南海インベーダーズ




竜人娘的海水浴



 翌日の夜中。海水浴を練習すべく、翠は砂浜に出た。
 あの際どいビキニの上に浴衣を羽織って草履を突っ掛け、日中の熱がかすかに残る潮風を浴びていた。その前 には、眠たげな顔の甚平が瞬膜を開閉させていた。寝入り端を無理に起こされてしまったからだろう、いつも以上に ぼんやりしている。それについては気が咎めたが、正しい海水浴を覚えるためには仕方ないことだ。珊瑚礁の砂浜 には静かな波が打ち寄せ、細かな泡が月光を帯びて星の粒のように煌めいた。しばらくの間、甚平は翠と対峙して 状況を見極めようと尽力していた。作業着の裾からはみ出している尾ビレの付いた尻尾を曲げ、水掻きの張った手 で尖った鼻先を押さえて悩んでいたが、翠を直視せずに斜め上に目線を向けた。

「あの、えと、翠さん」

「甚平さん。夜分遅くに申し訳ございませんけれど、私に海水浴というものを教えて頂けませんこと?」

 翠は甚平を直視すると、甚平はますます視線を彷徨わせた。

「あ、いや、その、えと、僕はその、サメだけど泳げないっていうか、まずアテにならないっていうか……」

「甚平さんがお泳ぎになれないことは承知しておりましてよ。ですから、私は海水浴を教えて頂きたいんですの」

「あ、うん、えと、そういうのは誰かに教わるようなことじゃないっていうか、教えるものでもないっていうか」

「生まれてこの方、私は外界とは切り離された人生を送っておりましたの。それ故に無知であることも重々自覚して おりますし、皆さんからご教授頂かなければ、右も左も解りませんの。ですから、どんなに些細なことであろうとも、 教えて頂かなければ何一つ解りませんの」

「あ、まぁ、それはそうかもしれないけど、でも」

 甚平は不可解げに目を伏せていたが、振り返り、夜の帳に包まれた砂浜の一角で屈折率が異なる部分を見た。

「あ、えと、忌部さん。僕と翠さんが気になるんなら、さっさとこっちに来てくれた方がいいっていうか」

「……なぜ解る」

 砂浜と地面の境界付近の草むらが揺れ、フンドシが浮き上がった。甚平は俯き、鼻先を擦った。

「えと、匂いで。海の中の方がもうちょっと感度はいいんだけど」

「まあ、御兄様。丁度よろしゅうございますわ、御兄様も一緒に私に海水浴を教えて下さいまし」

 翠は忌部に駆け寄り、兄の透き通った手を取った。忌部は甚平と翠を見比べ、戸惑った。

「だが、甚平の言うように、遊びってのは誰かに教えてもらうものじゃないぞ?」

「あら。花札や双六にも決まり事はございましてよ」

「それはルールの範疇で遊ぶゲームだからであって、海水浴は違うだろ。純然たる大衆娯楽だ」

 忌部が翠に言い返すと、甚平が口を挟んできた。

「あ、や、でも、最初期の海水浴は療養のために海に浸かるのが目的であって、海遊びとは違うっていうか」

「そりゃそうかもしれんが、現代の海水浴は違うじゃないか。何にせよ、そんなに気負うものじゃない」

 甚平に言い返してから、忌部は翠の肩を叩いた。だが、翠は釈然としなかった。

「私、こんなに広い場所で遊ぶのは生まれて初めてでしてよ。皆さんに失礼がないように、きちんと決まり事を覚えて おくのは礼儀というものですわ。この前のように、皆さんに御迷惑は掛けられませんもの」

 真顔でずれたことを言い放つ翠に、忌部は微笑ましく思いつつも面倒になってきた。

「これからは、その人生の一大事が何百回と訪れるんだぞ。どうせ、この島には大した遊びはないからな。だから、 今からあんまり気を張るんじゃない。でないと、肝心の本番で力尽きちまうぞ?」

