ひび割れた世界は、白に染まっていた。 天井と床から伸びた恐ろしく太いワイヤーが両腕と六本足を縛り付け、タンクからガソリンは一滴残らず抜かれ、 イグニッションキーは奪われ、バッテリーの電圧も低下しつつある。辛うじて生命維持が出来ているのは、人工体液 の血糖値が下がりきっていないからだろう。ぎぢり、とワイヤーと歪んだ外装を擦り合わせながら、小松は破損した 頭部をゆっくりと回転させて現状把握に努めた。白い箱の中にはスポットライトが注がれ、巨大な昆虫標本のような 小松の姿を浮かび上がらせていた。鉄格子はなく、小松を搬入したハッチとその左隅のドアがあるが、どちらも電子 ロックで施錠されている。白以外の色のない壁一面に分厚い緩衝剤が敷き詰められているが、単純に対ショック用に 作ったわけではないだろう。恐らく、ミュータントの自殺防止のための設備だ。箱の奥にはカーテンで仕切られた 空間があり、お粗末な水洗トイレと洗面所が据え付けられていた。 ドアが開いたのでメインカメラを向けると、紀乃が入ってきた。険しい面差しの彼女は、それまで着ていたスポーツ キャップと半袖ジャージとハーフパンツとスニーカーを全て脱がされていて、入院着のような薄っぺらい衣服を一枚 だけ着せられており、手錠を掛けられていた。ドアが施錠されると手錠の鎖が外れたが、手錠の本体は細い手首を 戒め続けていた。紀乃はぺたぺたと裸足で歩いてくると、小松を見上げ、少しばかり表情を緩めた。 「小松さん、大丈夫?」 「なんとか。だが、血糖値が足りない」 小松が切れ切れの音声を出すと、紀乃は小松の足に手を掛けた。 「それなら大丈夫だよ。もう少ししたら食事が支給されるって話だから、ちゃんと食べさせてあげるね」 「すまんな」 「お互い様だよ。捕まっちゃったのは、私がドジったからだもん」 服の裾からはみ出す太股を気にしながら、紀乃は小松の破損が少ない足を伝って上ってきた。山吹機の攻撃で 外装が派手に裂けている箇所もあったが、紀乃はそれを上手く避けて、ガラスが全て割れてしまった小松の操縦席 まで辿り着いた。紀乃はこれまで通り操縦席に入ろうとしたが、シートにガラスの破片が突き刺さっているのを見て 中に入るのを諦め、その代わりに小松の腹部の土台の部分に腰掛けた。 「お前の方はどうだった」 小松が話し掛けると、紀乃は水気の残る前髪をいじった。 「そりゃもう大変だったよ。捕まった後、自衛官のお姉さんに見張られながらトイレしなきゃならなかったし、この基地に 連行されたらされたで検査検査だし。脳波でしょ、レントゲンでしょ、CRTでしょ、採血されたでしょ、汚染除去だとか 何とか言われて薬臭いシャワーを浴びせられたでしょ、あと、なんでか解らないけどお腹のエコーも取られたし。 身ぐるみ剥がされちゃったから、勾玉のペンダントも取られちゃった。あれ、可愛いから気に入っていたのになぁ。 で、代わりにこんなのもらっちゃった」 紀乃はいかついブレスレットのような手錠が付いた両手首を上げ、肩を竦めた。 「ただの手錠じゃないんだって。特殊な電磁波が出ているから、生体電流を混乱させて超能力が使えないようにして あるんだって。変なモノ作っちゃって、税金の無駄だよね」 「効果は」 「すっごい覿面。そんなの嘘だろって思ってやってみたけど、何も動かせなかった。科学って凄いね。で、この部屋は 海底百五十メートルに造られた隔離施設で、階層ごとに厚さ五メートルの鉄筋コンクリート製の隔壁があって、どの 階にも精鋭部隊から選抜した戦闘員が配備されているんだって。なんか、待遇良くない?」 「さしずめ、ロイヤルスイートだな」 小松は半笑いになった。紀乃の超能力が使えれば脱出のチャンスがあるのでは、とは思ったが、変異体管理局が 紀乃の超能力を放っておくわけがない。紀乃は小松に寄り掛かり、手錠の付いた手首を足の間に下げた。 「ねえ、小松さん」 「なんだ」 「どうせ暇なんだから、あの話、してよ」 「俺の話か」 「そう。小松さんがなんでそんな体になっちゃったのか、どうして山吹って人を恨んでいるのかって話」 「面白くはないぞ」 「でも、退屈じゃん?」 「道理だ」 紀乃の重みを感じながら、小松はバッテリーの電圧を緩めに脳に回した。