体は疲れ果てているのに、眠気は露ほども起きなかった。 水中ではよく見えていた目も空気中では屈折率が変わってしまうらしく、天井がぼやけている。人間だった頃から 近眼だったので輪郭が定まっていない世界には慣れ切っているが、瞼がないのは困り者だ。目を閉じようとしても、 閉じる術を持たないのだから。甚平は瞬膜を出し入れしてみたが結果は変わらず、意味もなく寝返りを打った。 なぜ、こんなことになってしまったのだろうか。勉強に行き詰まり、少しでも気晴らしになればと夜の街を散歩しに 出かけたのだ。外に出るのはあまり好きではなかったが、寝付けずにベッドの中で悶々としているよりも余程マシだと 思ったからだ。四六時中机に向かっているせいで背中は情けなく丸まり、予備校と自宅を往復するだけの生活を 送っているせいだろう、元から悲観しがちな思考がすっかり沈み込んでいた。流れが停滞している川に沿った土手を 歩き、意味もなく海を目指した。真っ暗なので何も見えないと解っていたが、じっとしていたくなかった。 海と川の境目辺りに辿り着いた甚平は、その場に立ち尽くしてぼんやりしていた。いつもの劣等感に苛まれ、社会 不適合者そのものである自分を恥じ入る一方、世間の荒波に揉まれずに済む現状に甘んじていたいという逃げの 気持ちの間でふらついていた。だから、暗い川面が不自然に割れたことも妙な足音が近付いたことにも気付けず、 顔を何者かの手に押さえられて生臭い水中に引き摺り込まれた瞬間にようやく危機感を感じたほど、思考は鈍りに 鈍っていた。化学物質と有機物が混在したヘドロが堆積した川底に押し付けられ、肺に水が入った息苦しさと死の 恐怖に混乱する一方、今、自分が死んでも誰も悲しまない、社会のゴミが消えるだけだ、との安堵が過ぎった。そう 思ったら抵抗する気力も完全に失い、肺に残った最後の空気を全て吐き出した甚平は、ヘドロに埋まった。 だが、甚平は死ねなかった。肺に溜まったはずの水は首筋に出来た隙間から外に排出され、泥臭い酸素が血中を 巡っていく感覚を味わっていた。度の強いメガネはなくなり、ネルシャツは一つ残らずボタンが爆ぜて、擦り切れた ジーンズは破れ、両足のスニーカーも川底に埋まってしまったらしい。これでは家に帰れない、潔癖症で完璧主義者の 母親に殺されてしまう、と頭の片隅で考えながら、甚平は泳げないなりに藻掻いて土手によじ登った。少しだけ 塩の味がする淡水を吐き出していると、土手沿いの道路のカーブミラーに自分の姿が映った。対向車が走ってきて ハイビームが照射された瞬間に見えたものは、眠たげな顔をした姿勢の悪い男ではなく、サメ人間だった。 何が起きたのか解らずに呆然としている甚平の背後に現れたのは、一つ目の巨大なトカゲだった。暗がりなので 肌の色は捉えづらかったが、ゾゾ・ゼゼと変わらぬ色味だったように思う。そのトカゲは甚平を見、笑った。 「うぅ……」 その後、トカゲがどこに行ったのかは知らない。あまりのことに混乱が極まった甚平は土手から転げ落ちるように 逃げ出し、人間だった頃では到底乗り越えられなかった高さのフェンスを突破して埠頭に隠れようとしたが、変異体 管理局のサイボーグと戦闘部隊に見つかって、殺されそうになった。無我夢中で海に飛び込んだはいいが、どこに 行ったらいいのか解らず、とりあえずあのトカゲから感じた匂いを辿って海底を歩き始めた。幼い頃に読んだ海洋 生物図鑑によれば、サメは嗅覚が優れているのだそうだ。だから、サメ人間と化した自分もそうに違いないと確信し、 海流に流されかけながらも海底を歩き通して忌部島に辿り着いた。だが、その先は考えていなかった。 「ううぅ……」 常々、自分を変えなければ、と思っていた。覚悟を決めて根本的な部分からどうにかしなければ、鮫島甚平という 人間は世の中の淀みに沈み込んでいく。そうなりたくないから、外見も内面も大きく作り替えなければと焦っていた。 だが、こんな形での変化は望んでいない。見た目がサメになったところで、中身が同じでは何の意味もない。 「うう、うぅ」 怖い、怖い、全てが怖い。現実から逃げてばかりの自分が、他人が、社会が、人ならざる者達が、世界が。 「はぁ……」 甚平は水掻きの張った手で頭を抱え、丸まった背を更に背を丸めた。不安で不安で気が狂いそうになるが、不安を 吐き出せる術がない。勉強しなきゃ、と焦りに駆られたが、すぐに思い直した。