ドラゴンは眠らない




そして、竜は眠る



竜の城の前で、真っ赤な蒸気自動車と共に現れた灰色の呪術師が得意げにしていた。
蒸気自動車の形状は共和国軍の軍用なのだが、その装甲に塗られている赤は呆れるほどに鮮やかな赤だった。
ギルディオスは、文句を言うのも嫌になるほどぐったりした。こいつに頼んだのが間違いだった、と深く後悔した。
フィリオラとレオナルドが旧王都を旅立つに当たって、その交通手段として蒸気自動車を持たせようと思った。
当初はフィフィリアンヌが調達するはずだったのが、魔導師協会の内紛を片付けるのに時間を取られてしまった。
なので、仕方なくグレイスに蒸気自動車を手に入れるように頼んだのだが、こうなるとは思っていなかった。
戦争の真っ直中の共和国内を走る車が、こんなに派手でいいはずがない。全く持って、正気の沙汰ではない。
ギルディオスが項垂れる傍らで、泣き止んだフィリオラが目一杯目を丸くしていて、レオナルドは絶句している。
フィフィリアンヌは口元を歪めていたが、真紅の蒸気自動車から顔を背けると、馬鹿馬鹿しげに吐き捨てた。

「グレイス。貴様は常々馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、ここまで馬鹿だとは思っていなかったぞ」

「いいじゃねぇかよぅ、これぐらい。派手な方が面白いじゃんか」

グレイスは赤い車体を叩き、にんまりしている。フィリオラは何度か瞬きしてから、呟いた。

「赤…ですねぇ」

「何を考えているんだ、あんたは」

レオナルドが呆れ果てながら力なく呟くと、グレイスはにやりと笑んだ。

「そりゃあもちろん、レオちゃんとフィリオラの未来の安泰を願ってやろうとだなぁ」

「こんなに派手な乗り物になんて乗っていたら、安泰どころか却って危険な気がするんですけど」

フィリオラは、物凄く嫌そうに顔をしかめた。その態度に、グレイスはむくれる。

「そう言うなよ、フィリオラ。車体を全部赤に塗り替えるの、結構手間掛かったんだからなー」

グレイスはそう言ってから、フィリオラの後ろ髪がばっさりと切られていることに気付いた。

「あ、後ろ髪、切っちまったの? なんでまた」

「色々と、思うところがあったんです」

フィリオラは、切られたばかりの後ろ髪を押さえた。グレイスは、興味がないのかそれ以上は問わなかった。

「ふぅん」

「とりあえず、荷物を載せちまおうや。いくらド派手でも、車は車だ」

ギルディオスは階段の上に昇ると、荷物を担いだ。レオナルドは、かなり不愉快げに口元を曲げた。

「そう思うしかないか」

ギルディオスは本気で嫌そうなフィリオラと明らかに苛立っているレオナルドに、自己嫌悪に陥りそうになった。
グレイスのことだから何かするのではとは予想していたが、予想以上だった。だが、今更後悔しても仕方ない。
フィリオラの服が詰まったカバンを担いで階段を下りようとすると、ギルディオスの背に低い声が掛けられた。

「はっはっはっはっはっはっは。全て貴君の責任であるぞ、ニワトリ頭。グレイスなんぞ頼るからこうなるのである」

「うるせぇ」

ギルディオスは力なく言い返し、階段を下りた。階段の一番上の段に置かれたフラスコの中、伯爵が蠢く。

「はっはっはっはっはっはっは。ニワトリ頭よ、貴君はやはりこうでなくてはな! 馬鹿に始まり馬鹿に終わる、それこそが貴君のあるべき姿であり、少佐などという立派な地位に収まるのも。隊長などと慕われるのも似合わぬのである! うむ、それでこそ貴君なのであるぞ、ギルディオスよ!」

