南海インベーダーズ




鬱屈鮫肌男



 サメ人間は、当たり前のように昼食の食卓を囲んでいた。
 紀乃はゾゾが作った手打ちの沖縄そばを食べながら、この状況に違和感を感じない自分に違和感を感じていた。 豚骨と鶏ガラの澄んだスープに甘辛く煮付けた豚バラ肉が載っていて、海で遊び疲れた身に本当においしかった。 程良い脂っ気と加減の良い塩味の絡む麺は食べ応えがあって、腹を膨らませてくれる。しかし、サメ人間の存在と、 紀乃らが連れ帰ってしまったサメ人間を全く気にせずに昼食を一人分多く出したゾゾが気になってしまって、ちゃんと 味わえなかった。忌部は変異体管理局と連絡を取ると言って居間兼食堂には来ていなかったので、彼の分はまだ 丼に盛られていなかった。麺を食べ終えた紀乃はスープを飲んでから、ゾゾを窺った。

「ねえ、ゾゾ」

「はいはい、なんでしょうか」

 ゾゾは紀乃の食べっぷりが嬉しいのか、にこにこしながら振り向いた。

「あの人のこと、なんか言わないの?」

 紀乃が無言で沖縄そばを食べるサメ人間を指すと、ゾゾは一度瞬きした。

「いいえ、別に。一人ぐらい人数が増えたところで、大して問題はありませんから」

「そういうことじゃなくてさぁ」

「では、どういった反応を返せば紀乃さんは満足なさるのですか?」

 ゾゾから覗き込まれ、紀乃は身を引いた。

「だから、そういうことでもなくって」

「サメサメサメメメメメメメ?」

 握り箸で行儀悪く食べていたミーコは、ぐいっと身を乗り出してサメ人間に顔を突き出した。サメ人間は少し驚いたが、 丼で顔を隠すように俯いてしまった。それが面白くないのか、ミーコはサメ人間を揺さぶって顔を上げさせようとする。 しかし、サメ人間は頑なに顔を隠していて、びしゃびしゃとスープが跳ねようとも構わずに身を固くしていた。

「その辺にしといてやれ、ミーコ」

 校庭で佇んでいる小松が諌めると、ミーコはサメ人間から手を離してむくれた。

「ヤダヤダダダダダ! つまんないナイナイナーイ!」

「そりゃ、そいつが喋らないんだから仕方ないだろう。放っておいてやれ」

 そして俺も放っておいてくれ、と小松がエンジンを唸らせながら歩き出すと、ミーコははっと目を見開いて残った麺も スープも一息で飲み下し、箸と丼を放り出して窓から飛び出した。

「放っておかないおかないナイナイナーイ!」

「行ってらっしゃい」

 ゾゾは二人を温かく見送ると、自分の丼の残りを食べ始めた。ミーコが小松に執着している間は平穏が続くので、 紀乃もにこにこしながら手を振った。巣に戻ったガニガニも、アダンの実を噛み砕いて食べている。

「変異体管理局と連絡が取れたぞ」

 小松とミーコと入れ替わる形で居間兼食堂に入ってきた忌部らしき宙に浮くフンドシは、椅子を引いて腰掛けた。 すかさずゾゾが立ち上がり、忌部の分の丼を持って台所に向かった。

「では、忌部さんの分を持ってまいりますね」

「で、何だって?」

 瓜の漬け物を囓りながら紀乃が問うと、忌部は答えた。

「例によって機密情報だが、お前らは関係者だから特に問題はないだろう。そこのサメ青年は、五日前の真夜中に 山吹が取り逃がしたミュータントなんだ。以後、海と空の両方で捜索が行われたが要として行方が知れず、伊号の ネットワークを使おうにも衛星が二機もぶっ壊れているし、呂号のサウンドソナーを使おうにも呂号の体調が悪い から使おうにも使えず、このまま見失うかと思われていた。が、それを俺達が見つけた、というわけだ」

「てぇことは、忌部さんの手柄になっちゃうの? えぇー、そんなの面白くなーい」

 紀乃が不満を示すと、忌部は瓜の漬け物を一切れ食べた。

「理不尽な文句を付けるな。これまでの失態の帳尻合わせになるんだ、丁度良いぐらいだ」

「はい、忌部さん」

 ゾゾが忌部の前に丼を置くと、忌部は丁重に受け取った。

「おお、すまんな」

「それで、この人の素性は? その辺がキモじゃないの?」

 物足りない紀乃がサイコキネシスで忌部の箸と麺を押さえると、忌部はげんなりした。

「お前なぁ……。超能力で低レベルな意地悪をするなよ。その辺についてはこれから情報公開するそうだから、 特に問題はないので言ってしまおう。名前は鮫島甚平、十九歳の大学浪人生だ」

