ドラゴンは眠らない




一条の光



フィリオラは、泣いていた。


ひくっ、ひくっ、と喉が引きつり、声が漏れる。目元から流れ出す熱いものが、頬を伝って顔の下を濡らす。
床に押し付けた耳は潰れ、顔の下にしている髪はべとべとに濡れていた。だが、それを拭う気も起きなかった。
薄暗い部屋の中で見えるものは、正面にある扉の隙間から漏れてくる細い光と、どす黒い魔法陣だけだった。
床一杯に描かれている二重の円の間には、魔法文字がいくつも書き連ねてあり、中心には六芒星がある。
その六芒星の中心に幼女が横たわり、泣いていた。脱力した手足は投げ出され、喉と胸だけが動いている。
涙で潤んだ赤い瞳を動かすこともなく、扉を見つめていた。自分のしゃくり上げる声だけが、聞こえている。
扉の向こうからは、音はしなかった。足音も気配も何も感じられず、ただ、静けさだけがじんと耳に染みてくる。
空虚だった。胸の内にぽっかりと穴が開いてしまったかのような物悲しさが、疲れ果てた体を満たしていた。
この部屋に連れ込まれて、どれくらいの時間が過ぎただろうか。長かったような気もするし、短いような気もする。
泣き出した理由は、大したことなどなかった。ただ、廊下を駆けていたら転んでしまって、顔を床に打ち付けた。
膝も顔も痛かったが、泣いてしまったらまた閉じ込められると思って、ぎりぎりと歯を食い縛って涙を堪えた。
だが、無理だった。一度溢れた涙は簡単には止まらずに、転んだ痛みも消えず、そのうちに泣き出してしまった。
誰かに見つかる前に逃げてしまおう。そう思ったが、立ち上がるよりも前に、泣き声を聞きつけた姉に見つかった。
姉、ルーシーはすぐにメイド長を呼んできた。そして、メイド長がやってくると、フィリオラは抱え上げられた。
メイド長の脇に抱えられて部屋に運ばれてくると、物のように投げられて、部屋の中に放り込まれてしまった。
気が静まられるまでのご辛抱でございます、とメイド長は険しい顔付きで言い放つと、勢い良く扉を閉めた。
そして、鍵を掛けられた。フィリオラの耳の奧には、かしゅり、と錠が動かされる金属音が未だに残っている。
いつものことだ。閉じ込めらるのも、物のように扱われるのも、泣き出した自分を見て姉が悲鳴を上げるのも。
全身から、じわじわと力が抜けていく。泣き出したせいで高ぶっていた魔力が、魔法陣に吸い込まれていく。
虚ろな目で、暗がりを見つめていた。魔力が抜かれるに連れて意識が薄らいでいき、涙の量も収まってきた。
だが、それは泣き止んだと言うことではない。ただ、疲れ果ててしまって、泣く気力すら出なくなっただけだ。
掠れた、弱い声を発した。ごめんなさい、おゆるしになって、おとうさま、おかあさま、おにいさま、おねえさま。
わたしがいけないのですよね。わたしがよわいこだから。わたしがわるいこだから。わたしがどらごんだから。
俯くと、こつ、と固い物が床に当たった。フィリオラは手を伸ばして、頭に生えている短いツノにそっと触れた。
こんなものさえ、生えていなければ。憤りが起きそうになったが、気力が尽きているので感情は高ぶらなかった。
小さな両手で短いツノを押さえ込み、背を丸める。気付かないうちに現れていた翼が、ばさりと勝手に広がった。

「いいこに、しますから」

空虚な部屋に、弱々しい懇願が響く。

「わたし、いいこにしますから」

ツノを、力一杯握り締める。潰せるものなら、潰してしまいたかった。

「だから、おねがいです」

ほんの少し残っていた気力を振り絞って、か細い声を上げた。

「ここから、だしてぇ」

冷たい床。薄暗い部屋。どす黒い魔法陣。失われていく魔力。そして、竜の力。そのどれもが、嫌でたまらない。
出して、お願い。何度となく、そう繰り返した。だが、扉の向こうに誰かが来る気配はなく、あるのは静寂だけだ。
それはまるで、自分と家族を隔てている壁に思えた。竜である自分と、竜でない両親と兄弟の間にある障壁だ。
いつも、それを感じている。父の言葉も母の態度も兄の眼差しも姉の笑顔も、そのどれもが、違っているのだ。
自分以外に向ける時は温かかったり優しかったりするのに、フィリオラに向けられるものはいずれも冷ややかだ。
誰も彼も、疎んでいる。どこにも、居場所はない。そう思った途端、ようやく止んでくれた涙がまた戻ってきた。
フィリオラは、高ぶった竜の力を持て余し、胸に空いた空虚な闇を感じながら、眠りに落ちるまで泣き続けた。
見えていたのは、扉の隙間の細い光だけだった。