「踏み潰すぞ」

蒸気自動車の後部座席に荷物を放り込み、ギルディオスはフラスコを睨んだ。伯爵は身を震わせ、高笑いする。

「無駄骨無駄骨! 麗しく艶やかな粘液である我が輩には、打撃系の攻撃は通じぬのであるぞ!」

「いくら貴様とて、踏み潰しに踏み潰して泥まみれにしてしまえば痛手は受けるではないか。誇張するな」

フィフィリアンヌが呟くと、伯爵はぐにゅりと身を捩る。

「う…うむ…」

ギルディオスはその様子を見、内心で笑った。調子の良いことを言うわりに、すぐに言い負かされてしまう。
それが、伯爵だ。彼がフィフィリアンヌに口で勝てた試しはないが、彼はそれすらも日々の楽しみにしている。
ギルディオスも、同じだった。二人の罵り合いは、早朝の鳥のさえずりのように、日々になくてはならないものだ。
こうして二人が言い合う様を間近に見ると、改めて実感する。三人での日々を取り戻すことが出来たのだ、と。
キースとの攻防に参戦するために、フィフィリアンヌに傭兵として雇われた際に提示された報酬は、与えられた。
また、昔のように、同じ城で同じ日々を繰り返す。とっくに失ったと思っていた居場所に、戻ることが出来た。
傍目から見れば何のことはないことだが、ギルディオスにとっては生前よりも長い時間を過ごしている場所だ。
自分で決めたこととはいえ、その場所の主であるフィフィリアンヌに背を向けての戦いは、苦しく切なかった。
だから、毎日がとても心地良かった。二人にニワトリ頭と罵倒されながら暮らすのは、割と楽しいことなのだ。
フィリオラらが去ってしまうのは寂しいが、完全な別離ではないし、また帰ってきてくれるのだと解っている。
その帰りを、竜の住まう城で待つのも悪くない。戦ってばかりだったのだから、今度こそ、少しは休むべきだ。
体が鋼で出来ていても、魂を納めている器が石であろうとも、その中身は人間であることに変わりないのだから。
ギルディオスは肩に担いできた大きなトランクを、後部座席に放り込んだ。その重みで、ぎっ、と車体が揺れる。
二人の荷物は、全て積み込まれた。カバンや箱などが、多少乱雑ではあったが、蒸気自動車に載っている。
ギルディオスは埃を払うような気持ちで、両手を叩き合わせた。レオナルドは、車体後部の蒸気機関に触れた。
動力部に填め込まれている赤い魔導鉱石は、グレイスのものと思しき魔力が充ち満ちていて、熱している。
その内側から、じわりとした思念が流れ出てきていた。どうやら、この中に人造魂が納められているようだった。

