南海インベーダーズ




晩夏



 最高の解放感だった。
 今、忌部を戒めているものはない。皮膚を舐める潮風は爽やかで、全身を通り抜けていく日光は力強く、心の底 から歓喜が沸き上がってくる。再び透き通った全身を透過した日光は淡い影となって足元に落ち、忌部次郎という 人間の位置を確かめさせてくれた。ここしばらくは皆と生活を共にしていたので、服を着ざるを得ない状況が続いて いたが、やはり服は着ないで生きるべきだと改めて確信した。透明化能力が目覚めなければ、この厄介な性癖に 気付くこともなかっただろうが、気付いて良かった。おかげで、生きる楽しみが何倍にも増えたのだから。
 ワン・ダ・バの盛り上がった背部に立っている忌部は、意味もなく胸を張った。その傍らには、翡翠色の剣のチナ・ ジュン、赤い勾玉のヴィ・ジュル、銅鏡のカ・ガンが揃い、さながら古代の戦士のようである。透明で全裸だが。

「どうなさるか決められましたか、忌部さん」

 ワン・ダ・バの背部に手を触れて生体電流を確かめていたゾゾは、忌部の透き通った背を見上げた。

「ああ」

 忌部は肺を膨らませてから、吐き出し、ゾゾに振り返った。

「俺は、俺に出来ることをする。それだけだ」

「そうですか」

 ゾゾは軽い落胆を込めた声色で呟き、単眼を伏せた。

「やることをやったら、俺は小松とミーコと同じ世界に行くんだな」

「恐らくは」

 ゾゾは忌部の透き通った肩に、爪の長い手を掛ける。

「あなたはまだ死ぬべきではありません。私は出来る限りのことをします。あなたがワンに吸収されてしまえば、誰が 翠さんや伊号さんを支えてやるのですか。ゼンによって腐らせられた忌部一族の因縁を浄化し、断ち切れるのも、 忌部さんを置いて他にはおりません。忌部さんこそが、正統なる御前なのですから」

「俺は、死んでも構わんと思っている」

 忌部はゾゾの手を外させ、腕を組んだ。ワン・ダ・バが接岸している海上基地を一望すると、デッキでは山吹機が 大立ち回りを繰り広げており、格納庫では虎鉄と甚平が何かを語らい、宿舎の食堂からは女性達の明るいお喋りが 聞こえてくる。既に壊滅寸前の都心は、明日起きるであろう凄絶な戦いを静かに待っている。忌部は、忌部島よりも 若干勢いが弱く感じる太陽を仰ぎ見ると、述べた。

「ワンと合体して戦うと決めた時に、色々と考えたんだ。俺は一度は血に屈している。竜ヶ崎に仕組まれたからとは いえ、妹だと知っているのに翠に手を出したんだ。翠は俺を好きだと言ってくれるし、俺も翠がたまらなく好きだが、 妹は妹なんだ。女としても、家族としても、心から愛している。だから、余計に俺は翠の傍にはいられない。これから 翠は外に世界に出ていくだろう、生体洗浄を受けたら普通の若い女性になるだろう、その時に俺は翠を独占したく なるに違いないんだ。流行りの服を着て化粧をして髪を巻いたりするだろうし、言葉遣いだって砕けてくるだろうし、 友達だって出来るだろうし、携帯電話だって持つだろうし、一人で遊び回ったりするだろうし、これまでの反動が一気に 出るだろう。だが、いざそうなったら、俺は翠を狭い世界に押し戻しちまうかもしれない。それが怖いんだ」

「だから、戦って去るのですか」

「そうだ。そうじゃなきゃ、俺は一生翠から離れられない」

 海底の箱庭で妹の体を組み敷いた時の罪悪感は、快楽と同等だった。愚行を悔やみ、忌部は顔を背ける。

「そのお気持ち、解りますとも」

「意外だな。お前のことだから、必死になって俺の自殺行為を止めるもんだと思っていたが」

「私とて、叶わぬ恋をしている身です。忌部さんの決意を非難出来る立場ではありません」

「そんなに紀乃が好きなのか。冗談半分で紀乃を構っているもんだとばっかり思っていたが」

「冗談で好意を示せるほど、軽い男ではありませんよ」

 ゾゾは少しだけ誇らしげに口の端を吊り上げてから、海上基地を見渡した。

「明日になれば、ゼンは都心に現れるでしょう。次元乖離空間跳躍航行技術を行使するのに不可欠な並列空間と 通常空間が接しているのは、都心を置いて他にはありません。頭数はこちらが多いので、人員を上手く配置すれば 迎撃出来るでしょうが、そう簡単には終わらないでしょう。後がないのはどちらも同じですからね」

「解り切ったことだ」

 忌部が少し笑うと、分厚い外骨格を擦らせながら、ヤシガニ形態のガニガニがよじ登ってきた。

『あ、いたいた。ゾゾ、忌部さん、今日の晩御飯はバーベキューにするんだって。人数も増えたから料理が面倒だし、 冷蔵庫の中身を整理しちゃおうってことらしいよ。で、バーベキューって何?』

