機動駐在コジロウ




溺れる者はワームをも掴む



 気晴らしに、タバコに火を灯す。
 人間の手に似せた形にした触手で細い筒を挟み、口元に運ぶ。深く吸い込んでからゆっくりと吐き出した紫煙は、 前庭を鮮烈に照らしているライトの切れ端を浴びて朧気に浮かび上がった。片田舎の民家の玄関先には似合わぬ 大型トレーラーの群れの周囲では、整備員達が忙しなく走り回っている。当然だ、コジロウは他の警官ロボットとは 根本的に違う代物だからだ。ただ部品を組み直しただけで動くほど単純なロボットではない。佐々木つばめが常に コジロウの傍にいて、触れ合っているからこそ、人間の手に余る出力を放つ無限動力炉は安定している。
 だが、そのつばめは、しばらくは動けないだろう。寺坂は縁側でタバコを吹かしつつ、居間と隣り合っている部屋 の様子を窺った。風を通すためにふすまが半開きになっていて、その奥には柔らかな布団が一組敷かれていた。そこ に横たわっている少女は寝入ってはいたが、うなされている。風呂に入って体の隅々まで洗い流したので、アソウギ の粘液は綺麗に落とし、髪も乾かしてあるが、寝汗で襟元と頬に髪が貼り付いていた。
 つばめの枕元に座っている美野里は、つばめの手を握ってやっていた。だが、余程強く握られているのか、右手 が鬱血して痣になっていた。それでも、美野里はつばめの手を離そうとしないのは、妹も同然の少女に対する愛情 からだろう。寺坂はタバコの灰を灰皿に落としてから、胡座を掻いて背を丸める。

「代わってやろうか? どうせ眠ってんだ、握っている手が変わったって解らねぇよ」

「いいですよ、別に。私は辛くはありませんから」

 美野里はつばめの寝汗をタオルで拭ってやってから、目尻に滲んだ涙も拭いてやった。

「本当に辛いのは、いつだってつばめちゃんなんです。私が出来ることがあるとすれば、これぐらいですし」

「そう意地を張るなよ。俺だって、なんとも思ってねぇわけじゃねぇよ。シートの張り替え、しなきゃな」

 寺坂はトレーラーの群れに紛れている愛車、ポンティアック・ソルスティスを見やった。粘液にまみれて茫然自失の つばめを助手席に載せてやり、一乗寺とコジロウに事後処理を任せてから、船島集落に直帰した。一乗寺から報せ を受けて帰宅していた美野里がつばめの体を綺麗にしてやり、着替えさせたが、つばめはしきりに私は大丈夫だと 繰り返していた。けれど、大丈夫ではないのは誰の目にも明らかだった。顔色は真っ青で手は震えっぱなしで、一歩 歩けば転び掛けていた。少し寝る、と言って横になったが、それきりうなされ続けている。
 
「一乗寺が言っていたんだが、フジワラ製薬の社長のおっさんの身柄は確保出来なかったんだそうだ。ちょっと目を 離した隙に消えていたんだと。たぶん、おっさんを撃った連中が持っていっちまったんだろう。傷口は派手に見えた が一撃で致命傷になる傷でもなかったみてぇだし、実弾じゃなくてレーザーだったから、命中した瞬間に傷口が焼き 付いて出血も止まっていたようだったしな。まあ、だからって生きているって保証になるわけじゃないが、死体に用が ある人間はそうそういるもんじゃない。だから、生きているって仮定しておいた方がまだ気が楽だ」

