伊豆諸島、神津島から南西に三十六キロ。 島ではなく岩礁と言うべきイナンバ島に巨大なガが留まっていた。全長五十メートルもの巨躯の大部分を 占める羽は緩やかに上下し、でっぷりと肥え太った楕円形の腹部が波飛沫を浴び、ブラシのような触角が時折動いて 匂いを探知していた。真上からでは、尚更気色悪い。快晴の空から注ぐ日光を浴びた鱗粉は雲母のように輝き、不気味さ と美しさが鬩ぎ合っていた。変異体管理局保有のCH−47チヌークのハッチを開いた山吹は、波号を落とさない ように脇に抱えてから敵の姿を見させた。潮風とローターの暴風で髪を乱された波号は、ガの巨大さに圧倒され、 ぶるっと身震いして体を強張らせた。 「こわいぃ」 波号が山吹の硬い脇腹を掴むと、山吹は波号をキャビン内に戻し、その両肩を押さえた。 「大丈夫っすよ、すぐに終わるっすから。はーちゃんが頑張ってくれれば、むーちゃんも喜んでくれるっすよ。また、 一緒に海に出すお手紙を書いてくれるっすよ」 「本当? むーちゃんのこと困らせちゃったけど、また一緒に遊んでくれる?」 おずおずと波号が目を上げると、山吹はぐっと親指を立てた。 「天地神明に誓って!」 「……うん、解った。頑張る」 波号が決意を固めると、山吹は鍵を取り出して波号のゴーグルに差し込んだ。 「いいっすか、はーちゃん。はーちゃんを現場に投下したら、俺達はすぐに退避するっす。十五分以内に戦闘状況が 終了しなかったら、その時はイッチーに出動要請を掛けて空爆を開始、それでも終了しなかったらロッキーに出動 要請するっすけど、自力で退避するんすよ。はーちゃんが変身したら、俺達は回収しようがないっすからね」 「うん」 かち、と側頭部で錠が外れる音を聞いた波号は、瞼を開いた。山吹は一瞬躊躇ったが波号の小さな体を抱えると、 力一杯腕を振って波号を海上に放り投げた。 「現時刻より戦闘状況開始、緊急退避!」 目の前には、岩が突き出した海が広がっていた。耳の傍で叫ぶ暴風に混じって、チヌークの重たいローター音が 遠ざかるのが聞こえたが気にならなかった。波号は恐怖よりも先に空を飛ぶような解放感を味わっていたが、肌を 舐める日差しが鋭い痛みに変わった。落下の最中、苦痛に耐えかねた波号が体を丸めると痛みが急激に増大し、 お気に入りのワンピースの背中が突然発達した細長い骨に突き破られた。次にレギンスが破れ、下着が千切れ、 靴が壊れ、花びらのように散って潮風に紛れた。日を浴びるほどに組み変わった細胞が何百倍もの体積に膨張し、 海水の分子を変換して仮初めの肉体を造り出したため、真下の海面が半球状に抉れ、海水がぽっかりと消失した。 変化を終えて波号が着水した瞬間には、十歳の少女は体長百メートル前後の物体に変化していた。 翠の能力も記憶も完璧に模倣した波号は、二枚の翼と太い尻尾を備え、一対のツノを生やした竜と化していた。 翼で空気を打ち付けると局地的な嵐が巻き起こり、巨体が浮上する。異変を察した巨大ガは波号に向き、鳴き声の ようでいて声とは程遠い音を発した。イナンバ島から浮上した巨大ガは波号に体当たりするが、波号はその攻撃を 真っ向から受け止めた。質量と質量が激突して発生した高波がイナンバ島を飲み込み、円形の波紋が広がる。 「はーちゃん! とりあえず、敵の生命活動を沈黙させるっす!」 上空から拡声器を使った山吹の指示が飛んだが、波号は答えなかった。その代わりに、巨大ガの触角を掴んで ねじ曲げた。仰け反らされた巨大ガはばたばたと羽を揺すって抵抗したが、ぎぎぃ、と顎を開いて波号の喉に 食らい付いてきた。