「サメジマジンペイ?」

「そうだ。俺も紀乃もだが、名は体を表しすぎている」

 サイコキノとインビジブル、と忌部は付け加えると、ようやく箸と麺が解放されたので啜った。

「なーんか聞いた覚えが……あぁ!」

 名前を聞いた途端に記憶が蘇り、紀乃は腰を浮かせた。

「そうだ、やああああっと思い出した! 鮫島甚平ってあれだよ、うちのお母さんのお姉さんの長男だ! そういえば そうだ、こんな感じだった! 最後に会ったのはお母さんのお婆ちゃんの十七回忌だったけど!」

「そうか、紀乃の従兄か。そこまでの情報は寄越してくれなかったな」

「うん、従兄。ああ、だからかぁ」

 道理でちゃん付けで呼ばれるわけだ。やっと納得した紀乃は腰を下ろし、サメ人間、もとい、甚平に向いた。

「だったら、最初からそう言ってくれればいいのに」

「あ、えと……。その、思い出されないなら、僕はその程度の人間だってことだから、っていうかで」

 ほとんど空になった丼に大きな顔を突っ込みながら、甚平はようやく言葉を発した。舌に力が入っていないのか、 滑舌が悪い上に丼の中に籠もってしまって聞き取りづらかった。

「あ、あの」

 丼から鼻先を出した甚平がゾゾに向くと、ゾゾは彼の分のドクダミ茶を淹れた。

「はい、なんでしょう?」

「あ、その、僕の体、こんなにしたのって、あなたですよね?」

「甚平さんがそう思われるのでしたら、そうなのでしょうね」

「あ、いや、なんか、その……」

 甚平はスープが跳ねた鼻先を濡れ布巾で拭いてから、巨躯を精一杯縮めた。

「あ、いえ、あの、なんでもありません」

 また俯いた甚平は、湯飲みを受け取った。それきり黙り込んでしまい、紀乃は忌部と顔を見合わせようとしたが、 その顔が見当たらなかったのでゾゾと目を合わせた。ぎょろりとした単眼からは表情が読み取れなかったが、甚平の 言うことが本当だとしたら、ゾゾはやっぱり恐ろしい。実際、ゾゾにとってはそんなことは朝飯前だろう。化石から ハルケギニアを再生させて大増殖させてしまうのだから、人間をサメ人間に改造することだって出来るに違いない。 しかし、甚平の感情表現が鈍いのとゾゾの反応が曖昧なせいか、今一つ危機感が沸かなかった。本人達がそれで いいならそれでいいのかもなぁ、と思いつつ、紀乃もドクダミ茶を啜った。
 腹一杯になると、細かいことはどうでもよくなった。




 夜が更けても、甚平の様子は変わらなかった。
 とりあえず寝起きするために教室の隅に布団を支度し、一千五百キロもの距離の海底を闊歩してきた際に付いた 汚れを落とすために風呂に入ったが、本人が申告して一番最後に入った。当然、湯も温くなって汚れていたので、 入れ替えようかとゾゾは進言したが、甚平はそのままで充分だとぼそりと言った。ネルシャツとジーンズはどちらも 使い物にならなくなっていたので、例によって漁船の乗組員から奪い取ったらしい油染みと魚の匂いが染み付いた 作業着を寄越されたが、甚平は文句一つ言わずにそれを着た。そして、夕食後、校庭の隅で膝を抱えていた。