基盤の回路と癒着しているおかげか、 電流でも多少はエネルギーを摂取出来るようになっていた。強すぎると脳細胞が損傷するので力加減が難しいが、 血糖値が下がりつつある今は仕方ない。この部屋から脱出する術を思い付くまでは、多少なりとも時間が必要だ。 気持ちを整理するためにも、紀乃を相手に昔話をしてみるのも悪くない。 宮本都子との思い出を。 小松建造は、あきる野市内の建設会社社長の長男として生まれた。 だから、名前も安直だった。土建屋の息子らしすぎて、字面を見ただけで親の職業が解ってしまうので、子供の頃 はそれが鬱陶しかった。けれど、いちいち言い返さなければ相手にする煩わしさが半減するのだと気付いてから、 何を言われても無視することに決めた。その結果、小松は寡黙な子供として育ち、感情表現が下手になっていた。 両親は会社経営に忙しく、大人しくて聞き分けがよい小松のことを放っておくようになった。おかげで、小松は一人 遊びが上手くなり、廃材や木切れを組み合わせて家のような物体を作るようになった。両親に代わって相手をして くれた社員達の影響で建築に興味を持つようになると、図面を引く真似事も始めた。だから、小松は会社の跡取り になってくれると両親は手放しで喜び、小松も自分は家を継ぐのだと漠然とした思いを抱いていた。 その日も、小松は一人で遊んでいた。木切れを釘で打ち付けて繋ぎ合わせ、四角形の骨組みを組み立てていた。 友達も少なかったので遊びに誘われることもなく、一人でテレビゲームをするのも性に合わなかったので、作業場で 黙々と釘を打ち付けていた。これが終われば、次は板を張り、壁を作ろうと考えていた。 「それ、イヌ小屋?」 唐突に声を掛けられ、小松は釘を打ち付ける手を止めた。作業場の開け放ったシャッターの向こうには、近所に 住む従姉が立っていた。小松は相手にするのが煩わしかったので答えずにいようとしたが、従姉は作業場に入り、 小松の手元を覗き込んできた。小松はやりづらくなって顔を背けるが、従姉はじっと見つめてくる。 「ねえ、建ちゃん。イヌ小屋でしょ?」 「……違う」 小松は絞り出すように声を出し、やり過ごそうとした。だが、従姉は小松から目を離そうとしなかった。 「じゃあ、何? まさか人形の家ってことはないよね、男の子なんだし」 「違う」 「じゃ、何のために作っているの? 教えてくれたっていいじゃない」 「別に、なんでもない」 「そんなの、答えになってないよ」 従姉は積み上げられている材木に腰を下ろし、スカートから伸びた足を組んだ。 「建ちゃんっていつもそう。何考えてんだか、さっぱり解らない」 従姉は快活な瞳で、作業場の薄暗い影を背負う小松を見据えた。母親の妹の長女である宮本都子は、小松よりも 一つ年上の小学六年生だった。利発そうな整った顔付きに良く通る声を持ち、丸みがつき始めた体は女の気配が 垣間見えていた。だが、小松にとってはそれが異様だった。薄黄の肌に黒髪に焦げ茶色の瞳がある、瑞々しい 生き物としか映らなかった。宮本都子は、小松の知る人間とは大きく懸け離れていた。 小松の目に映る人間は、皆、機械だった。金属製の冷たい外装を被り、エンジンと歯車で動き回るのが人間だと 認識していた。だから、道路を走る車も工事をする車両も空を飛ぶ飛行機も、皆、生き物なのだと認識していたし、 イヌやネコや鳥や虫も機械仕掛けだった。自分自身もそう見えていたし、食卓に並ぶものは味は違えども全部 材料は石油や石炭なのだと思っていた。車が食べるものだから、自分が食べるものも同じだと信じていたからだ。 それがおかしいと感じたことなどなかったし、世界は機械で出来ているのが常識だった。だから、宮本都子だけが、 小松の世界の中では異常極まる存在だった。 「ねえ、建ちゃん」 馴れ馴れしく話し掛けた都子は、小松に近付いてきた。 「お願いがあるんだけど」 「……何」 小松は気持ち悪い生き物の都子から懸命に目を逸らしながら、板を置いて角を合わせた。 「夏休みの工作、手伝ってくれないかな。建ちゃん、器用だから得意でしょ?」 「器用じゃない。作れる範囲で作っているだけだから」 「このままだと全然間に合わないんだもん。その代わり、建ちゃんの宿題見てあげるからさぁ」 「その必要はない。