本来は花粉を咀嚼するための顎は決して鋭角ではなかったが、巨大化によって増大した筋力が 攻撃として成立する力を造り出していた。竜に相応しい分厚いウロコに顎が食い込み、波号は目を見開いた。 「あ、あ、ああああああっ!」 滴り落ちた血が海水を汚し、皮膚を伝う。急所に及んだ痛みで覚醒した波号は、巨大ガの頭を掴んだ。 「あ、あ、ああああああっ!」 一撃。巨大ガの頭部は尖った岩場に凄まじい力で叩き付けられ、砕けた。触角が折れ曲がり、羽が海に浸る。 「あ、あ、あ、あ、あっ!」 巨大ガの割れた頭部からどろりと流れ出した体液に、波号は手を突っ込み、脳漿を掴み取った。昆虫らしく青味 掛かった体液にまみれた柔らかな脳に、波号はみちりと耳元まで裂けた口元を歪めた。不思議な高揚感が隅々に 広がり、脳をぐぢゅりと握り潰した。指の間から零れる冷たい蛋白質塊の感触に、波号は無闇に笑い転げた。 「ぐぅあがががががががが」 声帯が巨体の竜であるため、普段の声とは懸け離れた低く割れた声が放たれた。 「ぐぇおがががががががが」 二つに割れた巨大ガの頭部を、殴り、潰し、抉り、複眼も残さずに粉々に破壊した。 「ぐぅえがががががががが」 ぐねぐねと波打つ柔らかな楕円形の腹部に拳を埋めると、内臓と体液と無数の寄生虫が飛び散った。 「が、が、がががががががががが」 体液と海水に濡れた羽を爪で引き裂きながら、波号は笑った。笑いたいわけではなかったが、笑わなければ 正気が保てなかった。吹っ飛びそうな意識の端にしがみついている自分を強く持とうと思いながら、巨大ガの胸部に 尻尾を振り下ろすと、六本足が突然動いてトラバサミのように食らい付いてきた。頭はもう潰したはずなのに、との 疑問が言葉として思考に至る前に、六本足が波号の尻尾に突き刺さった。 「ぎぇあっ!」 皮膚が破られて血が噴き出し、岩場を赤黒く濡らした。振り解こうと暴れるが、六本足は深く食い込み、骨にまで 到達した。本来なら持ち得ない尻尾から背骨に駆け抜けた激痛に、波号は喉を最大限に開いて絶叫する。巨大ガの 残骸をでたらめに破壊しながらのたうち回るが、尻尾があらぬ方向に飛び跳ねた。 「はーちゃん、もういいっす! 戦闘は終了したっすから、事後処理に移行するっす! 神津島の火山にガの死体を 投棄して熱消毒するんすよ!」 高度を下げてきたチヌークから山吹は叫んだ。が、興奮と苦痛に喘ぐ波号には届かない。 「ぐぇあがががががごっ」 口の端から唾液と胃液の混じる泡を垂らし、波号は流血する尻尾を海水に浸した。翼を広げるとびりびりと痛みが 走るが、痛みから逃れるためには逃げなければ。逃げなければ。逃げなければ。この、箱庭の世界から。 翼が海面を叩き、風を孕む。ゴーグルを通さずに見る空はとても綺麗で吸い込まれてしまいそうだ。海は冷たくて 柔らかくて、ちょっとしょっぱい。この翼があればどこまでも行ける。他の国にも遠い山にも南の島にも。翠の記憶と 自分の意識が混濁し始めた波号は、ぎょろぎょろと双眸を動かした末に本州を見定めた。夢にまで見た外の世界が、 手の届くところにある。行かなければ、逃げなければ、どこまでも。 波号は尻尾を岩に打ち付けて巨大ガの残骸を叩き落とし、巨体を浮かび上がらせ、血液と海水を垂れ流しながら 浮上した。進行方向は東京湾、直線上には海上基地が。 「うっわヤベッ! 直ちに呂号の出動要請するっす! リクエスト曲は、えーと!」 慌てた山吹が司令室に無線を入れると、真波ではなく呂号の冷静な声が返ってきた。 『監督不備もいいところだ。