何事もなく、朝が来た。 識別名称・乙型生体兵器一号。その名前には絶対に馴染みたくないし、心の底から嫌だと思っているのにどうして も頭から離れなかった。汗と埃にまみれて目を覚ました紀乃は、鮮やかすぎて気が引けるほどの朝日に照らされた 天井をぼんやりと見上げていた。日焼けしすぎて布が風化しているカーテンは本来の用途を成してくれず、光量は ほとんど変わっていない。そろそろ起きなきゃな、と紀乃は腫れぼったい瞼を擦って身を起こすと、不意に違和感を 感じた。下腹部の内側から熱い固まりがどろりと溶け落ちる、あの嫌な感覚。 「え、嘘っ」 そんなこと、予想すらしていなかった。紀乃は腰の怠さで確信を得たが、動揺は収まらなかった。スポーツバッグ をひっくり返して一枚でも予備のナプキンがないものかと捜したが、生憎、紀乃は生理周期が一定だったので予備 を持ち歩く習慣は付いていなかった。今はただでさえ不安なのに、こんなことは最悪だ。紀乃は泣きかけたが、泣いて いても始まらないと唇を噛み締めた。とりあえず、ゾゾに予備の布か何かないか聞いてみよう。手持ちのタオルを血 染めにするのは勿体ないし、布を当てておくだけでも大分違うはずだ。ジャージからセーラー服に着替えるだけでも 不安になるので、靴下も履かずにテニスシューズを引っ掛け、下半身の重たさに気を遣いながら衛生室を出た。 いつもよりかなり慎重な足取りで進んだ紀乃は、居間兼食堂の教室を覗くと、ゾゾの姿はなく、勝手口の外から 物音がしていた。紀乃が窓から外を見やると、ゾゾは金属製の丸い物体を回していた。随分前に昭和初期の 道具が展示されていた博物館で見たものと良く似ているので、たぶん手回し洗濯機だろう。 「あのぉ」 紀乃が勝手口を開けると、ゾゾは手回し洗濯機を動かすハンドルを止めて振り向いた。 「おはようございます、紀乃さん」 「えっと、その……」 涙声ですらある紀乃は、忌部島に送り込まれた時とは違った意味で悲劇的な顔をしていた。訝ったゾゾが近付こうと すると、紀乃は身を引きかけてハーフパンツを履いた足を内側に狭めた。ゾゾの鋭敏な嗅覚に、鉄分と蛋白質が 発する匂いが僅かに届いた。そのおかげでゾゾはすぐに事態を察し、穏やかに述べた。 「生殖活動可能周期の変動は急な環境の変化と過剰なストレスで起きる現象ですので、それほど気にしなくても よろしいですよ、紀乃さん。少し待っていて下さい」 ゾゾはマットで足の裏を拭いてから、紀乃の隣を擦り抜けて校舎に戻った。紀乃はゾゾがいなくなることすらも不安 になってしまい、追い縋りかけてしまった。足早に歩いたゾゾは自室にしている職員室に入ると、以前ミーコに作ってやった 布製の生理用品の予備を取り出して紀乃の元に戻り、彼女に手渡した。 「どうぞ、これを。使い方は紙製のものと同じですが、洗えば繰り返し使えるので捨てないで下さいね」 「どうしてこれが、あ、そうか」 ミーコさんのか、と紀乃が納得すると、ゾゾは頷いた。 「ええ。ミーコさんは人間ではありませんが、体は立派な成人女性ですので、清潔な布が余っていた時にかなりの 数を作っておいたんです。お役に立てて何よりです」 「ありがとう、ゾゾ」 紀乃は泣きそうな笑みを見せると、足早に居間兼食堂の教室から出ていった。紀乃が戻ってくる前に朝食の支度を 調えよう、と、ゾゾは壁をぶち抜いて作った台所に向かい、洗濯の汚れが残る手を洗ってからテーブルに彼女の 食器を並べた。小松とミーコは早々に食べ終え、それぞれの仕事を始めている。海水を煮出して作った塩と魚の アラを煮込んだだけだが充分に味が出ている潮汁をかまどで温め直し、おひつに残っていた一人分の白飯を茶碗に 盛っていると、汚れた下着を持った紀乃が戻ってきた。