南海インベーダーズ




スクラップ・ハート



 錆びた鉄条網に、瓦礫の山が囲まれていた。
 関係者以外立ち入り禁止を示す看板にはスプレーやサインペンで下手くそな落書きがあり、砕かれた看板が根本 から折れ、パネルの隙間から割れたネオンが垣間見えていた。膨張した空気が動き、風と言うには重たすぎる空気 の流れが砂埃を巻き上げた。塗装が施された外壁の破片の上には陽炎が立ち上り、伸び放題の雑草からはバッタ が一匹飛び跳ねた。正面玄ゲートの真上には METEO との看板が付いているはずだったが、風雨に曝されて劣化した のか ME E しか残っていなかった。意外にも警備は万全らしく、荒らされた形跡はない。変異体管理局と政府の力 だな、と山吹は思いながら、愛車の影から周囲を見渡した。幸か不幸か、巡回している警備員の姿はない。

「丈二君」

 秋葉は山吹の袖を引き、小走りに駆け出した。思い掛けない行動だったので内心で驚きながら、山吹は秋葉の後を 追って走り出した。鉄条網は敷地に沿って張られていて、正面ゲートから西口ゲートを経由してかつての駐車場に 至ると、秋葉は足を止めた。軽く息を弾ませながら秋葉が示したのは、崩れたアスファルトが重なって足場のように なっている部分だった。秋葉はワンピースの裾を結んでトートバッグを中に投げて、鉄条網を乗り越えに掛かった。 その行動の早さに再び驚いた山吹は、秋葉の危なっかしさに冷や冷やしながら、レギンスにかぎ裂きを作りながら 鉄条網を乗り越えた秋葉を追って敷地に入った。関係者なのだから正面から入ってもいいんじゃないだろうか、と、 中に入ってから思い当たったが、トートバッグを持って駆けていく秋葉の背を追うだけで精一杯だった。足の速さで 言えば、もちろんサイボーグの山吹の方が機動力が高い。だが、足場が悪すぎる上に、秋葉は妙に慣れた足取りで 駆けていくので引き離されないようにするだけでも大変だった。西口ゲートの割れた自動ドアを擦り抜け、枯れた 噴水と吹き抜けのあるセンターホールに辿り着くと、秋葉は立ち止まった。

「到着」

 秋葉は額に滲んだ汗を拭い、山吹に振り返った。山吹は歩調を緩め、秋葉の傍に立った。

「てか、むーちゃん、初めてじゃないっすよね?」

「うん。五度目」

「つか、俺らは被害者で当事者で関係者なんすから、警備員に言えば中に入れてもらえるんじゃないっすか?」

「それじゃ、ダメ」

 秋葉はワンピースの裾を解いてから、山吹を見上げた。

「デートにならない」

 行こう、と秋葉は山吹の手を取り、歩き出した。見覚えのあるテナントは崩壊した天井に押し潰されていて、当時の 流行りの服を着たマネキンは砂埃にまみれて手足が外れていた。壁にはいくつも雨の筋が付き、水が溜まった 部分には苔と雑草が生え、小さな羽虫が飛んでいる。ひび割れた壁からはみ出した鉄骨は赤く錆び付き、触れたら 今にも崩れ落ちてしまいそうだ。あの日の空気が凝っているような気がして、山吹は屋内を見回した。
 秋葉の手は、あの日に比べれば一回り大きくなった。その頃から小柄だったが、大人になるに連れてそれ相応に 成長している。三つ編みを揺らしながら山吹の一歩前を歩く背も、大人しくて引っ込み思案な少女のものではなく、 大人の女性らしく背筋がしゃんと伸びている。嬉しいけれど、少しだけ寂しいような。
 右半分が壊れた階段を昇って一階から二階のホールに上がると、山吹はぎくりとして足を止めた。広い吹き抜けに 見下ろされた床にはいびつな足跡が残り、抉れの底に溜まった土からは雑草の芽が生えている。そして、月日が 経とうと消えない汚れ、染み、淀み。蛋白質が腐敗して凝結した黒く凝ったタールがこびり付いていて、幾度も風雨を 浴びようとも薄くなっていなかった。何十人もの人が死んだ瞬間の光景が焼き付いた床全体に走ったひび割れの 中心を辿ると、一際大きな抉れの底には干涸らびた骨片が一つ二つ落ちていた。

