あの人が待っている。 そう思うだけで、少女のように胸が弾んでくる。だが、今はすぐに動けそうにない。慣れ親しんだ自分の体である とはいえ、形を作り替えてしまうと何もかも勝手が違う。骨格、筋力、血圧、脈拍、体温、視覚、聴覚、触覚は、どれも 全くの別物で、自然な動作はほとんど出来なかった。この上で記憶まで吸収していたとしたら、きっと脳の許容量を 越えてしまっていただろう。緊張のあまりに干涸らびた喉にミネラルウォーターを流し込んで潤してから、深呼吸し、 肺を膨らませて脳内酸素量を増やした。元の姿に戻る時に脱ぎ忘れていたためにサイズの小さいタイトスカートが 腰に食い込んできたので、ホックを外してファスナーを開き、こちらもまたサイズが合わなくなったパンプスを足から 外した。ブラウスも肩幅が狭くなって、袖の長さも短くなってしまったが、ブラジャーのカップのサイズだけは一切変化 しなかった。それが楽である反面、妙に悔しくなった。そこだけは田村秋葉と同レベルなのか、と。 脳が煮えたように痛い。全身の骨と筋肉が悲鳴を上げている。内臓が嫌な熱を帯びている。ありとあらゆる細胞が 傷み、少しでも気を抜けば、物理的にも精神的にも自分自身が崩壊してしまいそうだった。あの人が待っている、 と思うからこそ、心身を維持出来ている。こんな自分を支えてくれるのはあの人だけだ。だから、役に立ちたい。 柔らかなサスペンションと滑らかなエンジン音を感じ取りながら、真波は苦痛と闘っていた。少しでも気を抜けば、 今し方飲んだばかりの水を戻してしまいかねない。あの人が手配してくれた政府高官御用達の公用車の運転手は、 後部座席に入った途端に別人の姿に変化した真波に対して何の反応も示さず、黙々と運転していた。大方、通常の 給料の代わりに口封じのボーナスを与えられているのだろう。窓にはスモークが貼られているが、肌を曝していると 落ち着かないので、真波は後部座席に置いておいた自分のスーツを着ることにした。黒いタイトスカートを脱いで から黒のストッキングも脱ぎ、自分の趣味とスーツの色合いにあったストッキングを履き直した。ブラジャーも本来の 趣味とは懸け離れていたが、この場では着替えようがないので諦めた。糊の効いたブラウスに袖を通し、制服よりは 少しだけ洒落っ気のあるブランド物のタイトスカートを履き、それに合わせたジャケットを羽織り、大学の卒業祝いにと あの人から送られたスカーフを巻いた。メガネを掛けて髪をまとめようとしたが、バックミラーに映る自分の姿を 見て考え直した。今日ぐらいは、女っ気を出してもいいはずだ。だって、あの人に会いに行くのだから。 ハンドバッグから取り出したコンパクトを覗き込み、いつもよりは少しだけ強めに化粧を施しながら、真波は心中の 高ぶりが押さえられなかった。これまでは、どれほど近くにいようとも会えなかった。会いたくても会いたくても、あの 忌々しい甲型生体兵器がまとわりついていた。仕事の合間に顔を合わせたとしても、真波の主任としてのプライドが 邪魔をして甘えられなかった。だが、今日は違う。任務後に二人だけで会おう、と言ってくれたのだから。嬉しすぎて 胸が詰まり、自然に頬が綻んでくる。体の芯が熱く、甘い熱情が溢れてくる。触れられる様を想像しただけでも肌が 粟立ち、背筋がぞくぞくする。あの人を独占出来ると思うと、それだけで何もかもがどうでもよくなる。 数十分のドライブの後、公用車は止まった。真波は運転手に礼を述べると、思い切って買った大胆なデザインの プラダのパンプスを履き、去年のボーナスを丸々注ぎ込んで買ったエルメスのバーキンを携え、公用車から下りた。 香水でも拭こうかと思ったが、それではさすがにやりすぎだ、と自戒した。