「あ、でも、うん」

 頼りない足取りで近寄ってきた甚平は、忌部の位置を確かめてから翠を見やった。

「あ、えと、翠さんがそこまで言うなら、紀乃ちゃんや皆と遊ぶ前に、一度僕らだけで遊んでみたらいいっていうか」

「妙案ですわ、甚平さん! ね、御兄様、よろしゅうございましょう?」

 翠が忌部に縋ると、忌部は嫌とは言えずに頷いた。

「まあ、実戦は最大の訓練ではあるが」

「でしたら、話は早い方がよろしゅうございますわ」

 男二人に背を向けてから、翠は浴衣の帯に手を掛けた。文庫結びにしていた帯を解いて、浴衣をするりと腕から 抜いて襦袢も脱ぎ、綺麗に畳んでから、砂浜に横たわる平たい岩に乗せた。草履も脱いで揃えてから、翠は羞恥心 に苛まれながら二人に向いた。甚平は素肌の八割以上が露出している翠を正視出来ないらしく、必死に顔を背け、 忌部も忌部で複雑なのかフンドシがやや引けていた。翠は二人の反応で気後れし、俯いた。

「あの……」

「あ、えと、うん、なんていうか、その、ギャップっていうかが……」

 甚平はただでさえ丸まりがちな背を更に丸め、足元を睨み付けるような格好になっていた。

「話には聞いていたが、まさかこれほどとは思ってもみなかったんだ。そりゃ紀乃も見たがるわけだ」

 俺の妹最高、と声を震わせて呟き、忌部は透き通った手で顔を押さえた。

「あの、やっぱり、似合いませんでしょうか?」

 翠が控えめに漏らすと、二人から即座に否定された。それでもまだ信じがたく、翠は細すぎる紐に支えられている 両の乳房と尻を眺め回した。冴え冴えとした月明かりが照らし出す緑色の滑らかな肌は艶やかな光沢を帯び、人外 でなければ醸し出せない色香を作り出していた。長身ながら華奢な肢体には不釣り合いなほど膨らんだ二つの乳房 は、着物の下で押し込められていたとは思いがたいほど瑞々しく張り詰めている。顔や背中のウロコよりも色味が 薄く、ほんのりと黄色掛かったウロコに覆われているなだらかな腹部から腰に掛けての曲線は悩ましい。竜人らしさと 人ならざる魅力を掻き立てる翼と尻尾は蠱惑的なシルエットを生み、澄み切った金色の瞳は月よりも眩い。鼻筋が 通った縦長の顔の後頭部から生える一対のツノさえも、翠の肢体の美しさを際立たせていた。

「あの」

 甚平は忌部のフンドシの腰紐を引っ張り、ごくごく小さな声で囁いた。

「あ、その、えと、忌部さんがうっかりほだされちゃった理由、すっごく解るって言うか……」

「解るだろう、解るだろう。解ってくれてすんごい嬉しい。が、兄の心境としては物凄く複雑だ」

 忌部は思わず甚平の肩を抱き、親しげに叩いた。

「何のお話をしておりますの、御兄様方?」

 翠は不安げに翼を下げて二人に声を掛けると、忌部と甚平は揃って後退った。

「ああいやなんでもない、気にするな、我が妹よ!」

「あ、うん、その、えっと、うん、そう、なんでもありません」

「おかしな御兄様方ですこと」

 翠は今一つ腑に落ちなかったが、気を取り直して話を仕切り直した。

「では、今夜は、私と御兄様と甚平さんで海水浴をなさいますのね? でしたら、早くなさいましょう」

「じゃ、手始めにスイカ割りから行ってみるか」

 ちょっと待っていろよ、と忌部は小走りに畑に向かっていった。しばらくして戻ってきた忌部の手には、収穫時期を逃した ために傷んでしまったスイカと木の枝らしき棒とバナナの葉を持ってきた。忌部はバナナの葉を砂浜に敷いてから、 その上にスイカを置き、棒を翠に手渡してきた。