「う」

 思わず、山吹は後退った。決して思い出さないようにしているが、現場に来てしまえば記憶の蓋が開いてしまう。

「大丈夫、問題はない」

 秋葉は両手で山吹の手を包み込み、体を寄せてきた。彼女の体重を受けて軋んだ関節の音と優しい声で、山吹は 動揺と混乱に引き摺り込まれかけた心中の平静を保ち、深呼吸の代わりに吸排気し、脳の酸素量を増やした。
 九年前、山吹はこの場で小松建造に殺された。その頃、山吹は高校を中退して陸上自衛隊に入隊して日々訓練に 勤しんでいたが、たまの休みのたびに地元に帰って秋葉と会っていた。中学二年生になっていた秋葉は以前にも 増して美しくなっていて、大人になろうと懸命に背伸びをしていた。五歳も歳が離れていたが、山吹の家族も秋葉の 家族も仲良くなっていたので、反対されるどころか微笑ましく見守られていた。どちらも幼いなりに順調な交際に陰りが あるとすれば、山吹が高校三年生の時にほんの少しだけ付き合ったクラスメイト、宮本都子の行方だった。
 山吹に交際を申し込んできたのは、都子からだった。騒々しい男子のグループの一員であった山吹と、大人しい 女子のグループでも浮きがちな都子との接点はまるでなかった。クラスが同じでも話したことはほとんどなく、部活も 被っていなかったので、最初はありがちな悪趣味な罰ゲームかと思った。だが、都子があまりにも真剣だったので、 蔑ろに出来ずに事情を聞いた。すると都子は、後輩の男子生徒から好意を寄せられているが、大学受験を控えて いるので、その男子生徒に諦めてもらうために付き合っているような格好をしてほしいと言ってきた。だったら、直接 言えばいいじゃないかと山吹は言ったが、都子は首を横に振った。その顔には、決意と決別が漲っていた。
 その後、山吹と都子は二三ヶ月ほど行動を共にした。その間、山吹は何度となく秋葉のことを話した。ロリコンだと 馬鹿にされるかと思ったが、都子は山吹の話を真摯に聞いてくれた。会話を重ねるうちに、都子は誠実だが心根が 弱いのだと解った。だから、これまでにも何度も後輩の男子生徒には交際を断ったのだが、男子生徒はどうしても 都子を諦めてくれなかった。そんな状態で付き合ったとしても、どちらにとっても良くないことになる。山吹と上辺だけの 付き合いをするのも良くないし、秋葉に悪いことだと解っているが、それ以外に良い手段が思い浮かばないのだと 言った。これ以上男子生徒を傷付けたくはないし、自分も傷付くのは嫌だ、とも。
 それから一週間も経たないうちに、都子は突然失踪した。都子を好いていた二年生の男子生徒、小松建造も高校を 中退して実家の建設会社に就職した。二人は駆け落ちをしたという噂が校内に飛び交い、都子と付き合っていた ことになっていた山吹は根も葉もない噂を言いふらされた。それ自体は気にならなかったが、都子の思い詰めた 表情と小松建造の心中を思うと居たたまれなくなり、実質的に秋葉を裏切ってしまったことにも気付かされた山吹は、 二人を追うかのように高校を中退して自衛隊に入隊した。
 自衛隊に入るまでの経緯を包み隠さず話すと、秋葉は山吹を許してくれた。いつも通りに控えめな笑顔を浮かべ、 手を差し伸べてくれた。だから、山吹は二人のことを一生忘れずにいようと、罪の意識を心の隅に焼き付け、秋葉と 一緒に生きていこうと決めた。それが贖罪になるのだと、安易に信じていたからだ。
 そして、秋葉に結婚を申し込むと決めてデートに誘い、向かった先がメテオだった。だが、どこで何を知ったのか 解らないが、人型多脚重機の基盤に脳髄が癒着した小松建造が現れた。小松は無造作に六本足で大量の人間を 踏み潰し、殺し、天井をぶち抜いて二階に這い上がり、秋葉の目の前で山吹の胸から下を踏み潰した。
 世間的には、メテオが半壊したのはガス漏れと同時に発生した漏電による爆発事故が原因とされているし、山吹 がサイボーグ化した理由もそうだとされているが、真実は血生臭いものだ。

