南海インベーダーズ




湾岸怪獣騒動



 まるで、生きたまま腐ってしまったような気分だ。
 鼻と口に詰まった腐敗液と溶けかけた筋繊維を出来る限り吐き出した秋葉は咳き込みながら、ヘアジェルを満遍 なく塗ったかのような状態の髪を掻き上げた。まずは状況を確認しなければ、と、マスカラが台無しになった睫毛を 擦って粘液を剥ぎ取り、瞼をこじ開けた。視界に入ったのは、秋葉の体格の何倍もの体積があろうかという大きさの ハサミだった。内側にはごつごつとしたイボのようなものが隆起していて、一列に並んでいる。秋葉が収まっている のは、ハサミの内側に出来たシャベルのような窪みの中だった。戦闘服は接着剤を塗りたくられたかのように粘り、 ハサミから引き剥がそうと生地を掴むが、指が滑って上手くいかなかった。ジャングルブーツの踏ん張りも聞かず、 ホルスターの中の拳銃も弾薬が湿って使い物にならないだろう。携帯電話も同様だ。異変に気付いた電影と山吹が 急行しているだろうが、どれだけ持ち堪えられるものか。秋葉は拳銃と共に携帯しているナイフを探りながら、周囲に 目を配らせた。すると、頭上が陰り、あの巨大生物が顔を出してきた。

「……う」

 秋葉は警戒心と嫌悪感を混ぜて頬を歪め、ナイフを取り出そうと指を動かしたが、鞘のスナップが外れなかった。 ねぢねぢと嫌な異音を立てながらハサミが開いていき、秋葉の上に注ぐ日差しが増えると、巨大生物の背後に景色が 見えた。半月状のビル、観覧車、船、高層ビルの数々。横浜みなとみらい付近に上陸したらしい、と察し、秋葉は 鋏脚の中から這い出そうとした。巨大生物は黒く澄んだ複眼で秋葉を見つめていたが、太く長いヒゲを曲げ、秋葉に 向けてきた。突き刺して殺すつもりなのか、口元まで運んで喰うつもりなのか、敵意がないことを示しているつもり なのか。いずれにせよ、秋葉の生死はカニに似た巨大生物の手中にある。機嫌を損ねない方が良いのだろうが、 インベーダーに屈してしまうのは信念に反する。いざとなれば自決するまでだ、と秋葉は腹を括り、ようやくスナップが 外れた鞘からナイフを引き抜き、冷たく輝く切っ先を自身に向けた。それを見た巨大生物は、こちん、と小さく顎を 鳴らし、再びヒゲを秋葉に向けてきた。秋葉はヒゲが近付くほどに刃を自分に近付け、声を張った。

「お前がどのような目的で私を拉致したのかは知り得ないが、私は私の立場を充分理解している」

 アーミーナイフの先端を浅く戦闘服に埋めながら、秋葉は巨大生物を見据えた。

「私を無条件で解放し、変異体管理局に投降せよ。さもなくば、私を人質にして変異体管理局と海上自衛隊と戦闘 を行うがいい。だが、その作戦は無意味だ。お前が私を人質として利用した瞬間、私は自決するからだ」

 こちん、と巨大生物は再度顎を鳴らしたが、どことなく悲しげだった。秋葉は苛立ち、更に声を張る。

「化け物に寄せられる同情など、憎悪よりも穢らわしい!」

 かちこちこち、と巨大生物は顎を鳴らしながら、またもヒゲを曲げてきた。秋葉はそれを避けようとするが、足場が 悪すぎてろくに動けず、ジャングルブーツを取られて背中から転んだ。アーミーナイフは手中から飛び出してハサミ の外に落ち、秋葉はすぐに拾おうと腕を伸ばしたところに巨大生物のヒゲが接した。瞬間、痺れが走った。

「うぁっ!?」

 鋭い痛みが腕から脊髄に至り、脳に届いた。秋葉がうずくまると、どこからか声が聞こえた。

〈怖がらないで。僕だって、あなたを怖がりたくない〉

「だ、誰だ!」

 秋葉は痛みに負けずに言い返すが、声は鼓膜を叩かずに直接脳内に入り込んできた。

〈僕だよ。あなたの目の前にいる、この僕だ。あの島じゃ、紀乃姉ちゃんにガニガニって名前を付けてもらっていた〉

「ガニガニ……?」

 それには聞き覚えがある。以前、忌部が報告してくれた、ミーコが巨大化させたヤシガニの名だ。そして、前回の 奇襲攻撃の際に芙蓉の能力で溶け、地面に吸収されたインベーダーの名でもあるが、秋葉の記憶が正しければ、 ガニガニは普通のヤシガニが巨大化しただけのミュータントであって人型ではないはずだ。

