南海インベーダーズ




重機男的復讐譚



 その日から、都子との距離が急速に縮まった。
 それまでは、都子は幼馴染みの延長でしかなかった。親同士の仲が良いのでクラスメイトよりはほんの少し親しみは あるが、外見の気持ち悪さもあってなんとなく近寄りがたかったし、都子も小松とは距離を置いているようだった。 それが、買い出しまで付き合ったからには手助けしてやらなければならない、と妙な義務感に駆られた小松が都子の 夏休みの工作を手伝ってやったことで溝が埋まったと認識されたらしく、夏休み明けから登校時に小松の迎えに 来るようになった。もちろん、最初は小松も嫌だったし、クラスメイトにからかわれもしたが、一週間も過ぎると都子 に対してそれなりの親しみを覚えるようになった。気持ち悪さは相変わらずだったが。
 小松の両親の忙しさは相変わらずで、出張も多かった。その間、小松は祖父母の家に預けられていたが、祖母の 体調が悪化したため、近所の宮本家に預けられるようになった。移動距離も減るし、小学校への通学も楽なので、 小松にとってもいいことだった。都子と一緒に過ごせるのが単純に嬉しいとも思っていた。
 機械油臭い食事を終えて風呂に入ると、小松の布団は都子の部屋に敷かれていた。子供部屋には都子の弟もいる ので特に疑問は持たなかったが、場所が少し問題だった。小松の布団は都子の傍にぴったりと寄せられていて、 隙間を埋めてあったからだ。部屋の広さのせいか、とも思ったが、都子の弟の布団と都子の布団の間は数センチ の隙間があった。小松は首を傾げつつ、都子と自分の布団を離そうとした。

「建ちゃん、何してんの?」

 子供部屋のドアが開き、タオルを被った都子が入ってきた。

「近い」

 小松は自分の布団を壁際まで押しやると、都子はむっとして自分の布団を小松の布団に押してきた。

「そんなことないよ!」

「だったら、あっちはどうなんだ」

 小松がどちらの布団からもかなり離れてしまった弟の布団を指すと、都子は布団を叩いた。

「あっちはいいの! こっちが問題なんだから!」

「どういう問題なんだ」

「ど、どうって……」

 都子は湿り気を帯びたタオルで髪を乱してから、風呂で薄く上気した頬を隠した。

「どうでもいいじゃない、そんなこと」

「よく解らない」

 小松は都子の反応に戸惑い、目線の置き場に迷った。普段着姿の都子なら見慣れているのだが、パジャマ姿の 都子を見るのは初めてだった。いつもスカートを履いているが、慣れ親しみすぎたせいで女の子らしさを感じる機会は なかった。従姉なので兄弟の延長のような感覚のせいもあったが、生温くて気持ち悪い生き物に異性を意識する わけがない、との先入観もあったからだ。湯上がりの都子は可愛らしいピンクのパジャマを着ていて、開いた襟元 から覗く首筋には汗が浮いていた。それは、あの夏の日、作業場から引っ張り出された時に見た汗とは似て非なる もので、産毛が光っていた。リンスの匂いに混じって、メインエンジンの辺りを握り潰す匂いが漂ってきた。

「建ちゃん」

 都子はタオルを頭から外し、首筋の汗を拭ってから、小松に近付いてきた。

「何」

 小松は反射的に腰を浮かせて身を引くと、都子は残念そうに眉を下げた。

「なんでもない」

 都子はタオルを掴んで立ち上がり、髪を乾かしてくる、と言って子供部屋から出ていった。小松は浮かせかけた腰を 下ろして、いつになく長く排気を行った。都子が出ていっても、都子の肌から立ち上った生温い温度と変な甘みが ある匂いは消えずに残っていて、また訳もなく恥ずかしくなった。エンジンの回転数が上がっただけではなく、下半身が むず痒くなり、意味もなく座り直して原因不明の異変を誤魔化そうとした。
 そのせいで、その夜は寝付きが悪かった。