ゾゾは、それは後で御自分で洗って下さいね、と紀乃に言う と、紀乃の表情から羞恥心が消えた。紀乃は勝手口から外に出ると、居間兼食堂に併設する水場のたらいに下着 を浸してから居間兼食堂に戻り、手を洗ってから食卓に着いた。 「さあ、どうぞ」 ゾゾが朝食を勧めると、元気が戻ってきた紀乃は手を合わせた。 「いただきまーす!」 魚の干物だけでなく、新鮮なトマトやキュウリはどれもおいしかった。下着を替えたついでにトイレの洗面所で 顔を洗って髪も撫で付けてきた紀乃は、アラの出汁が効いた潮汁を飲んだ。一週間も白い部屋に閉じ込められていた 時の食事とは比べ物にならず、考えようによっては自宅よりもおいしいかもしれなかった。ニガウリの漬け物を囓り ながら、本来はコンピューターか何かのモニターだったであろう液晶テレビに目を向けると、東京でも見慣れた朝の ニュース番組が映っていた。普段通りにアナウンサーがニュースを伝え、リポーターが地方のイベントを伝えていて、 何事もない日常が続いていた。一週間前まで、これを見た後に家を出てバスに乗って中学校に行っていた。 「テレビ、映るんだ」 紀乃が意外に思うと、ゾゾはパラボラアンテナの建つ鉄塔の方向を指した。 「電波はいくらでも飛んでいますからね、捉えてしまえばこちらのものです」 「これ、飲めるには飲めるけど、結構苦い」 朝食を食べ終えた紀乃はゾゾが出してくれたドクダミ茶を一口啜ったが、その苦さに顔をしかめた。 「すぐに慣れますよ」 テーブルの向かい側に座るゾゾは、手の大きさに見合ったサイズの湯飲みからドクダミ茶を啜った。二人の使って いる食器は土色で、成形は見事だが彩色もされていない実用重視の焼き物だった。汁椀は木を削って作ったもので、 箸も同様だ。食材だけでなく、食器もまたゾゾの手で作り上げられている。 徹底した手作りぶりに紀乃は素直に感心したが、不思議にも思った。どうしてそこまで拘るのだろうか。異星人で あるゾゾは生活習慣も違うはずであり、食事に食器を使うとは限らないのに、手作りの食器においしい料理が盛り 付けられているし、洗濯もするし、風呂も沸かすし、野菜も栽培するし、干物も作るし、準備も良すぎるぐらい良い。 紀乃が抱いていた異星人の概念とは懸け離れていた。 「ゾゾって、なんだかお母さんみたい」 紀乃がちょっと笑うと、ゾゾは湯飲みを両手で包み込んだ。 「私はこの状況で成すべきことを成しているだけですよ、紀乃さん。何もせずにいれば、この島の豊かな資源が無駄に なりますし、じっとしているのは性に合わないんです。それに、あのお二人を放っておくのは居たたまれません」 「ミーコさんだけじゃなくて、小松さんも?」 「ええ。小松さんはガソリンをエネルギー源とする人型多脚重機に脳が癒着していますが、その脳を動かすためには 栄養が不可欠です。ですが、小松さんの多目的工作腕は大きすぎて精密作業は出来ませんし、マニュピレーターで 作物を採っても潰してしまいますし、箸もお茶碗も持てませんから、お一人では食事を摂れないんです。なので、食事時は ミーコさんに手伝ってもらっているんですよ」 「じゃ、小松さんとミーコさんは友達なの?」 「いえいえ。私も小松さんもミーコさんも友達ではありませんよ。ただ、同じ状況下にいる、というだけであって、本来の 目的に戻れば敵対することも辞しません。紀乃さんが我々と敵対することを決断なさっても、そうなりますが」 ゾゾは湯飲みを置き、急須を傾けて少しぬるくなったドクダミ茶を注いだ。