とっくに全部終わっている」 「えぇー、そんなの有り得なくない?」 「有り得ている。証拠なら、俺の部屋にある」 「じゃ、何したらいい?」 「手伝わない。だから、何もしなくてもいい」 これ以上都子に付きまとわれたら迷惑だし、何より気持ち悪い。小松は今日中に板を打ち付けるのを諦め、工具を 片付けて家に戻る支度を始めた。視界の端に映る都子は余程残念なのか、項垂れていた。 「……じゃあ、とっておき」 都子はスカートの裾を掴み、少し引き上げた。 「パンツ見せてあげる」 「いらない」 「えぇ、即答!? 男子なのに、その方が有り得なくない!」 都子は子供なりに女のプライドが傷付いたのか、スカートの裾を押さえてむくれた。 「でも、本当に困ってるの。だから、建ちゃん、お願いだから手伝って」 「俺に頼んでいる暇があったら、その時間で工作をすればいい。それだけのことだ」 「意地悪」 「俺は正しいことを言っているだけだ」 「それが意地悪だっての」 都子は木材の上から降りると、小松の後ろを歩いて作業場から出ていった。 「じゃあね、建ちゃん! また来るからね!」 「来なくていい。手伝わないからだ」 「そこまで言うんだったら、絶対手伝わせてやる!」 都子は捨てゼリフを残し、走り去っていった。小松はその背を見送ることもせず、片付けかけた工具を取り出して 板を打ち付けた。都子が何を作ろうとしているのかは知らないが、手伝ったら最後、次も手伝えと言われてしまう。 それが嫌だから、頑なに断っているのだ。一度でも馴れ合ってしまえば、水っぽい生き物はべたべたと付きまとって くる。そんなことをしては小松の外装が錆びてしまうかもしれないし、故障の原因にもなりかねない。 十数分後、都子が戻ってきた。自転車のカゴに詰め込んだ木材をがしゃがしゃ言わせながら作業場に突っ込んで くると、小松の真横でブレーキを掛けて止まった。荒い息を繰り返しながら汗を拭った都子は、細い木材を小松の 前にぞんざいに放り出してから、画用紙を広げて突き付けてきた。 「これ! 作りたいの!」 「無理」 「だから即答しないでよ、ろくに見もしないくせに」 「見ているから、無理だと判断した。これだけじゃ、ただの骨組みしか出来ない」 小松は都子が放り出した細い木材と、都子が描いたスケッチを見比べた。絵はそれなりに上手く描かれていて、 海を見下ろす崖の上に立っているログハウスだった。だが、それに近い模型を作るにしても、根本的な部分が成り 立っていない。都子が小松の前に放り出した木材は長さも半端で、スケッチのようなログハウスに欠かせない丸い 木材は一本も含まれていなかった。都子はスケッチを折り畳んでポケットに入れ、小松の前に屈んだ。 「そうなの?」 「そうだ。材料があれば、出来ないこともない」 「じゃ、何があればいいの?」 「丸い木材、屋根と床板、塗料、接着剤」 「それ、お小遣いで買えるかな」 「知らない」 「だったら、教えてくれたらいいじゃない!」 都子はぐいっと小松の腕を引っ張ると、駆け出した。自転車を使わないのかな、と小松は言いかけたが、都子は 思いの外足が速く、力も強かった。四角い箱のような作業場から夏の日差しの下に引っ張り出されると、都子の汗 の粒が輝いた。それが鬱陶しさを掻き立て、小松の腕を掴む手のぬるつきに嫌悪感が込み上がってきたが、逆らう のが面倒になってきたし、これ以上邪険にして泣かれたら困るから、そのままにしておいた。 都子に連れられてホームセンターに行った小松は、都子の要求と資金に見合った材料を調達した。ログハウスでは ないが、以前に家の模型を作ったことがあったので、大体のことは解っていた。都子は園芸用のレンガを手にして、 本当は暖炉も作りたいのだと言った。大人になってお金を貯めて、海の見える土地を買って本物のログハウスを 作るから、暖炉を設置する夢はその時まで持ち越すのだ、とも。機械だらけの世界に住む小松には塩気と水気は 大敵だが、都子のような水っぽい生き物が住むには丁度良いと思ったので、いいんじゃないの、といい加減に肯定 した。都子はそれを同意だと取ったらしく、その時はよろしくね、と笑顔を向けてきた。 訳もなく恥ずかしくなった。 10 8/13 |