 中学校に進学してからは、都子との関係は少し変わった。
 制服姿の都子はやけに眩しく、金属的な光沢を持たない肌なのに艶々していた。髪も伸ばし始めていて、手入れを しているからか胸の奥をざわめかせる匂いがした。登校する時も一緒で、部活は違ったが一緒に下校出来る時 は連れ立って帰った。離れているのは互いの家に帰った時と授業中ぐらいなもので、都子は少しでも暇があれば何が なんでも小松の傍にいようとした。それが煩わしい瞬間もないわけではなかったが、素直に嬉しい気持ちの方が 大きく、都子の姿が視界に入っていないと落ち着かないようになっていた。
 小松が二年生になり、都子が三年生になると、都子はただの幼馴染みではなくなっていた。気持ち悪い生き物で ある事実に変わりはなかったが、その気持ち悪さとぐにゃぐにゃしている感じも含めて都子だと思えるようになって、 都子から触れられることも、都子に触れることにも躊躇いを持たないようになっていた。世の中は機械だけで出来て いるが、機械でないものがあっても悪いわけではない。ただ、それだけのことなのだと。
 十五歳の誕生日を過ぎて、都子はぐっと女らしくなった。小松が知る女という生き物は都子以外にはいないので、 その表現は不確かだが、十四歳の頃の小松はそういうふうに認識していた。伸ばしていた髪を結ばずに広げるように なり、薄かった胸元の膨らみは制服の布地を丸く押し上げるようになり、プリーツスカートに隠されている太股は 脂肪の厚みを持つようになった。健康的に筋肉が付いた脹ら脛を覆うハイソックスの白さが、今も尚、小松の目に 焼き付いている。西日を浴びて歩く都子は映画のワンシーンのように出来すぎていて、美しすぎた。
 その日、小松は技術家庭で作ったものを袋に入れて下校していた。鉄板を加工する授業でなんとなく作ってみた 風見鶏だが、飾る当てなどなかった。どうせ、部屋の押し入れの肥やしになるだけだが、中学校のロッカーに置いて おいても邪魔になるだけだったので持ち帰ることにした。都子は少し前を歩いていて、真っ直ぐなロングヘアが歩調に 合わせて靡いていた。車道を通る車が巻き上げる風で髪が乱されると、都子は慣れた仕草で髪を掻き上げ、耳に 乗せた。小松は彼女の細い指先から目を離せなかったが、妙に気まずくなってしまった。悪いことをしているわけ ではないのだが、腹の内がざわめいた。横断歩道に差し掛かり、都子は足を止めた。

「建ちゃん」

 このまま真っ直ぐ行けば小松と都子の自宅があるのだが、都子は横断歩道には足を向けなかった。

「今日は、こっちに行こう」

「どうしてだ」

 小松は問うが、都子は小松の手を取って歩き出した。

「何も言わないで。一緒に来てほしいの」

 秋風で少し冷えた指先が、小松の硬い手首を掴んだ。その感触に小松は背筋が逆立つような感覚に襲われて、 されるがままになった。歩調を早めた都子は横断歩道を渡らずに歩道を真っ直ぐ歩き、住宅地から外れていった。 市街地からも遠のき、そのうちに道に勾配が付くようになった。日常的に目にしてはいるが滅多に近付くことのない 山道に入り、いくつかのカーブを越えた頃には、二人の影は長く濃くなっていた。
 一方通行の山道は車の一台も通らず、時折吹き付ける冷たい風が植林された杉をざわめかせていた。鳥の声が ぎいぎいと聞こえ、俯いた都子の横顔は影が厚すぎて表情が読み取れなかった。小松の手首を握り締める手には かなり力が込められていたのか、小松の手首には鈍い痛みが残った。手汗が滲んでべとつく手を小松の手首から 外した都子は、小松に背を向けたまま、通学カバンの取っ手を両手で握り締めた。

「建ちゃん」

 都子の声は上擦り、切なげに震えていた。

「私、私ね……」

 かち、と通学カバンの金具が小さく鳴り、キーホルダーが揺れた。

「もう、どうしたらいいのか解らないの。自分じゃどうにも出来ないの。だけど、どうにかしなきゃいけないって思うし、 頭の中じゃもう一人の私がどうにかしろって言うの。でも、でも、でも……」

 都子は誰かに縋るように通学カバンを抱き寄せ、肩を怒らせた。

「何があったんだ」

 小松が都子の背に近付くと、都子は片手で顔を覆った。

「言いたいけど、全部は言えない。だって、私、建ちゃんじゃなきゃ嫌だもん。だけど、そうしろって……」

「だから、何がだ」

 小松が都子の肩に手を置こうとすると、都子は小松に触れられるのを避けるように身を反転させた。

「触らないで! 私には建ちゃんに触ってもらう資格なんてない!」

「だから、どうしたんだ、都子」

 何が何だか解らないが、良くないことが起きているのだろう。小松が戸惑うと、都子は膝を笑わせた。

「誰にも言わないって約束してくれる? お父さんにお母さんにも、伯父さんにも伯母さんにも、うちの弟にも、友達にも、 他の誰にも言わないって約束して? でないと、私、二度と建ちゃんに会えなくなるかもしれない」

「する」

「本当だよ? 本当に本当の本当で本当が本当なんだからね?」

 錯乱気味の都子は同じ言葉を何度も繰り返し、潤んだ目を見開き、よろけるように小松に近付いてきた。

「する」

 小松が頷くと、都子は小松の腕を痛むほど掴んできた。

「私ね、し、知らない人の、子供、産まなきゃならないの」

「……誰のだ」

「だ、だから、知らない人! 全っ然知らない人! お、お母さんが、ホンケのゴゼンサマだって言ってたけど、私、 そんな人なんて知らない! 知っていたって、嫌! 建ちゃんじゃなきゃ嫌! 嫌、嫌、嫌ぁあああっ!」