「レオちゃん、こいつの運転解る?」

レオナルドの背後に、馴れ馴れしくグレイスが寄ってきた。レオナルドはすぐに身を下げ、間を開ける。

「まぁ、一通りのことは」

「なら、大丈夫だな。魔導鉱石に触ってたみたいだから解るだろうけど、こいつには人造魂を入れてあるんだよね」

グレイスは、金属板に埋まっている魔導鉱石を叩く。

「だから、基本的にはこいつが運転してくれるけど、まだ生まれたばっかりの魂だから過信するんじゃねぇぞ」

「名前は?」

レオナルドが問うと、グレイスは笑った。

「付けてねぇよ。こいつの持ち主はお前らなんだから、オレが付けるべきじゃねぇよ」

「それで、どこへ行くつもりなのだ?」

フィフィリアンヌは、フィリオラに顔を向けた。フィリオラは地図を取り出すと、広げた。

「ええとですね。両軍が引き上げたあとの道を通って行くので、大分遠回りをしてしまうんですが、ゼレイブへ」

「そうか。ラミアンによろしくな」

フィフィリアンヌが返すと、はい、とフィリオラは頷いた。ブラドール一家は、早々にゼレイブに移動したのだ。
旧王都での戦いが激化する前に、ジョセフィーヌを軍に捕らわれてしまうのを防ぐため、大急ぎで越していった。
これもまたフィリオラが目覚める前だったので、別れの挨拶も出来ないまま、彼らとは別れてしまっていた。
フィリオラに宛てたブラッドの手紙はかなり名残惜しげで、文面の中で何度もフィリオラのことを心配していた。
ラミアンも、もうしばらくはフィフィリアンヌの近くにいたいようだったが、妻を守るためには仕方ないことだ。
ジョセフィーヌの姿をしたキースが演じた、サラ・ジョーンズ大佐の所業は、一連の出来事と同等に凄まじかった。
このままではジョセフィーヌは、軍を乱した罪人、サラ・ジョーンズとして軍に処刑されてしまいかねない。
そうなってしまってはいけない、というラミアンの判断で、戦場から離れたゼレイブへと向かうこととしたのだ。
ゼレイブは南部地方の山脈を越えた先の山奥にあるひっそりとした田舎町で、共和国軍基地も近くにはない。
連合軍も攻め入ってはいないし、身を隠すには一番適している。それに、ジョセフィーヌが戻りたがったのだ。
ラミアンのおうちでジョーはおかーさんするの、ずっとずっと、ブラッドのおかーさんできなかったんだもん、と。
ブラッドは両親に対して意見する暇もなく、ゼレイブへと向かった。その旅路は、行きとは違い、一人ではない。
最初は竜の城を出ていくことを渋っていたが、すぐに仕方ないことなのだと理解して、両親と共に旅立っていった。
少年の表情には、フィリオラらから離れてしまう寂しさと、両親と共に暮らせる喜びが複雑に入り混じっていた。
だが、決して悲しげではなかった。竜の城を旅立つ時には、涙目になっていたが、精一杯の笑顔を見せていた。
フィフィリアンヌにとって、ブラッドは親戚の子供のようなものだ。部下の子供なのだから、遠い関係ではない。
子供の成長は、やはり楽しみだ。旧王都での一年近くで大きく成長したが、これからも、彼は成長することだろう。
次に会う時は、ブラッドは身も心も大きくなっているはずだ。ラミアンに良く似た顔立ちの、青年となるだろう。
フィフィリアンヌは、真っ赤な蒸気自動車を見ているフィリオラを見上げたが、服を探ってある物を取り出した。
度の入っていないレンズに細かなヒビの入っている、横長で銀縁のメガネだった。それを、フィリオラに差し出す。

「持って行け」

「それ、キースさんの…」

フィリオラは地図を折り畳むと、ポケットに押し込んだ。慎重に手を差し出して、キースのメガネを受け取った。
フィフィリアンヌは、キースのメガネを凝視しているフィリオラを見上げ、多少寂しげに声を沈ませた。

「その子も、連れていってやってくれ」

「はい」

フィリオラは頷くと、キースのメガネを見つめた。初めて手にするものなのに、不思議と懐かしい気がした。
これを掛けなきゃ、とフィリオラは思った。自分でもよく解らないが、そうしなければいけない気がしていた。
ツルを広げて、耳の上に差し込む。鼻先にレンズを乗せて位置を整えると、内側から、彼が迫り上がってきた。
フィリオラの意識が薄らぐのと同時に、キースの気配が強くなる。フィリオラが戸惑っている間に、彼は現れた。
彼女は、目を閉じた。目を開くと、青い瞳は深みのある赤に染まっていて、鋭さを持った輝きを帯びていた。
彼女は、目の前のフィフィリアンヌを見下ろした。メガネの奧の目を愛おしげに細めてから、前髪を掻き上げる。



「嬉しいよ、姉さん」

彼女、キースは心地良さそうに笑った。

「僕を、忘れないでいてくれて」



忘れもしない、あの男の口調だった。レオナルドは動揺で大きく目を見開き、様子の変わった彼女を見ていた。
掻き上げていた前髪を戻し、ちゃきりとメガネを直す。その仕草は丁寧だが、フィリオラのものではない。
レオナルドが身構えたのを見、フィリオラの体のキースはにやりとした。だが、その眼差しは、穏やかだった。

