鋼鉄製の地面は、普通の地面よりも遙かに硬い。 それ故、紀乃の感覚の通電性のようなものが格段に向上していた。普段であれば、サイコキネシスで捉えるために 広げた感覚に触れたものの感触も感じ取ってしまうので、余計な神経まで使ってしまうのだが、虎鉄のおかげで随分と 作業効率が上がっていた。紀乃は鋼鉄と化した瓦礫の上に両手を付いて目を閉じ、ひたすら集中した。 打てば響くほど硬くなったアスファルトと地中と地下水と配管や配線の下の下、地中の底の底にまで、紀乃は感覚を 糸の如く狭めて真っ直ぐに注ぎ込む。地下百メートル、二百メートル、三百メートル、四百メートル、五百メートル、 六百メートル、七百メートル、八百メートル、九百メートル、そして、一千メートル。そこから更に十数メートルの 地下に感覚の糸が到達すると、紀乃は目を開いて三人を見上げた。 「いた! 見つけた!」 「で、どのくらいの深さだ?」 虎鉄は地面から手を離し、鋼鉄化を解除した。紀乃は無意識に詰めていた息を緩め、答える。 「単純計算でも一千メートルと二十メートル弱。物凄く深い、っていうか、よくもまぁこんなのが埋まっている上に建物 なんて建てたなぁって思っちゃった。そんなに馬鹿でかいのが落ちたのなら、すっごいクレーターが空いているはず でしょ? なのに、なんでその上に街があるの? 誰かが埋めたとか?」 「それについては俺も疑問だが、今、考えることじゃない。問題は、どうやってそこから竜の首を引き摺り出すかって ことなんだ。俺の能力も溶子の能力も、そこまで適応範囲が広いわけじゃないんだ。能力を媒介する物質があれば ちったぁやりやすいんだが、今し方固めてみた感じだと地下水も鉱脈もなかった。だから、紀乃しか頼れない」 虎鉄が肩を竦めると、芙蓉は両手を合わせて懇願してきた。 「出来る限りフォローはするから、ね?」 「どうしよう?」 紀乃が忌部に向くと、手近な瓦礫に腰を下ろしている忌部は胸を押さえて背を丸めていた。 「俺に聞くな、俺も俺で大変なんだから。あの腐った肉で傷が塞がったのは良かったんだがその後が最悪なんだ。 なんか知らんが、さっきから腐った肉が俺の骨やら筋やら血管やらを繋ぎ合わせてくるんだよ。みちみちぶちぶち ねちねちと。吐きそうなくらい気色悪い。だが、この腐った肉を剥がしたら死ぬ。俺はもうどうすりゃいいんだ」 「まあ、頑張れ。大したことじゃないから」 虎鉄が無責任な言葉を投げると、忌部は乱れた包帯の隙間から兄を睨み付けた。 「うるせぇ黙れクソ兄貴が」 「じわじわーっと地面を溶かしていけば紀乃の作業効率は上がるんだろうけど、時間が掛かっちゃうのよね。変異体 管理局の戦闘部隊とか他の生体兵器が来たら、戦闘になって竜の首どころじゃなくなるから、まごまごしている暇は ないのよね。てっちゃん、何かいい考えってない?」 芙蓉は虎鉄の背に絡み付き、夫の肩越しにひび割れたコンクリート製の床を見下ろした。 「そうだな……。おい、次郎」 虎鉄は芙蓉を背負ったまま立ち上がると、弟に歩み寄った。忌部は後退り、身構える。 「なんだよ。俺に近付くなよ、クソ兄貴」 「竜の首を一千メートル以上の地下深くから引っ張り出すための手っ取り早い方法が、ただ一つだけある。しかし、 そのためにはお前の協力が不可欠だ」 忌部は帯を解いて着流しを脱ぎ捨てると、透き通った血が染みた包帯も解いて透き通った体を曝した。 「兄貴を許す気もなければ竜の首がどんなものかも一切興味はないが、俺はさっさと翠のいる島に帰りたいんだ。 だったら、さっさと何をすりゃいいのか言えよ。まどろっこしいな」 「解った解った、そういきりたつな。溶子、次郎の生体組織を溶かしてお前が作った液体に混ぜても、次郎の能力は そのまま使えるか? 山吹の資料を信じれば、次郎の能力は体液が接触した物質まで透明にするんだよな?」 「ええ、もちろん。対象物の特性を生かしたまま溶かすことなんて、出来ないわけがないのよね」 虎鉄の背からにゅるりと移動した芙蓉は、生暖かい体を忌部に巻き付けた。 「え、え、え?」 面食らった忌部が兄嫁と兄を見比べると、紀乃は呆気に取られた。 