生臭い、息苦しい、怖い、怖い、怖い。 顎の震えが止まらず、喉がひくひくと痙攣して痛い。心臓が破裂しそうなほどに暴れ回り、押さえ付けられた手足は 棒のように突っ張ったまま、力がまるで入らない。涙でぼやけた天井と単眼の巨体を見上げて、紀乃はがちがちと 奥歯を鳴らしていた。万歳をするように挙げられた両腕を畳に押さえ付けている手はぞっとするほど冷たく、その手の 主である真波の目は不気味に細められていた。背中に触れているのは畳ではなく上等の布団で、竜ヶ崎は最初 からそのつもりだったのだ、と今更ながら紀乃は痛感した。竜ヶ崎に軽々と抱えられて、奥の間に程近い主寝室に 連れ込まれ、既に準備されていた布団に転がされ、竜ヶ崎と真波に手足を押さえ付けられた。油断していたわけ ではない、だが、竜ヶ崎全司郎という男について知らなさすぎたのだ。少しでも解っていたら、素直にゾゾの言うこと を聞いておくべきだった。 「そうだとも。だが、すぐに後悔することもなくなる」 竜ヶ崎の冷たくも硬い手が、じっとりと汗ばんだ紀乃の足を這う。 「そうよ、御前様の仰る通りなのよ。御前様の御寵愛を受けられるのだから、もっと喜ばなければならないのよ」 真波は煮え滾らんばかりの憎悪が滲むおぞましい笑みで、紀乃を見下ろしてくる。 「嫌だぁっ!」 震える声を上擦らせ、紀乃は胸を反らして抗った。だが、途端に竜ヶ崎の尻尾が腰に絡み付いた。 「最初から精を注ごうというのではないよ。私でなければ、満たされぬようにするだけだ。身も心もな」 竜ヶ崎は大きく裂けた口を薄く開き、牙の隙間から細い舌先をちろりと出した。腰を容赦なく締め付けてくる尻尾の 太さと冷たさで背筋が逆立ち、紀乃は吐き気すら覚え、唇を噛んだ。竜ヶ崎の右手は、呂号から借りたホットパンツ から伸びる素足を丁寧になぞってくる。ピンヒールの編み上げブーツを脱がなかったら、竜ヶ崎の顔でも手でも何でも ヒールで抉っただろう。だが、それすらも出来ない。ゾゾの尻尾が素足に触れた時はやたらと恥ずかしかったが、 決して嫌ではなかった。竜ヶ崎の手や尻尾はゾゾのものと同じ感触かもしれないが、触り方は全然違う。ゾゾは紀乃に 触れる時、執拗に内股を撫でたりはしない。ホットパンツと肌の間に指を入れ、太股をぐるりと撫でたりはしない。 脹ら脛からアキレス腱に掛けて、何度も何度も手を往復させたりはしない。尻尾を持ち上げて紀乃の腰を浮かせ、 丸みが出来上がりきっていない尻を舐めるように触れたりはしない。せめてもの抵抗として足を閉じようとするが、 竜ヶ崎は紀乃の足の間に体を入れて阻んできた。ざらりとした袴と羽織が肌に触れ、それがまた嫌だった。 「あ……あんたなんかゾゾじゃない、もうどこにも触らないでぇっ! お願い、誰か助けて、忌部さん、忌部さぁん! 死んでないよね、死んじゃダメだよぉっ、死なないでぇええええっ!」 紀乃は涙を散らしながら庭に面した廊下に向けて絶叫するが、返事はなかった。だが、その代わりのようにバイク と思しきエンジン音が流れてきた。音源は庭を破壊しながら一直線に主寝室に向かって突っ込み、鋭い爆音を放つ 機械の猛獣は障子戸の向こうに止まると同時に何者かが飛び込んできた。 「俺のっ!」 泥と機械油に汚れたライダースブーツが障子戸を呆気なく貫き、紙片と木片が散る。 「娘にぃいいいっ!」 ざざざっ、と畳に靴底を擦らせて汚れもべっとりと擦り付けながら制動した男は、鋼鉄と化した拳を振るった。 「手ぇ出すんじゃねぇぞクソ野郎がああああああっ!」 黒いヘルメットに光が撥ね、ライダースジャケットが翻った。