「本当は目隠しして目を回させてから割るんだが、まずは何をやるかを覚えるだけでもいいだろう」

 忌部は翠を促し、スイカに向き直らせた。甚平の弱々しい声援を受けながら、翠は棒を振りかぶった。

「えいっ!」

 が、棒の尖端はスイカに掠らず、空しく砂浜を抉った。

「えい、えい、えいっ!」

 二度、三度、四度と翠は叩いたが、スイカは翠を嘲笑うかのように右へ左へと動いた。それから何度繰り返しても 結果は変わらず、翠は泣きたくなってきた。

「御兄様ぁ……」

「いいんだよ、雰囲気だけが解れば! よし、次だ! ビーチボール、行ってみよう!」

 忌部は翠の手から棒を受け取ると、指揮を執るように高く振り上げた。

「あ、でも、丸いものはあっても、ボールはないっていうか」

 甚平は忌部に意見して方向性を変えようとしたが、翠は少しも割れなかったスイカを持ち上げた。

「丸いものを投げればよろしゅうごさいますのね?」

 あ、と甚平が引き留めようとしたが、翠はそれに気付かずにスイカを放り投げた。ミュータント故に常人よりも腕力が あるからだろう、予想外に軽い動作でスイカは宙に浮いた。緑に黒のストライプが特徴的な球体が回転し、翠は それを追って跳躍した。振りかぶった右手でスイカを叩くと、当然ながら粉々に砕けて赤い中身が迸った。

「いやぁんっ」

 スイカまみれになった翠は着地にも失敗し、その場に倒れ、涙目になりながら兄を見上げた。

「御兄様ぁ……」

「いよぉっし、次だ! 海で泳ぐぞ、翠!」

 忌部は翠を抱え上げると、浅瀬に向かって駆け出した。翠の全身に付着した傷みかけのスイカの汁がぼたぼたと 滴り、さながら血痕のように海に連なっていった。その場に取り残された甚平は所在をなくしかけたが、慌てて忌部と 翠の後を追った。翠ごと浅瀬に突っ込んで存在が見えやすくなった忌部は、何を思ったのか、古臭い恋愛ドラマの ように翠に向けて海水を掛けている。翠はそれに対してどんな反応を返したらいいのか見当も付かないらしく、浅瀬に 突っ立って忌部からの容赦のない海水を浴び続けた。甚平は服が濡れるのも厭わずに海に入り、進言した。

「あの、えっと、こういう時、翠さんは同じことをやり返せばいいっていうか。そうれっ、ていうか」

「まあ、そうでしたの」

 顔に浴びせられた海水を半分ほど飲みながら答えた翠は、翼を広げて尻尾を伸ばし、踏ん張った。

「お返しですわ、御兄様ぁっ!」

「おうっ!?」

 翠が掬い上げた水量は予想以上で、忌部は呆気なく薙ぎ倒された。人間が素手で掻き出せる水量は少ないが、 翠の指の間には甚平のように水掻きが薄く張っているので、掻き出せる水量が桁違いに多い。その上、普段は使う 機会のない翼を踏ん張った拍子に動かしたため、ほんの一瞬だが、局地的な波が発生した。仰向けに倒れた忌部は 数メートルほど海面を漂ったが、だばぁっ、と海水を散らしながら起き上がった。

「ちょ、ちょっとタンマ」

 げほげほと咳き込みながら忌部は制するが、楽しくなってきた翠は兄に向けてもう一発波を放った。

「御兄様ぁっ! そうれぇっ、ですわー!」

 忌部から抗議の声が上がった気がしたが、波に掻き消された。甚平は忌部と翠のどちらの側に付くか少しばかり 迷ったが、結局、翠の側に付いた。甚平もまた、これまで根暗極まる人生を送ってきたために海水浴とは無縁で、 具体的な遊び方を知らなかったので闇雲に忌部に海水を掛けた。最初は不可解極まりなかったが、時間が経つに 連れて単純作業の面白さに目覚めてしまい、忌部の姿が掴めなくなるまで掛け続けた。十数分後、やっと海水地獄 から解放された忌部は、むせながらよろけ、波打ち際に這い蹲った。

