌部の位置を探るようにメインカメラを彷徨わせた。 「うん。知っている。だから、洗ってくれ。足が錆びちまう」 「ほら、やっぱりお風呂は必要なんじゃない」 紀乃がしたり顔になると、忌部は首を横に振ったらしく僅かに空気が揺れた。 「小松と君とじゃ程度が違うだろうが」 「で、ガニガニは大丈夫かな」 紀乃が身を乗り出すと、小松はマニュピレーターを一本上げて巣に向けた。 「ガニ公なら平気だ」 小松の太い指先を辿った先では、ガニガニが自分の巣の頂上で足を縮めて丸くなっていた。ハルキゲニアは高い ところには昇れないらしく、小松謹製の岩石の巣の周囲に集まってかさかさこそこそと這い回るだけだった。しかし、 ガニガニにはそれが怖いらしく、鋏脚で複眼を覆って防御姿勢を取っている。紀乃が彼の名を呼ぶと、ガニガニは 鋏脚を下げて複眼を出して紀乃を窺ったが、数秒も経たずにまた目を隠してしまった。 「ガニガニー、きっと助けに行くからねー!」 紀乃が身を乗り出すと、ガニガニはかちこちと小さく顎を鳴らしたが、ハルキゲニアの足音に掻き消された。 「ハルキゲニアニアニアニアニアー」 すると、いきなりミーコが屋根から逆さまにぶら下がり、手にしていたハルキゲニアを囓った。 「マズイ」 が、口に含んだ途端に吐き捨て、食べ残した分も放り投げた。ミーコは雨どいを軸にして器用に前転し、廃校の中 に飛び込んでくると、泣きそうな顔をしてハルキゲニアの大群を指した。 「ハルキゲニアニアニアニア、ヤダヤダダダダダダダ! 追っ払ってッテッテッテー!」 「不味いから、だろうねぇ」 「納得の理由だ」 紀乃が呟くと、忌部は頷いた。その辺りの雑草や傷んだ野菜や貝殻までもを食べてしまうミーコが不味いというの だから、余程ひどいに違いない。しかし、これほどの数がいては、ハルキゲニアが食卓に並ぶのは時間の問題だ。 自給自足の生活だからということもあるが、基本的にゾゾはありもので間に合わせてしまう性分だ。だから、豊作の 野菜が延々と出てくることも珍しくないのだが、食べさせてもらっている立場なので文句は言わないことにしている。 しかし、ハルキゲニアだけは勘弁してもらいたい。そういえば、そのゾゾはどこにいるのだろう。 「ああ、なんと素晴らしい朝でしょうかっ!」 校庭にうずたかく積もっていたハルキゲニアの山が爆ぜ、ゾゾが出現した。当然、ハルキゲニアまみれである。 「これぞ、カンブリア爆発ですっ!」 ゾゾが吹っ飛ばしたハルキゲニアの一匹が窓に衝突し、潰れて体液を飛び散らせた。 「どうです皆さん、原始の生命とは美しいでしょう! 不完全、不合理、不条理! 進化の過程で失っていったものが 余すことなく詰め込まれた、発展途上の曖昧さ!」 大股に歩み寄ってきたゾゾは、窓から頭を突っ込んできた。恐ろしく磯臭かった。 「さあ、皆さんも、カンブリア爆発を体感なさるのです!」 テンションの高いゾゾがハルキゲニアの付いた手で紀乃の肩を掴んできたので、紀乃はぞわりと鳥肌が立った。 「爆発してんのはあんたの頭でしょうがああああっ!」 今度は暴発ではなく、きちんと狙いを据えて打撃を放った。サイコキネシスを凝結させた一撃を脳天に喰らって、 ゾゾは呆気なく吹っ飛んでいった。もちろん、背中からハルキゲニアの海に落ちたので、その背の下でまたも無数の ハルキゲニアが命を落として体液の池が広がった。 「何をなさいますか、紀乃さん」 青味掛かった体液とピンク掛かった内臓にまみれながら起き上がったゾゾは、頭をさすった。 「だって、お風呂に入れないんだもん」 紀乃は腕を組み、風呂場を睨んだ。元はと言えば、それが原因だ。そのせいでとばっちりを食った忌部が曖昧な 声を漏らし、外装が錆び付かないか不安でたまらない小松はびいびいと防犯アラームを鳴らし、不味いものを口に 入れてしまったミーコは半泣きで、ガニガニは古代生物の大群に怯え切っている。そして、紀乃は怒っている。次第に 状況を理解したゾゾは、ハルキゲニアに体中をよじ登られながら、尻尾を垂らしてしょげた。 その間も、ハルキゲニアはわさわさと動き回っていた。 10 7/22 |