紀乃が呆然としている目の前で、虎鉄は躊躇いもなく 竜ヶ崎の横っ面に鉄拳をめり込ませた。竜ヶ崎は紀乃に余程気を取られていたのだろう、一瞬反応が遅れ、綺麗に 右ストレートを浴びて吹き飛んだ。同時に紀乃の腰に絡めていた尻尾も解け、竜ヶ崎の巨体は横転しながらふすまを 破壊し、外れて折れたふすまの奥からは中庭が覗いた。虎鉄は右手を大きく振ってから、真波を一瞥した。 「女のくせに、子供を手込めにする手伝いなんかしやがって」 「御前様を殴っておいて、ただで済むと思っているの?」 真波は紀乃の腕を放し、苦々しげに毒突きながら身を引くと、虎鉄はごきりと指の関節を鳴らした。 「あんたこそ、いい加減にしろ。あのクソ野郎に媚び売ったって、人生を無駄にするだけだ」 「そうなのよねぇっ!」 庭先で大きな水音が起きたかと思うと、真波の背後のふすまが一瞬にして溶解し、奇妙な色合いの液体が真波の 手足に絡み付く。虎鉄はすぐさま真波の手足に絡み付いた液体に右手を突っ込むと、水に墨を落としたかのように 鈍色に変化して凝固した。両手足を封じられた真波が仰向けに倒れると、今度は畳も溶け、手足が沈んだ。 「どうせ生きるんなら、有意義に生きるべきなのよねぇん」 渦を巻きながら元の姿に戻った芙蓉は、バイオスーツのヒールを畳に埋め、真波を見下ろした。 「馬鹿馬鹿しい。あんた達の言う有意義ってのは、たかが自分の腹からひりだしたガキのために、一生を棒に振る ってことでしょう。そんな下らないことのためによくもここまで出来るわね、呆れるわ。あんた達が素性を誤魔化して 生体兵器として変異体管理局に入ってきたことぐらい、最初から解っていたわよ。能力が多少は使えるものだった から、騙されたふりをしてやっていただけよ。あんた達程度のミュータントなんて、私達の敵じゃないわ。すぐに他の 部隊がやってくる、馬鹿な娘と一緒に嬲り殺しにされるがいいわ」 真波は怯むどころか、虎鉄と芙蓉を睨み付けてきた。 「さっさと行くぞ、紀乃。こんな奴に構っている時間はない」 虎鉄はライダースジャケットを脱いで紀乃に被せてから、背中を叩いて促してきた。 「でも、なんで……?」 紀乃は助けられた嬉しさと混乱の中、二人を見比べると、芙蓉はにんまりと笑った。 「その辺については追々説明するけど、今はそれどころじゃないのよね」 「だったら、忌部さんも連れて行かないと! あの人、さっき、胸に穴を開けられて!」 紀乃が忌部が倒れている場所に駆け出そうとすると、虎鉄はその腕を引いて押し止め、バイクに向かせた。 「それなら大丈夫だ、ほれ見ろ」 縁側には背景にそぐわない大型アメリカンバイクが停車していて、そのサイドカーには見覚えのある着流しの男が 突っ込まれていた。だが、その布地には柔らかさはなく、鋼鉄と化していた。着流しの中身である包帯まみれの男も 同様で、胸から流れ出した血もそのままの形を止めている。紀乃がぎょっとすると、虎鉄は肩を竦めた。 「ああでもしないと、次郎の奴は失血死しちまうんだ。だから、勘弁してやってくれ」 「とにかく、さっさとこの場から移動するのよね!」 芙蓉はにゅるりと下半身を溶かして滑るように移動し、紀乃を背後から抱きかかえると、鋼鉄と化している忌部が 押し込められているサイドカーに強引に乗せた。腰を折り曲げるようにして手狭な座席に突っ込まれてしまったが、 急展開続きで脳が麻痺してきたのか、紀乃は目を丸めているだけだった。先程と同じエンジン音がすぐ傍で轟き、 ガソリン臭い排気をマフラーから吐き出される。虎鉄が運転するアメリカンバイクは玉砂利と庭の植木を蹴散らして 発進し、急加速して門に向かった。