「リア充って……しんどいな」

「御兄様、他には何がございますの?」

 目を輝かせながら兄に尋ねた翠に、鼻にも口にも海水がたっぷりと入った忌部は息も絶え絶えに答えた。
 
「え、えぇとだな……。海の家で、ラーメンとか焼きそばとか……?」

「あ、えと、麺類的な?」

 翠に続いて浅瀬から上がってきた甚平は、うねうねと蠢くイソギンチャクを素手で掴んでいた。

「お、お前、なんでそんなの素手で持てるんだ? 刺さないか?」

 息苦しさのあまりに涙目になりながら、忌部がイソギンチャクを指すと、甚平は首を横に振った。

「あ、いや、全然。僕はサメだから大丈夫っていうか」

「御兄様ぁ、お召し上がり下さいませ」

 翠は砂浜に落ちていたバナナの葉にイソギンチャクを載せ、無邪気な笑みを浮かべて忌部に差し出した。

「ままごと、だよな?」

「お召し上がり下さいませぇ」

「お召し上がり下さいませ、御兄様」

 今になって寝入り端を叩き起こされた苛立ちが出てきたのか、甚平は翠を止めもせずにイソギンチャクを勧めた。 忌部は信じがたい気持ちで甚平と翠を見比べていたが、海中から引き上げられたイソギンチャクは息苦しげに うねうねと触手を捩っていた。妹の満面の笑みとサメの青年の無表情の狭間で思い悩んだ忌部は、おもむろに イソギンチャクを掴み、大きく振りかぶって海に放り投げた。

「キャッチアンドリリィーッスッ!」

 やけくそになってきた忌部は、波打ち際を駆け出した。

「ふははははははははははは、そうら翠、御兄様を捕まえてごらーんっ!」

「いやぁんっ、お待ちになって下さいましぃ、御兄様ぁーん」

 甘ったるい声を出した翠は、豊満な肢体を揺さぶりながら忌部を追って駆け出した。もちろん、乙女走りで。

「あ、うん、まぁ、これはこれで楽しいっていうか。傍観者的な意味で」

 二人の世界に突入してしまった兄妹を追わず、甚平は波打ち際から離れた場所に腰を下ろした。次第に眠気が 襲ってきたが、忌部と翠のハイテンションなやり取りが耳について上手く寝付けなかった。忌部は自身が失った 青春を取り戻すかのように、翠はこれまで得られなかった外界の楽しさを貪るように、どうでもいいことを全力で笑い転げ ながら波打ち際を疾走していた。このまま行けば二人は島を一週するんじゃないだろうか、と、ぼんやりとした頭の 片隅で考えながら、甚平は眠気覚ましのために細い枝で砂浜に頭の中身を書き出していると、不意に棒の尖端が 硬いものとぶつかった。石にしては平たく、衝突音は甲高かった。なんとなく興味が湧いた甚平は砂浜に這い蹲り、 透明人間と竜人娘のわざとらしいはしゃぎ声を聞き流しながら砂浜を掘り返してみると、青銅色の円盤状の物体が 埋まっていた。これはもしや銅鏡か、と、ちょっと目が覚めた甚平が銅鏡らしきものを砂の中から引き抜こうとする と、銅鏡らしきものの装飾に細い木の根が絡み付いていた。金属的な光沢を帯びた表面を見ると、一度割れたもの らしく、うっすらと溝が走っており、修復されて間もないといった雰囲気だ。甚平は銅鏡らしきものを水平にして真横 から注視すると、割れ目らしき溝がほんの少し動いた。もしかすると、これもまた何かの生き物なのかもしれない。 だとすれば、傷が治るまでは放っておいてやろう、と判断し、甚平は銅鏡らしきものを再び砂に埋めた。
 波打ち際では、兄妹が飽きもせずに追いかけっこを続けていた。

 


 翌日。夜になっても、翠は地下室から出られなかった。
 ただでさえ冷えがちな体は厚い布団にくるまっても一向に暖まらず、ウロコの隙間から乏しい体温が抜けていく。 唯一顔色が出る皮膚の薄い目元はすっかり白くなり、頭は土を詰めたように重たく、鈍く痛む。浴衣だけでは体温 維持が出来ないので、掻い巻きを着込んだ上から布団を被ってみたが、結果は同じだった。いつもならばなんとも 思わないホタルブクロの青白い光も、今日は寒々しく思える。節々が鋭く痛み、尻尾の先まで冷え切ってしまった。 風呂に入って体を温めたくとも、頭が痛くて立ち上がれそうにない。けん、けん、と乾いた咳をしてから、翠は布団を 肩まで引っ張り上げた。地下室の蓋が叩かれたが、腫れぼったい喉では上手く答えられなかった。

