潮の香りがする。 肌に触れる珊瑚礁の砂は熱く、降り注ぐ日差しは容赦なく暑い。両足を舐めるさざ波は柔らかく、スカートの裾が 浸っている海水の温度は程良く冷たい。高く青い空は心を締め付け、エメラルドグリーンの海は胸を緩ませる。息を 吸えば、かすかに硫黄の混じった空気が肺を満たしてくれる。喉の渇きすらも懐かしく、首筋を伝う汗の雫の感触は こそばゆい。紀乃は伸ばしかけた手をだらりと落とし、砂浜に埋めた。 「ここって……」 これは通常空間なのか。それとも、まだ並列空間を彷徨っているのだろうか。 「でも、もう、どっちでもいいや」 帰る場所はないのに、ゾゾは宇宙に帰ってしまうのだから。紀乃は両腕を抱くと、熱砂に顔を埋めた。泣きたくとも、 もう涙も出てこない。ワン・ダ・バの意志による並列空間の旅路は、人間でしかない紀乃には過酷だった。今に なって、宇宙空間に放り出された恐怖がやってくる。竜ヶ崎への敵対心でなんとか誤魔化していた寂しさや切なさや 空しさが、全身を苛んでくる。すると、頭上に影が掛かった。竜ヶ崎だろうか、と紀乃が恐る恐る目を上げると、赤い 単眼が穏やかな眼差しを注いでいた。その左手には翡翠色の剣、チナ・ジュンが携えられ、右手を差し伸べてくる。 紀乃が徐々に瞼を見開いていくと、彼の手は紀乃の髪と頬に付いた砂を払ってくれた。 「お帰りなさい、紀乃さん」 忘れもしない声で名を呼ばれ、紀乃は跳ね起きた。 「ゾゾ!?」 「ええ、そうですとも」 ゾゾが頷くと、その背後に横たわる巨体が肩越しに見えた。ワン・ダ・バだ。 「うぁあああ……」 複雑な感情が怒濤のように押し寄せた紀乃は、ゾゾの右腕を掴んで背を丸めた。 「生まれた星がなくなったのに、仲間も一人もいないのに、宇宙に帰っちゃうの?」 「ワンが、私達の世界の光景を見せたのですね」 ゾゾは紀乃の肩を軽く叩いてから、膝を伸ばして立ち上がる。紀乃はゾゾを引き留めようとすると、ゾゾは右手を 下げて紀乃を制した。翡翠色の刃は日光を跳ねて煌めき、ゾゾの険しい横顔を照らした。紀乃は袖口で涙を拭って から、赤い単眼が見据えるものに目を向けた。見覚えのある稜線の先からは、水蒸気混じりの噴煙が噴き上がって いる。ワン・ダ・バが胴体を引き抜いた際に転げ落ちた地面の破片が火山の斜面に貼り付き、畑で育っていた作物が 岩だらけの斜面に引っ掛かりながらも根を伸ばし、命を振り絞って生きている。ハイビスカスの花が砂浜と火山の 境目で咲き誇り、赤い花弁が潮風に震えている。今となっては折れた板と柱でしかないが、皆で建て直した廃校が 土塊に突き刺さっている。忌部島と呼ばれていた過去を持つ、本州から一千五百キロメートル南下した海に浮かぶ 火山に他ならなかった。 「ぐ、ぅ……」 斜面に埋もれている岩の手前で、竜ヶ崎全司郎がよろめきながら起き上がった。 「おやおや、これはこれは。さすがにしぶといですね」 ゾゾは右手で翡翠色の剣を構え、切っ先を突き出す。その先に立つ竜ヶ崎は、苦々しげに吐き捨てる。 「私は確かに並列空間を脱してニライカナイへの道を開いたはずだぞ!? こんな馬鹿げた惑星からは永遠に縁を 切れるはずだったのだ! ゾゾ、お前が手を加えたのだな!?」 「ええ、しっかりとね」 ゾゾは紀乃の背にして守りながら、竜ヶ崎に近付いていく。 「並列空間に転移したゼンと紀乃さんを、私とワンは終始観測していたのです。物理法則の異なる空間での出来事 ですが、観測していれば、観測しているという事実が安定をもたらしますからね。まさか、あなた自身の演算能力と 紀乃さんの持つヴィ・ジュルだけで並列空間に存在していたとでも思いましたか? だとすれば、勉強不足ですよ」 「馬鹿を言うな、観測されているだけで何が変わるというのだ!?」 竜ヶ崎が戸惑うと、長い首を持ち上げたワン・ダ・バが忌部の声で語り掛けてきた。 「観測出来なければその物体は実在しないが、逆に言えば観測された時点からその物体は実在することになるん だよ。