いくら浮かれているからと言っても、あまり 派手な女になってしまってはあの人を困らせてしまう。真波は自分の浮かれぶりに情けなくなりながら、目を上げて 進行方向を見据えた。パンプスよりもジャングルブーツで踏み入るべきであろう、ショッピングモールの廃墟が真波の 到着を待ち侘びていた。高級ブランドだけあって履き心地は抜群だが、まともに履いたのは今が初めてなので、 颯爽と歩けはしなかったが転ばないように気を付けながら歩いた。張り巡らされている鉄条網を辿って進むと、警備 のために配備されている自衛官達が入り口を守っていた。彼らは真波に敬礼し、金網が張られた扉を開けてくれ、 真波は彼らに一礼してから中に入った。途端に背後で扉が閉まり、施錠されたが、恐怖心など一切湧かなかった。 むしろ、真波とあの人しかいない世界を作ってくれた歓喜が込み上がってくる。走っていきたいところだが、せっかくの パンプスをダメにしてしまうので気を付けて歩きながら、真波は崩れかけた建物に入り、あの人の姿を探した。 METEO、とのショッピングモールの店名が記された壁を背にして、あの人は待っていてくれた。息を切らしながら 真波が近付くと、彼は大きな手の間に広げていた本を閉じた。それを砂埃を被ったベンチに置くと、愛おしげに目を 細めてくれた。それだけで真波は膝を折ってしまいそうになり、よろけるように歩いて近付いた。 「……局長」 「体はどうだい、真波」 割れた天井から差し込む光条を浴びながら、竜ヶ崎全司郎は笑った。 「え、ええ、なんともありません」 本当はまだ体中が痛んでいたが、真波は心配された嬉しさで頬を緩めた。 「おいで」 竜ヶ崎は両腕を広げ、真波を見下ろす。真波は一瞬躊躇ったが、エルメスのバーキンを投げ出し、倒れ込むように 竜ヶ崎の胸に体を収めた。長らく求めていたものに手が届いた幸福感で息苦しささえ感じ、真波は喘いだ。 「守備はどうだい」 優しく、柔らかい声が、真波にだけ囁かれる。 「はい。局長の御想像通りに、事は動いています。あいつらは、いずれ、竜の首を奪いに来ます」 真波は竜ヶ崎のカッターシャツにそろそろと指を這わせ、厚い背を引き寄せた。 「そうか。気付かれなかったかい」 真波の震える背に大きな手を添えながら、竜ヶ崎は腰を曲げる。真波は陶酔しきっていたが、答えた。 「忌部かすがには、感付かれたかも、しれません。かすがを伊号に近付けるべきではなかったかもしれません」 「そうか。だが、かすがには何の力もない。私の妨げにはならないよ。だから、不安に思うことはないよ」 竜ヶ崎は真波の黒髪を一束持ち上げ、口元に添える。 「はいぃ……」 真波はまともに返事をしようとしたが、興奮と高揚は膨らむ一方で、滑舌も鈍るほどだった。竜ヶ崎は真波の髪を 分けて首筋に顔を埋め、上等な花の香りを味わうように、緩やかに呼吸した。冷たい舌の尖端が首筋に軽く触れ、 僅かばかり上に動く。それだけのことなのに、真波の精一杯の自制心は蹂躙されて膝が折れた。 「君は本当に綺麗だよ、真波」 ざらついた肌の手はスカーフを緩め、カーラーの隙間に指を差し込み、薄い肌をするりとなぞった。 「ふぁうっ」 真波が耐えきれずに声を上げると、竜ヶ崎は腰に回した腕に力を込めてくる。 「私を欲するか?」 「は、はいぃ。私は局長の御寵愛を受けるためでしたら、なんだって」 「私を望むか?」 「はい。ずっと、ずっと、望んでおりました」 「私を信じるか?」 「当たり前です。私があなたを信じないわけがありません」 「私を愛するか?」 「ええ、心から」 「ならば、その証しとして私を導いてくれ。遠き彼の地へ」 竜ヶ崎の笑みは優しさを保っていたが、底知れぬ欲望にぎらついていた。それすらもどうしようもなく愛おしくて たまらず、真波は求められる嬉しさのままに全てを許した。