「そう怒らないでくれないかな、レオナルドさん。僕は彼女をどうこうしようなんて思っちゃいない」

「お前、なんで今更出てきやがったんだ!」

レオナルドがいきり立った声を上げると、キースは彼を制した。

「あなたと彼女が姉さん達から離れてしまう前に、言ってきたいことがあるんだよ。そのために、出てきたんだ」

「フィリオラは、どうしている」

別人の表情で笑っている彼女をレオナルドが睨むと、キースは胸元に手を当てる。

「少し、下の方にいるだけさ。普段は僕が眠っている意識の深層に、意識を沈めてくれているよ。何、心配する必要はないよ。彼女は、すぐに戻ってくるから。前みたいに、長い眠りに落ちることはないよ。もう、僕には彼女を押さえ付けていられるほどの力は残っていないからね」

キースの口調は以前と同じく、上から見下ろしているような言い回しだったが、声は落ち着いていた。

「だから、こうして表に出てくるだけで精一杯なんだ。死にかけていた僕の魂は、彼女が受け入れてくれたことで多少は維持しておくことが出来たんだけど、それももう限界なんだよ。今度こそ本当に、僕は死ぬんだ」

そう言いながら、キースはフィフィリアンヌを見下ろした。フィフィリアンヌは唇を締めていたが、口を開いた。

「…そうか」

「そうなんだ、姉さん。だから、お別れをと思ってね」

彼女にも、とキースは柔らかな頬に触れた。

「彼女の中が、僕の求めていた世界だったんだ。彼女と僕の意識が混じり合った世界は、どこまでも白く、清浄な、幸せな世界だった。彼女と一緒になってすぐは、外に出ようと足掻いたよ。彼女を傷付けて、泣かせて、怒らせて、悲しませて、そんなことばかりしていた。けれど、彼女は僕を見捨てたりはしなかった。同じ世界に住む唯一の存在だったからもしれないけど、僕の相手をしてくれたよ。怒ったら宥めて、泣いたら慰めて、笑ったら笑い合って、話し掛けたら話してくれた。なんてことはないことなんだけど、それが、なんだか、嬉しかったんだ」

キースは、笑っている。作り物ではない、柔らかな表情だった。

「馬鹿みたいだろう。でも、本当なんだ。たったそれだけのことなのに、僕は嬉しくて嬉しくて仕方なくなって、幸せだって思ったんだ。それを彼女に言ったら、なんて言ったと思う? 私はただ、小父様や大御婆様と同じことをしているだけなんですよ、って、自信なさそうに笑ったんだ」

キースは、ギルディオスに向き直る。

「隊長。あなたは僕を許せないでしょうし、許してくれる日は来ないでしょう。でも、それでいいんです。僕は、竜も人も殺しすぎた。許してもらおうなんて、考える方がおこがましいんです。だから隊長、これからもずっと、僕を憎んでいて下さい。僕はそれを、甘んじて受けますので」

「言われなくたって。オレは、お前を許しゃしねぇよ」

ギルディオスは、声を落としていた。その言葉には、様々な感情が入り混じっている。

「忘れも、しねぇよ」

「グレイス。礼を言うよ。あなたが僕に手を貸してくれなければ、僕はあそこまで調子に乗れなかった」

キースの目がグレイスに向くと、グレイスは肩を竦める。

「そりゃどうも。オレはただ、お前で遊んで楽しんでただけなんだけどな」

「相変わらずだねぇ、この人は」

キースはグレイスの答えに、可笑しげにした。そして、足元のフラスコを見下ろす。

「伯爵。あなたと話したことは少なかったけど、会えなくなると思うと物寂しいものがありますよ」

「それは我が輩もであるぞ、キースよ。貴君は救いようのない愚かな男であったが、この世を去ってしまうとなると、やはり寂しいものは寂しいのである」

ごぼり、と伯爵は大きな気泡を吐き出した。

「天上には、我が輩の友人がいる。もしも会うことがあるならば、よろしく頼むのである」

「ええ、そうしますよ」

キースは伯爵に笑ってから、レオナルドに顔を向けた。彼は、明らかに苛立った様子で顔をしかめている。

「レオナルドさん。あなたにも、言っておくことがある」

「なんでもいいが、さっさとフィリオラの体をフィリオラに返せ!」

レオナルドが強く言い放つと、キースは少し嫌そうにする。

「そんなに怒らなくても、ちゃんと返すさ。全く、こんな血の気の多い男のどこが良いんだか」

理解出来ませんねぇ、とフィリオラのような口調で呟き、キースは小さく肩を竦めた。

「でも、その前に、言っておかなきゃならないことがあるのさ。彼女の体は、子が成せないんだってことをね。内側に入って解ったんだけど、彼女、子供を作るための卵は作れるんだけど、それを上手く出せないんだ。だから、月経は訪れても排卵はしていなかったんだ。僕とは逆だね。僕は出るものは出ても、精は作れなかったから」

