三度、宇宙。 空間にみっちりと詰め込まれた暗黒物質の合間を通り抜ける、光の粒子が眩しい。惑星ニルァ・イ・クァヌアイの 名残である岩石の屑を取り囲み、ヤトゥ・マ・ギーの群れは長い首を逸らして勝ち鬨を上げている。ぎゅいいいいい、 ぎゅえええええ、ぎゅおおおおお、ぎゅけけけけけ。大小様々な部族から選りすぐられた若者達が、痛々しい傷跡を 誇り合っては電磁波を撒き散らして叫んでいる。赤茶けた無数の岩石をおもむろに噛み砕いた者は重々しく唸り、 単眼を上げた。すると、他の者達もそれに倣った。数万頭の宇宙怪獣戦艦は揃って首を逸らし、宇宙を仰ぎ見ると、 惑星ニルァ・イ・クァヌアイを含めた星系の公転を司っている赤色巨星が真っ二つに切り裂かれた。切断面からは 衝撃破と共に膨大なエネルギーが発生し、空間どころか次元そのものまでもが揺すられる。エネルギーの奔流を 全身に浴びた宇宙怪獣戦艦達は、再び声を上げ始めた。だが、先程とは意味が違っていた。声色は甲高く、新たな 宇宙への旅立ちに歓喜していた。使い古した宇宙を捨て、種族を穢した種族の存在していた汚らしい宇宙を離れ、 新天地を目指すのだという。空間ごと切り裂かれた赤色巨星は不安定になりつつあった核融合のバランスが崩れ、 爆発が起き始めていた。宇宙を超越するために不可欠な中性子や反物質が大量に生成される超新星爆発を待ち 望み、宇宙怪獣戦艦達は吼える。ぎゅあああああ、ぎょううううう、ぎゃかかかかか。 宇宙を焼き尽くすかのような超新星爆発の後、ヤトゥ・マ・ギーの群れは旅立った。去り際に彼らが語って聞かせて くれたのは、宇宙怪獣戦艦という生き物の習性と歴史だった。遠い遠い昔、何百億年も過去、現在の宇宙とは全く 別の宇宙が存在していた。その宇宙は、幾重にも折り重なった次元のパイで、不安定な断層がいくつも生まれては 多次元宇宙と接触していた。ヤトゥ・マ・ギーはその次元と次元の境目に生じた小宇宙で進化した生命体だったが、 四十億年ほどでその宇宙が消滅してしまった。いち早くその兆しを感じ取ったヤトゥ・マ・ギーは、次元と次元の間を 飛び越える術を見つけ出すと隣り合った異次元宇宙に移動した。星間戦争や次元崩壊が起こるたびに移動しては 生き長らえ、繁栄してきた。その繰り返しがヤトゥ・マ・ギーの歴史であり、繁栄こそが美徳だった。 これは過去の光景だ、と紀乃は痛烈に確信した。超新星爆発の余波に波打つ宇宙に漂いながら、未知なる宇宙 を目指して次元を超越していく宇宙怪獣戦艦達を見送った。彼らは振り返りもせず、ただ前だけを見ている。それも そうだろう、宇宙を越える旅が本能の一部に組み込まれたのだから、果てなき旅は彼らにとっては一種の快楽にも 等しい行為なのだ。事実、宇宙怪獣戦艦達の思念は高揚している。勾玉が火照るほどに。 「じゃあ、ワンは私達の宇宙に取り残されちゃったんだ」 赤色巨星が散り際にばらまいた中性子を吸収しながら旅に赴く者達を見、紀乃は重たく呟いた。 「連中が戻ってくることはあるまい。仮に戻ってきたとしても、連中にとってはワン・ダ・バは厳密な同種族ではない。 だから、どちらにしても、ワン・ダ・バは宇宙に旅立ったところで行く当てなどないのだよ」 竜ヶ崎はやや声を落とし、次元の歪みに向かって泳いでいく若者達を目で追った。 「ゾゾも、ワンも、そうなんだ」 二人の境遇を知り、紀乃は胸中が絞られた。宇宙怪獣戦艦達が一頭残らずに異次元宇宙へと旅立ってしまうと、 エネルギーを吸い尽くされた赤色巨星は収縮し始めた。これから、白色矮星となるのだろう。