触れられる範囲が増えるだけで涙が出そうになり、 囁かれる言葉が多いだけで命まで投げ出したくなる。硬くざらついた手で滑らかな肌を探られながら、真波は 頬を引きつらせて笑っていた。単純な幸福感だけではない、圧倒的な勝利感からだった。 竜ヶ崎全司郎は、物心付く前から真波の全てだ。真波の生家である一ノ瀬家は、ただの一度も父親がいた試しが ない。曾祖母も祖母も母親も、皆、妾だからだ。滝ノ沢家の曾祖父の愛人だった曾祖母は祖母を妊娠したがために、 滝ノ沢家の曾祖父から捨てられた。だが、旧い時代に女手一つで子供を育てるのは容易いことではない上に、 滝ノ沢家の住む土地から離れられなかったので世間からも白い目で見られて、語り尽くせないほど苦労したそうだ。 なんとか祖母を育て上げた曾祖母は若くして命を落とし、祖母はこの世に一人だけ残された。戦時中であったことも あり、祖母は地面を這いずり回って食うや食わずの生活をしていたところ、竜ヶ崎全司郎に助けられた。だが、本家 である竜ヶ崎が妾の子を寵愛するのは良く思われるはずもなく、祖母の生活が持ち直したところで別れさせられた。 けれど、その後も竜ヶ崎は何かと祖母に世話を焼いてくれ、ごく自然な流れで母親が産まれた。その後、若い頃に 苦労を重ねたせいか病を煩った祖母が亡くなると、母親が竜ヶ崎に近付くようになった。その結果、真波がこの世に 生を受けた。だが、母親は真波にそれほど興味を示さず、母子二人が慎ましく暮らす安アパートに足を運んでくれる 竜ヶ崎にばかり執心していた。真波が近付こうとすれば、母親は醜く嫉妬して蔑んできた。竜ヶ崎を独占するためには どんなことも厭わず、真波をダシにしたことも一度や二度ではなく、母親の口から竜ヶ崎全司郎の名が出ない日 はなく、竜ヶ崎全司郎の話題しか昇らなかった。鬱陶しく感じた時もあったが、おのずと竜ヶ崎に興味が湧き、母親の 目を盗んで会うようになった。竜ヶ崎は最初に会った時から真波を可愛がってくれ、欲しいもの、行きたいところ、 見たいもの、などの全ての欲望を叶えてくれた。買い与えていない服や持っていなかった本を隠し持っている 真波に気付いた母親は、すぐに感付き、真波を虐げた。だが、真波は竜ヶ崎を独占出来る優越感で、どれほど 殴られようとも蹴られようともへらへらと笑い続けた。けれど、そんな母親も死んだ。 なぜならば、宮本都子に殺させたからだ。本家の御前様に似た文字で手紙を書いて血族の男達に送り、本家の 御前様の名で分家の邸宅の大広間に集まらせ、宮本都子本人にも本家の御前様を騙った手紙を書いて送り付け、 ありもしない集まりに呼び出した。宮本都子の能力と性質については事前に調査済みだった。だから、どんな結果 になるのかは簡単に想像が付いていた。母親は妾なので、邸宅を解放した分家から小間使いの人数合わせに呼び 出された。それがなかったら、本家の御前様の筆跡を真似た手紙を出して母親を呼び付けていただろう。そして、真波が 予想した通り、抗体のような存在として生まれた宮本都子は血族の男達を手当たり次第に殺し、邪魔な母親もついで に殺してくれた。宮本都子による殺戮の結果、御前の名を継げる血の濃さを持った人間は滝ノ沢家からも竜ヶ崎家 からも失われ、真波にお鉢が回ってきた。母親が死んだ時と同じか、それ以上に嬉しい出来事だった。 「御前様ぁ……」 真波は竜ヶ崎の胸に汗ばんだ頬を寄せ、潤んだ目を細めた。 「真波」 竜ヶ崎の太い指が乱れた髪を梳き、するすると通り抜けていく。 「私は君を信じているよ。君の娘も」 「ええ……」 口ではそう答えたが、真波は火照った体の中心に濁った熱が凝った。竜ヶ崎の、いや、本家の御前様を母親から 奪って銜え込み、渇望のままに愛し合った末に子供が生まれてしまった。