「えぇー……?」 確かに、忌部の唯一にして最大の能力である透明化能力を使えば、山のように積もった瓦礫も分厚い基礎も硬い アスファルトも溶かして地中を見透かせるかもしれない。見透かせたら目視出来るだろうし、感覚だけで探りながら 掴んで引っ張り上げるよりも余程正確で確実だ。だが、忌部の生体組織の絶対量が足りないのでは。紀乃が危惧 していると、芙蓉はしゅるりとつま先を細く溶かして床の割れ目に染み込ませた。雨粒のように小さく、テグスのように 細く透明な雫が触れた部分からコンクリートも鉄骨も溶け、忌部の足元には薄く水溜まりが出来ていた。それが 数分間続いた後、芙蓉はつま先を上げて液状化させた肉体を回収した。直後、正面玄関ゲートに面した駐車場に 唐突に水柱が噴き上がり、干涸らびた地面にびしゃびしゃと生温い水を浴びせかけた。霧のような瀑布が出来る ほど勢い良く溢れているのは水道水で、弱い風を受けて流れてきた水飛沫は冷たくて爽やかだ。大方、芙蓉は地中に 埋まった水道管を捜し出し、溶かして破壊したのだ。芙蓉は忌部の背後から離れ、水道水の水柱に飛び込んだ。 「いっくわよぉー!」 数十トンはありそうな水道水に生体組織を混ぜた芙蓉は、水道水の水柱をぐにゃりと歪め、操った。腰が引けた 忌部にはお構いなしに水柱を突っ込ませると、忌部の透き通った体は水柱に馴染んで見えなくなり、水流の強さに 負けて外れたフンドシと包帯がひらひらと水中を舞った。それが排出されて手近な瓦礫に貼り付けられると、芙蓉の 操る水柱はさながら竜のようにうねりながら廃墟の敷地全体を這いずり回り、大量の水が擦り付けられた部分から 氷のように透き通り始めた。余計な被害を被りたくなかったので、紀乃は自分自身と虎鉄とアメリカンバイクを 浮かび上がらせ、事の次第を見守った。数分後、容積の八割方を失った水道水の竜は紀乃と虎鉄の元に戻って くると、ぐにゅりととぐろを巻いて水中から芙蓉が上半身を現したが、忌部は首しか残っていなかった。 「上出来なのよね!」 「どこがだぁっ! ていうか俺の体を返せ、さっさと返せ、こんな状態なのに生きている自分が気持ち悪い!」 しかも喋れるのがもっと気持ち悪い、と辛うじて包帯が巻き付いた頭を反らして叫ぶ忌部に、芙蓉は笑んだ。 「そんなの大丈夫よ。紀乃が竜の首を引っ張り出したら、すぐに生体組織を掻き集めてあげるのよね」 「ご、御愁傷様」 紀乃は顔を引きつらせながら忌部を慰めてから、今一度、足元を見下ろした。虎鉄も芙蓉も、水道水の竜から首 だけを付きだしている忌部もそれに倣った。その光景を見た瞬間、紀乃は上空数百メートルに浮かび上がったかの ような錯覚に陥った。続いて思い出したのは、東京タワーの展望台の床に設置されている百四十五メートルの高さ から地上を見下ろせるルックダウンウィンドウから目にした光景だった。足元には、紀乃、虎鉄、芙蓉、そして首だけ の忌部の淡い影が映り込み、鋭い日差しが真っ直ぐに差し込んでいる。芙蓉の操る水道水の竜が円形に巡って いたからだろう、廃墟の敷地は擂り鉢状に透き通っていた。現代文明の地層らしく、輪切りにされたかのような配管 と配線の側面が目に見えるのが不思議だった。一山はありそうな瓦礫の山は水晶のように煌めき、折れ曲がった 鉄骨はガラス細工の芸術品だ。だが、つま先で足元を小突いてみると、コンクリートの床らしい硬さが返ってくるのが 不思議でならない。芙蓉の行動は一見荒っぽいようだったが、その実は計算尽くで緻密な作業だったのだ。そうで なければ、こうも見事な結果は作れない。紀乃はしばらく見入っていたが、ふと我に返って目を凝らした。 時代の流れと共に隠されていった地層が、余さず姿を現している。一番上のアスファルトとコンクリート製の基礎は 小松建造に破壊されたメテオの歴史であり、遺産であり、その下に埋もれているのは忌部家の本宅のものと思しき 瓦や石垣の名残だ。更にその下には、神社でも建っていたのだろう、折れ曲がった鳥居らしき木材が鮮やかな朱色 を保ったまま埋まっている。