 サングラスを上げて額に載せ、寺坂は遠い目をする。

「ま、前線に出て戦っていたんだから、あのおっさんも覚悟は出来ていただろうしな」

「寺坂さんの場合は、戦おうともしていないじゃないですか」

「おお、きっついねぇ。でも、みのりんのそういうところが好きだぜ」

「こんな時に何を言うんですか、あなたって人は」

 美野里が顔を逸らすと、寺坂は横顔を向ける。

「だが、俺は逃げているわけじゃねぇよ。この腕からも、爺さんが寄越した業からも、みのりんからも」

「むしろ、私の方が寺坂さんから逃げたいんですけど」

 美野里が真顔で言い返してきたが、寺坂は笑っただけだった。逃げられたところで、追い掛けるだけだ。つばめの 様子が穏やかであったら、それぐらいの軽口を叩けただろうが、今は止めておいた方がいい。美野里も気が立って いるのだから、下手に刺激しては興奮させてしまう。
 煙を充満させてしまってはつばめの眠りを妨げてしまうので、タバコを吸う場所を探すべく、寺坂は灰皿を手にして 縁側から腰を上げた。コジロウを組み上げるために右往左往している政府関係者達の間を擦り抜けていくが、誰も 寺坂を咎めることはなかった。時折目をやるが、すぐに逸らしてそれぞれの作業に戻っていった。
 忌まわしき新興宗教、弐天逸流の影響は政府の末端にまで及んでいる。そして、右腕の代わりに触手を生やして いる寺坂善太郎は、弐天逸流に神として祭り上げられたばかりか、いかなる組織や企業であろうとも寺坂には手を 出すべからずという不可侵協定が設けられた。たかが新興宗教の戯言だと笑っていられたのは最初の頃だけで、 すぐにその協定の影響力の凄まじさに戦慄した。それまでは、寺坂に政府関係者や怪しげな組織が高頻度で接触 を図ってきたのだが、ぱったりと途絶えたのだから。
 弐天逸流は、触手を持つ神を信仰している新興宗教である。およそ十数年前に発足し、それ以来、じわりじわりと 根を伸ばして社会を侵食している。本拠地がどこにあるかは解らない。片っ端から信者と集会所を襲撃し、破壊して は暴力を交えて問い質してきたが、誰も彼も役に立たなかった。弐天逸流の幹部を見つけ出して上位幹部の居所 を吐かせ、その居所に突っ込んでいってももぬけの殻だったことは一度や二度ではない。その度に悔しさに歯噛み し、苛立ちを酒と女と車にぶつけては金を散財してきた。そうやって自分を貶め、穢し、俗世の欲に首までどっぷりと 浸していれば、弐天逸流が見限って来くれるのではないかと期待していたからだ。けれど、弐天逸流の信仰はその 程度では揺らぐことはなかった。

「よーっす」

 侘びしくタバコを蒸かしている寺坂に、一乗寺が明るく声を掛けてきた。汚れ切っていたジャージを脱いで体を洗い 流したので、小綺麗になっていたが、迷彩柄の戦闘服を着込んでいるので再度汚れるつもりだろう。ライトの逆光を 帯びた青年の輪郭には、ずらりと武器が生えていた。一目見て常人が装備出来る重量ではないと解る。自動小銃、 対戦車砲を背負い、十数挺の拳銃、何十本ものナイフを体の前面に貼り付けるように装備している。この男が通り 過ぎたら、草の一本も残らないだろう。

「小銃だけでも何本ある?」

 寺坂がタバコのソフトケースを差し出して一本出すと、一乗寺は躊躇いもなくそれを銜えた。

「十本。安物のカラシニコフだし。火ぃちょーだい」

「で、誰を殺しに行くんだ?」

「とりあえず、あの集落かなー。万寿様の石像を壊したの、よっちゃんでしょ? あれがあるってことは、あの集落 一体が弐天逸流の信者だってことは確定だからね。一人一人の腹をかっ捌いていくのは面倒だし、特定の病原体 による重篤な病気が蔓延したーって政府がでっち上げてくれちゃったから、皆殺しOKなの。んふふふ」

