南海インベーダーズ




母性的報復劇



 タバコが不味い。
 舌に残る違和感と喉に貼り付く異物感が、懐かしい吐き気を催させる。長時間の運転による頭痛と全身の倦怠感 こそ違えど、胃の中の重苦しさは、娘を妊娠した時に似ていた。真波は熱を帯びたボンネットに腰を下ろしたまま、 煩わしい煙を全て吐き出した。高速道路を使って飛ばしたが、日没には間に合わなかった。東名高速自動車道を 経由して北陸自動車道に入り、小浜市に最寄りのインターチェンジから下りたが、体力は限界を迎えていた。手近な ビジネスホテルでも探そうかと思ったが、その気力すらなかったので、通り道にあったドライブインに入った。
 夜空は濁り、星の輝きも心なしか遠い。じっとりと汗を滲ませる蒸し暑さは関東圏とは少し違い、湿り気に混じった 秋の気配が濃い。道中のコンビニで買った食料を詰めた胃が重たく、早くも消化不良を予感させている。だが、ろくな ものを食べずにいれば体力が持たない。メンソールのタバコを深く吸って、吐いてから、真波はベンツの運転席に 滑り込んだ。カーナビでもテレビは見られるが、バッテリーを無闇に消耗してしまうので、携帯電話を開いてワンセグの チャンネルに合わせてからダッシュボードに置いた。吸い殻で溢れ返っている灰皿にタバコの灰を落として、 真波は小さな液晶画面に映る映像と音声に気を向けた。変異体管理局の関連施設に公安調査庁が踏み込んだ、 とのニュースが大々的に報じられていた。

「当然よ」

 口紅が剥げた唇を曲げ、真波はスニーカーを履いた足をハンドルの上に投げ出した。助手席には両方ともヒール が折れたハイヒールが転がされ、その足元には道中の量販店で買ったスニーカーの箱が放り込んである。

「これで、どれだけのことが出てくるかしらねぇ」

 竜ヶ崎全司郎は、どれほどの罪を重ねて生きてきたのだろう。ざっと思い付くだけでも、横領、談合、裏金、賄賂、 と罪状は簡単に出てくる。忌部家を崩壊させた際に名義を書き換えて資産のほとんどを奪い取ったことも、恐らくは 罪に問われるだろう。竜ヶ崎の最も大きく根深い罪である近親相姦は、少し前であれば、各方面に訴え出たとしても 揉み消されていただろう。不老不死を夢見る人間達を食い物にしてきた、竜ヶ崎の影響力は計り知れないからだ。 いかにも怪しげな面構えのオオトカゲではあるが、竜ヶ崎は弁が立つこともあり、他人に取り入るのが恐ろしく上手 だった。甘ったるい夢に浸った代償に、政治家や有力者達に下される刑罰はさぞ大きいことだろう。竜ヶ崎の蛮行 が事件として成立されれば、関わってきた者達にも捜査の手が伸びるはずだ。