俺は物理学に明るくないから細かいことはよく解らんが、宇宙論ってのはそういうもんらしい。だが、それだけ じゃない。お前を観測しながら、俺とゾゾは生体情報の調整もしていたんだよ。並列空間における物理構造と通常空間に おける物理構造は根本的に違うから苦労したが、その甲斐があったってもんだ」 「よって、並列空間から逸脱して通常空間で肉体を復元した際に、あなたの生体情報から全ての能力を除去される ように設定したのですよ。どうです、良い考えでしょう?」 ゾゾは少し得意げに単眼を細めるが、竜ヶ崎は憤る。 「そんなことぐらいで、神たる私を阻めると思うほうがおこがましい! 生体情報を改変されようとも、また改変すれば いいだけのことではないか! 第一、継成の生体組織で作った剣など武器にすらならん!」 「あなたは、継成さんのお話から何も学び取らなかったようですね。神というものは、信奉された時点で霊験を得る のですよ。人ではない物の姿を形作っただけの金属塊にせよ、奇妙な形状の岩にせよ、巨木にせよ、それは人々が 信じているから神となるのではありませんか。確かに、少し前まではあなたを信ずる者がいたやもしれませんが、 化けの皮が一枚残らず剥がれた今となっては、誰一人としてあなたを信じもしなければ崇めてもいません。つまり、 今のあなたは竜ヶ崎全司郎でもなければ変異体管理局局長でもなければ本家の御前様でもない、ただのクソ野郎に 過ぎないというですよ」 「黙れ黙れ黙れ、私は神だ! 神以外の何者でもない!」 「お黙りなさい、見苦しい!」 ゾゾは急に声を低め、駆け出した。熱砂を蹴散らして長い尻尾を靡かせながら、もう一人の自分へと迫る。竜ヶ崎は それを受け止めようと尻尾を振るうが、ゾゾはその尻尾を左手で掴み取ると竜ヶ崎の体を捻って転ばせる。呆気 なく倒された竜ヶ崎は足を回してゾゾの足元を崩そうとするも、ゾゾは尻尾を上手く使って高く跳躍して岩場の上に 飛び降りると、竜ヶ崎の背後を取った。尻尾をしならせてゾゾを振り払おうとした竜ヶ崎の胸元に、ゾゾは翡翠色の 切っ先を突き立てる。息を飲んで硬直した竜ヶ崎に、ゾゾは右足を踏み込んで体重を掛ける。 「かぁっ……!」 竜ヶ崎の背中から、赤黒い体液を纏った切っ先が生える。ゾゾは更に体重を掛け、剣を根本まで刺す。 「チナ・ジュンの中和能力を逆転させ、作用させました。これにて、あなたの生命活動は完全に沈黙します。ですが、 その前に、あなたにとても良いことを教えてあげましょう」 肺の間に収まる脳を千切られた影響で痙攣し始めた竜ヶ崎の耳元へ、ゾゾは語り掛ける。 「日本政府と国連は、あなたの存在を私と同一として発表しました。つまり、竜ヶ崎全司郎なる人間は地球には最初 から存在せず、ゾゾ・ゼゼが名を変えて演じていただけということになったのですよ。インベーダーの件も自作自演、 ミュータントと呼ばれた方々は世にも奇妙な遺伝病の犠牲者、御三家は遺伝病に苦しめられながらも適切な治療を 受けさせてもらえなかった被害者、生体兵器として扱われた方々は奇異なる遺伝病を能力と呼んでインベーダーと 死闘を繰り広げた正義の戦士となったのです。どうです、素晴らしいでしょう、世間の評価など簡単に逆転してしまう ものなのですよ。ついでに言えばあなたの資産は一切合切剥奪され、戸籍も経歴も白紙です。皮肉なものですね、 私と酷似した姿を保ち続けていたばかりに、あなたと私は同一視されるのですから」 「私が、お前に、なる?」 ぎこちなく首を曲げた竜ヶ崎はゾゾを見、ぐいっと口の端を引きつらせた。 「は、ははははは、ふははははははは、それはいい、最高ではないか!」 「では、最後にこれをお伝えしましょう」 ゾゾは、ぎぢぃっ、と剣を捻って竜ヶ崎の出血量を増させる。 「ハツさんは今も生きておられます。忌部家の皆さんの血となり、肉となり、魂となり、あなたの傍に寄り添っていたの ですよ。