それが女であるというだけで、産んだ瞬間 から嫉妬に駆られた。出来ることなら、ヘソの緒を切る前に絞め殺してしまいたかったが、竜ヶ崎は真波が孕んだ 子の誕生を楽しみにしていたから絞め殺せなかった。自分が母親から竜ヶ崎を奪ったように、いずれはあの娘も 真波から竜ヶ崎を奪いかねないからだ。竜ヶ崎の背に浅く爪を立てながら、真波は唇を噛んだ。 一刻も早く死んでほしいから、危険な任務に従事させているのに。さっさと活動限界を迎えて欲しいから、能力を 酷使させているのに。一週間ごとに記憶を失うことすらも鬱陶しいから、あからさまに蔑んでいるのに。それなのに、 娘は、波号は一向に死ぬ気配がない。いっそのこと、インベーダーの襲撃を装って殺してしまおうかと思った瞬間も あったが、上手くいきそうにもないので断念せざるを得なかった。竜ヶ崎の少し冷たい体温と衰えを知らない肉体を 味わいながら、真波は熱い吐息を零し、嫉妬心を紛らわすために快楽に溺れた。 太い尻尾の尖端が、汗の粒が散るコンクリートを擦った。 綺麗すぎる夕焼けが、空しいったらない。 助手席には愛すべき彼女の代わりに無駄に大きなケーキ箱が収まり、箔押しされた店名のロゴがオレンジ色の 日光を浴びてぎらぎらと輝いていた。アモーレ・ローズ。その中身は、機械油臭いサイボーグと化粧臭い美貌の双子の 奇妙なお茶会で食べきれなかった、玲於奈の試作ケーキが詰め込まれていた。山吹も生身の頃から甘いものは 大いに好きだが、いくらなんでもこれでは量が多すぎる。十号のデコレーションケーキが入るサイズのケーキ箱に、 隙間なく試作品が押し込まれていて、ものによっては試作段階だけあってデコレーションが崩れているものもある。 玲於奈は性格と服装はアレだがパティシエとしての腕前は本物なので、多少形が崩れていても味は最高なのだが、 さすがに限度がある。変異体管理局と川崎側の陸地を繋ぐ連絡通路の手前で車を止め、山吹はサイドブレーキを 引いてからエンジンを切り、ハンドルを抱きかかえるように項垂れた。例のブツは、未だ、自分の手元にある。 「結局、むーちゃんからはメールも来なかったし……」 シートベルトを外して運転席から下りた山吹は、気晴らしにとタバコを抜いてマスクの隙間に挟んだ。 「俺ってば、なーにやってんすかねぇ」 頑張ろうとすればするほどに空回りして、滑稽極まりない。スーツのポケットを探ったが、ライターが見つからない のでシガーライターで火を灯すと、紫煙がゆったりと昇り始めた。それを吸い込むが、味なんかほとんど解らない。 吸排気フィルターがヤニで汚れるだけなのだが、人間らしさが得られるような気がして止めるに止められずにいる。 コンクリートで固められた海岸に連なるフェンスに寄り掛かり、タバコを蒸かしていると、変異体管理局の方向から 聞き覚えのある小さなエンジン音が接近してきた。山吹が連絡通路を見やると、ヘルメットとゴーグルを被って赤い ベスパに跨った秋葉が現れた。秋葉もすぐに山吹に気付き、方向転換して海岸に向かってきた。ブレーキを掛けて エンジンを止め、スタンドを立ててヘルメットを外した秋葉は、太い三つ編みを揺らしながら駆けてきた。 「丈二君。今、帰り?」 「あ、ああ、まあ。え、あれ?」 伊号の父親の四十九日法要に行ったのでは、と山吹が訝っていると、秋葉は気まずげに目を伏せた。 「丈二君。もしかして、どこかに行ってきた? 私にメールを出した? 電話もした?」 「あー、ああ、まぁ」 メールの返信がないから、電話も何度か掛けてみたが、電源が入っていないとのアナウンスばかり聞こえてきた。 だから、山吹は秋葉に振られたのだと判断し、仕方ないから玲於奈と留香を相手に話し込んだのだが。 「私の管理不行き届き。携帯が行方不明。