南海インベーダーズ




竜人娘的海水浴



 海水浴。
 海の水での沐浴、と書くのだそうだ。二十年もの年月を生きてきたが、三週間ほど前まではこの世界に海がある ことすら知らなかった。腹も種も違い、一回り以上も歳の離れた兄に寄れば、ナツという気温の高い季節になれば 人々はこぞって海に出掛け、人並みに溢れた砂浜で遊び倒すのだそうだ。暑苦しい季節である上に、猛毒を含んだ 日光の下に素肌を曝すために海に遊びに出掛けるというのは、翠にしてみればなまじ信じがたい話である。常人で あっても、日光は毒を含んでいるらしい。ミュータントである翠とはアレルギー反応は異なるが、紫外線アレルギーを 持って生まれた人間も何人もいる。そればかりか、日光は人間の肌の色を変えてしまうのだそうだ。日光から身を 守るための色素が浮かび上がり、薄黄色の肌が浅黒く変色してしまう。考えただけで恐ろしいのに、世間一般には それを好んで行う嗜好の者も少なくないらしい。世の中は、まだまだ理解出来ないことばかりだ。
 そして、これも全く理解出来なかった。翠は鏡の前に立つと、薄っぺらく小さな布切れを身に付けただけの自分と 向き合ってみた。地上の校舎と同じく再建された地下室は、以前に比べて格段に広くなっていた。ゾゾが生体改造を 施した木の根が、高さ二メートル、幅八メートル四方程度の空間を成していた。天井には毛細血管のように木の根が 這い回っているが、床は均されたように真っ平らになっているのも不思議だが、更に不思議なのが壁を支える根の 側面から生えている花弁だった。ホタルブクロのような形状の薄紫の花なのだが、内部が青白く発光している。 そのおかげで、翠は地下室にランプを持ち込む必要がなくなって一酸化炭素中毒の危険もなくなった上、木の根が 発してくれる適度な酸素のおかげで良い空気が吸えている。地下室は一つだけではなく、地上に出られない昼間に 使う便所や水場も併設され、火は使えないが炊事場もあり、生活環境は充分だ。変異体管理局のコンクリート製の 箱庭と比べてしまうと遙かに狭いが、その分、手の届くところに必要なものだけがある。だから、暮らす分には何の 申し分もないのだが、この格好だけは頂けなかった。上も下も、布地がまるで足りていない。

「弱りましたわ」

 翠は胸を覆う三角形の布地を引っ張ったが、乳房全体を隠そうとすると下からはみ出してしまった。大きさだけは 立派な乳房は肩から下がる細い紐に吊されているだけで、今にも弾け飛んでしまいそうだ。背中で結び合わせた紐も 翼の真下に入ってしまうので上手く結ぶことが出来ず、すぐに解けてしまいかねない。下半身を覆う布地も同様で、 足の付け根から腰骨までもが丸出しで、こちらも両サイドを紐で結んでいるだけだった。股間を隠しているのは 逆三角形の布地も、尻尾が生えているために尻の布地は常に三分の一ほどずり下がってしまう状態だった。

「紀乃さんったら、こんな破廉恥なものを着ていらしたのね」

 翠はほんのりと火照った頬を押さえたが、緑色のウロコに包まれた顔なのでほとんど表に出なかった。

「あんなに可愛らしくて元気な方ですのに、意外ですこと」

 この水着は、仕立て直した浴衣のお返しに、と紀乃からプレゼントされた。水着を着たことなどなかったし、紀乃の 気持ちが嬉しかったので喜んで受け取ったはいいものの、まさかこれほどのものだとは思ってもみなかった。だが、 紀乃とは海水浴に行く約束をしてしまったし、これ以外の水着などあるわけがないので、着ないわけにはいかない。 着方は紀乃から教えてもらったので問題はないが、さすがに無防備すぎる。かといって、水着の上に襦袢や浴衣を 羽織るのも変だ。見るからに気持ち良さそうな海に浸かって泳いでみたいのは山々だが、こんなことでは泳ぐよりも 先に乳房や尻が露出してしまいかねない。けれど、泳がなければ海水浴ではない。羞恥心と好奇心の狭間で翠は 思い悩みながら、精一杯ブラジャーを引っ張り上げて乳房を隠す努力をした。
 だが、その努力は無駄に終わり、諦めて着物を着直した。