 一乗寺は寺坂が差し出したライターでタバコに火を灯すと、子供っぽく浮かれた。

「俺も付き合う。気は進まねぇが、弐天逸流の本部の手掛かりを見つけるためには仕方ねぇ。あと、殺す必要の ねぇ奴らは殺すなよ。夢見が悪くなる」

「えぇー、そんなん無理に決まってんじゃーん」

 一乗寺がけたけたと笑ったので、寺坂は顔を背けた。

「俺はお前とは違うんだよ」

「とにかく行こ行こっ、ぶっ殺しちゃうぞーぅ」

 一乗寺はほとんど吸わなかったタバコを灰皿にねじ込むと、身軽にスキップしていった。飛び跳ねるたびに大量の 自動小銃と拳銃とナイフが擦れ合って耳障りな金属音を立て、火花が飛び散りそうだった。鼻歌はひたすら明るく、 まるで遊園地に出かける子供のようだった。実際、一乗寺にとっては人殺しはそんなものなのだ。
 一乗寺の殺意に理由は必要ない。そもそも、一乗寺には人間的な情緒が存在しない。この三年間、日常的に彼と 接してきてつくづく思い知らされた。それなりに社会経験を積んだ人間であれば通じる常識や、暗黙の了解といった ものが一切合切通用しない。根本的に他人を理解しようとしない。快楽を中心に物事を考えている。つばめの教師 としての仕事をこなしているのも、つばめの傍にいれば人殺しをする機会が多いから、というだけであって、つばめの 身辺を守るだとか将来のためだとかという大義名分はない。むしろ、大義名分という概念すら理解出来ていないの かもしれない。政府関係者の間では、一乗寺は宇宙人という渾名が付けられているようだが、似合いすぎていて 反論の余地もない。だから、寺坂は一乗寺と接していると奇妙な安心感を得る。
 一乗寺と比べれば、寺坂はまだ人間らしいと言える。その証拠に、タバコの味も感じられるし、つばめが苦しんで いる姿を見ると胸がひどく痛むし、辛い立ち位置にいる美野里を守ってやりたいと願って止まない。
 右腕に毒虫を飼っているとしても。




 こんなに惨めな思いをするのは、久し振りだ。
 泥と枯れ葉にまみれた体を必死にくねらせながら、羽部鏡一は深夜の森を突き進んでいた。けれど、行く当てが あるわけではない。奥只見ダムに一旦引き返し、フジワラ製薬の社長である藤原忠の無事を確認すべきだと頭では 解っていたが、行動には移れなかった。藤原忠はアソウギについて知っている。怪人を生み出す実験の被験者と なった人間の本名もある程度は把握している。管理者権限を持つ佐々木つばめの遺伝子が、遺産のどこに填るの かも知っている。藤原は専門的な知識が欠けているので羽部や研究員達には遠く及ばないが、アソウギの扱い方 もそれなりに把握している。本人は差して重要な情報ではないと思っていたらしいが、そんなことはない。どれもこれ も重要で、どれか一つでも漏洩したら取り返しが付かなくなるほどの情報だ。
 問題なのは藤原忠本人ではない。藤原忠が保有している情報なのだ。フジワラ製薬自体は、社長が抜けたとして も傾くことはない。その点については用意周到で、佐々木つばめと遺産を巡る戦いが始まる以前から、藤原は重役 の中から次期社長に相応しい役員を選び出して副社長の座に据え、万が一のことがあったとしても自分の行方や 伊織の行方を追うな、と藤原は部下達に釘を刺していた。遺産争いに荷担するのはあくまでも自分達だけだ、という 意思表明だったのだ。アソウギを用いた怪人増産計画に関わっていない一般の社員達に被害が被らないためには 至極当然の措置であり、社長としては正しい判断だが、悪の組織の大総統としては大間違いだ。

「この僕が、これからどうすればいいのか解らないなんて、最低最悪じゃないの……?」

 羽部は腐葉土にまみれた体を木の根に預け、先割れの長い舌を出して喘いだ。怪人体に変身出来るような体力も なければ人間体に戻る気力もなく、ヘビの姿のまま、延々と走り続けていた。けれど、どの方角に行こうとも木々は 途切れず、道路が現れたとしても心身を休められそうな民家も見当たらなかった。これだから田舎は困る。
 とてつもない不安に駆られ、羽部は顎を震わせた。牙がかちかちとぶつかり、神経質な音を立てた。一人でいるの は怖い。一人だけで世の中に放り出されるのが怖い。他人にまとわりつけないのが怖い。