倒れ伏した格好のままサイドカーに突き立てられている鋼鉄の忌部をなんとか 押し退け、サイドカーのバイザー越しに顔を出したが、紀乃はすぐさま首を引っ込めた。途端に竜ヶ崎邸の門の外で 待機していた自衛官達が、すかさず発砲してきたからだ。綺麗に整えられた庭木が撃ち抜かれて枝葉が飛び散り、 敷石に跳弾し、池にも着弾して水が撥ねる。虎鉄は自衛官達が撒き散らす弾丸のほとんどを裸の上半身に浴び、 ヘルメットにもいくつもの弾痕が出来ていたが、全く動じずにハンドルを切る。紀乃と忌部が乗っているサイドカーを 庇うようにカーブさせた後にブレーキを掛け、ドリフト走行の状態で自衛官達目掛けて突っ込んでいく。生身の人間 でしかない彼らは弾かれたように逃げ出したが、その奥には紀乃と忌部を護送してきた装甲車が待ち構えていた。 が、虎鉄はスピードを落とすどころかブレーキハンドルを緩めている。今更ながら恐怖感を覚えた紀乃は頭を抱え、 サイドカーの中で身を縮めると、頭上を涼やかな水の流れが通り抜け、装甲車の側面に突っ込んだ。 「行くぞ!」 「はぁーいっ!」 虎鉄がサイドカーごとウィリー走行させると、装甲車を一瞬にして溶かして真っ二つにした芙蓉が元の姿に戻り、 虎鉄の後ろの座席に滑り込んできた。どろどろに溶解した装甲車の中からは自衛官達が我先にと逃げ出したが、 皆、武器以外は不思議と無傷だった。芙蓉は、その能力で溶解させるものを限定出来るのだろう。進行方向だけを 見据えている虎鉄の背を守るため、芙蓉は後部座席の上に立ち上がる。転げ出るように一般道に入ったアメリカン バイクを追って、自衛隊のジープが唸りを上げて迫ってくる。芙蓉は長い髪を靡かせながら、バイオスーツの手袋を するりと右手から引き抜き、バイオスーツを溶かして一握の液体に変化させ、アスファルトに横一線に振りまいた。 直後、アスファルトが地面ごと溶解して真っ二つに割れ、バイオスーツが原料の液体が作り出した裂け目が一気に 拡大して道路自体に一メートル程度の溝が出来上がった。交差点を曲がるたびに新たなジープが追い掛けてきたが、 その度に芙蓉はバイオスーツの一部を溶かして道路を真っ二つにし、追っ手を遠ざけていった。 気付いた頃には、道路には虎鉄の運転するアメリカンバイク以外の車両は走っていなかった。大方、警察が早々に 交通規制を掛けたのだろう。雷鳴を思わせるエンジン音と共に襲い掛かってくる強烈な風音で周囲の様子は解り づらかったが、何が起きているのか把握しておかなければ、と、紀乃は恐る恐るバイザーの下から外を窺った。 「貸してやる。そのままじゃ危ないからな!」 虎鉄が放り投げてきたヘルメットがサイドカーに転げ落ちたので、紀乃はそれを受け取って被った。 「何が何だかさっぱり解らないけど、とりあえず、ありがとう」 「いいってことさ。本番はこれからだ、気合い入れておけよ、紀乃!」 ヘルメットを外した虎鉄は、鋼鉄化している横顔を綻ばせた。その腰に腕を回して抱き付いている芙蓉は、暴風に 弄ばれる長い髪を掻き上げ、やはりヘルメットを外した顔で紀乃を見下ろし、エンジン音に負けぬ声を張った。 「全部終わったら、うちに帰って晩御飯にしましょう!」 その顔を見た途端、紀乃はヘルメットの下でぐっと唇を噛んだ。泣き出したくもあったが、それ以上に自責の念に 襲われた。紀乃は喉が締め付けられたかのように息苦しくなり、手近にあった忌部の固まった腕を握り締めて慟哭 の衝動を抑え込んだ。芙蓉は優しい眼差しで紀乃を見つめ、あの日、引き離された時と変わらない優しさを湛えた 笑みを浮かべている。