 解らないことがあれば、兄に聞けばいい。
 それは、この三週間で覚えた物事の中で最も有効なことだった。物心付いた頃から外界から切り離された箱庭に 押し込められていた翠とは違い、忌部は長らく外界で生きてきたからだ。大抵のことであれば知っているし、出来る 範囲でなら翠の知的欲求にも答えてくれる。忌部島に住まうインベーダー達には、紀乃以外にはほんの少し気後れ してしまうのだが、兄である忌部は違う。地下室の扉が叩かれて日没したことを教えられた翠は、地下室と職員室を 隔てている四角い扉を押し開けると、不思議なことに職員室の壁に大穴が開いていた。昨日、翠が出てきた時には そんなものはなかったはずなのだが。疑問に思いながら地下室から出ると、校庭と職員室の床に壁と窓の破片が 散らばっていた。ホウキとチリトリを手にしてそれを片付けているのは、しょんぼりと尻尾を下げているゾゾだった。

「ゾゾさん、いかがなさいましたの?」

 水着を紛れ込ませた着替え一式を抱えた翠が声を掛けると、ゾゾは伏し目がちに呟いた。

「何も聞かないで下さい。全ては私が悪いのですよ」

「はあ」

「翠さんは、何かお聞きしていましたか? つい、今し方の出来事なのですが」

 ゾゾは不安げに目を上げ、翠を見やった。翠は頬に手を添え、思い返した。

「そうですわねぇ……。私は下でじっとしておりましたけれど、特に何も存じ上げておりませんわ」

「でしたら、それでいいのですよ」

 はあ、とゾゾはもう一度嘆息してから、ガラスの破片を掻き集めていた。

「しかし、見事に穴を開けたな。資材はまだ余っているからいいとしても、ガラスに残りはあったかな」

 六本足を曲げて職員室を覗き込んできたのは、人型多脚重機、小松だった。

「あったかもしれない、ない、ない、なーい。なかったら、その時はその時だよ、だよ、だよ」

 小松の操縦席の上に腰掛けているミーコも、首を横に曲げて中を覗いた。翠はちょっと臆したが、挨拶した。

「こんばんは、小松さん、ミーコさん」

「おう」

「こんばんばんばんはー」

 ミーコはにこにこしながら、翠を見下ろしてきた。

「御兄様はどちらにいらっしゃるか、存じておられませんこと?」

 翠が問うと、ミーコは首を元に戻した。

「忌部さんなら、なら、なら、外にいたよ、よ、よ」

「ありがとうございます」

 翠は二人に一礼してから、職員室を後にした。風通しの良い大穴から外に出た方が楽ではないか、と頭の片隅で ちらりと考えたが、それは不躾だとすぐに思い直した。草履を床に擦りながら昇降口を出て辺りを見回すが、兄の姿は 簡単には見つからなかった。今更言うまでもなく、兄は透明人間だ。体を使う作業をする時はさすがに作業着を 着るが、普段はフンドシ一丁なので尚更見つけづらい。翠がきょろきょろしながら進んでいると、校庭の隅に生えた 木の根本で紀乃が落ち込んでいた。セーラー服姿ではあったが、セーラーが歪んでスカーフも曲がっていた。

「紀乃さん、襟が曲がっていましてよ」

 翠は紀乃の背後に立ち、セーラーを直してやると、紀乃は振り向いた。

「ありがとう、翠さん」

「何か、おありですの?」

「ううん、なんでもない。なんでもないんだけど、ちょっとね」

 紀乃は表情を取り繕おうとするが、口元の端が不自然に引きつっただけだった。

「ゾゾさんとケンカでもいたしましたの?」

「まあ……うん。そうなのかもしれないけど」

 紀乃は歯切れが悪く、目線を逸らしがちだった。ゾゾの態度も似たようなものなので、余程のことがあったのだと 翠は察した。だとすれば、海水浴をしようと持ち掛けるのは、今日にするべきではない。翠は浴衣と着替えに包んで 持ってきた水着を隠すように抱え直してから、紀乃を励ますと、兄を探そうと立ち上がった。太陽が水平線に没し、 月が昇った忌部島は静かな雰囲気に包まれていた。心なしか吹き付ける風が強く、落ち葉が増えており、波が荒く 立っていたので、大きな嵐が来たのだと察した。地下室にいる間は何も解らなかったが。
 ホタルブクロの光よりも強い月明かりが人型に屈折している箇所はないかと目を配らせていると、集落と海の境界 というべき砂混じりの草むらにフンドシが浮かんでいた。翠は足早に近寄りながら、忌部に声を掛けた。