過剰な重力はすぐさま 小石を引き寄せ、粉々になった惑星ニルァ・イ・クァヌアイもまた、引き寄せられていった。無数の流星と運命を共に しながら、紀乃は竜ヶ崎を窺った。赤い単眼は光がなく、星の海を虚ろに眺めていた。 また、世界は変わる。 ワン・ダ・バが見続けた歴史が訥々と語られる。 ワン・ダ・バの上に火山灰と珊瑚礁が堆積して出来上がった忌部島にて、忌部継成と竜ヶ崎ハツが慎ましやかに 生活している。それを見守るのは、二人の異星人。ハツは健康的に日に焼けて髪も長く伸ばし、細腕の中には幼い 我が子を抱いている。継成はハツと我が子と一時の別れを惜しんでから、海に狩りに出かけていった。 継成とハツの子が、船に乗せられて本土に渡る。ゼンが操舵する帆船が江戸の港に着くと、まだ少年といっても 差し支えのない年齢の長男は虚無僧姿のゼンと別れを惜しむ。ゼンはゾゾと彼の両親から託された金子代わりの 品と手紙を渡し、夜の闇に紛れて上陸させる。長男は何度も何度も振り返りながら、江戸の街に消える。 長男は丁稚奉公として迎えられた屋敷で精一杯働いているうちに、才気を見出されて商売を手伝わせてもらえる ようになり、ワン・ダ・バから得た複雑で高度な知識と父親譲りの手先の器用さで頭角を現していく。二十代前半で 独立し、店を構え、名のある家の令嬢を嫁に取り、ますます店も家も栄えていく。 継成とハツの子は、次々に本土に向かう。忌部家として名を挙げていた長男は何人もの兄弟の世話をし、住居や 働き先を工面してやる。忌部家の分家である滝ノ沢家もまた栄え、何不自由ない栄華の日々が続く。続く。続く。 明治維新、度重なる戦争、世の動乱。その頃から、忌部家を取り巻く様相が変わり始める。忌部家と滝ノ沢家を 成していた兄弟とは違う血筋の兄弟が本土入りし、竜ヶ崎家が両家を脅かし始める。戦前も、戦中も、戦後も。 借財が嵩み、忌部家は店を畳まなければならなくなる。滝ノ沢家は財産を吸い上げられ、竜ヶ崎家の意のままに されるようになる。両家の血筋の者は竜ヶ崎家に従属し、搾取され、蹂躙される。 文明が進歩し、世界情勢が移り変わっても、それだけは変わらなかった。竜ヶ崎家の当主にはゼン・ゼゼが名を 変えた竜ヶ崎全司郎が収まり、思うがままに御三家を弄んでいた。戯れのように、竜ヶ崎全司郎は繁栄をもたらす。 同じ血を引く女に種を植え付け、血族の男が手を付けた女に早々に種を注ぎ、次々に子を孕ませる。生き延びた者 よりも、生まれて間もなく死んだ者の方が多かった。けれど、命は生まれていた。 世の中は目に見えて進歩する。一度瞬きをするたびに建物は増え、戦争で焼け付いた土地に草木が生い茂って 人々は活気を取り戻す。人間は増えていく。有象無象に。珠玉混合に。その中で、御三家も再び栄えていく。 竜ヶ崎家は内外に絶大な影響力を持つようになる。それはひとえに竜ヶ崎全司郎の才であり、努力であり、愛でも あった。政治家や企業の重役に不老不死に見せかけた延命措置を与える代わりに金を吸い上げ、搾り取り、財産を 膨らませていく。同時に子を産ませ続ける。産まれた子が成長すると、更にその子に自分の子を産ませる。その 繰り返しが続く。ワン・ダ・バの生体情報を少しばかり受け継いだ娘達は、望まぬ子を孕んで泣く。嘆く。苦しむ。 産まれた子の生存率は、時間経過と共に高まってくる。けれど、竜ヶ崎全司郎が利用価値を見出す子はほとんど 現れなかった。彼らは生まれて間もなく親から引き離される。沖縄近海の離島に建てた隔離施設に送り込まれる。 生き長らえる者もいる。その場で死を選ぶ者もいる。