「ああ、あぁ……」

 羽部は今にも泣きそうな声を出しながら、瞬膜を忙しなく開閉させた。羽部鏡一にとって、他人は見下すべき対象 であると同時に全力で縋り付く相手でもある。気持ち悪がられようが、蔑まれようが、嫌われようが、憎まれようが、 なんでもいいから認めてもらいたい。羽部という存在を認識していてほしい。

「ああ嫌だ、嫌だよぉ」

 孤独になると、安定性に欠ける心が途端に揺らぎ出してくる。羽部は長い体を縮めてボール状にし、その中に頭を 突っ込んだが、過去の嫌な記憶が次々と蘇ってくる。物心付く前から爬虫類じみた容姿は疎まれていて、親にさえも 認めてもらったことはない。吊り上がった目が反抗的だと不条理に殴られたことも少なくない。真面目に勉強をしても お前なんかが賢くなっても無駄だと罵倒され、同じ年頃の子供と遊ぼうとしても誰も寄ってこず、仕方ないから藪の中 にいる虫や小さなトカゲを見つけ出してはオモチャにしていた。犬猫は牙と爪があるが、毒のない虫と小さなトカゲは 羽部に逆らうことすら出来ないからだ。手中に収めたら最後、生殺与奪の権限は羽部にだけ委ねられる。
 その幼い万能感と加虐的な征服感だけが、羽部を支えていたようなものだった。けれど、どこの誰が見ていたの かは知らないが、羽部が無力な虫やトカゲを殺して遊んでいる、と周囲に知れ渡った。すると、それまで以上に他人は 羽部に近寄らなくなり、親はますます羽部を突き放すようになって食事の用意すら怠っていた。
 だが、味方が完璧にいなくなると却って諦めが付くもので、羽部は勉強に没頭するようになった。どうせ誰も褒めて くれないが、知識だけは自分を裏切らないと信じていたからだ。実際、その通りだった。虫やトカゲを殺すこと以外は 趣味らしい趣味はなかったが、矮小な生物を殺す際に感じた疑問を突き詰めてやろうと生物学に進んだ。それからは ひたすらに勉強し、研究し、まともな交友関係を持たず、羽部のレポートやノートを目当てに近付いてきた人間は とことん侮辱して見下してやり、徹底的に他人を遠ざけた。そしてまた、心地良い孤独が出来上がった。
 転機が訪れたのは、新卒採用でフジワラ製薬に就職してからである。フジワラ製薬は怪人を生み出す研究をして いる、という噂がまことしやかに流れていたが、誰もそれを本気にはしていなかったし、羽部もその一人だった。もし 本当に怪人が作られているのであれば、自分も改造してもらいたいものだと思っていた。研究部に引き抜かれてから 間もなく、羽部は社長である藤原忠の元に呼び出された。怪人の研究を行う部署に異動し、羽部の能力を存分に 発揮してほしいと言われた。生まれてこの方、言われたことのない言葉の数々に、羽部は喜ぶよりも先に胸が悪く なった。だから、勢いに任せて社長を侮辱し尽くしたのだが、藤原は怒鳴り散らしはせずに笑った。それどころか、 君は威勢が良くて好きだなぁ、とも言ってくれた。訳が解らなかった。
 それから、羽部はアソウギの研究に携わるようになった。自分の生体組織を使った実験でアソウギに対する拒絶 が少ないと判明したので、自ら改造を施してヘビ怪人と化した。アソウギに溶かして肉体に混ぜたのは、ひっそりと 自室で飼っていたペットのヘビだった。この世で唯一心を開ける相手だったからだ。液体と固体の間を彷徨っている 中途半端な怪人達を安定させるための実験を繰り返している最中に、藤原忠の息子である藤原伊織に出会った。 研究所での伊織の役割は、様々な理由で殺処分対象となった怪人達に引導を渡す、死刑の担い手だった。
 高笑いしながら躊躇いもなく殺戮を行う伊織の姿に、羽部は寒気と共に一種の陶酔感を覚えた。それまで羽部が 腹の底で凝らせていた濁った情念が形となって現れたかのような、他人への攻撃性を肯定されたかのような気分に なった。ふと我に返り、藤原忠を窺うと、父親は満面の笑みで息子の殺戮を見つめていた。それを見た途端、あの 時の言葉の意味が理解出来た。藤原は羽部を認めたのではない、羽部の跳ねっ返りの言動の内に伊織を見ていた からに過ぎないのだと。一抹の寂しさに駆られたが、それだけだった。その頃になると、羽部は自分の心を満たす ための手段を得つつあったからだ。
 羽部の目的は社長である藤原忠に認めてもらうことでもなく、圧倒的な力を誇る藤原伊織に付き従うことでもなく、 無謀極まりない世界征服計画に乗るわけでもなく、怪人の研究員という立場を最大限に利用することになっていた。 怪人と化したことでD型アミノ酸しか受け付けなくなったことから、死体を愛好して止まない性癖にも気付けたばかり か、実験と称して掻き集めてきた見ず知らずの若い女性達を薬殺して遊び尽くした。怪人になりたいと志願してきた 者達を気色悪い生物と融合させ、絶望させ、殺してやった。羽部が生まれ育った街に怪人達を派遣し、実験の名目 でかつて羽部を疎んだ者達を処分させ、喰わせた。自尊心を満たすために、生体安定剤の投薬と引き替えに羽部の 自慢話と無駄話を延々と聞かせた挙げ句に、生体安定剤のカプセルに入れた毒薬を飲ませて殺した。
 死体の山だけが、羽部を認めてくれている。物言わぬ蛋白質塊となった人々は、羽部を支えてくれている。悪意と 敵意を向けられた分だけ、羽部は自尊心を満たせるようになる。だが、今は。