〈お姉さんは、僕のことを知っているの?〉

 ガニガニは飛び出した目の下に生えた触角を曲げ、秋葉に向けてきた。秋葉は警戒心を緩めず、言った。

「私はお前についての情報を取得しているが、それだけだ。友好を持つつもりは毛頭ない」

〈お姉さんは、色々と知っているんだね〉

 ぐい、とガニガニのヒゲが秋葉の腕に食い込むと、あの電流が訪れた。秋葉は歯を食い縛って堪えようとするも、 二度目の電撃は耐え切れなかった。思い返してみれば、先程、ガニガニはヒゲから電撃を放って海面を発光させて いた。何の能力なのか見当も付かないが、生身の人間が対処出来る能力ではないだろう。過電流によってうっすらと 蒸気を昇らせる戦闘服の袖からヒゲを離し、ガニガニは言った。

〈ありがとう、お姉さんの頭の中から色々なことを教えてもらった。おかげで、どう動けばいいのか解ってきた〉

「な、に……?」

 動きの悪い舌で賢明に言葉を発した秋葉に、ガニガニは明瞭に答えた。

〈お姉さんの語彙を借りて喋るけど、僕はどうやら擬態能力と一緒に帯電体質を得たみたいなんだ。僕は芙蓉さんの 能力で溶かされ、死んだと思っていたけど、彼が僕を蘇らせてくれたんだ。だけど、彼が万全じゃなかったから、僕は 不完全な状態で海に出てしまったんだ。そして、幸か不幸か、台風が不完全な僕が入った彼の肉片を東京湾まで 届けてくれた。その後、電影さんと山吹さんから攻撃された時に、僕は反射的に電影さんを取り込んでしまったんだ。 その時に電影さんの姿形の情報を得て、今のような姿が出来上がっちゃったんだ。おまけに、その前に二人が僕に 強烈な電撃を加えてくれたものだから、電流に対する耐性と適応能力も生まれちゃったらしい〉

「では、私との会話の手段には生体電流を利用しているのか」

〈うん、そうだよ。出来ることは解っていたけど加減が解らなかったから、痛い思いをさせたみたいで、ごめんなさい。 でも、おかげで色々なことを知ることが出来た〉

「だが、なぜ、私を選んだんだ。コンタクトを取るだけなら、電影でも山吹一尉でも構わないはず」

〈最初に見た時、お姉さんは普通の人よりも勘が良いって感じたんだ。だから、僕の声も聞こえるかなぁって思って。 だけど、武器を持った人が船に乗っていたし、電影さんと山吹さんは怒っちゃっていたから、ゆっくり話せそうもないから、 ここまで連れてきたんだ。空を飛ぶのは大変だったけど〉

「それは道理だが、判断ミスだ。間もなく、私を救出に護衛艦が到着するだろう。そうなれば、お前は殺される」

〈……それは困るな。だって、僕、また紀乃姉ちゃんに会いたいんだ。そのために、頑張って元の姿に戻ったんだ。 それなのに、殺されちゃったら元も子もないよ。だから、僕は戦う。本当は凄く嫌だけど〉

 ガニガニは鋏脚を大きく開いて秋葉を外に滑り出させると、曲げていた両足を伸ばし、直立した。ようやく外界に 出た秋葉は、ぬるつきに辟易しながら立ち上がると、辺りを見渡した。ガニガニが上陸した地点は、秋葉が見当を 付けた通り、横浜のみなとみらい地区の大桟橋付近だった。赤レンガ倉庫とランドマークタワーが一望出来るが、 緊急発令された避難警報がひっきりなしに鳴り響き、一般市民達が逃げ惑う喧噪が流れてきた。東京湾を望むと、 案の定、護衛艦が最大速度で向かってきている。甲板に立っている電影と山吹機はどちらも姿勢がおかしく、恐らくは 着艦時にバランスを崩して損傷したのだろう。だとすれば、ガニガニと正面切って戦ったところで勝ち目はない。 ガニガニが言う通りに帯電体質を持っているのなら、スタンガンで電撃を加えれば加えるほどガニガニの力は増し、 稼働効率が著しく低下した二機が倒されるのは目に見えている。ならば、頭を使うまでだ。