目が覚めると、外にいた。
明るい日差しが、泣き腫らした目に痛い。誰かの腕に抱えられているらしく、肩が大きな手に支えられている。
ここはどこだろう。夢の中かもしれない。そう思いながら、フィリオラは目を動かしていたが、真上を見上げた。
逆光の中に、甲冑がいた。中世時代そのままの、古めかしい形をした全身鎧がフィリオラを見下ろしていた。
兜の頂点にはニワトリのトサカに良く似た赤い頭飾りが付いていて、ヘルムには流線形の隙間が空けられている。
そのヘルムの、隙間の奧には何もなかった。薄暗い部屋と同じような影だけがあり、人の目など見えなかった。
甲冑の背後には、もう一人誰かが立っている。闇色のローブを着た、十二歳程度の少女がこちらを見ていた。
綺麗な顔をした、人形のような少女だった。吊り上がった目の瞳は真紅だが、髪の色は対照的に深い緑色だった。
その少女の腰のベルトに付けられた金具には、なぜか、赤紫の液体が充ち満ちたフラスコが下げられていた。
この人達は、誰なんだろう。フィリオラが口を開こうとすると、不意に頭に手が置かれ、ぐしゃりと髪を乱された。

「可愛いなぁ、お前は」

その手は大きくて冷たく、固かった。銀色の手の下から目を上げると、甲冑のものと思しき大きな手が外される。
すると今度は、冷ややかな手がフィリオラの頬に触れた。丸っこい幼女の頬を、優しい手付きで包み込む。

「そうだな」

その手は、少女のものだった。少女は身を屈めてフィリオラと視線を合わせると、鋭い目元を柔らかくさせた。

「瞳の色など、カインに良く似ておる。ツノの形も綺麗だ」

フィリオラは珍しく褒められたことで、戸惑ってしまった。それに、ツノを褒められたのは生まれて初めてだ。
少女の手が、フィリオラの髪を優しく撫でた。その指先はトカゲのような温度で、触れられるとひやりとした。
フィリオラは恐る恐る、少女に目を向けてみた。小柄な少女の背に、何か異様なものがあるのが解った。
彼女の背に、翼が生えていた。若草色の皮が張り詰めた小振りなものだったが、紛れもなく、竜の翼だった。
そして、少女の頭からは二本のツノが生えている。フィリオラのものよりも倍近く長さがあり、すらりとしていた。
緑髪の間から出ている耳も、長く尖っている。フィリオラは目を見開いていたが、間を置いてから、やっと理解した。
彼女は、竜族なのだ。このお姉さんは自分と同じ竜なんだ、と察したフィリオラは、驚きで小さく声を漏らした。

「…あ」

竜の少女は、フィリオラの乱れた髪を細い指で梳いてきた。

「そうだ。私は竜だ。怖がらずとも良い」

「お前、名前言ってみろや」

ん、と甲冑が首をかしげた。フィリオラは彼を見上げたが、すぐに目を伏せた。名前など、名乗りたくなかった。
名乗ったところで、ストレインと言ってはいけないのだ。いつも、そうしろと両親から言い聞かせられていた。
フィリオラが口籠もっていると、甲冑はまた頭を撫でてきた。その力は少々強かったが、優しい手付きだった。

「オレはよ、ギルディオス。ギルディオス・ヴァトラスってんだ」

竜の少女の腰に提げられたフラスコの中で、粘液がぐにゅりと蠢き、低く響きのある声を発した。

「我が輩の名はゲルシュタイン・スライマス、伯爵と呼ぶが良いぞ。貴君の記憶に深く刻み付けておくのである」

「ふぇ」

いきなり粘液が喋ったので、フィリオラは呆気に取られた。竜の少女は、気にするな、と素っ気なく言った。
フィリオラは、フラスコの中の赤ワインに似た色合いの粘液と竜の少女を何度も見比べたが、こくりと頷いた。

