南海インベーダーズ




スクラップ・ハート



 合金製の皮膚は、何も感じない。
 高熱、低温、衝撃、加圧はセンサーが感知するが、生身の頃のような繊細な触覚はない。目に映る景色も、記憶の 中にある色彩からは程遠い。眼球の代わりのカメラの解像度はスペックでは高いはずなのに、回路を通して脳に 染み込んでくるものは違う。紛い物の体だから、作り物としてしか捉えられないのだ。
 修理された右腕は、以前と同じように動く。山吹は定期メンテナンスを終えて医務室を出て、肩に引っ掛けていた 制服のジャケットに袖を通した。ネクタイを締めるのは生身の頃も今も億劫なので緩めたままにしておいて、無駄に 大きな体が威圧感を出さないようにするために少し姿勢を崩した。市販の革靴も自衛隊から支給されたジャングル ブーツも入らないので特注サイズのブーツを履き、硬い靴底をワックスの効いた床に擦らせながら歩く。生身の頃の 自分がどんな歩き方をしていたかは上手く思い出せないが、大差はないだろう。

「丈二君」

 ガラス張りの渡り廊下に差し掛かると、逆方向からやってきた秋葉から呼び止められた。藍色というにはいくらか 鈍い色合いの夜空からは、都会のスモッグの隙間を擦り抜けた星の光が数粒落ちている。

「むーちゃん、退勤時間はとっくに過ぎてるっすよ?」

 山吹が近付くと、秋葉は山吹の袖を握ってきた。

「心配」

 赤茶色の長い髪が零れ、秋葉の横顔は隠れた。渡り廊下の真上を今し方発進した哨戒機が通り抜け、衝撃破で ガラスがびりびりと震えた。窓の外に見える海上基地は満遍なく白いナトリウムランプで照らされ、高速道路のサービス エリアだったというかつての姿を取り戻したかのようだ。秋葉の細い指がアイロンの当て方が下手くそなワイシャツを 握り締めてきたので、山吹はないはずの心臓が跳ねたような錯覚に襲われた。

「腕なら、もう大丈夫っすよ。突然変異体三十九号っつーか、鮫島甚平に折られてすぐに新しいのに」

「違う。丈二君、全然休んでいない」

「そうっすか? てか、俺らの仕事に休みなんて関係ないっすよ、マジでマジで。だから、そういうのは」

「当然ではない。だって、丈二君も人間」

「体は機械っすよ。だから、多少の無理は効くんすから、そんなに心配しなくてもいいっすよ」

 山吹は出来る限り明るい声色を出し、真新しい右手で秋葉の髪を撫でた。

「でも、丈二君の心は人間。機械じゃない」

 秋葉は山吹の硬い手を握り、顔を上げた。

「だから、一ノ瀬主任に休暇の申請を要請した。私の分も」

「へっ?」

 それでは、誰があの三人娘のお守りをするのだ。山吹が面食らうと、秋葉はちょっと得意げに笑んだ。

「大丈夫、問題はない。あの子達の御世話は、局長が引き受けてくれた」

「で、でも、局長は俺らのボスっすよ? 何をそんな寛大なことを」

「局長自身からの申し出。だから、何も問題はない」

 秋葉は山吹の手を離そうとしたが、名残惜しいのか、人差し指だけを握ってきた。その仕草は幼い頃と変わらず、 懐かしさと同時に申し訳なさが込み上がった山吹は、秋葉の手を柔らかく握り返した。

「解ったっす。んじゃ、むーちゃん、どこに行くっすか?」

「丈二君となら、どこへでも。私は先に宿舎に戻る。丈二君は」

「今日中に上げなきゃならない書類が二三あるっすから、それを片付けてからにするっすよ」

「だったら、私も」

 手伝う、と言いかけた秋葉を、山吹は抱き竦めてマスクを寄せた。薄いグロスだけが塗られた小さな唇をマスクで 塞ぎ、大人になっても細い体を引き寄せた。冷たく硬い腕の中では、秋葉がそれ以上に身を固くしていたが、懸命に かかとを上げて身長を合わせようとしていた。色白の頬は紅潮し、呼吸はすっかり止まってしまっている。