な、とレオナルドは驚いて声を漏らした。キースは、淡々と続ける。

「原因は、先祖返りだろうね。彼女の体は、間違いなく人間なんだ。けれど、発現した竜の力によってその中身は竜寄りになってしまったから、無理が生じたんだ。生まれつきのものだから、薬ぐらいじゃどうにも出来ないよ」

「それは、フィリオラは知っているのか」

「知らないよ。僕が教えていないから」

「じゃあ、なんでそんなことを言いやがるんだ」

驚きと戸惑いを混ぜた表情のレオナルドに、キースは言った。

「あなたぐらいには、教えておこうと思ってね。そうしておかないと、僕の苦労は知られずに終わってしまうから」

「苦労だと?」

フィフィリアンヌが訝しげにすると、キースは下腹部に手を当てる。

「かなり面倒だったよ。僕の魂は大分消耗しているし、魔法らしい魔法なんてもう使えなくなっていたからね。だから、魂に残っている少ない魔力を削りながら時間を掛けてやるしかなかったんだ。でも、そのおかげで、彼女に無理を掛けずに彼女の中身をいじることが出来たよ」

「てぇ、ことは。キース、お前」

ギルディオスは、彼の言わんとするところを察した。キースは、少し気恥ずかしげにした。

「いけないかい? 僕は、彼女に色々なものを与えてもらったんだ。だから、返せるものはこれぐらいだと思ってね」

「いやはや、いやはや。貴君も、大分丸くなってしまったのであるな」

伯爵はフラスコの中からコルク栓を押し抜き、触手を伸ばしてふらりと振った。キースは、苦笑いする。

「僕もそう思うよ。自分でも呆れるくらいの変わりようだからね。それだけ、彼女の愛の深さは恐ろしいってことさ」

事態をまだ飲み込めずにいるレオナルドに、キースは振り向いた。

「レオナルドさん。少しぐらいは、僕に感謝してくれても良くないかい? あなたと彼女の間に、ちゃんと子供が出来るようにしてあげたんだから」

「なんだと…?」

レオナルドは、フィリオラの声でキースが言った言葉がまだちゃんと理解出来ておらず、呆然と突っ立っていた。
喜ぶべきだとは思うし、事実とても嬉しいのだが、この場で喋っているキースがキースなのか信じられなかった。
あの雪の日に戦った際には、こんなに穏やかではなかった。たった四ヶ月間、フィリオラと共にいただけなのに。
こうも変わってしまうと、別人としか思えない。フィリオラがキースの振りをしているのでは、とすら思ってしまう。
だが、口調も表情も仕草も態度も、紛れもなくキースだ。増して、フィリオラがキースの振りなどするはずがない。
キースは、笑っている。フィリオラの顔で、だが、フィリオラのそれとは全く違った表情の笑顔を浮かべている。
そのキースがなぜ、フィリオラに子が出来るようにしてくれたのか。キースの人格からは、懸け離れた行動だ。
彼女の中で、何事があったのかは想像も付かなかった。だが、フィリオラがキースを癒したのは間違いないだろう。
それを察した途端、嫌な痛みが起きた。こんな時までキースに妬いてしまう自分が嫌で、レオナルドは拳を握った。
目を伏せて口元を歪めているレオナルドに、キースは少し笑った。彼女の言う通り、彼は随分素直になっている。
明らかにレオナルドは、キースに対して嫉妬している。かなり不愉快げだが、同時に情けなさそうでもあった。
彼女の内から覗いた彼女の記憶の中では、レオナルドはいつも怒っていて意地の悪いことしか言わない男だった。