「誰でもいい、なんでもいいから、この僕を」

 満たしてくれ。精も根も尽き果てた羽部は、擦り切れた声色で呟いた。一度であろうとも自分の心を満たす方法を 知ってしまうと、二度と孤独に耐えられなくなる。飢えと渇きが心細さを強め、涙さえ出そうだった。
 寂しさが五感を鈍らせていたからか、足音に気付くのが遅れた。数人の人間の足が枯れ葉を掻き分け、ライトの 強烈な光条が羽部の目を焼いた。暗闇に慣れていたために視界が白み、羽部は身動いだ。その隙に数人の人間は 羽部が巻き付いている木を取り囲み、羽部を見下ろしてきた。

「なんだよ、この僕の許しも得ずに近付いてくるなんて」

 そうは言いつつも、羽部は他人に見つけ出されたことで安堵していた。このまま忘れ去られていたら、と思うと気が 狂ってしまいそうだ。強力なマグライトの光量が絞られると、羽部の瞳孔も落ち着き、次第に人々の姿が見えるよう になった。網膜を通って視神経から脳に伝わってきた情報を知覚した途端、羽部はぎょっとした。
 羽部を囲んでいる五人の人間達は、皆、覆面を被っていた。だが、それは単なる布袋ではなく、覆面のそこかしこ に帯が縫い付けられていた。覆面と同じ色の布地で出来ている上着にも奇妙な帯が付いていて、羽部の顔の前に 立っている人間は帯の数が最も多かった。その帯の多い人間は、覆面に空いた穴から羽部を見下ろしてくる。

「フジワラ製薬の羽部鏡一だな?」

「ああ、うん、そうだけど? で、何か用? この優秀な僕に」

 羽部は精一杯取り繕ったが、声が裏返り気味だった。帯の多い人間は片膝を付き、羽部と目線を合わせる。覆面を 被っているからか、低い声は籠もっていた。体格と声色からして、三十代前後の男だろう。

「我らは弐天逸流の使者だ。羽部氏が窮地だと知り、馳せ参じた次第」

「……えぇ?」

 どこの誰が羽部を助けようだなんて、イカれたことを考えるのだ。羽部が訝るが、覆面の男は話を続ける。

「我らが教祖、シュユ様がその能力と才覚を見込まれたのだ。何、悪いようにはせぬ。出来る限りではあるが、羽部 氏の要求も聞き入れよう。フジワラ製薬と同等、いや、三割増で賃金もお支払いいたそう」