「おーい」

 ジャージ姿の紀乃は八等分に切り分けたスイカを載せた皿を浮かばせ、甚平の元に駆け寄った。

「ゾゾにスイカを切ってもらったよ。食べる?」

「あ、うん」

 甚平は胴体とほぼ同じ太さの首を曲げ、紀乃に片目を向けた。紀乃は甚平の隣に座り、スイカを差し出した。

「はい。よーく冷えてるからね」

「う、うん」

 口をほとんど開かずに答えた甚平は、サメなのに先細りの口の先端だけを使って赤く熟れたスイカを囓り、しかも 種を一粒一粒地面に落とす慎重ぶりだった。紀乃もスイカの種は出しはするが、甚平のように白くて柔らかい種まで 出すほどではない。見た目はいかつくて凶暴そうなのに、中身はやはり従兄の甚平だ。法事の時も、歳が近いからと いうだけの理由で近くにいさせられたのだが、甚平は紀乃とあまり話そうとはしなかった。大勢の人間が集まって いるから居心地が悪いらしく、何度も座り直していたし、分厚いメガネの奥の目は落ち着きがなかった。気が弱く、 内向的で、母親の姉夫妻からも持て余されているような感じがした。実際、甚平の弟は活発で明るくて大人受けが 良く、法事の合間に紀乃とも遊んでくれた。だから、甚平に関する記憶は朧気で尚更思い出しづらかった。

「えー、と」

 どう話を切り出したものか、と紀乃が口籠もると、甚平は指の間に水掻きの付いた素足を見つめた。サイズが合う 靴がなかったのと、靴を履かなくても済むほどに足の皮が分厚かったからだ。

「あ、う、と、僕は……」

 スイカを嚥下した甚平は、首筋の両脇に付いているエラからため息を零した。

「あ、うんと、夜中に外を歩いていたら、いきなり川の中に引き摺り込まれたっていうか。で、あの、トカゲの」

「ゾゾの?」

「ああ、うん。ゾゾのだね。その匂いがしたから、ずっと歩いてきてしまった」

「海の中でも匂いがするの?」

「うん、するよ。サメになったからだろうけど、色んな匂いが良く解るようになったっていうかで」

 スイカの白い部分も歯で刮げ取るように食べてから、甚平は皿に皮を載せた。

「あ、うんと、最初はね、僕は復讐しようと思った。こんな体にされちゃって、人間じゃなくなって、凄く困ったからだ。 だけど、暗くて静かな海の中をずっと歩いていると、こうも思った。僕みたいなのが人間のままでいても、人間と いう種族がダメになるだけじゃないか、って」

「え?」

 紀乃が面食らうと、甚平はぼそぼそと独り言を続けた。

「だって、僕はそうなんだ。自分でもそう思う。気持ち悪いし、訳が解らないし、誰にも馴染めない。だから、きっと、僕の 根っこの部分は人間じゃない。人間になりそこねた、人間もどき。だから、これが本当の姿なのかもしれない。サメなんて いう格好良い生き物になっちゃったのは、おこがましいとは思うっていうか」

「でもさ」

「あ、うんと、大学に落ちてからは色々とどうでもよくなっていたけど、これでもっとどうでもよくなった」

「あのさぁ、甚にい」

「あ、何?」

 紀乃の呼び方に少々戸惑いつつ甚平が返すと、紀乃は食べかけのスイカを下ろして呟いた。

「そんなんでいいの? だって、甚にいの人生じゃん」

「あ、うん、いいんだ」

「だってさ、甚にいにだって友達とかいたはずだし、伯母さんだって心配してるんじゃ」

「いないし、しないよ」

 スイカの汁に汚れた手をその辺の雑草で拭ってから、甚平は再び膝を抱えた。

「だから、どうでもいいっていうかで」

「そんなこと、ないんじゃないかなぁ」

「あ、うん、気休めはいいよ。僕が一番、自分のことを気持ち悪いって思っているから」

 甚平の無気力な瞳は焦点がぼやけているのか、どこを見ているのか解りづらかった。西日が水平線に没し、月光 が島全体を青白く光らせ、夜の帳が音もなく下りてきていた。足元の草むらからは多種多様な虫が鳴き声を上げ、 気温が下がったことで活動的になったガニガニが巣の中でごそごそ動いている。近くに座っていると、紀乃も甚平の 陰気に引き摺り込まれそうだった。うっかりサイコキネシスのための感覚なんて広げてしまったら、陰鬱な空気まで もを感じ取って凹みに凹むだろう。背ビレの部分が突っ張っているせいでテントを張っている背中は丸まり、筋肉質な 両足も情けなく体育座りになっている。けれど、その気持ちは良く解った。甚平ほどではないにしても、紀乃もまた ミュータントと化したばかりの時はそうだった。だから、小松が言うように、放っておくのが一番だ。
 誰だって、自分の心を守るだけで精一杯なのだから。





 


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