顔を合わせれば成績と将来設計に ついて持論をまくし立ててくる母親はいないし、自分の出来の良さを鼻に掛けて甚平を心底馬鹿にしている弟も、 妻と次男に追いやられて家庭の隅で薄く生きているが甚平には差別的な父親も、一千五百キロ以上北上しないと顔を 合わせることも出来ないのだ。そう思うと、少しだけ不安が紛れた。 「ん……」 けれど、眠気が来るわけではない。甚平は薄い掛布を剥ぎ取って身を起こし、怠慢な動作で布団から出た。 「この中、見てみよう」 風化しかけたカーテンを引いて月光を入れると、部屋の様子が捉えられた。八月頃にテレビで頻繁に放映される 戦前戦後の白黒映像に出てくるような、古さを凝縮した空間だった。現在とは規格が違うのか、甚平の知っている 教室より狭く、前と後ろの黒板も小さめだ。一段高い教壇の上には教卓もあり、教鞭もありそうだ。学校に対しては 嫌な思い出しかないので、教室だというだけで胃の辺りがきりきりする。寝付けないのもそれが原因かもしれない。 保健室ならまだマシだが、それに当たる衛生室は紀乃が自室にしている。だったら、図書室はどうだろう。 「あるのかな、図書室」 こんな離島の廃校にあったとしても、蔵書には期待出来ない。それでも、本は本だ。甚平を蔑みもしなければ貶めも しないだろうし、活字があると思うだけで神経を苛む痛みが和らぐ。あったらいいな、と期待を抱きながら、甚平は 教室を出て廊下を歩いた。どの靴も履けないので素足だったが、廊下に落ちた小石を踏んでも、床板のささくれが 引っ掛かっても、くすぐったいだけだ。鮫肌というのも、案外悪くないかもしれない。 紀乃の気配がする衛生室とゾゾが使っている職員室の前を通り過ぎると、圖書室との表札が掛けられた部屋が あった。旧漢字だが、充分意味は解る。引き戸の鍵が掛かっていないことを確かめ、甚平は緊張と期待をない交ぜに しながら図書室に尖った鼻先を突っ込んだ。埃混じりのカビ臭さをエラで吸い込むと、訳もなく気が緩んだ。 「本……」 甚平が中に足を踏み入れかけると、別の声が鼓膜に届いた。 「ええ、本ですとも」 「ひぃっ」 ひどく驚いた甚平が図書室に逃げ込むと、職員室の前に立っている声の主は単眼を向けてきた。 「どうぞ、お好きに。甚平さんがお気に召したのであれば、こちらに住まわれても結構なのですよ」 「うぅ、う……」 ゾゾだった。甚平は太い足で床を蹴って後退ろうとするが、尻尾が邪魔をして仰向けに転んでしまった。 「怖がることなどありませんよ、私はあなたに何もしません」 ゾゾは逃げ道を作ってやるかのように引き戸を全開にしてから、図書室に入り、窓を塞ぐカーテンを全て開けた。 月光を浴びたゾゾは青紫のウロコをほの明るく光らせ、凄まじい存在感を放つ単眼を細めた。 「あ、う、で、でも」 あなたは僕の体を、と甚平は言いかけたが、ゾゾの迫力に負けて口籠もった。 「我らは自由なのです。この世の誰よりも、世界の何よりも、宇宙のどこよりも」 ゾゾは窓も開け放つと、窓枠にもたれて腕を組んだ。 「己を戒めることなどありませんよ、甚平さん」 「あ、ぇ、だけど、僕は」 「ですが、自由だからといって紀乃さんに手を出したら、その時は承知しませんからね? 首と胴体が繋がっている ことを感謝する日を与えてやりますとも」 「あ、え、う、そんな、それはないですよ。僕はその、従兄だし、紀乃ちゃんはそういう目で見られないっていうか」 「でしたら、よろしいのですが」 ゾゾはにんまりと笑んだが、明らかに威嚇の表情だった。甚平は腕を握る手に力を込め、鬱血しかねないほど強く 掴んだ。数年振りに会った紀乃は女らしく成長し、大人になりかけの曖昧な魅力が備わっているが、目元や表情筋の 動き方には母方の血が濃く出ているので、その気には到底なれない。出来損ないの甚平を愛そうともしなかった 母親の険しい面差しがちらついてしまうから、血族に対する感情しか抱けない。 ざあ、と潮風が吹き込み、埃とカビの匂いが淀んだ空気が掻き混ぜられた。ゾゾの異質な匂いも拡散し、甚平の 鋭敏な嗅覚に滑り込んでいった。窓の外の景色もぼやけていたが、匂いが感じ取れるおかげで海との距離や森の 位置やガニガニの存在感が伝わってきた。不安に逆立っていた神経が凪ぎ、圧が抜けるように気が緩んだ。 「僕は……」 甚平は立ち上がり、作業着に付いた砂を払ってから、ゾゾではなくその先の風景を見つめた。 「あ、その、やっぱり、戦わなきゃならないんでしょうか。変異体管理局っていうか、政府っていうかと」 「それも自由ですよ。私達が戦うのは、彼らが私達を目の敵にしているからです。何もしやしませんのに」 「あ、え、そうなんですか?」 「そうですとも。