「ガニガニ」

 秋葉はガニガニのヒゲを握り、複眼を見上げた。

〈ん、なあに?〉

「斎子紀乃と再会したいか」

〈もちろん! だって、僕の大好きなお姉ちゃんだもん! 紀乃姉ちゃんに会えるのなら、僕、なんだってする!〉

「だが、現状ではお前はインベーダーだ。電影と山吹三佐と交戦したら最後、その場で殺処分されるか、捕獲されて 隔離され、二度と外へは出られなくなる」

〈翠姉ちゃんみたいに?〉

「そうだ。だが、乙型生体兵器となることを志願すれば、今後も自立活動を許される可能性がある。場合によっては、 斎子紀乃とも再会出来るだろう。戦闘状況下に限定されているが」

〈紀乃姉ちゃんと、僕が戦うの?〉

「それが嫌なら、死を選べ」

〈僕、死にたくない。でも、紀乃姉ちゃんと戦うのは絶対に嫌だ〉

「ならば、死ね」

 秋葉はガニガニに向き直ると、冷酷に言い切った。我ながら浅はかな取引だが、やらないよりはマシだと思った。 ガニガニが賢いのなら、与太話には乗ってこないだろう。愚かだとすれば、こちらのものだ。秋葉の背後には、船首を 秋葉とガニガニに据えた護衛艦が接近しつつある。波が切り裂かれ、飛沫を散らし、電影と山吹機から射るような 視線を背中に感じる。潮風が顔に貼り付いた粘液を乾かし、秋葉の表情筋の動きを制限していた。緊張感と恐怖心 を押さえ込もうとするあまりに生理的な感覚まで押さえ込んだらしく、最早、臭気は鼻を突かなかった。ガニガニは 秋葉と護衛艦を複眼に捉え、黙り込んだ。ヒゲがだらりと垂れ下がり、両の鋏脚も力なく閉じ、胴体は吸気するたびに 上下している。数十秒余りの間の後、ガニガニは、かちん、と顎を叩き合わせた。

〈解ったよ。僕は、そちら側に付く。でも、お姉さん、これだけは約束してくれないかな〉

「なんだ」

〈もう二度と、忌部島を攻撃しないで〉

「私は一介の局員に過ぎない。よって、その希望を叶えられる立場にはない。だが、尽力しよう」

〈ありがとう! 約束だからね、お姉さん〉

 ガニガニは喜び、両方のヒゲを振り上げた。秋葉はそれに答えずに、護衛艦を出迎えるために歩み出した。着岸 というよりは桟橋に突っ込みかねない勢いで向かってきた護衛艦は、寸でのところで減速し、秋葉とガニガニが待つ 大桟橋に船首をぶつける手前で停止した。その余波でうねった海水が高く持ち上がり、秋葉に襲い掛かってきた。 塩辛く濁った海水が頭からつま先に流れ落ちると、粘り気が少しは取れた。秋葉は汚れきったコンクリートを踏み、 ガニガニの前に立ちはだかりながら、戦闘態勢に入った電影と山吹機に向けて声を張った。

「総員、戦闘態勢解除! これより、乙型生体兵器仮称六号、仮称識別名称・ガニガニの回収に入る!」

「カショーロクゴーって、何なんさー? だぁよりも、アキハーは無事さー?」

 電影は片足を引き摺って身を乗り出し、秋葉を見下ろしてきた。山吹機は拍子抜けし、関節から蒸気を噴いた。

『何すか、その超展開。てか、ガニガニってあのガニガニっすか? 乙型一号のペットの?』

「私に負傷はない。ガニガニは我らに従うと明言した。よって、現時刻より、回収措置と事後処理を開始する」

 秋葉はガニガニを見上げると、ガニガニは秋葉に向けてヒゲを振ってみせた。大人しくしているよ、との意思表示 なのかもしれない。護衛艦に搭乗している自衛官達はざわめき、口々に秋葉の判断についての意見を交わし合い、 変異体管理局の管制室に連絡を取り始めていた。真波から突っぱねられれば秋葉の判断は一蹴されるだろうが、 無駄な戦いを防ぐためには仕方ない措置だ。数分後、艦橋から出てきた艦長と通信士は短く言葉を交わし合うと、 護衛艦を大桟橋に接岸させて回収作業を開始した。真波が秋葉の判断を良しとしたのだろうが、少々意外だった。 だが、これで、電影は元より山吹の命を危険に曝さずに済んだのだ。
 山吹機の胸部装甲が開き、過熱による陽炎を纏いながら山吹が姿を現した。限界近くまで熱した防護服には黒い 焦げ跡がいくつもあり、背面は内装に接していた部分が綺麗に焦げていた。甲板に落下した途端に、山吹の全身 にはホースで真水が掛けられた。焼け石に水を掛けたかのような蒸気が立ち上り、甲板は白い霞に包まれた。潮風が それを晴らすと、山吹は防護服を脱ぎ捨て、過熱の影響でふらつきながらも甲板を踏み切って跳躍し、大桟橋に 飛び移った。無論、秋葉の目の前に。秋葉が敬礼すると山吹も敬礼したが、その手付きは危なっかしかった。