それは恋仲になっても変わらず、彼の方から好きだと言ってくれることは数えるほどしかない、と彼女は言った。
だが、それでもいい、と。レオさんはそういう人だから、レオさんのそういうところも好きだから、と彼女は笑った。
以前よりは素直になってきたとはいえ、その性格は変わらない。口が悪くて遠慮がなく、荒っぽくて態度が大きい。
そんな男を心底愛している彼女は、本当に物好きだと思う。キースからしてみれば、彼女の恋は酔狂でしかない。
レオナルドがフィリオラを愛してくれているとはいえ、事ある事に文句を言われ続けていることには変わらない。
それは、サラとして彼らを見ていた共同住宅の日々から変わっておらず、レオナルドの文句も相変わらずなのだ。
フィリオラはその文句に言い返しているが、それほど嫌そうではなく、場合によっては照れて真っ赤になってしまう。
キースはそれが理解しがたくて、彼女に尋ねた。なぜ怒らない、と。すると彼女は、照れ笑いして返してきた。
だって、レオさんはそういう人だから。ちっとも素直じゃなくて意地悪で、だけど、本当は優しい人だから、と。
それを言われたばかりの時は、更に理解出来なくなってしまった。レオナルドのどこが優しいのか、解らなかった。
だが、フィリオラの内から彼と接していると、解ってきた。意地の悪い言動の端々に、彼女への愛情が滲んでいる。
端から見れば、彼の愛情表現は他愛もないことばかりだったが、フィリオラはそれを感じるたびに喜んでいた。
フィリオラの魂と魂を繋ぎ合わせていたキースにも、彼女の嬉しさや愛しさは流れ込んできて、いつしか同調した。
そしてそのうち、解るようになった。レオナルドの優しさも、フィリオラの恋心も、愛し、愛される心地良さも。
本当に、フィリオラからは色々なものを与えてもらった。一つ一つは大したものではないが、温かなものを。
キースは、焦燥を滲ませているレオナルドに言った。あからさまに妬かれると、やりづらくなってしまう。

「そう妬かないでくれないかな。困ってしまうじゃないか」

「だ、だが」

レオナルドは見て解るほど嫉妬していたのだと思うと余計に情けなくなり、少し狼狽えた。

「なぜお前が、フィリオラにそんなことをするんだ」

「だから、言っただろう。僕が返せるものを、彼女に返しただけさ」

キースはメガネ越しに、レオナルドを見据える。

「彼女は、それだけのことを僕にしてくれたんだよ。ただ、それだけのことさ」

「本当に、子供が出来るのか?」

レオナルドは言葉を選びながら、言った。キースにどの感情をぶつけるべきなのか、一向に定まってくれなかった。
フィリオラを長く眠らせていたことや、彼女の体を支配していることに対しての怒りが、一番強い感情だった。
その次にあるのは、焦げ付くような嫉妬だった。キースがフィリオラから愛されていたのかと思うと、苛立ってくる。
だが、キースが彼女に子を孕めるようにしてくれたのが嬉しいのも確かで、様々な感情が胸の内を入り乱れた。
レオナルドがどれを表に出すべきか迷っていると、キースは慣れた手つきでメガネを直し、レンズに光が撥ねた。

「出来るさ。もっとも、僕の魂は彼女の中に残留しないくらい消耗しているから、僕の魂を持った子が生まれる心配はないよ。生まれてくるのは、間違いなく、あなたと彼女の子だ」