 都子は崩れ落ち、小松の胸にもたれかかってきた。

「こ、子供さえ産めば、後はどうだっていいって、お、お母さんが言ってた。だ、だ、だけど、そんなの変だよ、変だよ、 変すぎるよ。だって、私、十五歳になったばっかりだよ、学校だって出てないよ、それなのに、子供なんて……」

「無理だ。体が出来上がっていない」

「そうだよ、建ちゃんだってそう思うでしょ!?」

 都子はぼたぼたと涙を落としながら、震える唇を歪めて笑顔のような表情を強引に作った。

「建ちゃんは、私のこと、好き?」

 好きだ、と言えれば良かったのだろうが、小松は都子が並べ立てた言葉に気圧されて頭が働かなかった。子供を 作る、ということは、都子のぐにゃぐにゃした体が見ず知らずの誰かに開かれると言うことだ。ホンケのゴゼンサマが どんな輩かは知らないが、大人になりかけの中学生に手を付けるのだから、ろくな人間ではないだろう。しかも、こんなに 怯えている都子を手込めにするつもりでいる。だが、都子に味方はいない。一番頼るべき母親がその無茶苦茶な 話を推し進めているようだし、父親の名が出てこないのも暗黙の了解があるからだろう。かといって、小松に都子を 守れる力はない。守れるものなら守ってやりたいが、ただの中学生に出来ることはない。

「……嫌い?」

 小松が長らく黙り込んでいたため、都子は否定と受け取ったようだった。

「そっか、うん、そうだよね、私なんて建ちゃんには似合わないもんね」

 小松の制服に食い込ませていた爪を緩めた都子は、袖で涙を拭い、笑顔を作ろうとしたが情けなく崩れた。

「ごめんね、変なこと、言っちゃって。こんなところまで連れてきちゃったけど、気を付けて帰ってね」

 決壊しかけている感情を押さえながら身を起こした都子は、踵を返し、歩き出した。

「また、明日ね」

 嗚咽を押し殺しながら、都子は林に挟まれた山道を下っていった。ローファーの靴底が力なくアスファルトに擦れ、 彼女が歩いた後には涙の小さな雫がいくつも落ちていた。小松は何か言うべきだと解っていたのだが、どんな言葉を 掛ければ都子が泣き止むのか解らなかった。これまで、都子はケガをして泣いたことはあっても、小松の前では いつでも明るく振る舞っていた。その都子が苦しんでいるのに、手を差し伸べるどころか突き放してしまった。今、何も せずに帰してしまえば一生後悔する。だが、何が出来るというのだろう。いつのまにか手の力が抜けていたのか、 小松の手から紙袋が滑り落ちて転がった。がらぁん、と硬い金属音が鳴り響くと、都子は反射的に振り返った。

「都子」

 小松は紙袋からはみ出したいびつな風見鶏を拾い、差し出した。

「なあに、建ちゃん」

 少しだけ落ち着きを取り戻したのか、都子は袖ではなくハンカチで目元を拭った。

「これ」

 小松は都子に近付き、改めて風見鶏を差し出した。

「くれるの?」

 都子は風見鶏に手を差し伸べかけたが、躊躇い、引っ込めた。

「でも、私は……」

「今、受け取れないなら、後で受け取ればいい。埋めてくる」

「どこに?」

「この山の上だ」

「だけど、埋めちゃったら、どこにあるのか解らなくなっちゃうじゃない」

「平気だ。目印を立てておけばいい。都子が必要になったら、掘り出して使う」

 好きだとは言えないが、その代わりの言葉なら。小松は都子を正視するまいか迷いつつ、言った。

「俺は家と会社を継ぐ。だから、いつか必ず、お前が住みたがっていた家を建てる。その時に使う」

「うん。約束ね」

 都子は嬉しさと切なさが混じった笑みを見せ、小指を立てた。小松は腹の底から照れ臭くて頭がどうにかなりそう だったが、都子の笑みを陰らせたくなかったので、自分の小指を都子の小指に絡め合わせた。都子の小指は先程 より温かく、細い骨を包む肉と皮は柔らかかった。繋いでいたのはほんの数秒で、恥ずかしすぎて都子の顔なんて 見られなかったが、都子が喜んでいる気配は伝わってきた。

「じゃあ、また明日ね」

 するりと小指を引き抜いた都子は、頬を赤らめながら手を振った。小松は条件反射で手を振り返し、都子の足音が 聞こえなくなるまでその場に突っ立っていたが、山頂に向かって駆け出した。都子が泣き止んだ、自分が作ったもの のおかげで、将来の約束もした。それは純度の高い燃料よりも余程良く効き、小松はほとんど休まずに山頂まで 駆け上がり、その辺に転がっていた板と細い木材を手持ちの釘で打ち付けて立て札にし、錆びたスコップで地面 を掘り起こし、風見鶏を破れたブルーシートでくるんで埋めて立て札を立てた。そして、帰路も全速力で走った。
 一秒たりとて、立ち止まっていられなかった。





 


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