「私は、フィフィーナリリアンヌ・ロバート・アンジェリーナ・ドラグーンという名なのだが、長々しくて面倒極まりないので、フィフィリアンヌ・ドラグーンとでも呼んでくれれば良い。お前の名と良く似ておるだろう?」

フィフィリアンヌと名乗った少女の言葉に、フィリオラは頷いた。フィリオラの本名は、フィフィーナリリオーラだ。
他の兄弟とは違った長い名前の、フィフィーナ、の部分が、誰かのものを受け継いだものなのだとは知っていた。
だが、それが誰なのかは教えてもらえなかった。子供の内から関わる相手ではない、と父親も母親も言っていた。
その相手が、目の前の少女だと知って少し意外だった。こんな優しい人ならば、もっと早くに会っていたかった。
なのになぜ、父も母もフィフィリアンヌの存在を教えてくれなかったのだろう。それが、不可解でならなかった。
フィリオラは、頭上のギルディオスを見上げた。だがまずは、なぜ薄暗い部屋でなく外にいるのか、知りたかった。

「あの」

「ん?」

ギルディオスは身を屈め、フィリオラに顔を寄せた。フィリオラはその距離のなさにまごつき、肩を縮める。

「なんで、わたしはおそとにいるんですか?」

フィリオラは、ギルディオスの肩越しに太陽を見ていた。綺麗に晴れ渡った空の色は、眩しいほどに鮮烈だった。
ギルディオスは、ああ、と顔を上げた。その視線の先を辿ると、鬱蒼とした森を背負った屋敷が目に入った。
壁にツタを這い回らせているストレインの屋敷は、壁の一部が抉れていて、ぽっかりと大きな穴が開いていた。
それは二階の角にある北側の部屋で、一階の天井部分まで壊されていて、二階の部屋の床もひび割れていた。
その床には、魔法陣が書いてあった。黒い塗料で床一杯に二重の円が描かれていて、六芒星があるのも見える。
フィリオラは、徐々に目を見開いた。眠っている内に竜の力が暴れて自分が壊してしまったのでは、と思った。

「あ…」

怒られる。叱られる。怒鳴られる。また、薄暗い部屋に放り込まれる。そう思った途端、体が震え出した。

「ごっ、ごめんなさいぃ」

顔を両手で覆い、体を縮める。

「ごめんなさい、ごめんなさい! もうしません、にどとへんげなんてしません!」

手の中の暗闇を見つめ、フィリオラは絶叫する。

「だから、おゆるしになって! いいこにしますから、いいつけもちゃんとまもりますからぁ!」

言葉にならない言葉で、喚く。

「だから、もうあのへやにはつれていかないでぇ! おねがいですからぁ!」

「もう、泣くな」

ギルディオスの穏やかな口調に、フィリオラは顔を覆っていた手をそっと外し、甲冑を見上げた。

「あそこを壊したのは、オレだ」

ギルディオスは、フィリオラの震える肩を支える。

「お前は何もしていない。お前は悪い子じゃない。お前は、いい子だ」

「だっ、だけどぉ」

フィリオラはギルディオスの腹の辺りに縋り、力一杯叫んだ。

「わたしは」

「フィリオラ」

フィフィリアンヌの声に、フィリオラは彼女に向いた。フィフィリアンヌは、壊れた壁を見上げている。

「私も、あの部屋を壊したのだ」

「え…」

フィリオラが目を丸くすると、ギルディオスはフィリオラの柔らかな頬を軽く撫でた。

「だからよ、お前は怒られたりなんてしねぇんだ。フィリオラ、お前はちっとも悪くなんてねぇんだ」

「本当に悪いのは、この屋敷の愚か者共だ」

フィフィリアンヌは心底嫌そうに吐き捨て、古びた屋敷を見据えた。

「この子をなんだと思っている。フィリオラはまだ三歳になったばかりではないか。そんな幼子が竜の力を抑えきれるはずもないし、増して操れるはずもない。それを、私に何も言わずに生兵法の魔法でこの子を押さえ付けたばかりかこんなにも痛め付けおって。ストレインの者でなかったら、魔力中枢を掻き回して、適当な呪いでも掛けてなぶり殺しにしてやるところであったぞ。全く、近頃の人間は愚かだと思っておったが、ここまで愚かだとはな」