虎鉄は手足のようにアメリカンバイクを操って目的地を目指しながらも、時折、紀乃や背後の 妻に気を向けていた。ハンドルを握り締めている分厚く硬い手は、色と物質こそ違えど、紀乃を撫でてくれたあの手と 同じものだった。虎鉄の広く頼りがいのある背は傷だらけになっていて、背骨や骨盤の上に稲妻に似たひび割れの 跡がいくつも走っている。あの背の温もりを知っているのに、なぜ、今の今まで気付かなかったのだろうか。紀乃は 竜ヶ崎に襲われかけた恐怖を凌ぐ恐怖に襲われ、がくがくと震える肩を乱暴に抱いた。忘れるはずもない、二人は 紀乃の両親だ。斎子鉄人だ。斎子溶子だ。それなのに、二人を本気で殺そうとした瞬間がある。 敵だから、というだけで。 緊急出動要請が掛けられて、五分が経過した。 二十分以内に海上基地から出動し、出来る限り早く現場に到着しなければならない。だから、たったそれだけの 時間であっても貴重な時間だ。格納庫の物陰に隠れた秋葉はコンクリートがこびり付いたストッキングと制服を一息 で脱ぎ捨てると、格納庫内にあった山吹のロッカーから借りた戦闘服を着たが、どれもこれもサイズが大きすぎて袖も 裾も余り放題だった。ジャングルブーツに至っては十センチ近くサイズが大きく、とてもじゃないが歩けそうにない ので、秋葉と足のサイズが近い整備員から安全靴を借りていくことにした。髪を結んでおきたかったが、そこまでの 贅沢は言えないので、秋葉は安全靴の紐を絞ってから物陰から出た。 格納庫内は、正に戦争だった。波号によって壁や床から脱した整備員達は、皆、服のそこかしこにコンクリートの 破片が貼り付いていたが、それに構う暇すらなく忙しく動き回っていた。機体の胴体部分を床に埋められてしまった 電影は、中枢部分だけを取り出して別の機体に移し替えている。ガニガニは電動ドリルやハンマーなどで外骨格の 隙間に入り込んだコンクリート片を荒々しく叩き割られているが、彼はそれが怖いらしく、長いヒゲが不安げに左右に 揺れている。必要最低限の輸送車両と戦闘員は揃えておきたいところだが、時間も足りなければ、動けるように なった人員の数も圧倒的に足りない。格納庫内とその近辺の人員だけは脱したが、その他がまだだった。管制室の オペレーター、戦闘機の操縦士、戦闘部隊の指揮官など、いくらでも思い付くが時間が足りなさすぎる。 「んで、あたしは何すりゃいいの」 格納庫の裏口から入ってきた伊号は、万能車椅子のキャタピラを鳴らしながら近付いてきた。 「作業機械を遠隔操作して局員達の救助活動、及び、現場のオペレート。手が空き次第、戦闘に参加してもらう」 秋葉は伊号に指示を出すと、伊号はロボットアームの尖端で髪をいじった。 「んだよ、実戦は後回しかよ。マジかったりーんだけど」 「緊急事態につき、意見は受け付けられない。指示通りに行動すべき」 「緊急つってもさー、局長が連れてこさせた乙型一号と忌部の野郎が逃げ出したぐらいだろ? ここまで大騒ぎする ほどのことでもねーんじゃね? 虎鉄と芙蓉の反乱にしたって、電磁手錠さえ使えば制圧出来るし」 「局長が虎鉄に襲撃され、負傷した。それだけ言えば充分」 秋葉は気怠げな顔の伊号を睨み、語気を強めた。この緊急事態に危機感の欠片もない伊号に苛立ちを覚えたと いうこともあって刺々しくなってしまったが、それが図らずも伊号の戦闘衝動を必要以上に煽り立ててくれたらしい。 伊号は目を大きく見開き、唇を憎たらしげに歪めて喚いた。 「んだよそりゃああああああっ!」 伊号が迸らせた激情の脳波が手近な機械に反応し、火花のように炸裂した。