 ガニガニは首を傾げ、頭部にガムテープで貼り付けた赤い勾玉を通じて思念を送ってきた。

「そりゃあれだ、鉄板焼きのことだ。なんだったら、山吹と兄貴に頼んで足りないものを調達してもらったらどうだ」

 忌部が説明すると、ガニガニはヒゲを互い違いに動かした。

『へぇ、人間って面白いことをするんだね。じゃ、僕はそのお手伝いに行くね』

 ガニガニは前後を反転させ、ワン・ダ・バの背から降り始める。

「なあ、ガニガニ。お前はどうしたい?」

 忌部がその背に問い掛けると、ガニガニは歩みを止めて再度身を反転した。

『晩御飯のこと? 僕は雑食だからお野菜でもお肉でもお魚でも食べられるし、嫌いなものはないよ。火を通したもの だっておいしいって思うし、紀乃姉ちゃんが食べさせてくれた御菓子も甘くておいしかったなぁ』

「そうか。じゃあ、晩飯が楽しみだな」

 ガニガニらしい幼い答えに忌部が笑ってしまうと、ガニガニは鋏脚を振った。

『うん! じゃあまた後でね、ゾゾ、忌部さん、ワン』

 忌部とゾゾは、ガニガニに揃って手を振り返した。青黒い甲羅を背負った巨体は左右に揺れ、一歩一歩を確実に 踏み締めながら下った。海上基地に接した長い首の上を進んだガニガニは、日光がきつく照り返している滑走路に 飛び移ると、格納庫前のデッキで訓練を続けている山吹機に近付いていった。山吹機はガニガニに気付くと、手を 振りながら駆け寄ろうとしたがバッテリー切れを起こして沈黙した。各関節から白い蒸気を噴いた山吹機から、山吹が 苦笑しながら降りてくると、ガニガニは人型に変形して山吹機を担いで格納庫に運び入れてくれた。山吹はしきりに ガニガニに礼を言いながら、その後を追っていった。山吹は格納庫に入る直前にワン・ダ・バに振り返り、日光の 屈折で忌部の居所を見定めたのか、大きく手を振ってくれた。見えているのであれば、と忌部はそれに応えた。
 ガニガニには、生死について尋ねるつもりでいた。戦って死にたいか、それとも生き延びたいか。だが、ガニガニは 精神面が十歳程度の少年だ。死にたいとは思わないだろうし、紀乃のためにも死なせたくはない。それに、彼に 問うてもそういった答えしか返ってこないだろう。戦って死にたいと思うのは、単純に忌部が情けないからだ。翠との 情愛に溺れるのが怖いから、厄介な血筋の自分が真っ当な人生を送れる保証がないから、命懸けで戦い抜いても 蔑視されるのが目に見えているから、帰る場所がないから。だから、いっそ死んで楽になりたい。安易な逃げ道だが、 そうでも思わなければ踏ん張れそうにない。戦うと決心しただけで、戦士になれるわけではないのだから。
 なんと、弱く脆いのだろう。忌部は振り返り、ワン・ダ・バの赤黒い表皮に横たわっている翡翠の剣を見下ろした。 破損した珪素生物を修復するために死肉を吸収された先祖もまた、弱い男だった。竜ヶ崎ハツに愛されていても、 彼女の傍に控えているゼン・ゼゼに怯えていた。ハツに愛を告げる前にゼンに話したのも、契りを結んでから日数 が経った後に報告したのも、尼僧であるハツに子を宿させて俗世に引き摺り下ろしたのも、ハツを独占せんがため のことだ。ゼンも弱かったが、継成も相当なものだ。男というものは、いつの時代も変わらない。
 だから、その弱さを強みにするしかない。忌部はチナ・ジュンの刀身にヴィ・ジュルを載せ、吸収させると、その刃を カ・ガンの鏡面に突き立てた。濁った鏡面は真っ二つに割れるとどろりと溶解してチナ・ジュンに染み込み、青緑 色の刀身に青銅色が絡み付いた。ヴィ・ジュルの赤が溶けた柄を握り締めた忌部は、逆手に持ち、心臓の位置に 切っ先を据えた。一度深呼吸してから、息を止め、忌部は背を曲げながら翡翠色の剣で胸を貫いた。
 生体同調、開始。