逃げ出そうとして海に流される者もいる。死が増える。 変異体管理局が立ち上げられると、竜ヶ崎全司郎の関心が薄れた隔離施設が機能しなくなる。定期的に届いた 物資が途絶える。人員も大幅に削減される。ついには職員が派遣されなくなる。残されたのは竜ヶ崎家の血を濃く 引きすぎた子達。だが、彼らの命は危うく、短い。南海の酷暑に耐えきれずに、皆、死ぬ。 何もかもが中途半端だった隔離施設が閉鎖されると変異体管理局に行政の力が集中し、竜ヶ崎全司郎の権力は 目に見えて強大化していく。自衛隊すらも彼の手先となり、法律にも手を出せるようになる。御三家の血を引く者達は 奇病の患者からミュータントに言い換えられ、またも隔離される。そうでなければ、能力の高さに応じて兵器扱い される。竜ヶ崎全司郎の長年の懸念であるゾゾ・ゼゼを打倒するためだけに、子供達が戦いに駆り出される。 壱号、弐号、参号、肆号、伍号、陸号、漆号、捌号、玖号、拾号。発展途上の能力を持っていただけに過ぎない子達 は短い命を磨り減らし、戦う。忌部島から出られないゾゾは、仕方なしに応じる。殺すつもりもなく、生かすつもりで 応戦しても、恐怖に駆り立てられている彼らは、実に呆気なく命を燃やし尽くしてしまう。ゾゾは彼らをワン・ダ・バの 肉体に吸収させるが、墓は建てない。なぜなら、彼らは生きているからだ。ワン・ダ・バとなって。 戦いは際限なく続く。伊号、呂号、波号。ワン・ダ・バの肉片を脳内に埋め込まれた子達は、それまでの子達よりも 遙かに優れた能力を操ってゾゾに戦いを挑んできた。時間を掛けて生体情報と生体組織を再生したゾゾは、今度は 誰も死なせずに戦おうと誓うが、竜ヶ崎全司郎は手を変えてくる。特異な子達を忌部島に送り込み始めた。 ゾゾは戦いづらくなる。元々、彼らと戦うつもりなどないから尚更だ。仕留めたいほどの憎悪を抱くのは継成とハツの 幸せを土足で踏み荒らした竜ヶ崎全司郎であり、その子達に罪はないからだ。けれど、戦わなければ、人の世界 から追い出されてしまった子達を守れなくなる。長らく逡巡した末に、ゾゾは決める。戦わずに生きようと。 ゾゾは繁栄をもたらす。ゼン、もとい、竜ヶ崎がもたらした繁栄とは違った形の繁栄だ。寄生虫に似た生体組織と 人格を持ちながらも実の弟への愛情に悩む女は、全てを忘れて笑う。実の姉と知っていながらも彼女を愛さずには いられず、珪素化した脳に起因する狂気に浸った男は、姉を愛して守るために女を憎もうとする。複雑極まる家族 構成を知らずに親兄弟を疎んでいた透明の男は、徐々に心身の収まる場所を見つけていく。平凡ながらも幸福な 日常から一転した世界に放り込まれた異能の少女は、持て余した能力で戦いながら家族を取り戻していく。環境と 自己嫌悪から潜在能力を封じ込めてしまっていたサメの青年は、忌部島の過去を掘り起こす過程で自信と能力に 目覚めていく。物心付いた頃から箱庭に閉じ込められていた竜の娘は、心から慕う兄とその親族達によって世界を 広げて自由を知り得ていく。母を奪われ、父を殺され、弟からも疎まれた鋼鉄の男は、もう一人の娘をその手に抱く ためだけに戦士となって拳を振るう。鋼鉄の男に添い、その意志にも添った液体の女は、愛を奮い立たせて竜ヶ崎 を討ち取らんと立ち上がる。本当の名を奪われて記号としての名を与えられた電子を操る少女は、忘れようとしても 忘れられなかった母への思いで心を据える。家族も光も奪われたが故に頑なになった音を操る少女は、真摯な恋を して緩やかに心を開き、心の殻を剥がしていく。