更に更に下には細切れの木切れが埋まった地層があり、幾重にも幾重にも時間と歴史 が層を成していた。もしも、この場に甚平がいたら、目を輝かせて見入った挙げ句に自分の世界に入り込んでしまう だろう。紀乃はその様を想像してちょっとだけ笑ってから、擂り鉢の底である一千メートルと二十メートル弱もの地下 をじっと見据えた。擂り鉢状に透き通った地面がレンズの役割も果たしているらしく、光が集中して見えやすくなって いるが、それでも簡単に目視出来るわけではない。紀乃は地面に這い蹲ったも同然の姿勢になると、両手を広げ、 深呼吸して血中の酸素濃度を上げてから、最大限に集中した。竜の首を捉えていたからだ。 「おいで」 紀乃は小さく呟き、広げていた指の手を緩やかに曲げた。見えない糸を繰るように、触れていない腕で抱き上げる ように、柔らかなものを掴むように、サイコキネシスの強弱に気を配りながら、竜の首を掴んだ。ゾゾの肌にも似た ざらついた肌触りと生き物とは思いがたい冷たさが感覚の端に触れると、相手もまたかすかな反応を返してきた。 首筋を濡れた舌でねろりと舐め上げるかのような触感が訪れ、紀乃は思わず首を縮めた。 「うひゃっ」 「どうした、大丈夫か」 「う、うん」 心配してくれた虎鉄に曖昧に返してから、紀乃はサイコキネシスに再び集中した。きっと、あれは竜の首とやらが 紀乃と同じように広げている感覚でやり返してきたのだろう。誰だって、深く寝入っているところを無理に起こされては 機嫌が悪くなるものだ。いきなり起こしてごめんなさい、だけどあなたが必要なんです、お願いだから大人しくして いてね、と紀乃が内心で謝ると、またもや触感に酷似した錯覚が紀乃の肌をなぞった。だが、今度は唐突ではなく、 紀乃の心の声に返すようにそっと頬の上をなぞっただけだった。こちらの言い分を解ってくれた嬉しさと、竜の首にも ちゃんとした意識があるのだと知ったことで、紀乃はサイコキネシスの範囲を少し広げた。急に抱き起こすのでは なく、ゆっくりと目覚めさせよう。竜の首を綿でくるむようなイメージを頭の中に作り、紀乃は地中深くで寝入っていた 竜の首をほんの少しだけ動かすと同時に、透き通っている地面を真っ二つに割った。ガラス片に似た破片が無数に 飛び散り、真冬の朝を思わせる景色になる。積み重なってきた歴史と過去の者達に悪いとは思いながらも、紀乃は 両断した地層をゆっくりと押し広げ、底に雪崩れ落ちていく土や破片を掻き上げて外に吐き出させながら、竜の首を 持ち上げた。気が遠くなるほど長きに渡って彼と時間を共にしてきた土が別れを惜しんでいるのだろう、地中からは 厳かな地鳴りが聞こえてくる。竜の首に落ちる砂粒の痒さや、数万年ぶりに目にする外界の眩しさや、外気の暑さと いった感覚を図らずも共有しながら、紀乃は竜の首を地の底から引き摺り上げた。 彼が現れた瞬間、紀乃は思わず息を呑んだ。竜の首、すなわち、多次元宇宙空間跳躍能力怪獣戦艦ワン・ダ・バ の首は、正しく竜と呼ぶに相応しい様相だった。石化した瞼の隙間から垣間見える真紅の単眼はゾゾに似ていて、 新月直後の月によく似た細い瞳孔が縦に走っている。頭部からは一対のツノが生えていて、首の根本に向かって 背ビレも生えている。地球に墜落する際に破損したという頸部は岩を叩き割ったかのように荒く割れ、頸椎らしき太い 骨の尖端が覗いている。口は忌部島に空いていた謎の穴だからだろう、頭には口は見受けられず、鼻と耳も同様 だった。ゾゾは地球のトカゲに似通った部分が多いが、宇宙怪獣戦艦は根本的に構造が違う生き物のようだった。 水気が一切なく、高純度のルビーを思わせる艶やかさの単眼は、ぎこちなく動いて紀乃に向いた。全長百メートル 以上はあろうかという巨大な異形からの眼差しであるにも関わらず、眼差しはゾゾと同じだった。紀乃はワン・ダ・バ の首に会えたのが奇妙に嬉しく、顔を緩めながら、歩み出した。 「あなたが、ワン・ダ・バ?」 ご、と先程耳にした地鳴りが聞こえ、竜の首の瞳孔が下がって紀乃を完全に捉えた。 「ゾゾの友達の?」 ご、と再度地鳴り。