「報復はすんなよ。相手は堅気だ、一応な」

ギルディオスが苦々しげに呟くと、フィフィリアンヌは細い眉を吊り上げた。

「それぐらい解っておる」

「あの」

フィリオラは、訳が解らなかった。フィフィリアンヌの並べ立てた荒っぽい言葉が、すぐには飲み込めなかったのだ。
フィフィリアンヌはフィリオラを見下ろすと、ほんの少し唇の端を上向けた。愛おしげな、優しい微笑みだった。

「フィリオラ。お前は、いい子だ」

「でも、わたしは」

フィリオラは、顔を伏せた。自分みたいな厄介な存在が、いい子のはずがない。褒められるはずなどないのだ。
褒められるのは、いつも兄と姉だ。ミハエルとルーシーはどちらも聞き分けが良い子供だし、勉強だって出来る。
それに比べて、フィリオラは勉強どころか言い付けを守ることが出来ない。変化するなと言われても、してしまう。
力が高ぶるから泣いてはいけない、と言われても泣いてしまう。翼で服を破るな、と言われても破ってしまう。
だから、いつも叱られる。メイド長や家庭教師だけでなく、父親や母親にも、いつも悪い子だとばかり言われる。
ツノさえなければ、瞳さえ普通なら。彼らがため息と共に呟く言葉の数々が蘇ってきて、また泣きたくなった。
だが、泣いてしまったら竜になる。竜になってしまったら、この甲冑の人や竜のお姉さんも傷付けてしまう。
歯を食い縛って涙を堪えていると、ギルディオスの手が頭に被せられた。銀色の大きな手が、すぐ上にある。

「泣いていいぞ」

「でっ、でも」

フィリオラが躊躇うと、ギルディオスは穏やかに言った。

「大丈夫だ。オレとフィルがいるんだ、変化なんてさせねぇよ。いくらでも泣いちまえ」

な、とギルディオスはフィリオラの頭をぽんぽんと軽く叩いた。その優しい言葉に、フィリオラは堪え切れなくなった。
ギルディオスの胸に縋り付いて、上げられるだけ声を上げた。寂しさや苦しさを、全て吐き出さんばかりに泣いた。
泣いている間中ずっと、ギルディオスが抱いていてくれた。吐き戻してしまいそうなほど喘ぐと、宥めてくれた。
その日に何があったのか、この時点ではフィリオラは何も知らなかった。思い切り泣くことだけで、精一杯だった。
数日して、フィフィリアンヌから事の次第を聞かされた。ギルディオスと共謀してお前を助け出したのだ、と。
フィフィリアンヌがストレイン家の先祖のカインの妻であったことや、家系の竜の血を混ぜたことも、教えられた。
ギルディオスが魔導鉱石に魂を納めた死人であることや、二人の関係も説明されたが、すぐには解らなかった。
そして、あの部屋を破壊した理由も教えられた。あのまま残しておいたら、連中はまたお前を閉じ込めかねない。
だから私は、このニワトリ頭とあの部屋を破壊したのだ。それが一番良い。と、フィフィリアンヌは言っていた。
だがフィリオラは、フィフィリアンヌとギルディオスの行動が正しいのかどうか、判断が付けられなかった。
閉じ込められるのは嫌だ。けれど、それには理由がある。荒々しい竜の力を、押さえ込むために必要なのだ。
父や母は、聞き分けのない娘を戒めるために閉じ込めている。だから、間違っているなどと考えたことはなかった。
あれは、きついお仕置きに過ぎない。それに、閉じ込められてしまうのは、力を抑えきれない自分が悪いからだ。
父や母の言うことは正しいのだから、間違っているはずなどない、と。フィリオラは、ずっとそう思っていた。
これからも、ずっと、そう思っているはずだった。