「本当に」

「本当だよ。くどいな、全く」

キースは呆れたように、ため息を零した。レオナルドは、次第に状況が理解出来てきて、握っていた拳を緩めた。

「そうか…」

彼女との間に、子が出来る。キースへの嫉妬や怒りはまだ燻っていたが、徐々に嬉しさが込み上げてきた。
今までの所業が所業なだけに、キースに感謝の気持ちを抱けることはなかったが、嬉しいものは嬉しかった。
レオナルドは上手い言葉が出てこず、何も言えなかった。何か言うべきだとは思ったが、何も出てこなかった。
キースはレオナルドから目を外すと、フィフィリアンヌに向けた。少女のような姉は、いつもの無表情だった。
この人とも、別れなければならない。フィリオラの内からではあったが、姉の傍にいられたのは嬉しかった。
辛辣で冷徹で、愛想のない幼い姉。結局、一度も言葉を交わさないまま死してしまった母親に、良く似た姉。
キースが得ることのなかった愛を得て、母親と言葉を交わし、外の世界で生きてきた姉を、いつも羨んでいた。
そして同時に、淡い憧れも抱いていた。その感情は、兄弟に対する感情と言うよりも、恋に近いものだった。
だが、その中には、愛情だけでなく憎しみも入り混じっている。愛しいが憎くてたまらない、奇妙な恋だ。
せめてもう少し、姉と言葉を交わしたい。そう思いながらキースは、姉に向けて精一杯の笑顔を見せた。

「姉さん」

「キース…」

フィフィリアンヌは、今にも泣き出してしまいそうな笑顔を浮かべている弟を見上げながら、彼の名を呟いた。
真正面から向き合ったことなど、あっただろうか。いつも彼から目を逸らし、背を向けて、彼から逃げていた。
キースにちらつくウェイランの影を見たくないがために、忙しいから、などと自分に言い訳をしてばかりだった。
後悔は、尽きない。あの時ああしていれば、と思うようなことは幾度もあるが、今更どうにか出来るはずもない。
謝りたいような気もするし、頭ごなしに罵倒してしまいたい気もするが、愛してやりたい気持ちも残っていた。
だが、もう時間がない。感覚に感じられるキースの魂の気配は、彼の言っていた通り、儚く弱いものとなっている。
消えるのは、時間の問題だ。フィフィリアンヌは何を言うべきか必死に考えたが、口から出たのはこれだけだった。

「この、馬鹿が」

彼は、目を伏せた。血のような赤に染まっていた瞳から力が失せ、その色が徐々に青へと戻り始めている。

「姉さん」

キースの目は、虚ろになっていた。笑顔も、崩れてしまっている。

「僕、とても、眠いんだ」

「眠ってしまえ。寝付くまで、傍にいてやる」

フィフィリアンヌは弟に、穏やかな笑みを向けた。キースは安堵したように顔を綻ばせたが、途端に崩れ落ちた。
膝を付いて肩を落とし、項垂れた。フィフィリアンヌは弟を受け止めると、背中に手を回し、軽く叩いてやる。
弟は、幼い姉に弱々しく縋ってくる。必死に目を閉じまいとしているが、その瞼は重たげに下がっていった。

「ねえさん」

「キース。お前も、いつでも帰ってくるがいい。お前は、私の弟なのだから」

フィフィリアンヌは弟を抱き寄せ、その肩に顔を埋める。キースは頷いたようだったが、言葉は返ってこなかった。
メガネの奧の目は、閉じていた。フィフィリアンヌの背に回されていた手が脱力し、がくっと頭が落ちてしまう。
耳の上からツルが抜け、メガネが外れた。かしゃっ、と軽い音を立てて石畳の上に落ち、レンズのヒビが増えた。
そのまま、彼女は動かなかった。抱き締めている少女の体の内から、弟の魂の気配が消えるのを感じていた。
今までは、どこかに弟の気配を感じていた。フィリオラの魂の内に身を潜めてはいるが、キースは確かにいた。
だが、それは完全に失せてしまった。竜の感覚を研ぎ澄まさせてみても、どこにも弟の気配はなくなっていた。
本当に、キースは死したのだ。フィフィリアンヌは身動きしないフィリオラを抱き締めながら、強く目を閉じた。