清冽なる女性を穢して俗世に引き摺り下ろしたのは継成さんではない、他でもないあなたなのですよ」 「ちが、う。それは、つぐなりが」 「何を仰いますか。ゼンはハツさんに見苦しい憎悪を与え、俗人に戻したではありませんか」 ゾゾは竜ヶ崎の鼓膜に口先を寄せ、万感の思いを込めて言う。 「はつが……ぞくじん……? わたしが、はつを、けがした?」 体液の筋にまみれた手で竜ヶ崎はゾゾの首を掴もうとするが、ずるりと滑る。 「今更知ったところで、手遅れではありますがね!」 一息で竜ヶ崎の胸中から剣を引き抜いたゾゾは、袈裟懸けに振り下ろした。竜ヶ崎の胸から腹にかけて深い傷が 走り、肋骨の間から脳が零れ出す。ゾゾは手首を返して左下からも振り上げて傷を交差させると、最後に大きく横に 振って頸椎に叩き込み、力任せに筋と頸椎を破壊した。動脈の切断面から血液が解き放たれ、砂を汚す。 「ミーコさんからの伝言です、地獄へはお前一人で行けと!」 最後の仕上げとして竜ヶ崎の首を切り落としたゾゾは、赤黒い飛沫を上げながら崩れ落ちる片割れを一瞥した。 「もっとも、地獄でさえも門前払いされそうですがね」 翡翠色の剣は隅々まで赤黒く染まり、柄の部分までもが汚れていた。ゾゾは剣を振るって体液を払ってから、柄を 逆手に握って左手に携えた。その手もまた、元の色彩からは懸け離れていた。汚れた右手を下げたゾゾは、紀乃に 振り向いた。紀乃は駆け寄ろうとするも、ゾゾは切っ先を上げて紀乃を阻む。 「こちらに来てはいけません、紀乃さん」 「なんで、だって、やっと」 紀乃が足を踏み出そうとすると、ワン・ダ・バが首を横に振った。 「あいつの気持ちも考えてやれ」 「全部が終わったのに、どうして!?」 紀乃は溜まりかねて駆け出すが、ゾゾは剣を横たえて刃を見せつける。 「終わってなどおりません! いいですか、紀乃さんはインベーダーから世界を守った一族の御方なのです! 私と 二度と接触してはいけません! 私は、ゾゾ・ゼゼは、地球人類を脅かすインベーダーなのですから!」 「意地っ張りぃ……」 よろめいた末に座り込んだ紀乃は、砂を握り締めて肩を震わせる。 「こんなに汚れた手では、紀乃さんに触れられないではありませんか。御飯を作って差し上げたところで、おいしくも なんともないでしょう。傍にいたところで、紀乃さんの自立と成長の妨げになりましょう」 ゾゾは剣を下げ、紀乃に背を向けた。 「ワンと共に、本土にお戻り下さい。東京近郊は未だに非常事態宣言が発令されていますので、迎撃される心配は ありません。秋葉さんのお知り合いである公安の方々が、お迎えに上がる手筈になっています。もう半月もすれば、 ゼンに溶かされた皆さんも生体洗浄を終えて元の姿に戻ります。紀乃さんも、速やかに生体洗浄をお受け下さい。 紀乃さんが求めて止まなかった、当たり前の生活が待っていますよ」 「紀乃。帰るぞ」 ワン・ダ・バは、穏やかに諌めてきた。紀乃は立ち上がりたくもなかったが、ワン・ダ・バの操ったサイコキネシスで 浮かばされた。それに抗える余力もなければ気力もなく、忌部島の地面から引き離される。ゾゾの背中も遠くなり、 無惨に首を切断された竜ヶ崎の死体も遠くなる。我に返って手を伸ばしたが、ゾゾはもう紀乃には手を伸ばさずに 汚れた右手を見つめていた。彼の頑なな決意を思い知った紀乃は脱力し、ワン・ダ・バに身を委ねた。 忌部島からの帰路は平穏そのものだった。紀乃はワン・ダ・バの背の上に座り込み、巨体の下でたゆたう海の色が 次第に変化していく様をぼんやりと見つめた。北上するに連れて、空の色も海の色も移り変わっていく。同じ世界が 繋がっているはずなのに、少し離れただけで全くの別物になってしまう。今更ながら、甚平が言っていたことが良く 理解出来る。今の今まで、紀乃は境界を越えた世界にいた。だが、東京に帰れば元いた世界に戻される。それは 悪いことでもなんでもなく、そうあるべきことなのだが、途方もない空しさに襲われた。 