良く晴れた、気持ちの良い昼下がりだった。
フィリオラは、前庭で遊んでいた。植木や花壇の間に生えている雑草の花を摘み取って、小さな束を作っていた。
握り締めているので多少しおれてしまっているが、白い花や薄桃色の花の可愛らしい花束が出来上がっていた。
心地良い風が、二つに括った髪を揺らしていく。フィリオラは石畳の上で足を止め、結んだ髪にちょっと触れた。
今まではあまり整えていなかった髪を、フィフィリアンヌが整えてくれた上に、二つに分けて結んでくれたのだ。
その上、白い帽子までくれた。鍔の広いもので、フィリオラの小さな頭などすっぽり覆ってしまうほどのものだ。
これから日差しが強くなるからな、と、フィフィリアンヌはほんの少しだけ笑みを見せながら、渡してくれた。
それが、とても嬉しかった。いつもは姉のお下がりばかりだし、新しいものを買ってもらえる機会は少なかった。
兄と姉と違って、フィリオラはあまり外へは連れ出されない。外で変化したらいけないから、との理由があるためだ。
フィリオラはその理由に対して疑問を持ったことはなかったが、多少なりとも不満を持っていたのは確かだった。
兄弟や両親と一緒に買い物に行きたかったこともそうなのだが、フィリオラだけのものがずっと欲しかった。
だから余計に、姉や従兄弟のお下がりではない、新品の帽子を自分のためだけに与えられて本当に嬉しかった。
フィリオラは屈めていた体を起こして、屋敷の窓に向いた。そこには、真新しい帽子を被った幼女が映っている。
穢れのない白い帽子は、眩しい日差しを受けて輝かんばかりで、大振りなリボンが後ろ側で結んであった。
フィリオラは草の汁に汚れた手をエプロンドレスのエプロンで拭い、帽子に手を掛け、くるりと後ろに振り返った。

「おーじさまー」

「おう、なんだ」

フィリオラの後ろを付いてきていたギルディオスが立ち止まり、見下ろしてきた。フィリオラは、甲冑を見上げる。

「これ、にあいますか?」

フィリオラは白い帽子の鍔を直してから、首をかしげてみせた。ギルディオスは、幼女の前に膝を付く。

「おう、似合う似合う。可愛いぜ、フィオ」

「ふぁ」

フィリオラは嬉しくなって、頬を緩ませた。石畳に膝を付いているギルディオスは、帽子越しに撫でてきた。
その乱暴ながらも優しい手を感じながら、フィリオラはにこにこしていた。彼は、十日前からこの屋敷にいる。
あの薄暗い部屋を壊した後から、ずっとフィリオラに付きっきりで、寝る時ですらも傍にいてくれていた。
最初は戸惑っていたが、次第にギルディオスという男の人格の温かさに触れ、今では慕うようになっていた。
フィリオラは、最初のうちは彼を名で呼んでいたが、それでは余所余所しいと思って小父様と呼ぶようになった。
ギルディオスはやけに照れくさそうだったが、止めろとも言われないので、フィリオラはそう呼び続けていた。
目の前にいる甲冑の、中身は見えない。ヘルムの隙間から覗いている内側はがらんどうで、空虚な闇がある。
だが、その中身は本当は空ではない。とても大きくて優しく、そして力強い、父親のような男が中に入っている。
頭を撫でる手が止まり、帽子の上から大きな銀色の手が離れていったので、フィリオラは少し残念になった。

「あ」

もっと、撫でていて欲しい。もっと、触れていて欲しい。フィリオラは、無性に物悲しい気分になってしまった。
すると、急に両脇を抱えられて持ち上げられた。いきなり視界が上昇したせいで、目が回りそうになってしまった。
気付くと、目の前にはギルディオスがいた。彼の目線まで持ち上げられたフィリオラは、太い腕に抱えられる。