曲目は僕が決める。傍迷惑だ。お前は本当に役立たずだ。山吹監督官』 「んじゃ、始末書の用意もよろしくっす」 『それは自分でやれ。僕の仕事はヘヴィメタルだ』 メタリカのザ・アンフォーギヴィンだ、と選曲を伝えてから、呂号は通信を切った。 「またメタリカっすか。ロッキーも好きっすねー」 山吹は独り言を零してから、東京湾を目指す波号に注意を戻した。程なくして広域音波発生器を搭載した戦闘機 部隊が発進し、ジェットエンジンの轟音が風に乗ってやってきた。ここで波号を押さえられなければ、都心はミーコが 造った怪獣じみた巨大生物ではなく波号に壊滅させられる。伊号にも呂号にも言えることだが、生体兵器の少女達は 正に諸刃の刃だ。伊号の場合は、調子に乗って暴走したとしても操作している機械を破壊すれば収拾を付けられる が、波号はコピーした対象物に変化した後はほとんどコントロールが聞かない。対象物が聞き分けの付くモノ なら良いのだが、乙型二号のような極端な能力の持ち主ではまず無理だ。だが、現時点では、波号を凌ぐほどの 万能兵器は開発されていない。だから、今回も彼女に頼るしかなかった。 翠の記憶と自身の意識が同調した波号は、外界の美しさに酔いしれていた。素肌を舐める空気の暖かさに涙が 滲み、潮の匂いで胸が一杯になった。真正面に見える陸地に、きらきらと光り輝く超高層ビルが何本も生えている。 船も見える、空港も見える、街も見える、全てが本物の。 「ぐおぅ」 不意に、戦闘機が視界を過ぎった。驚いた波号は羽ばたきを緩め、牙を剥いて唸る。一機が波号の視界を遮り、 目指す世界が一瞬見えなくなった。それに苛立った波号は爪を振り上げて戦闘機を叩き落とそうとするが、爪先が 尾翼に掠めただけだった。後続機が大型ミサイルのような形状の広域音波発生器を投下し、波号の周囲を囲む。 着水した途端にスピーカーから展開され、呂号の滑らかなギター演奏が流れ出すと、波号の荒れ狂っていた脳波が 安定を取り戻し始めた。エレキギターの奏でる音色に負けまいと波号は羽ばたくが、変化を維持出来なくなり、翼が どろりと溶けて海水に戻ってしまった。尻尾も、巨体も、ツノも、牙も溶け、滝のように流れ落ちる。狂気のように脳を 支配していた翠の記憶も海水と共に溶け落ちた波号は力尽き、気を失って海面に落下した。 何を忘れたのかすらも、忘れながら。 鈍い頭痛と、喉の奥の塩辛さ。 見慣れた天井に、覚えのある布地の感触が肌を包み込んでいた。鎮静剤による人工的な眠気が抜けないまま、 波号は瞼をこじ開けた。ぼやけた視界から入った情報を脳内に染み渡らせようとしたが、思うように取得出来ない。 よくよく見てみると、世界には薄いグレーのフィルターが重なっていた。目元に触れると、冷たく硬いゴーグルとヘッド ギアが填っていた。体を起こそうとすると、背中から痛みが突き抜けた。 「うあっ」 波号の悲鳴に気付いたのか、ベッドを囲むカーテンが開いて秋葉が現れた。 「はーちゃん、起きた?」 「う、うん……」 波号は自分自身の手を眺めてから、慎重に体を触った。いつも通りの、肉付きがあまり良くない子供の体だった。 恐る恐る手を回すと、背中には分厚いガーゼが六枚貼られていた。手足にも無数の切り傷があり、絆創膏や厚い ガーゼが貼られていて消毒液臭かった。腕に刺さった点滴からは、一秒ごとに薬液の雫が落ちている。 「あー、やれやれ。外装交換だけでも手間が掛かるっすねー」 秋葉に続いてカーテンを開けたのは、制服ではなく作業着姿の山吹だった。