見たものを模倣する能力を煮詰められたが故に記憶を保てない 少女は、寄り添える相手を見つけ出す。長らく蹂躙されてきた一族に生まれた女は、ようやく目を開き、己の意志の ままに生きようと決意する。彼らは栄え、命を輝かせていく。それが、ワン・ダ・バには何よりの歓喜だった。しかし、 竜ヶ崎全司郎は彼らの命を薙ぎ払う。削ぎ落とす。叩き壊す。捻り潰す。 それはワン・ダ・バの迷いを断ち切る。 命は尊い。それが、どんな形で生まれた者であっても。 青臭い考えだとワン・ダ・バは自覚している。同種族から異物と判断されて目もくれられず、異次元宇宙に単独で 旅立つ術を持たないために同族を追うことも出来ず、自我を切り捨てて道具に成り下がるほど諦観出来ず、地球に 馴染めるように自己生体改造を施せるほどの技術もなく、ただ、無益な時間を食い潰すだけの生だった。だから、 自分の生体組織を持ち得ながらも人として産まれ出でた子達が訳もなく愛おしくなった。継成とハツがいなければ、 永久に知ることのなかった感情の波が強張った脳をくすぐってくる。彼らには、ただ生きてほしかった。どんな形に なろうとも、どんな人生を送ろうとも、力の限り生きてくれるだけで良かった。兵器扱いされようとも、インベーダー 扱いされようとも、子達はワン・ダ・バの遠い遠い親戚には変わりないのだから。継成やハツやゾゾのように明確な 愛情は示せなくとも、子達を生かす手助けは出来る。だから、土壌を豊かにして近海には微生物をたっぷりと生息させて 魚介類を肥らせ、子達が健やかな人生を送れるように努めた。それなのに、竜ヶ崎全司郎となったゼン・ゼゼには 生命に対する敬いの気持ちが欠片もない。竜ヶ崎ハツが語って聞かせてくれたことを身に付けなかったどころか、 その教えを土足で踏み躙っている。ワン・ダ・バには許し難い蛮行だった。 青く冴えた月光が注ぐ砂浜に、銅鏡を携えたゾゾが立っている。直接触れ合えないと解っていても傍に近付きたくて、 紀乃はゾゾの隣に降りた。スニーカーを履いたつま先が珊瑚礁の砂を踏んでも音はせず、月光による淡い影も 伸びなかった。ゾゾの尻尾が目立つ影は、砂浜に横たわる流木に掛かっている。 「そうですか……」 銅鏡、カ・ガンを通じてワン・ダ・バの語った真実を聞き終えたゾゾは、深く息を吐いた。 「ニルァ・イ・クァヌアイも、宇宙各地のナガームンの領地も、一つ残らず全滅しているというわけですね?」 カ・ガンの鏡面に、ワン・ダ・バが送信した思念が文字として並ぶ。それを読み取り、ゾゾは答える。 「では、この宇宙に存在しているイリ・チ人とヤトゥ・マ・ギーは、私とワンだけということになりますね」 ワン・ダ・バは返す。 「ええ、ゼンは含みませんとも。あんなものを含めては、死した皆から疎まれますよ」 ワン・ダ・バは問う。 「差し違えてでも殺してみせます。そのための手は考えてありますが、少々えげつない手段でしてね。成功したとしても、 皆さんから恨まれることは受け合いでしょう。でも、それでいいんですよ。私は名実共に侵略者なのですから」 ワン・ダ・バは尋ねる。 「戦いを終えたら、やはり宇宙に戻りますよ。帰る場所がなかろうと、いてはいけないのですから。ええ、私はずっと ワンの傍にいますよ。イリ・チ人ではありますが、ワンが良いと仰るのでしたら、いつまでもいつまでも」 ワン・ダ・バは快諾する。 「ありがとうございます、ワン。私も、あなたが傍にいてくれて嬉しいですよ」 ゾゾの笑みに、紀乃は居たたまれなくなってゾゾの背に手を伸ばすが、紫色の肌を掴めずに擦り抜ける。 