「三割ぃ?」

「ならば、五割」

「それなら少ぉーしは考えてやらないでもないけど、でも、この僕に何をさせたいっていうわけ?」

 少し余裕が出てきた羽部が牙を剥いてみせると、覆面の男は携帯電話からホログラフィーを浮かび上がらせた。

「この娘、小倉美月の住まう家に住み込み、佐々木つばめの近況を報告してもらいたし」

 目に突き刺さるほど明るいホログラフィーに投影されたのは、吉岡りんねの元クラスメイトである小倉美月の写真 だった。御嬢様学校の制服姿の美月とりんねのツーショットで、りんねの表情は羽部が知るものよりも明るく、別人 と言っても差し支えがなかった。羽部は控えめな可愛らしさのある美月を眺め、適当に殺して遊ぶには丁度良いな、 と判断して覆面の男を見上げた。

「もちろん、この僕が住んでも問題が起きないようにしてくれるんだよね? この僕の口に合う食材を送ってくれる んだよね? この僕の優れすぎて切れ味抜群の頭脳を錆び付かせないためにも、それ相応の研究機材とスペックの パソコンを準備してくれるんだよね? この僕の世界が羨むハイセンスに見合った服もくれるんだよねぇ?」

「無論だ。ならば、そのように手を回そう」

 羽部の傍若無人な要求を、覆面の男は二つ返事で聞き入れた。

「で、その小倉美月って子は、御嬢様のお友達でありながらも佐々木つばめのお友達だったりするの?」

 羽部はしゅるりと体を伸ばして這いずると、覆面の男は道路側を示し、先に歩き出した。

「そうだ。故に目を付けておかねばならぬ」

「でも、この僕は他人の監視なんかごめんだからね? 適当に引っ掛かったことだけを報告するからね?」

「それで良い。小倉美月のトイレの回数まで報告されても何の意味もないからな」

「されたかったら、してあげるけど? 但し、別料金でね」

「我らにはそういった性癖はない。無論、シュユ様にもだ」

「あんた達のことは遺産絡みの話で聞いたことはあったけど、教祖の名前を聞いたのは初めてかもね」

「そうだろう。我らはシュユ様の手足であると共に、盾であり矛だ。シュユ様の身辺を守り通すこともまた、弐天逸流を 信ずる者の証しだ。たとえ神であろうとも、知らしめてはならぬと誓っている」

「じゃ、なんでこの僕には教えてくれるわけ?」

「羽部氏は、シュユ様の素晴らしさにすぐに目覚めると信じておるが故」

「目覚めなかったら、どうしてくれるのよ? 生憎だけど、この僕の頭脳はお前らの想像の範疇をK点越えしていると 思ってくれていいからね? 小賢しい宗教になんて心酔するほど軟弱じゃないんだからね?」

「その時は、シュユ様の御判断に任せるだけだ」

 覆面の男は斜面を降り、細い道路の端に寄せてあるライトバンを指し示した。運転手は覆面の男達が戻ってきた ことに気付くと、ライトを二三回点滅させた。覆面の人間達が全員ライトバンまで引き上げたのを確認した後、羽部も 斜面を降り、ライトバンの後部座席に滑り込んだ。泥まみれの体を座席に横たえると、気が緩んだ。
 そのせいか、いつになく空腹を感じた。弐天逸流の信者達は奇妙な帯の付いた服も覆面も脱ごうとはしなかった が、普通の人間に接するように羽部に声を掛けてくれた。そればかりか、怪人でも食べられるものがある、と言って 差し出してくれた。所帯染みたタッパーから取り出されたモノは、暗がりで見るとソーセージに似ていた。つるりとした 光沢を帯びた円筒形の肉で、羽部の鋭敏な嗅覚に匂いが流れ込んできた。それは空腹を煽り立てるほど旨そうな 匂いで、たまらずに食らい付くと、久しく感じていなかった肉の味が舌から喉から胃袋に広がった。差し出されるまま に肉を食べて腹一杯になると、眠気を感じたので甘い安らぎに身を任せた。
 今し方食べた肉の正体を考えることもなく。





 


12 7/5