「むーちゃんは、しんどくないっすか?」

 錆び付いたベンチに腰を下ろし、山吹は自分自身の血溜まりを見つめた。 

「辛い。けれど、向き合わなければ始まらない」

 秋葉は砂埃を払ってから、山吹の隣に座った。あの日も、こうやって揃ってベンチに座っていた。買ったばかりの 服を袋から取り出して眺めてみたり、他愛もない話をしたりと、満ち足りた時間を過ごしていた。山吹のバッグの中 には、なけなしの給料で買った小さな小さな宝石が付いたネックレスが入っていた。指輪のサイズが解らないから、 ネックレスなら無難だと思ったからだ。喜んでくれるかどうかは解らないし、話が早すぎると言われるかもしれないと 思ったが、言わずにはいられなかった。それほどまでに、秋葉が好きだったからだ。
 小松建造については、今もあまり知らずにいる。変異体隔離特区の現場監督官という立場上、変異体管理局 が掻き集めた様々な情報は既知だが、小松建造の人格が浮き彫りになるような情報には敢えて手を付けなかった。 だから、どんな顔をして、どんな生活を送って、どんな思いを抱いて生きていた男なのか、解らない。解りたくない。 共感出来る部分を見つけてしまえば、信念が折れてしまいそうだからだ。

「乙型一号の時はちょっとぐらっと来たけど、やっぱりミュータントってそういうものなんすよね」

 山吹が呟くと、秋葉は山吹の肩にもたれてきた。

「彼らは人間ではない。故に、私達を人間として認識していない。だから、人間だと思うべきではない」

「そうっすよね。現実に、連中を野放しにしているから被害が出ているわけっすし」

 山吹は秋葉を後ろから抱きかかえ、その頭の上に顎を載せた。

「だけど、むーちゃんは、俺と一緒にいて幸せなんすか? 本当は司書になりたかったのに、俺を追っかけるために 進路をかなり変えちゃって、色んな国家資格も取って、難しい試験を何度も受けて俺の補佐になんて……」

「幸せ」

 秋葉は山吹の腕に自分の腕を絡め、ほんのりと頬を染めた。

「丈二君の傍にいられれば、それだけでいい。だから、頑張った」

「ありがとう、むーちゃん」

 山吹が秋葉の髪にマスクを寄せると、秋葉はくすぐったげに笑みを零した。腕に力を込めて抱き寄せると、華奢な 腰が山吹の下腹部に接した。香水の匂いがしているはずだろう、整髪料の匂いもしているだろう、秋葉自身の甘く 愛おしい匂いがしているだろう。だが、今の山吹には嗅覚らしいものはなく、過去の経験と想像で補うしかない。

「この前、ケガしたところ、痛くないっすか?」

 山吹は秋葉の前髪を分けて額に触れると、秋葉はとろりと目を細めた。

「平気。もう、治った」

「だったら、いいんすけど。でも、あんまり無茶しちゃダメっすよ。大事な体なんすから」

「うん」

 秋葉は頷き、山吹の手を下へと導いた。一瞬、山吹は躊躇ったが、秋葉にされるがままにした。硬い手は額から 薄い布地が膨らんだ胸元に至り、大人になっても今一つ成長しなかった柔らかな部分に重ねられた。

「解る?」

 山吹の胸に寄り掛かってきた秋葉は上目に見上げてきたので、山吹は背を丸めて顔を寄せた。

「そりゃあもう」

 硬い指と手のひらには、本当ならば秋葉の胸の柔らかさと鼓動の速さが染み込んでいただろう。今、感じるものが あるとするなら、それは単なる錯覚だ。だが、それでもいいとも思った。秋葉の温もりが解るのなら、思い込みだろうが 妄想だろうが構わない。秋葉のグロスで潤った唇にマスクを重ねた山吹に、秋葉は首に腕を回してきた。