「ゾゾ! だったら無理に帰らなくていいよ、ずっと地球にいたっていいじゃない!」 「心残りですか? いくらでもありますよ。中でも、紀乃さんは特別ですよ」 ゾゾはカ・ガンを見つめ、ワン・ダ・バと向き合いながら語る。 「紀乃さんは私を好いてくれていますが、それが一時のもので終わってくれたらどんなにいいことでしょう。私のような ろくでなしのことなど、すぐに忘れて下さればいいのです。家族に囲まれて、普通の女の子として当たり前に生きて、 素敵な男性と出会って幸せな家庭を築くべきなのです。そうあるべきなのです」 単眼を右手で押さえ、ゾゾは口の端を歪める。 「そうですとも、紀乃さんが幸せになるのでしたら、私はどんなことだろうと成し遂げましょう。ゼンの首を刎ねて脳を 引き摺り出し、握り潰してみせましょう。皆さんに擦り付けられた汚名を、私一人が全て引き受けましょう。壊すべき ものは全て壊し、宇宙に去りましょう。未来永劫、地球人類からは蔑まれましょう。それが私の役割なのですから」 「そんなことしなくていいよ、何もしなくていい!」 紀乃はゾゾの胴体に腕を回すが、手応えはない。 「ああ、なんと爽快なのでしょうか! おぞましい宇宙の汚物は我が手で処理し、御三家の皆さんをインベーダーの 汚名から解放出来るばかりか、人としてあるべき世界に導けるのですから!」 「ねえ、ゾゾ、ゾゾってばぁ!」 こんなに近くにいるのに、触れられもしない。声も届かない。紀乃は悲痛に叫ぶが、ゾゾは歌うように語る。 「これこそが我が愛なのです! 貫かねば愛は形作れないのです! 今だからこそ解りましょう、我が種族がいかに 穢れ切っていたか! それを償うために、私はあらゆる穢れを引き受けましょう!」 「もう、黙ってよぉ……」 背中に爪を立てたつもりでも、空を掻いただけだった。紀乃は砂浜に座り込み、項垂れる。 「ですが、私は幸せなのですよ。ええ、心の底からね」 ゾゾはカ・ガンを胸に抱き、単眼を優しく細める。 「無益に生きてきた中で、こうも激しく愛せる女性と出会えたのですから。惜しむらくは、紀乃さんと過ごせた時間が 短いことでしょうか。ですけど、それでいいんですよね。短ければ短いほど、濃密な記憶として残るのですから」 「何だよ、強がっちゃって」 紀乃はゾゾの尻尾を掴もうとするが、ずしゃりと砂に落ちただけだった。 「そうですか。ワンも、そう思ってくれますか」 ゾゾはカ・ガンを指先で撫で、満足げに頷く。 「では、決まりですね。心行くまで、ゼンと戦いましょう」 ゾゾは踵を返して、集落に向かう道を辿っていった。紀乃はゾゾを追い縋ろうとしたが、立ち止まった。在りし日の 忌部島がそこにあったからだ。忘れもしない廃校、豊かな田畑、ガニガニと忌部と共に塩を作った塩田、思いのままに 遊び倒した砂浜、小松と一緒に山頂まで登った火山、海を見下ろす崖に作られたログハウス、原色の南国の森。 強烈な郷愁が込み上がった紀乃は、声にならない声を漏らした。 「心底吐き気がする」 竜ヶ崎はあからさまに顔を歪め、唾液を足元に吐き捨てた。 「これだから、私はこの男が嫌いでならないのだよ。己の変化とワン・ダ・バの変化は許容するくせに、私の変化は 一切許容しなかったではないか。その上、己を限りなく美化している。あれのどこが愛だと言うのだね、ひたすらに 馬鹿馬鹿しい自己満足ではないか。お前達に対する執着にしてもそうだ。同情の延長に過ぎんし、奴のつまらない 自尊心を潤わせる手段に他ならぬ。そんな奴に付き従うお前達にしても、奴に扇動された末に訳の解らぬ使命感に 高揚しているだけだろうに。