紀乃は自分の湯飲みに残っていたドクダミ茶を 啜ったが、先程よりは苦みが舌にまとわりつかなかった。それだけ、このお茶にも慣れたのだろう。 素朴な土色の湯飲みを見つめる紀乃を見、ゾゾは言い過ぎたかと懸念した。だが、きちんと事実を示して おかなければ、後で困るのは彼女自身だ。人間側の立場を貫くのなら、幼い身の上で見定めた人生と向き合おう。ゾゾら インベーダー側に付いて人類に反旗を翻すのなら、喜んで受け入れよう。目を伏せている紀乃は、昨日一日で日焼けした 頬や鼻先が赤らんでいた。ジャージの半袖から出ている腕も、袖口を境目に肌の色が変わっていた。紀乃は答えが 見つからなかったらしく、ドクダミ茶を時間を掛けて飲んでいた。 それきり、会話は続かなかった。 朝食の後、二人は掃除に取り掛かった。 紀乃の部屋になった衛生室は、これまでゾゾも手出しをしていない部屋だった。だが、このままでは紀乃の体にも 良くないと言うことで、ゾゾは徹底的に掃除をしようと提案してくれた。環境の変化によるストレスの影響で急に生理が 来た紀乃は、体調は今一つだったが動けないほどひどくはないので、ゾゾを手伝うことにした。 掃除道具一式を抱えて尻尾の先に水が詰まったバケツを下げたゾゾは、ミーコの泥まみれの足跡が連なる廊下を 歩いて衛生室に向かった。磨りガラスの填った引き戸を開けると、紀乃は窓を開けていた。遠浅の海から届いた爽やかな 風が吹き抜け、紀乃は気持ちよさそうに深呼吸していたが、ゾゾが入ってきたので振り向いた。 「準備、早かったね」 「他にやることもありませんのでね」 ゾゾは尻尾を曲げてブリキのバケツを下ろし、雑巾とホウキとチリトリも床に置いた。ゾゾは紀乃にホウキとチリトリを 渡し、自分はバケツの水に雑巾を浸して固く絞った。 「布団とシーツも、後で洗ってあるものに取り替えましょう」 ゾゾは濡れた雑巾を広げながら、木製のベッドを見やった。年月と共に埃を吸い込んでいた布団を包むシーツには、 紀乃の汗に縁取られた体の形がくっきりと付いていた。紀乃はベッドを見、少し恥じ入った。 「夜は結構涼しかったんだけど、やっぱり……」 「そればかりは仕方ありませんよ。生理現象なのですから」 ゾゾは紀乃を促し、掃除を始めた。 「そういうゾゾは汗は掻かないの? 爬虫類だから?」 紀乃が埃を掃き集めながら言うと、ゾゾは木枠の窓を丁寧に拭いて水の筋も綺麗に拭き取った。 「ええ、そうなんですよ。元々、私の種族はそれほど体液の量が多くもありませんし、この星の現住生物に比べれば 新陳代謝が鈍いんです。私の生まれ育った星は太陽との距離が近かったので、太陽から遠ざかる冬が訪れるまでは 雨の一滴すらも降らない環境だったのです。なので、夏の間は水はおろか体液も貴重なので、自然とそういった構造に 進化していったのです。なので、一日に何度も排泄すること自体がまず信じられませんでしたね。ですから、ミーコさんが 島にいらしたばかりの頃なんて」 「わーわーわー!」 他人事ながら赤面した紀乃が慌てると、ゾゾは単眼を丸めた。 「そんなに恥じらうことですか? 排泄することは食事を摂ることと同じく自然な新陳代謝の摂理なのですが」 「恥じらわなきゃ人としてダメだと思ったから」 「私は人間ではありませんし、ミーコさんだって生物学的に言えば人間ではありませんよ。寄生体です。そう、喩える ならば、レウコクロコディリウムに寄生されたカタツムリのようなものですよ」 「それ、ちょっと知ってる。カタツムリに寄生して目玉に移動して、気持ち悪ぅい色になってぎゅいんぎゅいんしながら カタツムリを操って鳥に食べられるように目立つ場所に……」 理科の授業で見た映像を思い出した紀乃は生理的な嫌悪感で身震いし、ホウキの柄を握り締めた。 