「なんだ、うん?」

「ん…」

ギルディオスの厚い胸に縋ったフィリオラは、顔を伏せた。求めたいという気持ちはあるが、言えなかった。
そんなことを言ったら、怒られる。母の腕を求めてはいけない、と常日頃から兄と姉が言い聞かせてくるのだ。
もしも、お前がお母様を殺してしまったらいけないだろう。だから、お前はあまり近付いてはいけないんだよ。
それが、フィリオラの頭に強く残っていた。だから、撫でられてもらっただけで満足しなくてはいけない。
顔を伏せた幼女が押し黙ったのを見、ギルディオスはフィリオラの小さな肩に手を添え、抱き締めてやった。
竜の血が発現しているために人間よりも若干体温が低かったが、その柔らかな感触は子供らしいものだった。
胸装甲に顔を押し当てて黙ってしまったフィリオラに、ギルディオスは苛立ちと共に憤りすら沸き起こっていた。
数週間前、異能部隊の隊長として任務に明け暮れていたギルディオスの元に、フィフィリアンヌから手紙が届いた。
キースを死なせた責任で、異能部隊から一般の部隊に左遷されていた間に生まれた、竜の子供の件だった。
ストレイン家には、フィフィリアンヌの緑竜族の血も受け継がれているので、時折竜の血が現れた子が生まれる。
今までにも何人かおり、数世代ごとに生まれているので、そろそろ一人は生まれてくる頃ではと思っていた。
そして、ギルディオスの予想していた通り、四世代振りに竜の血が現れた子が生まれた。それが、フィリオラだ。
すぐにでもストレイン家に駆け付けて顔を見たかったが、国境付近での小競り合いが思いの外長引いてしまった。
そうこうしているうちに、戦闘部隊での実績が認められて、少佐の地位と異能部隊の隊長の任が戻ってきた。
それ自体は喜ばしいことなのだが、離れている間に乱れた異能部隊の立て直しなどに時間を取られてしまった。
気付いた頃には、フィリオラが生まれてから三年ほどの時間が過ぎてしまっていた。それほど、忙しかったのだ。
フィフィリアンヌも魔導師協会の会長の仕事が忙しくなってしまい、同様にフィリオラの顔を見られずにいた。
その間、ほとんどストレイン家には関知出来なかった。実業家として成功したストレイン家も、忙しかったのだ。
だから、互いに会える時間もないままに時間ばかりが過ぎて、フィリオラに会えたのは十日前が初めてだった。
彼女の存在を持て余しているらしい、とは聞いていたが、まさかあそこまでひどいとは予想だにしていなかった。
竜の力を疎んじるばかりか、あんな狭い部屋に閉じ込めて、魔法陣で魔力を奪って強引に力を封じ込めていた。
それが、体に良いはずがない。増して、成長途中の幼児の体から魔力を抜くなど、ただの虐待ではないか。
竜族は魔力が高いのが常であり、そうあることが普通なのだから、魔力を抜かれてしまえば弱って当然だ。
事実、あの狭い部屋に横たわっていたフィリオラはぐったりとしていて、顔色も青ざめていて呼吸も弱かった。
あのまま閉じ込めておけば、死してしまっていたことだろう。やはり、あの部屋を壊したのは正解だった。
ギルディオスはフィリオラを抱き締めたまま、古びた屋敷を見上げた。北側の壁の一部が、吹き飛んでいる。
十日前、フィフィリアンヌと共に忌まわしい部屋を破壊し尽くしたことと、その際の出来事を思い起こした。
この屋敷に訪れたフィフィリアンヌは、屋敷の一部だけ魔力が低いのを感じ取り、すぐにあの部屋を見つけた。
扉を開けるなり、彼女はギルディオスに言った。壊せ、と。ギルディオスは彼女の足元を見、その意味を察した。
追いかけてきたメイド長や執事から止められたが、それらを全て無視して、バスタードソードを振り回した。
床に描かれた魔力吸滅の魔法陣を削り取り、壁を打ち砕き、床を壊した。だが、フィリオラは目覚めなかった。
ギルディオスがどれだけ破壊を繰り広げようとも、フィリオラは身動き一つせず、瞼は閉じられたままだった。
その様子に、フィフィリアンヌが珍しく怒りを露わにした。メイド長や執事に詰め寄ると、一気にまくし立てた。
魔力は竜の血であり肉だ、それを奪うことはどういうことなのであるか解るか、解らないのか、貴様らは。
貴様らがストレインの者でなければ、この場で首を叩き切ってやったところだ。それほどの所業なのだぞ。
いいか、この子は竜である以前に人だ。人間なのだ。それをどうして解らないのだ。この脳足らずどもが。
そう吐き捨てたフィフィリアンヌはフィリオラを抱き上げて、ギルディオスが崩した壁に手を向け、衝撃波を放った。
呆気なく穴の開いた壁を見やり、フィフィリアンヌは吊り上がった目を細め、鋭い視線で彼らを射抜いた。
こうなりたくなければ、私の言うことを聞け。この子を外へ出せ。そして、化け物ではなく、人として扱え。
夜になってこの屋敷にやってきたストレイン家の当主、つまりフィリオラの父親は、この惨状に激しく動揺した。
そして、弱り切って目を覚まさないフィリオラと、気が立っているフィフィリアンヌと対面すると、こう叫んだ。
その子は死んだのですか、と。その言葉が、我が子を心配しているものではないということは、すぐに解った。
誰も彼も、フィリオラを人として扱っていないのは明白だった。それどころか、親すらも我が子と見ていない。
フィリオラが生まれてすぐに、駆け付けてやれなかったことが悔やまれた。そうであったら、違っていただろう。
だが、今更、いくら後悔してもどうしようもない。今出来ることを、やれるだけやってやるしかないのだから。
ギルディオスは、俯いたまま言葉を発しないフィリオラの背を軽く叩いてやりながら、ゆっくりと歩いていた。