「見事な状況判断です」

「現時刻をもって、任務は終了とします。ご苦労様でした」

 秋葉は山吹に言葉を返したが、今になって襲ってきた恐怖と不安に膝が震え出した。敬礼していた指先までもが 震えて形にならず、秋葉は腰が抜けてその場に座り込んだ。ガニガニが心配げに覗き込んできたが、それに言葉 を返すことも出来ず、せめて嗚咽を押さえようと唇を噛み締めるが無意味だった。山吹の顔を見たから、それまで 保てていた緊張が緩んでしまったのだ。山吹は秋葉の前に膝を付き、余熱の残る手を伸ばしてきた。

「むーちゃん」

 久々に耳にした愛称に、秋葉はとうとう我慢出来なくなって涙を落とした。

「俺、あれから、色々と考えてみたんすよ。むーちゃんがどうして忌部さんも攻撃するって言ったのか」

 山吹の硬い手が秋葉の肩を支えると、水を浴びても逃がし切れなかった機械熱が染み込んできた。

「それが俺達の仕事だからっすよね。忌部さんは悪くないかもしれないし、俺達は忌部さんと一緒に仕事をしてきた けど、忌部さんはやっぱり普通の人間じゃなかったんす。ただ、それだけのことなんすよね。たったそれだけのこと かもしれないけど、それだけのことが物凄く重要なんすよ。だから、俺も腹を決めるっす。忌部さんが相手だろうが、 構わずに戦うって。それと、むーちゃんが宮本都子に何をしたかも、ちゃんと話してもらうっす。どんなことだろうが、 俺は真っ向から受け止めてみせるっす。それが男ってもんすよ」

「……うん」

 秋葉は胸に迫るものを上手く言葉に出来ず、頷くのが精一杯だった。山吹は秋葉の汚れ切った髪に躊躇いもなく マスクを寄せ、柔らかく抱き寄せてくれた。

「良かった、むーちゃんがなんともなくて。ガニガニを仲間に出来るなんて、むーちゃんは本当に凄いっす」

「アキハー、なんくるないさー? ジョージーも、なんくるないさー?」

 甲板から船首を伝って大桟橋に下りてきた電影は、二人を見下ろした。秋葉が山吹の胸に縋りながら弱く答え、 山吹が親指を立ててみせると、電影は安心した様子で排気した。そして、一歩引き、ガニガニを仰ぎ見た。

「ヤーはガニガニーってんさー?」

 こちん、と顎を打ち合わせてガニガニが答えると、電影は右腕を差し伸べた。

「アキハーが同士っていうんなら、電影もガニガニーと同士さー。仲良くしようさー」

 ガニガニは鋏脚を上げ、電影の右腕に伸ばした。電影はガニガニの鋏脚を掴むと、人間同士が握手するように 上下に振った。その様を見た自衛官達はようやく秋葉とガニガニが和解したことを信用したのか、それまでは及び腰 だった回収班の行動が早まった。秋葉は涙と海水でぐしょ濡れの顔を手で拭ってから、ガニガニと握手し続けて いる電影を見上げた。このままでは電影の電力がガニガニに吸収されるのではないか、と危惧していると、案の定 電影の電圧が低下したらしく、電影は膝を付いて突っ伏してしまった。訳を知っている秋葉はちょっと可笑しくなったが、 山吹や他の面々にとっては一大事には違いないので、にわかに護衛艦と大桟橋が慌ただしくなった。ガニガニは 気まずげに鋏脚で顔を覆い、甲羅を丸めてしまった。皆にきちんと説明しなければ、と秋葉は思ったが、安堵感と 共に体を浸食してきた極度の疲労には勝てず、山吹の暖かな腕に抱かれてとろりと意識を失った。
 山吹も電影も無事で、本当に良かった。