「そ、それが、ミーコさんと同じなの?」 「ええ」 ゾゾはこっくりと頷き、汚れた雑巾をバケツで洗い流してからまた別の窓を拭いた。 「ミーコさんの体内には、それはもうびっちりと寄生虫が詰まっているんですよ。寄生虫がミーコさんに寄生した経緯 までは存じ上げておりませんが、ミーコさんが詰め込まれていた死体袋に同梱されていた書類によれば、ミーコさん はまず最初に脳を食い荒らされて中枢神経から何から寄生虫に成り代わられ、その次に臓器の中でミーコさんの 体内に蓄積された栄養分を使って卵を産んで無数に繁殖し……」 「ひいいいいいいいっ!」 考えただけで寒気がした紀乃が後退ると、ゾゾはにやりと口の端を持ち上げた。 「ですので、紀乃さん。人間を見限った際には、私の側に付けばよろしいですよ? ミーコさんは見た目だけはまだ 人間らしいですが、中身はただの虫なのですよ。かといって、小松さんには私のような秀でた知能はありませんので、 人類をよりよい方向に導けるのはこの私だけなのです」 「ぜ、前言撤回」 紀乃は壁際まで逃げると、へっぴり腰ながらホウキを構えた。 「やっぱり、私、あなた達と戦うべきだと思う!」 「それはそれは。どうしてですか?」 戸惑いもせずにゾゾが紀乃を見据えると、紀乃は肩で息をした。 「だ、だって、物騒だから! 物凄く!」 「奇妙に見えるものでも、一巡りしてしまえばそれが一番まともだということも往々にしてありますよ」 「それはそうかもしれないけど、でも」 紀乃は唾を飲み下してから、涙目になった。 「寄生虫なんて、やだ。気持ち悪い。すっごいキモい。考えただけでキモすぎて朝御飯が戻ってきそう……」 「では、朝御飯が戻らないようなお話に切り替えましょう」 ゾゾは紀乃に歩み寄り、紀乃が構えたホウキを指先だけで軽く押しやった。 「や、やだぁ、聞きたくないぃ」 心底気持ち悪くなった紀乃は、青ざめていた。ゾゾが近付くことすらおぞましくなってしまい、朝食の席では笑顔を 浮かべていた顔が引きつった。その様が面白くなったのか、ゾゾは紀乃との距離を狭めてきた。紀乃の小さな体は ゾゾの影にすっぽりと隠れ、紀乃は唇が白くなるほど噛んでいた。埃の残る床に尻尾を引き摺って筋を付けながら、 ゾゾは身を屈めて紀乃の頭上に顔を近寄せ、囁いた。 「この島には野生のヤギが生息していまして、その乳を使ったプリンを作ってみたんです」 「た……卵は?」 プリンに反応した紀乃がゾゾを上目に見上げると、ゾゾは目を細めた。 「もちろん、野生のニワトリの卵です。砂糖はかつての島民が栽培していたサトウキビが野生化したものから」 「いつ食べられるの、それ!」 「昨日の夜に仕込みましたので、今日の午後には存分に冷えておりますことでしょう」 「じゃ、じゃあ三時のおやつってことだね!」 「そうなりますね」 「寄生虫は嫌だけど、プリンのためなら頑張れる気がしてきた」 紀乃はホウキを握り直すと、ゾゾの下から脱した。 「さあて、御掃除だ! もう二度とプリンなんて食べられないと思ってたから!」 一転して上機嫌になった紀乃は、先程よりも力を込めて床を掃き始めた。その様子を微笑ましく思いながら、ゾゾは 窓と窓枠を拭き、次に机とベッドも拭いた。紀乃はアイドルグループの歌を明るい調子で歌いながら、床を掃き、 その後は床全体に雑巾掛けをした。ゾゾは紀乃の歌詞が途切れ途切れで音程がいい加減な歌に合わせて尻尾を 振りながら、冷蔵庫で冷えつつあるヤギ乳のプリンに思いを馳せた。 おいしく出来ているといいのだが。 10 5/15 |