その上、主任から資料整理を命じられていた」 薄手のジャケットを羽織った秋葉は、制服と大差のない地味なスカートを押さえた。 「明日の会議で必要だと言われて。だから、始業前に当たる時間から始めたのだが、量が多すぎたために通常の 勤務時間内には終わらず、残業になると判断して夕食の買い出しに出てきた次第。公休日は、食堂も売店も全て 休業してしまっているから」 「え?」 山吹がきょとんとすると、秋葉は目を丸めた。 「何?」 「それ、変っすよ。俺が知る限りだと、今日、むーちゃんはイッチーの親父さんの四十九日の法要に付き合っていた はずなんすよ、四十九日に。それが、なんでそんな仕事をしているんすか?」 「イッチーの父親の四十九日? 私はそんなことは把握していない」 「だとすると、これ、誰が送ってきたメールなんすかね?」 山吹はスーツの内ポケットから携帯電話を取り出してフリップを開き、秋葉からの返信のメールを見せた。 「解らない。だが、私の携帯を所有し、利用している事実は否めない」 秋葉は自分の名を騙って送られたメールを見、訝った。 「はーちゃん……じゃあ、ないっすよね?」 山吹が秋葉とメールを見比べると、秋葉は即答した。 「それはない。はーちゃんは季節変動による体調不良で、昨夜から点滴を受けている。医師と看護士も傍に 付いていたし、私も仕事の合間に顔を見に行っている。だが、私を騙る理由が解らない」 「そこなんすよねぇ。でも、このことは誰にも喋らずにいるべきじゃないっすか?」 「なぜ。イッチーにも主任にも局長にも報告すべき事態では」 「なーんか、きな臭いんすよ。だから、気付かなかったことにしておいた方が身のためじゃないっすかね」 「不可解」 「そりゃあ俺も不可解っすけど、考えるのは明日でもいいっすよ、明日でも。むーちゃんも仕事で疲れたはずっすし、 余計なことを考え込んだら、眠れなくなっちゃうっすよ。晩飯は俺が適当に見繕ってくるっすから、むーちゃんは これでも食べたらいいっす。玲於奈のケーキ、マジてんこ盛り!」 山吹がずしりと重たいケーキ箱を差し出すと、秋葉は目を丸めて箱を凝視した。 「玲於奈君の?」 「味の保証は言うまでもないっすよー、味の保証は」 山吹は火を付けたままになっていたタバコの火がフィルターまで来たので、マスクの隙間から引き抜き、運転席の ドアを開いて灰皿にねじ込んだ。秋葉はフェンスの台座を椅子代わりに腰掛けると、膝の上にケーキ箱を置いて、 早速蓋を開けた。途端に甘ったるい匂いが溢れ出し、疲れが浮かんでいた秋葉の面差しが和らいだ。秋葉は少し 躊躇っていたが、食欲に負けたのか、ハンカチで手を拭ってからケーキを一切れ取り出して囓った。 「おいしいっすか、むーちゃん?」 山吹がにやけると、秋葉はモンブランを頬張ったまま、頷いた。モンブランを食べ終えると、パンプキンのシフォン ケーキに取り掛かった秋葉を横目に見つつ、山吹は手近な自動販売機で秋葉の飲み物を買ってやろうと、その場 から離れた。こうなっては、秋葉は食べることにだけ集中してしまう。小柄で華奢で物静かだが、秋葉は外見からは 想像も付かないほど食べるのだ。エンゲル係数は心配だが、秋葉が幸せな顔をしているのを見るのは楽しいので、 止める理由もない。数枚の小銭を取り出した山吹は、自分の分の缶コーヒーと秋葉の分のストレートティーを買い、 二つの缶を携えて秋葉の傍らに戻った。ケーキ箱の中を見てみると、秋葉は三分の一は食べ終えていた、表情も 心なしか明るくなっている。口の端に付いたクリームも拭わずに次のケーキに手を掛けた秋葉の隣に座った山吹は、 今日もプロポーズは無理だな、と判断し、真顔でケーキを頬張る秋葉を見て思わず笑ってしまった。 愛しているな、と実感した。 10 10/31 |