攻撃されているから報復するのは、この世の常というものです」 「じゃ、じゃあ、どうして、僕をこんな体に……。僕は、その、何もしてないっていうか、出来やしないっていうか」 「それは至って簡単な話です。実験ですよ」 「そ、そんなことのために?」 「そんなこととは仰いますが、そんなことのために動く者がどれほど多いことか。私もその一人に過ぎません」 ゾゾは甚平に視線を据えたが、甚平はすぐさま目を逸らした。 「あ、はぁ、そうですか」 「そうですとも」 ゾゾは窓枠から背を外してゆらりと尻尾を振り、甚平の脇を通り過ぎた。 「図書室に住まうおつもりでしたら、布団は御自分で運んで下さいね。御掃除でしたらお手伝いしますよ、こうも広いと お一人では大変でしょうからね」 「あ、はい」 甚平が頷くと、ゾゾは引き戸に手を掛け、横顔を向けてきた。 「どうぞ、ごゆるりと」 引き戸ががたつきながら閉められると、図書室に静寂が訪れた。いつのまにか緊張していたらしく、甚平は詰めて いた呼吸を緩めた。サメ人間と言えども寝付くためには布団が不可欠なので、教室から布団と掛布を運んでくると、 本棚の間に敷いて横たわった。両脇にそそり立つ本棚には分厚い本がびっちりと押し込まれていて、布団を敷いた 際に舞い上がった埃の粒子がほのかに光っていた。床板を伝わった波音と風音が耳に入り、物言わぬ活字の塊が 見守ってくれている。ひび割れていた心中を抱えるかのように丸まった甚平は瞬膜を閉じ、ふうっと息を吐いた。 次に息を吸った時には、眠れていた。 眠れないのは、体が疲れていないからだろう。 頭は疲れ果てているのに、当の昔に失った神経が立っているような感覚が襲ってくる。傍らでは、十歳になっても 一人では寝付けない波号がようやく寝入っていた。いつもなら秋葉の役目なのだが、片付いていない仕事があると 言っていたので山吹が代わりに引き受けたのだ。充電用のケーブルが伸びる腹部を押さえながら身を起こし、波号を 起こさないように気を付けながらベッドから降りた。愛される子供らしさを追求しすぎて不自然ささえ生まれている部屋に 似合うピンク色の柔らかなソファーに腰を沈め、タバコを吸おうとポケットを探って苦笑した。 「子供の部屋で、そりゃないっすよね」 足を組んで後頭部で手を組み、山吹は背筋を伸ばした。 「快調、快調っと」 修理し終えた右腕を動かし、稼働具合を確かめた。どれだけ傷付いても、部品さえあればいくらでも換えが利くのが サイボーグの良いところだ。その弊害で、扱いが軽くなりがちなのは仕方ないが。 「でも、結果オーライってとこっすかねぇ」 忌部が鮫島甚平を見つけてくれた、というより、鮫島甚平が忌部島に行き着いてくれたことで、山吹と忌部の立場は それなりの硬さを保っていた。これで行方不明になったり、死んだりしていたら、どんな処分が下っていたことか。 インベーダーと化す可能性を持つミュータントを確保するのが変異体管理局の職員の仕事であり、引いては国家を 防衛することでもある。伊号、呂号、波号を使った派手な作戦はあくまでも最終手段であり、ミュータントを確保して 水際で阻止するのが最大の役割なのだ。 「丈二君……」 衣擦れの音がし、波号がゴーグルの下で目を瞬かせながら起き上がった。 「どうしたんすか、はーちゃん。眠れないんすか?」 オレンジ色の常夜灯を淡く浴びた波号はベッドを這いずって山吹に近付くと、顔を歪めて涙を零した。 「怖い夢、見たぁ」 「大丈夫っすよ、大丈夫っす」 山吹は波号を抱き寄せると、波号は山吹のシャツを握り締めて細かく肩を震わせた。 「あのね、あのね、でっかいドラゴンがね、でっかいチョウチョのお化けとね……」 冷や汗でべとつく手をきつく握り締めている波号が語る夢の話は、能力の副作用で失われた記憶の端々だった。 どれもこれもが抽象的で、脈絡もなかったが、波号が滝ノ沢緑の能力を借りて変身し、ミーコが巨大化させたガとの 戦闘時の記憶だった。記憶として形を成さなくとも、恐怖だけは焼き付いているのだろう。 インベーダーは、力に物を言わせて平穏を破壊する。彼らからすれば、買い物や社会生活はささやかな願望かも しれないが、その願望に押し潰されるものはいくらでもある。インベーダーが人間に屈せずに刃向かい続ける限り、 波号のように生体改造を受けて酷使される人間も生まれ続ける。だから、戦いを根源から徹底的に潰さなければ、 終わりはしない。しゃくり上げる波号の背をさすりながら、山吹は先日感じた甘えを振り払った。 インベーダーは人間ではない。だから、躊躇わずに手を下せ。 10 8/7 |