そこかしこで故障を示すアラームが 鳴り響き、五分前まで電影として稼働していた人型軍用機はショートして内部から黒煙を上げ、人型軍用機の 整備ユニットが独りでに暴れて太いチェーンが壁に叩き付けられた。伊号は荒く呼吸し、左右に目を配らせた。 「見た。解った。てか、動くの遅すぎんだよ、お前ら! 全部あたしに任せろ、どいつもこいつもぶっ殺してやる、乙型 一号だろうが虎鉄だろうが芙蓉だろうが馬鹿兄貴だろうが関係ねぇ、局長に手ぇ出しやがった時点でマジ死刑決定 だし! いいか、じっとしてろよ、五分で焼き尽くしてやる! 装填済みのパトリオット、あんだろ! そいつをあたしに 貸せ、どこに隠れていようが一発で仕留めてやらぁああああっ!」 自由の利く首を目一杯前に突き出し、伊号は金切り声を上げる。秋葉は伊号を押さえ、負けじと声を上げる。 「それはいけない! 生体兵器と言えども越権行為! ともすれば、局長にも被害が及ぶ!」 「そんなんするわけがねーし! あたしのチカラ舐めてんじゃねぇぞ!」 伊号は万能車椅子のキャタピラを回転させ、秋葉を振り解こうとロボットアームを振り翳した。それが秋葉の手足を 捉える、かと思いきや、万能車椅子は主の命令を無視してロボットアームを折り畳み、それどころかキャタピラの 動きもぴたりと止まった。押さえ付けられる寸前だった秋葉は二三歩後退して伊号と距離を取ると、伊号は苛立ちを 発散しきれなかった苛立ちで呻きながら、万能車椅子を停止させる脳波を出した主に怒声をぶつけた。 「あたしの邪魔すんじゃねーぞ、はーちゃん! てか、なんであたしの真似してやがんだよ!」 「邪魔じゃないもーん。真似でもないもーん」 嵐のように人間が動き回っている格納庫の片隅で、ヘッドギアもゴーグルも付けていない素顔の波号は、悠長に アイスクリームを食べていた。スプーンにたっぷりと掬ったカスタードプリン味のアイスクリームを頬張り、飲み下し、 波号は炸裂する一歩手前の地雷のような伊号を見、冷静に述べた。 「局長が丈二君と引き替えに連行してきたインベーダーは二人だけど、今は実質四人になっちゃったから、いつもの イッチーの戦い方じゃまず勝てないよ。乙型一号も虎鉄も芙蓉もゴリ押しの空爆だけで勝てるほど馬鹿じゃないし、 下手に市街地を壊しちゃったら、損害請求だけでひどいことになっちゃうよ。だから、被害は最小限にして、攻撃は 最大限の威力を与えなきゃ。今はまず、敵の動静を見守るのが第一。虎鉄と芙蓉は目的があって乙型一号と忌部 さんを連れ出したに違いないから、そこに行き着くのを待てばいい。畳み掛けるのはその後」 「え……?」 波号らしからぬ物言いに、伊号は苛立ちも忘れてきょとんとした。秋葉も驚き、波号に詰め寄る。 「はーちゃん。あなたは、誰かをコピーした状態? だとしたら、一体誰を?」 「誰っていうか、その辺にいる人の記憶とか経験とか、全部入っちゃった。まだまだ入るよ」 波号はにこにこしながらアイスクリームを食べ終え、シャツワンピースのポケットから錠剤のシートを取り出した。 「でね、局長から一杯一杯お薬をもらったの。これを飲んでいるとね、頭がすっごく良くなるし、覚えたことも忘れないで 済むし、誰かに変身しなくても色んな能力が使えちゃうんだ。えへへ、凄いでしょ!」 「それ、ちょいヤバくね?」 波号の変貌ぶりに伊号が戸惑うと、秋葉は波号の手から錠剤のシートを奪った。 「過剰投薬は許されていない! それどころか、はーちゃんの生命活動を低下させる可能性が!」 「むーちゃんのくせに、意地悪しないでよ!」 