 賑やかな夕食が終わると、海上基地全体の空気が安らいだ。
 かつては戦闘機が行き来していたデッキで開催されたバーベキューは盛大で、食堂の冷蔵庫から持ち出した食材を 手当たり次第に焼いて、皆はそれを食べに食べた。大人達には酒も振る舞われ、明日の懸念を吹き飛ばすかの ように騒ぎ立てた。自室から機材を一式持ち出してきた呂号は能力を封じてライブを行い、エッジの効いたメタルを 十何曲も見事に演奏した。その歌声は少女らしからぬ低音だったが全体的に明るく、呂号が晴れやかな気持ちで 歌っている証拠だった。伊号は口では面倒くさがりながらも最後まで付き合い、もう一人の兄である虎鉄とも長らく 話し込んで今は亡き父親のことを話していた。ガールズトークでようやくインベーダーらに気を許した秋葉は、芙蓉と 酒を酌み交わしながら、波号がいかに可愛い少女であるかを真顔で語った。翠は宴席に忌部がいないことを心底 寂しがってはいたが、翠お手製の醤油味のバーベキューソースが皆に好評だったので嬉しそうだった。ガニガニは 紀乃の手から焼いた肉や野菜を食べさせてもらい、思い切り甘えていた。甚平は騒ぎの中心から一歩引いていて、 歌い終えてすっきりしている呂号と共に穏やかに場の空気を楽しんでいた。一番騒がしかったのは酒が入った山吹 で、何度も何度も東京湾に向けて秋葉と波号への愛を叫んでいたが、その秋葉から張り倒された。
 宴の片付けも済み、水を掛けられた炭からは水蒸気も昇らなくなった。右腕の付け根を守る包帯を交換してから、 ゾゾはデッキに出た。有料道路時代の名残であるガードレールに沿って歩きながら、腹の底から込み上がってくる 笑いを押さえ切れなかった。あんなに高揚した一時を過ごしたのは久し振りであり、今後、二度とないだろうと思った からだった。惑星ニルァ・イ・クァヌアイで科学者として暮らしていた頃は数人の友人はいたが、侵略国家ナガームン の内での権力争いや侵略戦争や陰謀で、全員失ってしまったからだ。
 戦いに勝っても負けても、この星に自分の居場所はない。ゾゾは息苦しさを味わいながら足を進めると、夜の闇を 吸い込んだ東京湾を一望した。海面には海上基地のライトや窓明かりが落ち、ゆらゆらと漂っている。ワン・ダ・バは 忌部の肉体と意識を時間を掛けて馴染ませているらしく、生体電流の波長が変わりつつあった。その中には小松と ミーコの意識も含まれていて、ワン・ダ・バと一体化した二人は恒久的な幸福に浸っていた。二人は明日の戦いを 恐れてはおらず、それどころかゼンに報復出来ることを喜んでいた。

「ゾゾ?」

 暗がりから聞こえた声にゾゾが立ち止まると、ガードレールに紀乃が寄り掛かっていた。

「明日は忙しいのですから、早くお休みになった方が」

 ゾゾが紀乃に近付くと、紀乃は東京湾に向いた。セーラーが翻り、プリーツスカートの端が潮風に弄ばれる。

「そうなんだけど、寝付けなくて」

「怖いのですか」

「うん。それもある。だけど、それだけじゃない」

 紀乃は顔を上げ、ゾゾの単眼と目を合わせた。

「私に、何をお望みで?」

 ゾゾが膝を折って紀乃と目線を合わせると、紀乃はゾゾの太い上腕を掴んできた。

「解っているくせに」

「紀乃さんこそ」

 ゾゾは紀乃の小さな手に自分の手を重ね、尻尾を垂らした。紀乃は眉を下げ、切なげに問い掛けてくる。

「だったら、なんで何もしてこないの?」

「羨ましいのですか、呂号さんや翠さんが」

「……うん。頭が痛くなるぐらい」

「それはそれは」

「だって、こんなに近くにいるんだよ? こうやって、触れるし、近付けるし、抱き締めてももらえるんだよ? なのに、 どうしてゾゾと私は何もしちゃいけないの?」

「それは、私が紀乃さんを愛して止まないからですよ」

「解らない。解りたくないよ」

 紀乃は首を横に振り、ゾゾの首筋に腕を回してくる。

「好きなんだよぉ……」

「ええ、ええ、私もですとも」

 ゾゾは左腕で紀乃を抱き寄せ、その華奢な体を胸に押し当てる。紀乃はゾゾの左肩に頭を預け、呟く。

「馬鹿だよね。戦いに行くよりも、ゾゾと思い通りのことが出来ない方がずっと辛いんだから」

「それもこれも、私が悪いのです。憎むのでしたら、御自身ではなくどうぞ私を」

 紀乃を抱く腕に力を込め、ゾゾは瞼を閉じた。紀乃はかかとを上げ、ゾゾを抱き締め返す。

「そんなこと、出来るわけないよ」

 弱々しくも悲痛な言葉に、ゾゾは胸が大きく抉られた。泣かせたいわけがない。悲しませたいわけがない。紀乃が 望むものを惜しみなく注ぎ込み、笑顔にさせたい。また、紀乃と共に南海の孤島で穏やかな暮らしをしたい。彼女 の命が終わるまで寄り添い、愛し合いたい。だが、生命の理がそれを許さない。ゾゾが紀乃と交ったら、ゼンの蛮行が 再び繰り返されてしまう。そうすれば、また何世代にも渡って苦しみが続くのが目に見えている。だから、ゾゾの意志 で人類とイリ・チ人の接触を断ち切らなければならない。ゾゾは身が割かれる思いで紀乃を解放して、背を向けた。 紀乃はぐっと唇を引き締めながらゾゾに背を向け、サイコキネシスで飛び去った。ゾゾはその場に立ち尽くして いたが、両膝を折って崩れ落ちると左手で単眼を覆った。牙で舌を噛み締め、慟哭を必死に堪えた。
 この夏が終わらなければいいのに。





 


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