「私も無傷ってわけにはいかないでしょうね」

 真波は自嘲すると、汗や皮脂でファンデーションが浮いてきた頬を引きつらせた。竜ヶ崎に喜んでもらえるならば、 と思うあまりに、真波も随分と手を汚してきた。言葉の上だけでも褒めてもらえるのが嬉しくて、寵愛を受けたくて、 そのためだけに色々なことをした。だが、その中でも最も重い罪は、忌部我利にミーコの寄生虫を罹患させて死に 至らしめたことだ。経緯と理由はどうあれ、殺人には変わりないのだから。
 真波が忌部我利に会ったのは、今から五年前のことだった。忌部島に派遣された、山吹を含む調査部隊が回収した ミーコの寄生虫を研究目的という名目で入手し、鮫島珪子に忌部我利を呼び出させた。伊号に重傷を負わせた 罪状で忌部かすがが服役したということもあり、忌部我利は疲れ果てていた。鮫島珪子のことを怪しむ余力もない らしく、その周囲に気を配る素振りすら見せなかったので、真波の存在は感付かれていなかった。珪子と会話して いる最中も、娘を守るために孫を奪ってしまったことをしきりに後悔していた。だが、我利の話を掻い摘んでみると、娘を 普通の人間として生かすための交換条件として斎子露乃を竜ヶ崎に譲渡したにも関わらず、竜ヶ崎は我利との約束 は守らずに、忌部いづるに生体改造手術を受けさせて甲型生体兵器・伊号に改造していた。我利はその事実を 薄々感付いているのか、伊号の身を案じてばかりいた。当初は密かに罹患させて隔離施設に送るつもりだったが、 煩わしくなり、真波は珪子にメールを送って指示を出した。珪子は無表情にハンドバッグを開き、真波から渡された 寄生虫入りの試験管を、躊躇いもなく我利の口に押し付けた。我利は喉元までねじ込まれた試験管から滑り落ちた 寄生虫を飲み下させられてから、ようやく事態を理解したようだったが抵抗しなかった。それどころか涙を浮かべ、 前妻と会えることを喜んでいた。そのまま、我利は変異体管理局の局員に取り押さえられて隔離施設に移送され、 ミーコの寄生虫の罹患者として生かされた末に死を迎えた。その時は我利の気持ちなど一切解らなかったが、今で あれば少しは理解出来る。我利は、寄生虫を罹患することで竜ヶ崎の関心を伊号から逸らしたかったのだろうが、 それは何の役にも立たなかった。我が子への愛情など、竜ヶ崎の底知れぬ欲望の前では無力だ。
 真波は、無意識に下腹部をさすっていた。正直、自分一人で竜ヶ崎をどうにか出来るとは思えない。八百比丘尼 が入定した洞窟にある竜の肉片を破壊したところで、竜ヶ崎に多大なダメージを与えられるとは考えにくい。だが、 動かずにはいられない。そこに波号がいると思うだけで、腹の底がざわめいてくる。
 疲労と緊張感の狭間で移ろっていると、フロントガラスの目の前を人影が過ぎった。真波とは違ってドライブインで 休憩しただけの客なのか、片手に缶コーヒーを携えて車の元に戻っていった。だが、引き返して真波とベンツを注視 してから、その人影はこちらに近寄ってきた。面倒に思いながらも真波が目を上げると、フロントガラスの向こうには 半袖Tシャツとジーンズ姿の男が立っていた。年齢は同じくらいだろうか。すると、その男は窓をノックしてきた。

「何ですか?」

 相手にするのが億劫だったが付きまとわれては厄介なので、真波はパワーウィンドウを下げた。

「一ノ瀬……だよな? やっぱりそうだ、一ノ瀬真波だ!」

 男はなぜか喜び、真波の名を口にした。なぜ名前が割れたのか、公安なのか、と、身構えた真波はダッシュボード から拳銃を抜きかけたが、男は親しげな顔をして名乗ってきた。

「俺だよ、大学で同じゼミだった白崎だ」

「……シラサキ?」

 大学時代の記憶を掘り起こした真波は、ようやく目の前の男の素性が思い当たった。

「ああ、そういえばいたわね。白崎凪ね」

「相変わらずクールだなぁ。十年振りの再会を少しは喜んだらどうなんだ」

 白崎凪は苦笑したが、真波の格好とベンツを見比べた。中高生時代に運動部に所属していた名残で、大学時代 からがっしりしていた体格に衰えはない。日に焼けた肌は健康的で、表情も同様だ。病んだ人生を送らずに真っ当 に生きている人間の潔白さが、真波には少々やりづらかった。

「しかし、凄い車に乗っているわりにひどい格好だな。まるで火事場から逃げ出してきたみたいだぞ?」

「当たらずも遠からずよ」

 真波はハンドルの上から両足を降ろしたが、その際、白崎は気まずげに目線を逸らした。考えてみれば、真波は 竜ヶ崎邸から逃げ出した時のまま、服を換えていなかった。せめてストッキングだけでも取り替えておけばよかった のだろうが、一秒も止まっていたくなかったのでアクセルを踏み続けた。ブラウスもタイトスカートも焼け焦げだらけ で汗臭く、今更ながら風呂に入りたくなった。おまけに化粧も崩れかけている。真波は急に白崎と向き合いづらく なり、タイトスカートの裾を引っ張ってストッキングの太股の部分に空いた穴を隠そうとした。
 白崎凪。竜ヶ崎全司郎に染め抜かれていた真波の人生の中では、珍しく親密な関わりを持っていた人間だった。 名は体を表すとはよく言ったもので白崎は凪いだ性格の持ち主だった。人一倍気持ちが穏やかなのか、或いは ただ鈍感なだけなのかは判断を付けかねるが、派手に喜びもしなければ怒りもしない男だった。何が彼の興味を 惹いたのかは解らなかったが、白崎はやたらと真波に気を割いてきた。サークルに一切参加せず、ゼミ生同士での 友人関係も作らず、交友関係が極めて狭い真波を事ある事に構い、強引に飲み会に参加させられたことは一度や 二度ではなかった。真波は変異体管理局に入るために大学を中退し、ゼミ生の誰とも連絡先も交換していなかった ので、彼らとの交友はすっぱり切れていた。だから、再会するまでは存在すら忘れていた。