秋葉は山吹の姿を見て頬を緩めると、 山吹は彼女の頭をぽんぽんと軽く叩いた。山吹はパイプ椅子を引いてベッドの傍に腰掛け、関節の稼働具合を 確かめてから、包帯とガーゼまみれの痛々しい姿の波号にゴーグルを向けた。 「はーちゃんは覚えてないだろうけど、あれから大変だったんすから」 「あれから、って?」 波号が首を傾げると、秋葉はベッドに腰を下ろし、波号に毛布を掛け直した。 「はーちゃんは目標を撃破したけど暴走しちゃったから、ロッキーの演奏で脳波を狂わせて沈黙させてもらったの。 そのおかげではーちゃんは元の姿に戻ったんだけど、はーちゃんは気を失ったから海に落下したの」 「そこで登場したのが、空飛ぶ正義のヒーローっすよ。その名も山吹・サイボーグ・丈二」 山吹は裾を捲り上げ、両足の脛の外装を開いてジェットブースターを出してみせた。 「つっても、俺の機能はまだまだ試用段階っすし、はーちゃんを拾って空飛んでヘリに帰還、なんて格好良いことは マジ不可能だったんすよねー。だから、落っこちる寸前のはーちゃんを抱っこしたはいいけど姿勢制御なんてろくに 出来なくて、はーちゃんを守って海に落ちるのがやっとだったんすよ、やっと。んで、今さっき、簡易整備と外装交換 だけは終わらせてきたんすけど、一度バラして洗浄しなきゃ錆びちまうっす。だから、今日は残業っすね」 「大丈夫、問題はない。私も手伝う」 秋葉が笑むと、山吹はにたにたした。 「そりゃあ嬉しいっすね。むーちゃんがいてくれりゃ、メンテナンスルームだってこの世の天国っすよ」 「……過言」 赤面した秋葉は俯き、山吹から目を逸らした。山吹はその反応が嬉しいらしく、肩を揺すって笑っている。波号は しばらく二人を見つめていたが、記憶中枢の歯車がぎこちなく噛み合い、思い出せた。現場監督官の山吹丈二と、 現場監督官補佐だが実質的に波号らの御世話係である田村秋葉。そして、この部屋は変異体管理局海上基地の 医務室だ。山吹の肩越しに見える窓の先には、夕日に焼かれた東京湾が波打っている。 「外、見たい?」 秋葉は表情を元に戻すと、ベッドを囲むカーテンを引いてくれた。クリーム色の薄布が取り払われると、窓一杯に 茜色に染まった海面が目に飛び込んできた。時折吹き付ける潮風が嵌め殺しの窓を震わせ、尖った波の先が刃先 のように鋭く光を撥ねている。逆光の中に立つ秋葉と銀色の外装を光らせる山吹は、どこか寂しげな眼差しを波号に 注いでいた。波号は二人の視線に戸惑って身を縮めると、秋葉は制服の内ポケットから紙を取り出した。 「はい、これ。直しておいたから」 秋葉が差し出したのは、破れた部分をセロテープで修繕した便箋だった。それを受け取った波号は中身を読んで みたが、下手くそな字でつまらない内容の文章が書かれていた。その意味が解らず、波号は秋葉を見返した。 「なあに、これ?」 まるで意味が解らない波号は便箋をぐしゃりと握り潰すと、床に放り投げた。秋葉は悲しげにその紙屑を見つめて いたが、波号に笑顔を向けた。 「そう。だったら、気にしないで」 「そうだ、あのね、むーちゃん。私、今日ね」 今し方握り潰した便箋のことなど忘れ、波号は身を乗り出して話し始めた。どこの誰に連れて行ってもらったのかを 忘れた、楽しくて嬉しい記憶だった。定期連絡船に乗って出掛けた臨海副都心、海辺の公園、海鳥、二段重ねの アイスクリーム、いつの日か遊びに行ってみたいテーマパーク。秋葉と共に体験した出来事を、秋葉の部分を完全に 排除して、波号はまるでたった一人で出掛けたかのように話し続けた。その話を聞く秋葉は、初めてその話を聞く かのように相槌を打っていた。