波号は眉を吊り上げて秋葉に手を振り翳すと、秋葉の体は見えない鞭に打ち据えられたようにしなった。伊号は 波号を止めようとするが、伊号もまた見えない手に万能車椅子をひっくり返されてコンクリートの床に転げ落ちて、 起き上がれなくなった。万能車椅子のキャタピラが床を求めて空回りする中、波号はサイコキネシスを使って秋葉を 天井近くまで浮かび上がらせ、僅かに指を曲げた。すると、秋葉の喉元が紐で縛られたかのように絞まり、秋葉は 息苦しさで喘ぐ。脳貧血に陥りかけたために霞んだ目で見下ろすと、波号はくっと人差し指を曲げた。 「むーちゃんなんて、邪魔」 ぐい、と空中に吊り上げられている秋葉の胸が反れ、背骨が嫌な軋みを立てる。 「いっつもいっつも丈二君とベタベタして、私達のことを自分達の子供に見立てて、気持ち悪いの!」 「ぐぇっ!?」 波号の文句と同時に肩の関節が外れ、激痛が秋葉の脊髄に響いた。 「私が気付いてないとでも思っていた? 馬鹿にしないでよね? 一週間経ったら記憶のほとんどを忘れちゃうって 言っても、何もかも忘れるわけじゃないんだよ?」 波号は大きく目を見開き、顔を歪めながら肩が外れた右腕を支えている秋葉を見上げる。 「むーちゃんと丈二君のは、ただの偽善なんだよ。私にはちゃんとパパもいるし、今すぐにでも頭をかち割って 脳髄を引き摺り出したいほど憎たらしいクソアマの母親も鬱陶しいことに生きているし、パパは私のことをいつも 良い子だねって偉いねって褒めてくれる。でも、むーちゃんと丈二君は違う。私のことをおだてて、担ぎ上げて、任務 でこき使いたいだけだってこと、とっくの昔に知っていたんだよ。だけど、ちょっと前までの私は本当に本当の馬鹿な 小娘だったから、お前らの腹積もりに気付けなかったんだ。局長が、ううん、パパがくれたお薬のおかげで頭が 良くなったから、全部が全部、よく見えるし、解るようになった。だから、お前らなんて必要ない!」 波号は広げていた手のひらを握り締めるべく、指を全て曲げた。が、突如、格納庫内を青白い雷撃が駆け抜け、 波号と天井付近に浮かばされた秋葉の間の空間を貫いた。壁に激突した電撃が細かな電流となって空気放電し、 失せると、電撃を放ったガニガニは鋏脚を下ろして人型に変形した。波号は忌々しげに舌打ちすると、手近な機材を 浮かばせてガニガニにぶつけようとするが、ガニガニの背後から電影が跳躍し、波号の目の前に飛び降りた。 「はーちゃんと電影達は同士なんさー、戦っちゃならんさー!」 「同士? そんなわけないじゃない、お前らなんかパパの踏み台に過ぎないんだ!」 波号は大人びた表情で嘲笑すると、腕を振り翳し、電影をも軽々と薙ぎ払った。大きく仰け反った電影は下半身を 引き摺りながら吹き飛び、ガニガニと激突すると両者はもつれ合いながら格納庫の扉をぶち抜き、倒れた。波号は 実際には触れていないにも関わらず、汚いものに触ったかのように手を振り回してから、秋葉の垂れ下がった右手 から錠剤のシートを奪い返して手中に収めた。それを宝物のように優しくポケットに入れると、上機嫌に鼻歌を零し ながらスキップをして格納庫から出ていった。波号の小さく幼い背中が電影とガニガニの巨体をまともに受け止めて へし折れた扉の隙間を擦り抜けて視界から失せると、途端に秋葉の体を繋ぎ止めていたサイコキネシスも失せて、 重力が戻ってきた。ほんの一瞬の無重力状態の後、秋葉はコンクリートの床に叩き付けられそうになったが、激突 する直前に人型軍用機の部品搬送用緩衝材を詰んだコンテナが爆走し、秋葉の落下地点に滑り込んだ。