「ここじゃ何だから、あっちで話さないか」

 白崎が示したのは、ドライブインの自動販売機が並ぶスペースだった。全面ガラス張りになっていて、中では冷房 も効いているだろう。真波はちょっと悩んだが、ジャケットとイグニッションキーと財布を運転席を下りた。

「いいわよ、どうせ暇だもの」

 真波が大股かつ早足で歩き出すと、白崎は歩調を合わせて並んできた。その間、二人の会話は続かず、白崎は 真波の様子を窺うばかりだった。話し掛けたいようだったが、内容が思い付かないらしい。真波も白崎とは無駄話を するつもりはなかったが、ドライブインの中の方がベンツの車内よりは涼しいと判断したからだ。自動ドアを通ると、 途端に冷気が襲い掛かってきた。背筋が逆立つほど冷えてしまい、すぐさまジャケットを羽織った真波は、来た時は あまり気にしていなかった自動販売機を見回した。すると、ストッキングと女性用下着が売られている自動販売機が あった。幹線道路沿いとはいえ寂れているドライブインなので、売れ筋とは言い難いだろうが、需要があるからこそ 設置されているのだろう。真波は二の腕をさすりながらその自動販売機でストッキングと下着を買い、白崎に断って から女子トイレでストッキングと下着を取り替えると、気分的にもすっきりした。ついでに顔を洗い流して崩れた化粧 と皮脂を落とし、ボロ切れ同然のストッキングと下着をゴミ箱に突っ込んでから、真波は自動販売機コーナーにある ベンチで腰掛けている白崎の元に戻った。

「一ノ瀬って、あれだろ、変異体管理局に勤めているんだろう?」

 白崎は結露の浮いた缶コーヒーに口を付けながら、紙コップのコーヒーを買う真波に問い掛けてきた。

「ええ」

 軽い音を立てて落ちてきた紙コップにホットコーヒーが注がれる様を眺めながら、真波は冷淡に返した。

「だったら、今、こんなところにいてもいいのか? 大変なことになっているじゃないか」

 白崎の不安げな問い掛けに、真波は紙コップのコーヒーを取りながら答えた。

「良くないわよ。本当だったら、今頃は各方面の対応に追われてコーヒーの一杯も飲めないはずだもの」

「じゃあ、なんでだ?」

「一言で言うと、疲れちゃったのよ」

 真波は白崎の隣に腰を下ろし、湯気の昇るコーヒーに口を付けた。安っぽい苦みに薄い甘さが舌に残る。

「そりゃそうだよな、一ノ瀬は今までずっと戦ってきたんだもんな」

 白崎が安堵感と不安を混ぜると、真波は少し笑った。

「馬鹿ね、私は前線で戦ったりはしないわよ。インベーダーと戦う兵器を管理する側なのよ」

「ああ、そうか。そうだよな。だが、大変なことには変わりないだろう?」

「まあ、ね」

 真波は黒い水面に目線を落とし、ふうっと湯気を吹いた。

「でも、逃げてきた理由はそれだけじゃないのよ。暇だったら、私の下らない話でも聞いてくれる?」

「無理に話す必要はないさ。その格好を見れば、大体の想像が付かないでもないから」

「だったら、白崎君の想像が私の話と合うかどうかを確かめてくれればいいわ」

 白崎の返事を待たずに、真波は話し始めた。

「私はね、物心付く前から愛人になる運命だったのよ。母親も祖母も曾祖母も、ずっとそうだったの。だから、私には 父親はいないのよ。そんな環境で育ったから、母親から愛人の男を寝取ることだけを考えて生きてきたの。だけど、 その男はどうしようもないほど下半身がだらしなくて、私の一族以外の女性にも手を出していたのよ。それなのに、 私はその男に一番愛されていると信じて止まなかったのよ。そんなわけがないのにね」