実に胡乱な話ではないか」 「それは違う。ゾゾはあんたが変わったことを認めていたよ。でも、あんたは悪い方に変わりすぎたんだ!」 紀乃はサイコキネシスを放つ構えになり、竜ヶ崎と対峙する。 「あんたに少しでもいいから人の気持ちを考える頭があれば、こんなことにならずに済んだんだ!」 「そんなもの、お前以上に考え抜いているとも。そうでなければ、竜ヶ崎全司郎はこの世にあるまいに」 竜ヶ崎は悠々と腕を広げ、紀乃に近付いてくる。 「諦めたまえ。奴の元に戻ったところで、お前は幸福にはなれん。欲望を制し、願望を廃し、希望を捨て去った者に 幸福など訪れんからだよ。だが、私は違う。惑星ニルァ・イ・クァヌアイが塵芥と化そうと、イリ・チ人が全滅しようと、 宇宙怪獣戦艦が別の宇宙に旅立とうと、私とハツを阻むものにはならん。そう、この並列空間でさえも。さあ、我が 手に下れ、龍ノ御子の代用品よ。ハツが旅立った、真のニライカナイへの道を開こうではないか」 「そんなものはどこにもない! ハツさんだって、あんたがそんなんだから自殺しちゃったんじゃないか!」 紀乃が怒りに任せて声を荒げると、竜ヶ崎は瞳孔を収縮させた。 「……なんだと?」 「いつまでもいつまでもいつまでも変なことばっかり言って! どうして解ろうとしないんだ、ワンでさえもあんたには 愛想を尽かしたんだよ!? いい加減に現実を見てよ! その目をちゃんと開け! ニライカナイなんか探す前に、 まずは自分の周りを見てみたらどうなんだ! あんた一人の我が侭のせいで、どれだけの人間が苦しんだと思って いるんだぁあああああああっ!」 感情の高ぶりをサイコキネシスに変換し、紀乃は竜ヶ崎に叩き付けるが、竜ヶ崎は少しよろめいただけだった。 「年端もいかぬ小娘から説教されたところで、響きもせんな」 「だったらこうは考えられないのか! 私みたいなのに怒鳴られるほど、あんたは本当に本当にどうしようもないって ことが! いい加減に自覚したらどうなの!」 「だったら、お前はこうは考えぬのかね?」 竜ヶ崎は瞬間移動を用いて一瞬で間を詰め、紀乃の襟首を掴んで持ち上げる。 「これまで私がお前に何もしなかったのは、並列空間と通常空間の安定を待っていただけに過ぎんということをね。 この無益な時間と空間の旅の最中に、私がお前の生体情報を採取しなかったわけがないだろうに。お前は微塵も 気付かなかっただろうが、お前の意識の途切れていた時間などいくらでもあったのだよ。だから、最早、私にはお前は 必要ないのだよ、龍ノ御子の代用品!」 竜ヶ崎は紀乃を突き飛ばし、砂浜に転がした。紀乃が立ち上がろうとすると竜ヶ崎は長い尻尾を振り下ろし、紀乃の 背に打ち付ける。凄まじい衝撃と激痛に呻いた紀乃に竜ヶ崎は手を伸ばし、襟元から零れた勾玉を毟り取った。 穴に通した革紐を引き千切った竜ヶ崎は、赤い勾玉を握り潰して口に放り込み、嚥下する。 「さあ、今こそ渡るのだ! 海の彼方の理想郷、我が愛しの妻の待つニライカナイへと!」 空間が歪む。並列空間が割れる。通常空間と接する。宇宙と宇宙が鬩ぎ合う。竜ヶ崎の手から勾玉を奪い返そうと 紀乃は手を伸ばすが、その手は届かなかった。並列空間と接した通常空間の穴から、光とも闇とも付かないものが 流れ込む。竜ヶ崎はただひたすらに哄笑し、ハツの名を連呼している。今一度手を伸ばした紀乃は、気力と余力を 振り絞って竜ヶ崎の尻尾の先を捉えた。だが、努力も空しく、指の間からは冷たくざらついた肌は滑り抜けた。 後には、虚空だけが残った。 11 2/15 |