「また、帰ってきますから」

フィリオラの声が、フィフィリアンヌの耳元に聞こえた。

「私も、キースさんも」

「…ああ」

フィフィリアンヌは、フィリオラの言葉に頷いた。フィリオラはフィフィリアンヌを抱き締めながら、頷き返した。
胸の奥が、熱かった。今までは僅かながら感じられていたキースの思念が完全に失せ、空虚な感覚すらあった。
だが、熱は残っていた。表に現れるために高められていたキース自身の魔力が、魔力中枢に残留している。
それは、彼が生きていた確かな名残だった。消えてしまうのは惜しかったが、その熱は次第に薄らいでいった。
キースは、眠った。白き世界の主であり魂を重ね合わせた彼女の中と、そして、愛しくも憎い姉の腕の中で。
悪しき竜の青年は、安息を得た。生きているうちは得られることのなかった居場所を得て、遂に死を迎えた。
彼が生きていた証であるメガネが、石畳の上で輝いている。ヒビ割れた平たいレンズは、青い空を映していた。
温かな、日の光を浴びながら。




広大な草原に伸びる道を、真っ赤な蒸気自動車が走っている。
土が剥き出しになった道に散らばる石を踏むたびに、ごとごとと車体を揺らしながら、白い蒸気を吐き出している。
その前部座席に座るフィリオラは、後ろ髪が失せて剥き出しにされた首筋に触れる風が冷たくて、首を縮めた。
さすがに、まだ慣れていなかった。幼い頃から長く伸ばしていたので、いきなり切るとなんだか妙な感じがする。
空の青と草の緑だけが、景色だった。旧王都からも街道からも遠く離れた道なき道を、突き進んでいるからだ。
草原の果てには山があり、そのふもとには廃墟と化した街が見えたりもするが、ほとんど景色は変わっていない。
隣を窺うと、レオナルドは暇そうだった。運転しようにも車が勝手にやってしまうので、運転しなくても良いからだ。
フィリオラは膝の上に乗せていたキースのメガネを折り畳み、布にくるんでカバンに入れてから、彼に向いた。

「ね、レオさん」

「ん?」

レオナルドが生返事をすると、フィリオラは隣の運転席へ身を乗り出した。

「これから色々とやることはありますけど、何からしましょうか?」

「そうだなぁ…」

レオナルドは延々と続く地平線を望んでいたが、にやりと笑った。

「子供が出来るようになったんなら、まずはそれから始めようじゃないか」

「もう! レオさん、それしか考えることはないんですか!」

フィリオラは真っ赤になりながら言い返したが、レオナルドは平然としている。

「オレの子を欲しいと言ってきたのはお前だろうが、フィリオラ。文句を言われる筋合いはないと思うが」

「だ、だからってぇ…」

うぅ、とフィリオラは唸りながら座り直した。頬を染めて俯いている彼女の、露わになっている首筋が眩しかった。
レオナルドは気恥ずかしげにむくれている彼女の横顔を見ていたが、進行方向に視線を向けてから、言った。

「だがそれよりも、まずは結婚する方が先だな。なんだかんだでしてなかったからなぁ」

「あっ当たり前ですよぉ!」

フィリオラは多少上擦った声を上げてから、レオナルドの横顔を見やった。

「レオさん。キースさんのこと、ちょっとは認めてくれました?」

「少しだけな。気に食わないのは相変わらずだし、あの野郎がお前の体をいじったってのも面白くないが」

レオナルドは、心底嬉しそうに笑った。

「お前に子供が出来るようにしてくれたんだ、それを喜ぶ他はない」

フィリオラはその笑顔が嬉しくて笑い返してから、前に向いた。緑の地平線は、地の果てで空と接している。
太陽から地に注がれる柔らかな日差しが、全てを照らしている。この場所からは、戦いの影など見えなかった。
そして、薄暗い部屋もない。あるのはただ、無限に広がる空と、果てのない大地と、白い光と、そして。
冬の眠りから目覚めた、世界だった。




戦争の影を落としたまま、戦火は消えぬまま、世界は今日も回り続ける。
竜の末裔は伴侶を得、半吸血鬼の少年は家族を得、死した重剣士は居場所を取り戻した。
そして、悪しき竜は、安息の眠りを得る。だが、それらの出来事は、巨大なる世界の一部にすらならない。
しかし、彼らにとっては世界の行く末よりも大きな出来事であり、彼らの世界では壮絶な戦いなのである。

彼らの世界とは、彼ら自身の内なる世界だからである。


そして、今日も。

そこそこに、彼らの世界は平和である。





THE END.....





06 4/5


あとがき