「ふ……」

 山吹が腕を緩めると、秋葉は緊張と高揚で潤んだ瞳を瞬かせた。

「じゃ、また明日っす。おやすみ、むーちゃん」

 山吹は秋葉の頭をぽんと叩いてから、その脇を通り過ぎた。秋葉は山吹の背を見送りながら、小声で言った。
 
「おやすみなさい、丈二君」

 惜しみない愛情と思い遣りが籠もった言葉が聴覚センサーに届いて、山吹は後ろ手に手を振った。角を曲がって 男子宿舎の通路に入ったが、足を止めてマスクを押さえた。秋葉の体温とグロスの滑り気が残っているのに、指も マスクも感じ取れずにいる。それがどうしようもなく悔しくて歯噛みしようにも、その歯もない。あるのは、死に損ない の脳と多少の頸椎と神経だけであって、山吹丈二という人間はとっくの昔に死んでいる。それなのに、秋葉は以前と 変わらず、いや、以前にも増して山吹を愛してくれている。だから、山吹は膝を折らずに立っていられる。
 秋葉のためなら、どんなことでも出来る。




 翌朝。山吹は、いやに早く起きてしまった。
 機体の充電も完璧ではなかったし、常に電子回路と連動している脳の疲れが今一つ抜けきっていないのに、目が 覚めてしまった。正確には、覚醒を促す脳波が自発的に発生してアイセンサーカメラを作動させ、視覚情報による 刺激で睡眠状態から意識が回復した。普段は身支度の手間がないのと、ルームメイトが離島送りになっているのを いいことに、出勤時間ぎりぎりまでベッドでごろごろしている。けれど、秋葉とデートするというだけで、昨夜から既に そわそわしてしまい、秋葉と別れてからはずっと落ち着きがなかった。普段は制服と作業着しか着ないせいで、ろくに 服が入っていないクローゼットを開けて引っかき回してみたり、秋葉が喜びそうなデートコースを考えすぎて生身と 機械の脳が焼け付きそうになったりと、付き合いが長いはずなのに初デートのように意識してしまった。
 自分の浮かれぶりに呆れながら、山吹はとりあえず格好が付きそうな服を着込んだ。薄いブルーのカッターシャツに ジーンズに、革靴もスニーカーも履けないので支給品のブーツを履いた。生身の頃であれば、それなりの格好に なっていたかもしれないが、今や機械人形だ。顔らしい部品は何もなく、ゴーグルとマスクとアンテナが付いている。 山吹には無用の長物である洗面所の鏡に映ったマスクフェイスを眺め、首を傾げずにはいられなくなった。

「こんなんのどこがいいんすかねぇ、むーちゃんは」

 格好良いには格好良いかもしれないが、人間ではなくロボットとしての格好良さだ。生身の頃よりも今の方がいい んだろうか、と機械の体に対して嫉妬心を抱いたが、自分で自分に妬いていることになるのでややこしい。

「あ、おわっ!」

 あれほど気に掛けていたのに、いつのまにか待ち合わせの時間が過ぎていた。山吹は慌ててショルダーバッグに 荷物を詰め込んでから部屋を飛び出したが、エレベーターに乗った直後にドアに鍵を掛け忘れたことを思い出して 駆け戻り、再度エレベーターに乗ったところで再び忘れ物に気付いてまた駆け戻り、三度目の正直でエレベーターに 乗り込もうとしたら、先客が上層階まで乗っていってしまった。あまりの間の悪さにげんなりした山吹は、自家用車の キーを手の中で弄びながら、ため息を零すように酸素吸入用の吸排気口から強めに排気した。