音がするたびに竜の首の瞼が僅かに動くので、その摩擦音が地鳴りに聞こえるようだ。 「凄ぇ……」 虎鉄は後退し、首を逸らしても全景を捉えられない物体を仰ぐ。芙蓉は背が曲がるほど見上げ、目を丸める。 「本当に本当の、竜だったのねぇ」 「なんでもいいが、俺の体を元に戻してくれないか。このままだと俺の余生はヘッドマスターになっちまう」 水道水の竜で辛うじて首を支えている忌部が芙蓉に懇願すると、芙蓉は苦笑し、水道水の竜を解いた。 「あら、ごめんね、次郎君。すぐに元に戻してあげるからね」 「ねえ、ワン。あなたは外のこと、解っている?」 紀乃が問い掛けると、ごき、と竜の首は瞼を上下させた。 「そう、解っているんだね。あのね、ゾゾが凄く困っているの。だから、お願い、力を貸して」 だが、竜の首は答えず、瞼も閉じた。否定だった。 「どうして? ゾゾは友達でしょ? 凄く困っているんだよ? なのに、なんで?」 紀乃は竜の首に再び問うが、竜の首は反応を返さなかった。 「無理強いはしてやるな、紀乃」 芙蓉が回収した生体組織を再構成されて元の姿を取り戻した忌部は、自分の足で立ち、竜の首を見上げた。 「あいつにとっては、竜ヶ崎のクソ野郎は同胞なんだろう。そう簡単に割り切れるもんじゃない」 「とりあえずフンドシ履いて!」 紀乃は全裸の忌部から目を逸らし、瓦礫に貼り付いていたフンドシを剥がして忌部に叩き付けた。 「ぐあっ!?」 「そうよね。私達だって割り切れなかったんだから、竜の首さんだってそう思うわよね」 芙蓉が頷くと、虎鉄は残念がりつつも納得した。 「そればかりは仕方ない、当人同士の問題だからな。寝起きだってのに、俺達のややこしい争い事に巻き込むのも 気が引けるしな。だが、ひとまず忌部島には連れて帰ってやれ。こいつも、首だけだとやりづらいだろう」 「うん、そうだね。ワン、あなたはそれでいい?」 紀乃が竜の首に意見を求めると、竜の首は、ご、と瞼を開いた。同意だ。 「解った。あなたを、あなたの体とゾゾのところに連れて帰ってあげるね」 紀乃が笑顔を浮かべると、竜の首は分厚く硬い瞼を開き、赤い単眼を見せてくれた。紀乃は竜の首の様子を見る ためにサイコキネシスを緩め、忌部の生体組織が回収されたために本来の色合いを取り戻した地面に置いてやる べく、徐々に高度を下げていった。竜の首の顎の裏が瓦礫に接しないように、また地中に落ちてしまわないように、 だだっ広い駐車場に照準を合わせた。岩を貼り合わせて作ったかのようなウロコに覆われた下顎が、鉱石に酷似 した筋肉が、大理石を削って細工したかのような折れた頸椎が、雑草の生えたアスファルトに載った。 「へーぇ」 不意に、誰でもない声が聞こえた。紀乃が即座に反応すると、廃墟から程近い電柱の上に少女が立っていた。 「それがパパが欲しがっていた竜の首なんだぁ」 「波号!」 虎鉄はすぐさま拳を固め、応戦する態勢を取った。芙蓉は液体を放てる態勢を整えてから、気付いた。 「あなた、どうしてヘッドギアもゴーグルも付けていないの?」 「パパがいらないって言ったから。私も邪魔だって思ったから。だから捨てたの、それ以外の理由なんてある?」 シャツワンピース姿の少女、波号はサイコキネシスを使っているのか、電柱の上から浮き上がった。 「だから、その竜の首もパパのもの。パパが欲しいっていったから!」 前触れもなく、突風が吹き付けた。紀乃は反射的にサイコキネシスの防護壁を張るが、それを遙かに上回る出力の 衝撃破が満遍なく押し寄せてきた。腕を突っ張って防ごうとするが、竜の首を引っ張り上げる際に集中力をかなり 使ってしまったらしく、思うように出力が上がらない。両足を踏ん張って防ごうとするも、踏ん張った傍からピンヒールが コンクリートを削っていく。虎鉄と芙蓉と忌部だけでなく、竜の首も守らなければならない。だが、思うようにサイコ キネシスの適応範囲も広げられないばかりか、局地的な台風にも匹敵する波号の攻撃を耐えきれなかった。紀乃は 暴風に煽られた木の葉のように容易く吹き飛ばされ、上下感覚を失いながら宙を舞った。 初めて、力で負けた。 10 11/16 |