「翠さん、大丈夫ー?」

 土鍋と土瓶を載せた盆と自分の体を浮かばせながら入ってきたのは、紀乃だった。

「いえ、あまり……」

 翠は掠れた声で答えたが、我ながらひどい声だった。

「上じゃね、忌部さんがひっくり返ってる。でも、ゾゾが看病してくれたから、大分良くなったよ」

 紀乃はサイコキネシスで地下室の蓋を閉めてから、翠の枕元に膝を付き、盆を置いた。

「翠さんの具合はどう?」

 紀乃の手のひらが翠の額に添えられ、温かくもしっとりとした肌が硬い肌に吸い付いてきた。紀乃はしばらく唸って いたが、眉根を曲げた。どうやら、余程の高い熱が出ていたらしい。

「こんなに悪いんじゃ、上に合図のしようもなかったんだね。ごめんね、翠さん。気付くのが遅れて」

「いえ……」

 てっきり怒られるのかと思っていた翠は、安堵感で青ざめているであろう頬を緩めた。

「甚にいから聞いて驚いちゃったよ。忌部さんと翠さんが夜の海で散々遊び回ったなんてさぁ。二人とも大人だから、 そんなイメージなんてなかったんだもん。でも、その気持ち、解るなぁ」

 紀乃はにこにこしながら手に鍋掴みを填め、土鍋の蓋を開けた。白い湯気がふわりと膨らみ、解けると、柔らかく 煮えた米粒が淡い黄色の煮汁に浸っていた。鶏ガラの出し汁で粥を煮立てて醤油で味を付け、溶き卵を回し掛けて 一煮立ちさせて作ったであろう、卵粥だ。翠も長らく一人で暮らしていたので料理は手慣れており、作り方の想像は 容易に出来たが、シンプルだからこそ手間が掛かっている。真ん中に落とされている卵の黄身は艶やかで色濃く、 食欲を掻き立ててくれる。紀乃はレンゲで卵の黄身を潰してから軽く混ぜ、卵粥を椀に盛った。

「起き上がれる?」

「ええ、なんとか」

 翠は頭痛を堪えながら身を起こすと、紀乃が卵粥を入れた椀を差し出しながら、湯飲みと土瓶を指した。

「これ、食べたら、ゾゾが作った煎じ薬も飲んでね。すぐに楽になるから。私も前にひっどい風邪を引いちゃったんだけど、 それ飲んだら一発で治っちゃったの。後でプリンも持ってきてあげる、冷たくておいしいんだから」

「何から何まで、お手数掛けて申し訳ありませんわ」

「いいっていいって。私だって、翠さんには一杯御世話になったもん。カーテンでしょ、浴衣でしょ、お風呂でしょ」

 紀乃は指折り数えてから、翠の布団の傍に座った。

「せっかく練習しましたのに、海水浴はお流れになってしまいましたわね。それもまた、申し訳ございません」

 翠が目を伏せると、紀乃は笑った。

「それこそ気にしないでよ。忌部島はいつだって真夏なんだから、いつでも好きな時に泳げるんだし。それに、練習 なんてしなくたって、海で好きなように遊べばいいんだよ」

「そうですわね」

 紀乃の笑顔で気持ちが緩み、翠は微笑みを返した。紀乃は今日の昼間の出来事を面白可笑しく話し出し、翠が 卵粥を食べ終えて煎じ薬を飲むまで付き合ってくれた。時折手や肩に触れてくれる手の温もりは、兄とは少し異なる 温度と感触だったが、心安らいだ。兄の温もりを逃したくないあまりに、本家の御前様に従って種も腹も違うが兄 である忌部を銜え込んで、無知を理由に従順でいようと決めていた。そうすれば何事も上手く運び、またあの重苦しい 箱庭に押し込められずに済むのだと信じていた。だが、最早、翠を縛るものはどこにもない。自分を縛るものがある とするならば、それは自分自身に他ならない。海水浴にしても、何にしても、これからは型に填らずにやりたいように やってしまおう。それが、翠なりの世界に対する侵略行為だと言えるのかもしれない。
 自分という世界を、思うがままに刺激で侵してしまえ。





 


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