「丈二君?」

 すると、女子宿舎側の通路から駆け足でやってきた秋葉が、エレベーターホールに入ってきた。

「むーちゃん」

 山吹がキーを握り締めると、秋葉は呼吸を弾ませながら歩調を緩め、ちょっと気まずげに眉を下げた。

「……遅刻」

「ま、おあいこっすよ、おあいこ。俺だって、そんなに早く出てきたわけじゃないっすから」

 山吹が笑うと、秋葉は山吹の隣に立ち、間隔を狭めてきた。

「どこ、行く?」

「そりゃあ、むーちゃんが楽しいって思ってくれるような場所っすよ。どこがいいっすか?」

「丈二君が行きたいところでいい。私は、どこだっていい」

 期待を込めた目で、秋葉は見上げてきた。エレベーターが到着したので揃って乗り、地下駐車場の階層のボタンを 押した。ワイヤーがモーターに巻き上げられる機械音を聞きながら、山吹はどこに行くべきか考え込んだ。秋葉は、 余程のことがない限りは自分の意見を押し通さない。それも、山吹が言い出したことであれば尚更だ。だから、 山吹が秋葉原や中野ブロードウェイで漫画やゲームやフィギュアを買い漁りたいと言えば、黙って付き合ってくれる だろうし、メイドカフェだろうが何だろうが一緒に来てくれるだろうし、際どいコスプレ衣装を押し付けても着てくれるだろう。 嬉しいことには嬉しいが、盲目的すぎて気が引ける。秋葉こそ、休ませてやりたいのに。

「んじゃ、なーんにもしないでドライブ、ってのもいいっすかねぇ」

 エレベーターが到着したので、山吹は秋葉の手を引きながら駐車場に出た。

「でも、丈二君も遊びたいはず」

「そりゃそうかもしれないっすけど、むーちゃんが楽しんでくれなきゃ意味ないっすよ。マジでマジで」

「そう?」

 秋葉は躊躇いがちに呟き、山吹の愛車の前で足を止めた。山吹は黒のジープラングラーのドアロックを外して、 助手席のドアを先に開けて秋葉を乗り込ませてから、運転席に乗り込んだ。シートベルトを締めてエンジンを掛け、 暖機しながら、トートバッグを後部座席に置いた秋葉に声を掛けた。

「んじゃ、出発っす」

「うん」

 秋葉は頷き、シートベルトを締めた。その横顔をカメラの端で捉えながら、山吹はクラッチを踏んでチェンジレバーを 動かし、アクセルを踏んでクラッチを開けた。緩やかにアクセルを踏んで車を発進させ、地下駐車場から川崎側 への連絡道路に出た。薄暗い駐車場から出た瞬間に降ってきた日差しの強さに目が眩んだのか、助手席の秋葉は 目を瞬かせたが、山吹の目は自動的に採光量を調節した。検問の自衛官に身分証明書を見せ、通り抜けた。
 川崎側に通じている海底トンネルに入ると、オレンジ色のナトリウムランプの整然とした明かりが二人が乗った車 を待ち構えていた。変異体管理局専用道路と化しているので、対向車も後続車もないので至って快適だった。秋葉 は日焼けを気にしているのか、ノースリーブのワンピースから露出した肩にストールを掛けていた。赤茶色の長い髪 は太い三つ編みにされ、素足にはグラディエーターサンダルを履き、首から革紐にターコイズのネックレスを下げて いる。山吹の記憶にはない服で秋葉の趣味とは少し違うが、よく似合っている。