 ゾゾの御機嫌取りには、これしかない。
 帯を締め、襟を正し、袖を引っ張って整えた。紀乃は狭い鏡に映る自分の姿を見、気恥ずかしさに襲われたが、 頬を押さえて今にも引きつりそうな顔を押さえた。元はと言えば、翠といちゃいちゃしまくった自分に非がある。幸い にも翠は勘違いしていなかったが。浴衣を着るのは特別な時にしておこう、と、密かに決めていたのだが、まともな 夕御飯にありつくためには致し方ないことだ。考えようによっては、今も充分に特別かもしれない。何せ、あのゾゾが 家事を放棄しているのだから。紀乃は、旧校舎の衛生室とほとんど同じ造りの自室から出ると、職員室の引き戸の 磨りガラスを覗き込んだ。薄暗い室内に丸まった背が見え、太く長い尻尾が力なく揺れている。引き戸を叩くと、ゾゾの 気の抜け切った声で返答があった。紀乃は引き戸を開け、職員室に入った。

「あ、あのさぁ、ゾゾ」

「なんでしょうか、紀乃さん」

 机がないために空っぽの職員室の隅で、ゾゾは横座りをして項垂れていた。

「あのね、ゾゾはちょっと誤解しているの。そりゃあ、うん、私は翠さんが大好きだけど、ゾゾが思っているような好き じゃなくって、皆に対する好きの延長っていうか、女の子同士だからちょっと距離が近いって言うかで」

「はあ、そうですか」

「だから、別に同性愛に目覚めたわけでもないし、ゾゾに飽きたとか嫌いになったわけじゃなくって……」

 紀乃は苦笑しながらゾゾの背後に歩み寄ると、ゾゾは急に振り返った。

「おや、そうなのですかっ! でしたら、最初からそう仰ってくれればよろしかったのに!」

「あ、うん。てか、ずっとそう言っていたんだけど、ゾゾがまともに聞かなかったんじゃん」

 ゾゾの反応の早さに驚きながら紀乃が頷くと、ゾゾは単眼を見開いて紀乃の格好を見つめた。

「して、紀乃さん、その麗しきお姿は」

「翠さんが仕立て直してくれた浴衣だよ。着付け方もいい加減だし、髪もそのままだから、ちょっと変だけど」

 紀乃は藤色に小花が散る浴衣の袖を指先で抓み、引っ張ってみた。ゾゾは立ち上がり、紀乃に詰め寄った。

「いいえ、どこも変ではありません! 実にお似合いです! さすがは翠さん、寸法も完璧ですね!」

「あ、うん……」

 ゾゾのテンションの高さに辟易しながら後退した紀乃は、引き戸に背をぶつけた。

「つかぬことをお伺いしますが、紀乃さんは浴衣のセオリーを則っておられますか? だとすれば、エキサイティングで エクセレントなのですがねぇ」

 ゾゾは紀乃の背後の引き戸に手を添え、舐めるように見回してきた。紀乃は肩を竦め、身を縮めた。

「セオリーって……」

 そこで、紀乃は思い当たった。和服には下着を着けない、ということを。ゾゾの視線が下がっていき、股間付近に 止まった瞬間、紀乃は全身の血が頭に上ったような感覚に陥った。目眩がして視界がぐるりと一回転し、羞恥心の あまりに攻撃衝動が込み上がった紀乃はゾゾから顔を背けるや否や、手加減なしでサイコキネシスを放った。

「パンツの有無なんか聞くなーっ!」

「単純な好奇心ではっ」

 ありませんかぁっ、と言い残しながら、ゾゾは新築したばかりの壁をぶち抜いて夕暮れに染まる校庭に吹っ飛び、 何度か横転してから倒れ込んだ。紀乃は肩で息をしながら、これでは夕御飯は絶望的だな、と内心で嘆く一方で、 今までにない恥ずかしさと戦っていた。これまでにもゾゾにはちょっかいを出され、その度に苛立ったりしていたが、 ここまで恥ずかしくなるのは初めてだ。スカートを捲られたわけでもなく、下着を眺められたわけでもなく、ただ、浴衣の 下に下着を着ているか否かを尋ねられただけなのに。紀乃はうっすらと涙目になって職員室を飛び出し、さっさと セーラー服に着替えるために駆け足で衛生室に向かった。褒めてほしかっただけなのに、普通に喜んでほしかった だけなのに、どうしてこうなってしまったのだろう。
 何かが、変だ。





 


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