疑問の答えを出す間もなく、紀乃は東京湾に到着した。ワン・ダ・バは崩壊した海上基地ではなく、東京湾沿岸の 倉庫街だった。そこは一時的に自衛隊と公安に徴集されているらしく、迷彩服姿の人間が多く行き交っていた。これ までの経験で身構えてしまった紀乃を、右腕をサポーターで吊っている秋葉が出迎えてくれた。彼女の傍には、ゾゾが 言ったように公安の人間が控えていた。秋葉と大差のない年齢の小柄な若い女性だったが、見るからに雰囲気が 違っていた。紀乃は自分のサイコキネシスを使って港に降りると、秋葉はまず紀乃の手を取り、無事であることを 確かめて喜んでくれた。それから、呂号を守って戦いきれなかったことを謝ってきた。紀乃は、過ぎたことでありまた 皆は帰ってくるのだから気に病まないでほしい、と答えると、秋葉は涙を浮かべて礼を述べた。公安の女性捜査員、 鈴本礼科係長は紀乃を誘い、身体検査を終えた後に都内近郊の療養所に送ると言ってきた。ワン・ダ・バと離れて しまうのは名残惜しかったが、ワン・ダ・バもそれがいいと勧めてきた。紀乃は何度となくワン・ダ・バに手を振って、 礼科が運転する車に乗り込んで沿岸の病院に向かった。 悪い夢から覚めたかのような気分だった。だが、車窓を流れる景色はあの出来事が現実なのだと知らしめてくる。 巨大化した竜ヶ崎が崩れ去った東京湾内は封鎖されていて、海上基地に続く海底トンネルも同様で、折れたビルが 道路を寸断している。アスファルトも無数の落下物で穴だらけになっていて、礼科の運転がどれほど上手くとも車体 の揺れだけはどうにもならなかった。紀乃は白い砂が付いた髪を握り、ゾゾの仕草を思い出して唇を噛んだ。 「長旅、ご苦労様でした。田村秋葉さんの証言と物証を元に、政府は判断を下しました」 礼科はハンドルを切りながら、後部座席で窓に寄り掛かっている紀乃に言った。 「竜ヶ崎全司郎、すなわち、インベーダーの悪行は国内法で罪に問える範疇ではなくなり、インベーダーを阻止する ために戦い抜いた御三家の行動は賞賛に値するが、法的には犯罪に抵触する部分が多い。だが、功罪を天秤に 掛ければ功が遙かに大きく、人智を越えた侵略者の手から本国を守り抜いたことは紛れもない事実である。よって 御三家の罪は相殺されるべきだが、彼らがそのまま長らえるのは倫理的にも難しく、現代社会では情報統制も困難を 極める。そこで現在、救済策が議論されており、証人保護プログラムに近いものが妥当ではないかというのが大方 の意見ではあるが、当事者からの意見を聞き取ってはいないので可決されていない。そこで、紀乃さんには救済策 についての意見を求めたいのですが。追って資料もお届けに上がりますし、解らないことがありましたら、係の者に お尋ね下さい。国家機密に抵触することですから、懇切丁寧にお教えしますよ」 「……ゾゾは、一体どうなるんですか?」 か細い声で紀乃が問うと、礼科は交差点の赤信号で車を止めた。 「それについても、議論を重ねている最中です」 そう言ったきり、礼科は黙ってしまった。紀乃はゾゾの手の感触がこびり付いている頬に触れ、嗚咽を殺した。ゾゾの 後ろ姿が瞼に焼き付いて離れず、チナ・ジュンに絡み付いた竜ヶ崎の血の色が忘れられなかった。忌部島にさえ いれば、ゾゾは誰の迷惑にもならないどころか、遙かに有益だ。科学者としてのゾゾの知識は計り知れないものが あり、そうでなければ紀乃は通常空間に戻ってこられなかった。ワン・ダ・バもそうだ。忌部島の火山の傍で休眠して いれば、彼もまた緩やかな時を過ごせる。宇宙に出たところで帰る場所がないのだから、ずっと住んでいればいい。 けれど、そんな幼い我が侭が通用するような事態でないことぐらい、紀乃も身に染みて理解している。それらの言葉を 飲み下してから胸に押し込め、紀乃は目元に滲み出していた涙を拭った。 二度と戦わずに済む、安堵から出た涙だった。 11 2/15 |