「もっと、してもいい」

 潤んだ瞳を瞬かせ、秋葉は身を乗り出してきた。

「丈二君がしたいだけ、してもいい」

「嬉しいっすけど、さすがにここじゃダメっすよ。俺はともかく、むーちゃんには危ないっす」

 山吹は秋葉を膝の上に座らせ、向き合った。秋葉は物足りなさそうに唇を噛んだが、すぐさまのし掛かってマスクを 塞ぎに掛かってきた。本物の唇を愛でるように舌を這わせて吸ってから、秋葉は山吹の頭を抱きかかえた。

「好き」

 外気の熱さに浮かされたように囁いた秋葉は、山吹の脳を覆う強化外骨格に頬を寄せた。

「だから、私は丈二君のためならどんなことも出来る。小松建造も倒してみせる。訓練も、勉強もする。今よりずっと 強くなる。どんなミュータントだろうと、退けてみせる」

「それこそ、俺の仕事っすよ」

 山吹は秋葉の胸から顔を上げるが、秋葉の表情は強張っていた。山吹の頭部を掴む手は震えるほど力が入り、 眼差しは遠くを見据えていた。控えめにマスカラを付けた睫毛の端には雫が膨らんでいたが、涙を零すまいと瞬き を懸命に堪えていた。山吹は掛ける言葉を見失い、秋葉の背を抱き寄せるだけに止まった。
 あの初夏の日。山吹は体を潰されたが、秋葉は心を潰されたのだろう。だから、こんなにも山吹を愛して、自分の 心を支えようとしている。それがいつまでも持つわけがないことなど、秋葉も解っている。だから、肉体的にも精神的 にも強くなろうと、変異体管理局に入り、日々仕事を詰め込み、合間に戦闘訓練を受ける一方で、国家資格試験 にも余念がない。秋葉は有能であり器用だが、人間だ。抱き締めた手応えは以前よりも硬くなっていて、骨張って いるようだった。力一杯抱き締めてやると張り詰めていたものが緩んだのか、秋葉は山吹の肩に額を当て、声を 殺して泣き出した。背中に爪を立ててくる仕草は、子供の頃とまるで変わらなかった。
 何が何でも、守りたくなる。




 それから、二人は遊び倒した。
 都心に出来た新しいショッピングモール、完成したばかりの巨大な電波塔、イベントの真っ最中のテレビ局、など、 目に付く場所を手当たり次第に見て回った。二人とも海上基地暮らしなので、家賃や生活費分の給料が浮いている おかげで軍資金には困らず、物欲も食欲も大いに満たした。その結果、ジープラングラーの後部座席には、秋葉の 買った服やバッグやお土産と山吹が買い漁ったフィギュアやDVDや漫画の山が出来上がっていた。
 愛車の助手席に収まる秋葉は、ゆっくりと缶ジュースを飲んでいる。山吹は運転席の窓から海上基地をゴーグルに 映し、全開にした窓から腕を垂らしていた。毎日働いている場所を外から見るのは、少し不思議な気分になる。

「ん……」

 ジュースを飲み終えた缶をホルダーに入れ、秋葉は山吹に向いた。

「この後、どうする?」

「そりゃ、帰るしかないっすよ。明日の朝も早いっすし、まあ、でも、なんか、その、うんと」

 山吹が口籠もると、秋葉は赤面して俯いた。

「丈二君が平気なら、部屋に……行く」

「まあ、そりゃ、俺んとこはルームメイトが出張しっぱなしっすから、遠慮する必要なんてどっこにもないっすけど」

 秋葉の西日を浴びた横顔を窺い、山吹は年甲斐もなく照れた。そして、自分に腹立たしくなった。生身の頃に 彼女を味わっておきたかった、と、いつもの後悔が脳裏に過ぎった。好きだと思うなら、尚更大事にしてやるべきなのに、 秋葉と一緒に国防の最前線を担えることを喜んでしまう。結婚して家庭だけを守ってくれ、と言いたいのに、どうしても 言えなかった。秋葉の心身の安全よりも自分の心の平穏に重きを置くあまり、変異体管理局を辞めてほしい、と 切り出せない。胸を張って守り通せる自信がないから、秋葉の危うい強さに頼ってしまう。
 強くならなければ。





 


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