おかげで 頭蓋骨は無事だったが、関節が外された右肩に更なる衝撃を受け、秋葉は耐えきれずに絶叫した。 「ぎぁあああっ!」 「間に合ったんなら、まー、いいんじゃね?」 万能車椅子から投げされたままの格好で、伊号はため息混じりに呟いた。秋葉はアンダースーツの内側に隈無く 脂汗を掻き、息を吸うだけでも右肩に激痛が走ったが、自由の利く左腕でコンテナの内壁に手を掛けて外を見た。 「イッチーは、無事?」 「んなわけがねーし」 硬く冷たいコンクリートに放り出されている伊号は、糸の切れた操り人形を適当に置いたかのような格好だった。 腰から下は半端に捻れ、スカートから伸びた両足は床に引っ掛かったのか左右に大きく広がり、両腕は互い違いの 方向に曲がっていた。肩が斜めになっているせいで首も妙な角度に曲がっているので、苦しげだった。 「な……何がどうなってるんさー?」 ガニガニの上から起き上がった電影は、ふらつきながらも秋葉と伊号の元に近付いてきた。 「私にも解らない。だが、はーちゃんの暴走を見逃すわけには」 秋葉はコンテナから這い出そうとしたが、右肩からまたも激痛が生じ、座り込んだ。 『無理しちゃダメだよ、秋葉姉ちゃん。はーちゃんのことは僕達でなんとかするから、じっとしていて』 電影に続いて格納庫内に入ったガニガニは、手近なスピーカーにヒゲを接触させながら複眼に秋葉を映した。 「だったら、あたしも連れて行かねーと承知しねーし。てか、あたしらは単独行動なんて出来る身分じゃねーけどさ、 非常事態で緊急事態なんだから、ちったぁ融通利かせてくれねーとマジムカつくんだけど」 電影の手で抱き起こされて仰向けになった伊号は、首を曲げて秋葉を見上げた。 「けれど、イッチーも万全ではない。戦闘に耐えうるとは」 「局長を負傷させやがったインベーダー共を許す気は毛の先もねーし、インベーダー共を生かしておくつもりなんて これっぽっちもねーけど、はーちゃんを放っておくのはよくねーって思っただけだし」 伊号は瞬きし、海上基地内の残存機の情報を一瞬にして収集し、解析した。 「戦闘機もヘリも虎鉄と芙蓉が滑走路に沈めていきやがったからどれもこれも使えねーけど、戦闘車両はまだいくつか 動けるやつが残っている。そいつに乗っていけば、なんとかなるかもしんねー。それと、あたしの換えの車椅子を 持ってこねーと。田村はそこで大人しくしていろよ、何かあったら山吹が自殺しそうだし」 ほれ行け、と伊号が無遠慮に命じると、伊号が放った脳波をもろに受けた電影はおかしな姿勢で走り出した。ねえ ちょっと待ってよお、と、その後をガニガニが追い掛けていき、コンクリートの床が震動した。彼らの足音が去ると、 格納庫内には妙な沈黙が流れた。秋葉は彼らを自由にさせてはならないと思い、痛みと闘いながらコンテナの中から 脱そうとするが、痛みが強すぎるせいで左腕どころか足腰にも力が入らなかった。呻きながら崩れ落ちた秋葉を 見るに見かねた整備員達が助け出したが、秋葉は立ち上がれなかった。肩の痛みもさることながら、波号の言葉 に心臓を潰される思いだったからだ。波号の存在を、決して産まれることのない山吹と自分の子供に見立てて接して いた節はないわけではない。いや、最初からそのつもりだった。そうでも思わなければ、伊号も呂号も波号もまともに 愛せなかった。愛さなければ、兵器扱いされた少女達と信頼関係を築けないと考えていたからだ。けれど、波号は それを見抜いていた。だから、竜ヶ崎から与えられた薬を飲まなくても、いずれ秋葉を蔑んだだろう。 必要に駆られて作った愛など、愛ではないからだ。 10 11/14 |