「御兄様、こちらにいらしたのですわね」

「翠。すまんな、迎えに行くのを忘れたわけじゃないんだが」

 忌部は透き通った頭を返して振り返ったらしく、兄を透かして見える景色が若干湾曲した。

「お気になさることはありませんわ、御兄様」

 翠は忌部に微笑みかけたが、紀乃とゾゾの様子が気掛かりで振り返った。

「紀乃さんとゾゾさん、どうなさいましたの?」

「なんていうか、ありゃ、痴話ゲンカだ」

「チワ、とはなんですの?」

「要するに、男と女がいちゃつくことだ」

「では、紀乃さんとゾゾさんはいちゃいちゃした末にケンカをなさいましたの?」

「当人同士にその自覚はないらしいんだがな。端から見ていると、終始そんな感じなんだよ、あの二人は」

「でしたら、それはイヌも喰わない、というやつですのね。イヌが何なのかは存じ上げませんけれど」

「まあ、そういうことだ。だから、放っておいてやれ。そのうち、勝手に仲直りするから」

「御兄様がそう仰るのでしたら、その通りにいたしますわ」

 翠は目を瞬かせ、黙々と校庭を片付けるゾゾと、木の陰からそれを見ようか見まいか迷っている紀乃を眺めた。 言われてみると、確かにそうである。ゾゾは紀乃をしきりに気にしていて、紀乃もゾゾを気にしすぎていて挙動不審に なっているのだが、どちらも気が引けているのか近付こうともしなかった。壁をぶち破るほどの痴話ゲンカの原因を 知る必要もなければ、仲裁に入る意味もなさそうだった。この分だと、明日の朝には仲直りしていそうだ。

「御兄様、お聞きしたいことがございますの」

 翠が目線を上げて透き通った兄を仰ぐと、忌部も翠を見下ろしてきた。

「ん、なんだ?」

「海水浴って、どんなことをなさいますの?」

「んー……。俺もそんなには経験がないからなぁ、海水浴。うちは家庭が崩壊していたから、家族で遊びに出ること なんてなかったし、思い切り屈折した青春を送っていたから、学生時代も友達と連んで海に遊びに行くなんてことも なかったから、具体的なアドバイスは出来ないぞ。俺はリア充じゃないからな」

「りあじゅう、ってなんですの?」

「まあ、とにかく人生を謳歌するのに忙しい輩のことだな。夏休み明けにそういう人間が得意げに話していることは、 どこまでが本当かは解らないから、まるっきり信じなくてもいい。話半分で適当な相槌を打っておくに限るぞ。それはそれ として、普通の海水浴ってのは海辺で遊び倒すことだな。ビーチバレーをしたり、スイカ割りをしたり、波打ち際で 泳いだり、バーベキューをしたり、花火をしたりと。この島にあるものじゃ出来ることは限られているが、遊び相手が 紀乃なら申し分はないだろうさ」

「そうですの」

「で、参考になったか?」

「ええ、それはもちろん。海水浴は御兄様の仰るようにいたしますわ。けれど、今夜は無理ですわね」

「波が高いし、うねりもあるからな。甚平でも流されそうだから、泳ぎ慣れていない翠が海に入ったら危ない」

「でしたら、今夜は海水浴についてじっくりと考えてみますわ。あの小さな水着にも慣れないといけませんし」

 翠が頬に手を添えて恥じらうと、忌部は困惑した。

「……やっぱり、着るのか?」

「ええ。水着はあれ以外にございませんし、紀乃さんからせっかく頂いたものですし、勿体のうございますわ」

「そればっかりは、考え直せ、とも言えないか。海に入ったら、紐が外れないように気を付けるんだぞ」

「承知しておりますわ、御兄様」

 翠が頷くと、忌部は不安げにしつつも翠の腕を引いて歩き出した。兄の素足が砂地を踏むと足跡が出来、その後に 翠の草履の足跡が続いた。翠は太い爪の生えた指を忌部の腕にそっと掛けると、汗ばんだ肌の感触と温もりが 手のひらに馴染んだ。歩調を合わせて距離を詰めると、忌部も歩調を緩めてくれた。翠の少し手前にはフンドシが 浮かび、足跡が付くと同時に上下している様が見える。白い包帯と制服姿の忌部も好きだったが、大自然に全てを 曝け出している忌部も清々しくて素敵だ。翠は悩ましげにため息を零し、忌部の広い背に身を寄せた。忌部は少し 戸惑って歩調を乱したが、翠を支えるだけに止まった。三週間前なら肩に腕を回していたのだろうが、普通の兄妹 らしくすると誓ったのだから、満足しておくべきだ。少しばかり物足りなさも、慣れていけば感じなくなるだろう。
 未知のものである海水浴がどんなものなのかは、忌部の話で概要は掴めてきた。要するに、海と砂浜を遊び場に することなのだ。何をするのかも教えてもらったので後はそれを熟考して理解し、嵐による海の荒れが収まってから 今一度紀乃を誘えばいい。水着の布地を増やせるものなら増やしたかったが、生憎、翠の持っている服は水着とは 布地の素材が異なっている。縫い合わせようにも、素材が違ってしまってはやりようがない。明日もまた姿見の前に 立ち、水着姿の自分と向き合って早く慣れられるように頑張ろう。空の下に肌を曝すこと自体が恐怖であり、禁忌で あったが、今は違う。何もかもが許されている。だが、その反面、己の行動には責任が伴う。
 だからこそ、正しく行わなければならない。





 


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