「……ひどいな。俺の想像なんて足元にも及ばない」

 白崎は顔をしかめたが、真波はそれを気にせずに話し続けた。

「その男は私に子供を産ませたわ。女の子で、今年で十歳になる子なの。私はその子に対しては愛情なんて欠片も 持てなかったけど、やっと自分が母親だって自覚したのよ。だけど、そう思った途端に娘はその男に奪われたわ」

「だから、仕事を放り出して追い掛けてきたのか?」

「簡潔に言えばそうなるわね」

「だったら、警察でも何でも頼ればいい。れっきとした誘拐じゃないか」

「それは出来ないわ。その男を止められるような人間なんて、この世にいないもの」

 ミュータントでさえも、今の竜ヶ崎を止めるのは難しいだろう。真波はコーヒーを啜り、背を丸めた。

「大学を辞めたのは、娘さんを妊娠したからだったのか」

 白崎が納得すると、真波は小さく頷いた。

「ええ。その頃にはもう、変異体管理局に籍を置いていたけどね」

 白崎は真波を慰める言葉を言おうと口を開きかけたが、結局思い付かなかったのか、缶コーヒーを傾けた。その 気持ちだけでもありがたく、真波はコーヒーの熱とは異なる温もりが胸中に緩く広がった。白崎は、真波からすれば 想像も付かないほど平穏な人生を送ってきたのだろう。Tシャツにジーンズではあるが身なりはきちんとしているし、 彼の愛車であろうワゴン車はいわゆるファミリーカーだ。きっと、まともに大学を卒業し、就職し、ごく普通の人生を 送ってきた女性と出会って家族を設けているに違いない。そう思うと、羨望と嫉妬が喉元を締め付けた。

「なあ、一ノ瀬」

 白崎は空になった缶コーヒーを置き、真波に向き直った。

「俺も一緒に行っていいか? 役に立てるとは思えないけど、一ノ瀬一人よりは」

「何、言っているの?」

 ただの一般人が竜ヶ崎と戦うつもりか。真波が半笑いになると、白崎は詰め寄ってきた。

「そんな話を聞かされたんだ、このまま放っておけるかよ!」

「馬鹿言わないで」

 真波は白崎を押しやり、背を向けた。

「そんなの、気持ちだけで充分よ」

 自分を心配してくれるのか。たとえ、それが上辺だけだとしても嬉しい。真波はコーヒーの残る紙コップを見つめて 心中を落ち着かせようとしたが、紙コップを握る手が震えそうになった。鮫島甚平に心配された時も嬉しかったが、 彼は真波とはそれほど遠くない境遇にいる。だから、同情混じりの心配だと理解していたが、白崎は全くの部外者で 赤の他人なのだ。真波の話した突拍子もない身の上話を真剣に聞いてくれたからこそ、心配してくれている。だが、 正直困ってしまう。親身になられすぎては、白崎が身を滅ぼしかねないのだから。

「そういう白崎君は、どうしてここにいるのよ?」

 話題を変えるために真波が発言すると、白崎は身を引いて座り直した。

「実家に帰る途中なんだ。俺の出身は福井だから。それと、後輩から電話が掛かってきて、一ノ瀬がここにいるって 教えてくれたんだ。半信半疑だったんだが、来てみたら本当にいたから驚いたよ」

「後輩って誰?」

「スズモトレイカって言っても、一ノ瀬は解らないか。面識があるのは俺だけだし。スズモトによれば、一ノ瀬が 運転するベンツがドライブインの方向に向かうのを見かけたらしい。でも、意外だな。あいつ、一ノ瀬のことを気に しているなんて。そういう奴には見えなかったんだけど」

 スズモトレイカ。知らない名だが覚えておいた方が良さそうだ。白崎をこのドライブインまで誘導してきた意図は、 単純に白崎を真波に再会させたいという好意だけではないだろう。恐らく、スズモトレイカなる人物は、公安の人間 だろう。白崎と接触させたのは真波の現在位置を確認するためと、背後関係を洗うためだろうが、生憎真波は他の 誰にも頼るつもりはない。携帯電話は炎に巻かれた竜ヶ崎邸に忘れてきたし、使い物にならなくなっているはずだ。 変異体管理局の局員や自衛隊と連絡を取る手段もなければ、インベーダーと協定関係を結ぶつもりもない。己の 力だけで、竜ヶ崎に立ち向かわなければ意味はない。そこまで考えてから、真波は気のない返事をした。