「この前の休みの時に、春姉さんが選んでくれた」

 秋葉は照れ臭いのか、白地に花柄のマキシ丈のワンピースの裾を押さえた。

「けれど、私の趣味ではない。少し、派手」

「そうっすかね? 充分可愛いっす」

「本当?」

「嘘吐いてどうするんすか」

「……そう」

 その横顔は綻んでいるが、表情を見せたくないのか俯いてしまった。それがとても残念だったが、それもまた秋葉の 可愛らしさの一つだ。控えめで大人しく表情も乏しいが、その奥には溢れんばかりの愛情が隠れている。
 山吹と秋葉の付き合いは長い。山吹と秋葉の実家は同じ町内にあったので、物心付いた頃から知っていた。それと いうのも、田村一家の四姉妹のことは有名だったからだ。長女の春奈、次女の夏実、三女の秋葉、四女の冬香と いう構成の四卵性の姉妹は、その物珍しさと彼女達の可愛らしさから町内での評判も良かったが、三女の秋葉だけは 大人しすぎるせいか今一つ目立たなかった。だから、つい姉や妹達の後ろに隠れがちになっていて、そのことが 逆に山吹の興味を引いた。初めて秋葉の手を握ったのは、小学校六年生の時だった。文化祭でクラスごとの発表を 終えた後、秋葉は一人で校内の展示物を見て回ろうとしていたが、上級生や保護者ばかり多くいたために臆して しまい、階段の踊り場でじっとしていた。そこに通り掛かったのが山吹で、どこに行きたいのかを聞き出し、迷子に ならないようにと秋葉の手を引いて上の階に連れて行った。その時も秋葉の反応は大人しかったが、大人しいなりに 喜んでいるのが解り、山吹はなんだか秋葉が気に入ってしまった。
 それから、多少の紆余曲折があったが、山吹は秋葉と付き合うようになった。初めてデートに行ったのは、秋葉が 十四歳で山吹が十九歳の時だった。とても満ち足りていて、世界が光り輝いて見えた。このまま、秋葉とずっと一緒に いられるものだとばかり思っていた。けれど、世の中、そんなに上手くいかないものだ。

「丈二君」

 二つめの検問を抜けて川崎側に入った後、秋葉は山吹に顔を向けた。

「行きたいところが出来た」

「おおう、嬉しいっすねぇ。むーちゃんの頼みとあらば、地球の果てだろうと銀河の向こう側だろうと」

「メテオ」

 山吹の浮かれた口調を遮るように、秋葉は語気を強め、膝の上で両手を握り合わせた。

「ダメ?」

「ダメ、ってことはないっすけど、あそこに行ったって……」

 山吹は渋りかけたが、秋葉の真っ直ぐな眼差しに負けてハンドルを切った。川崎側の連絡通路を下りて東京都内に 入る道路に進み、あの場所への道順を思い出しながら、秋葉の真意を推し量ろうとした。だが、邪推に過ぎないと 思い直して思考を中断した。秋葉は車窓を流れる街並みを見つめながら、唇を引き締めていた。
 メテオとは、山吹と秋葉が住んでいた街から程近いショッピングモールの名前だ。安価なアウトレット商品が並び、 多種多様な飲食店のテナントが入っていて、見た目も小綺麗で、とりあえず遊ぶにはもってこいの商業施設だった。 だから、山吹も秋葉を連れて何度となく遊びに行き、最初のデートの時も迷わずに向かった。しかし、それが全ての 間違いだった。あの日に戻れるとしたら、当時の自分を殴り倒してでも、秋葉を泣かせたとしても、あそこにだけは 行かせない。メテオにさえ行かなければ、山吹は今も生身の体を保っていただろうし、今頃は秋葉と結婚して子供の 一人や二人を設けていたかもしれないし、自衛官としてそれなりの地位になっていたかもしれない。
 ハンドルを握る手は硬く、フロントガラスから差し込む日光を撥ねている。この手が秋葉を抱き寄せ、薄く白い肌に 包まれたまろやかな肢体を愛しても、それは山吹自身ではない。山吹の脳が詰め込まれた機械でしかなく、秋葉が 感じてくれているのは、山吹の脳が発した電気信号の成れの果ての機械的動作だ。
 本来あるべき山吹丈二は、小松建造に殺された。





 


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