凄いね、偉いね、と秋葉が褒めるたびに波号は得意げに笑った。 乙型二号・滝ノ沢翠をコピーして変身したことも、暴走したことも、山吹が体を張って命を助けてくれたことも、波号の 脳からは綺麗に消失していた。理由は簡単だ、周囲の物質を取り込んで対象物と同等の質量を伴った姿に変身 出来る能力の代償として、記憶が保てないからだ。負の感情が伴った記憶は特に脆く、嬉しかったことや楽しかった ことは覚えられていても、少しでも辛かったり悲しかったりすれば前後の部分がぽっかりと抜ける。秋葉と出掛けた 記憶も、二段重ねのアイスクリームが食べている途中で落ちたから、秋葉の部分までもが消失した。 戦闘のたびに本来の自分から懸け離れた形相に変身してしまう少女の精神を守るためには、これ以上ない措置 だろうが、変貌を目の当たりにする側からすれば複雑だ。秋葉は波号の支えになろうと彼女を可愛がるが、変身を終える たびに波号に裏切られている。気丈に振る舞う秋葉に不安を感じながら、山吹は拳を握り締めた。 秋葉が折れないように、山吹も強くならなければ。 書き終えた手紙を折り畳み、瓶に入れた。 このボトルレターが無事にはーちゃんに届けばいいのだが、海は広い。はーちゃんとは無関係な人間が拾うかも しれないし、途中で岩にぶつかって割れるかもしれないし、蓋が緩くなって浸水して海底に沈むかもしれない。だが、 何もしないよりは余程マシだ。紀乃は瓶の蓋を力一杯きつく閉めてから、瓶を揺すった。折り畳んだ紙がからからと 鳴り、軽い音を立てた。生憎、便箋が手元になかったので、衛生室の机の引き出しに隠れていた黄ばんだノートを ばらして書き綴った。出来上がった途端に早速出したくなった紀乃は、薬瓶を持って部屋を出た。 「おやおや、紀乃さん。こんな夕方に、どこに参るのですか」 西日が差し込む廊下に、乾いた洗濯物を抱えたゾゾが立っていた。紀乃は足を止め、振り向く。 「手紙の返事、出しに行くの」 「それはそれは。して、どのようなことをお書きになりましたか?」 ゾゾが興味深げに近付いてきたので、紀乃は背を丸めて瓶を隠した。 「内緒。ゾゾが拾ったなら読んでもいいけど、拾わなかったなら読んじゃダメだからね?」 紀乃はゾゾに念を押してから、昇降口を出た。 「ガニガニー、一緒に行くー?」 紀乃が巣に声を掛けると、ガニガニは素早く這い出してきてハサミをがちがちと打ち鳴らした。 「じゃ、行こう」 その張り切った反応に笑みを返してから、紀乃はガニガニに駆け寄った。腹這いになって甲羅を低くしたガニガニ によじ登った紀乃は、東側から藍色に浸食されつつある海岸を指した。頷く代わりに顎を軽く鳴らしたガニガニは、 腹部を引き摺りながら歩き出した。開腹して腐敗ガスと汚物を抜いたミーコを民家の屋根で天日干ししている小松に 手を振ると、小松はやや面倒そうな仕草で多目的作業腕を上げてくれた。 ガニガニの背に揺られて海岸に到着した紀乃は、海面目掛けて茶色の薬瓶を放り投げた。鈍角の放物線を描き ながら波間に没した瓶は一度沈んでから浮かび上がり、緩やかに流れ出した。紀乃は潮の流れに乗り始めた薬瓶を 見送ってから、ガニガニを促して海岸から離れた。返事と一緒に書いた、また東京で当たり前に暮らせますように、 との願い事が叶う日が来るわけがないように、あの手紙が無事にはーちゃんの手元に届くことなどないだろう。けれど、 有り得ないからこそ願わずにはいられないこともある。 あまりにも空しくて、いっそ笑えてしまうが。 10 6/26 |