「そう」

「だから、一ノ瀬も実家に戻った方がいい。親御さんが心配しているだろうし」

「母親は死んだわ。十年以上前に」

「あ……悪い」

「いいのよ、気にしなくても。それに、生きていたとしても、母親は私のことなんか心配しやしないわ」

「一ノ瀬を囲っていた男もか?」 

「もちろん。あの男にとって、私や他の女性達は人間じゃないのよ。ただの欲望の捌け口なのよ」

「すまん」

「どうして白崎君が謝るのよ?」

「同じ男として非常に申し訳ないというか、そういう気分になって。とにかく、すまん」

「あなた、いい人ね」

 白崎のあまりの真面目さに真波が思わず笑ってしまうと、白崎は気まずげに髪を乱し、ぎこちなく笑い返してきた。 竜ヶ崎に人生を弄ばれ、変異体管理局の中で突っ張って生きてきたからか、白崎の反応がいやに新鮮に感じる。 大学で同じ時間を少しばかり共有しただけなのに、こうも真波に思い入れを持ってくれるとは。裏があるのでは、と 反射的に勘繰る自分に嫌気が差してくる。こんな人間を陥れたところで、白崎に利益はないだろうに。

「それじゃあ、一ノ瀬は結婚していないんだな?」

 白崎に問われ、真波は頷いた。

「するつもりもないし、出来ないだろうけどね。白崎君は、さすがに結婚しているわよね。あの車、どう見たって家族 サービスするためのものだもの」

「あ……いや、違う。俺は車中泊が前提の旅をするのが好きだったから、ワンボックスにしただけであって、家族が いるからってわけじゃないんだ。だから、その、大学の頃から、ずっと思っていたんだがなかなか言えず終いで」

 白崎はしばらく躊躇していたが、真波に向き合った。

「一ノ瀬。俺と」

「そこから先は言わないで」

 真波は空になった紙コップで白崎を制し、立ち上がった。

「悪い。そうだよな、一ノ瀬が辛い時に言うのは良くないよな。だが、無理だけはするなよ」

 白崎は腰を上げると、自動販売機の傍に設置されているドライブインへの意見投書用紙に備え付けのボールペンで 手早く書き込んだ。それを折り畳むと、照れつつも真波に差し出した。

「俺の携帯の番号だ。当分は県内にいるから、何かあったら連絡してくれ。すぐに行く」

「白崎君も女の趣味が悪いわね」

 用紙を受け取った真波が素っ気なく返すと、白崎は意味もなくポケットに両手を入れた。

「また一ノ瀬と会えるなんて思わなかったんだ。だから、今だけでも良いから舞い上がらせてくれないか」

「それだけで済むなんて、随分と謙虚ね。アドレスを教えてくれてありがとう。いずれ、電話するわね」

 真波が用紙をタイトスカートのポケットに入れると、白崎は自動ドアに向かった。

「また会おう、必ず」

 白崎の広い背を見送り、真波は軽く手を振った。ドライブインの看板から注ぐ光と駐車場全体を照らしているライト を浴びた彼の薄い影は四方に伸び、歩調に合わせて揺れていた。ワンボックスカーに向かいながらイグニッション キーを弄んでいるのか、手元の影がふわふわと上下する。こんな自分に好意を抱いてくれるのは、白崎凪が最初で 最後だろう。それが竜ヶ崎でないのが恐ろしく悔しく、やるせないほどに切ない。愛しておらず、愛されていなくとも、 愛されたかったという願望は消え去っていない。だから、今はまだ白崎の好意には答えられない。竜ヶ崎への未練を 完全に断ち切り、無事生きて帰れたとしたら、その時は思い切って白崎に電話を掛けて、デートに誘ってみよう。 真波は用紙を取り出して開き、白崎の携帯電話の番号を暗記するほど眺めた。十一桁の数字の下に、白崎、との 少し右上がりの署名を見つめながら、真波はマスカラを落とした目元を擦った。
 まだ、この世に居場所がある。





 


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