「なぁ、フィオ」

手入れの行き届いた生け垣の間を歩きながら、ギルディオスは腕の中の幼女に語り掛けた。

「言いたいことがあるんなら、言ってもいいんだぞ」

ギルディオスは前庭から裏庭に向けて、歩いていく。

「オレに出来ることだったら、やるだけやってやるからよ」

だが、フィリオラは何も言わなかった。ギルディオスは腕の中で身を固めている幼女を見下ろし、物悲しくなった。
顔を伏せて肩を縮め、小さな手を握り締めている。白い帽子の鍔に顔が隠れてしまって、表情は窺えなかった。
雑草の花束は握り締められすぎて、歪んでいた。フィリオラが、何かしらの感情を堪えているのには間違いない。
ギルディオスは裏庭まで回ると、屋敷の壁に背を預けた。薄暗い影の中で、肩を縮めている幼女の肩を抱く。

「な?」

フィリオラは、肩を包んでいる大きな手を感じながらも、動けなかった。我が侭なんて、言ってはいけないのだ。
ちょっとしたことでも、言ったら必ず怒られる。そんなことでは、あなたはまた竜に変化してしまいますよ、と。
我慢を覚えて下さいませ、旦那様も奥様もそう仰っているのですよ。そう、メイド長がきつく言い聞かせてくる。
叩かれることや食事を抜かれることはないが、言うことを聞かないと声を掛けても振り向きもしなくなってしまう。
他のメイドも、メイド長がそうするとそうしてくる。だから、我が侭なんて言ったら、またそうなってしまうのだ。
それは、たまらなく苦痛だった。何を言っても何をしても反応してもらえないことほど、寂しいことはない。
すると、不意にギルディオスは顔を上げ、背後の壁を仰ぎ見た。フィリオラも、釣られてそちらを見上げてみた。
その視線の先には、二階の窓があった。カーテンが開けられているが閉ざされていて、窓には空が映っている。
窓の内には、二つの人影が並んでいた。だが彼らは、こちらを見下ろすこともなく、じっと遠くを見据えていた。
窓際の人影は、父親と母親だった。フィリオラが身を乗り出そうとすると、ギルディオスは口元に指を立てた。
すると、声が聞こえてきた。フィリオラの耳に馴染んだ、だが、どことなく雰囲気の違っている両親の声が。

「大御婆様がお出でになられると知っていたら、こうはしなかったのに」

母の声。

「ジェーンに任せておいたのは間違いだったな」

父の声。ジェーン、というのはメイド長の名だ。

「ええ、そうですわね。あれは長年ストレインに仕えてはおりますけど、少々やりすぎる節がありますわ」

再び、母の声。

「しかし、何もヴァトラスまで引っ張り出すことはなかろうに」

再び、父の声。

「昔の縁だとか何とか言って、散々融資をせびっておきながら一向に返してくれませんものねぇ。その忌々しいヴァトラスとの距離をようやく開けられたというのに、大御婆様があの方をお連れになられてしまったせいで、また距離が縮まってしまいそうですわ。ああ、気が滅入ること」

嫌悪感を滲ませた、母の声。

「やはり、竜を死なせるのは並大抵のことではないな」

落胆した、父の声。

「ええ、そうですわね。生半可なことでは死にませんものね、人と違って」

母の声に、ため息が混じる。

「ですが、大御婆様に目を付けられては仕方ありません。あの子を生かさなくては、私達が死んでしまいますわ」

「あの人は魔導師協会の頂点にいる。これ以上のあの人の機嫌を損ねては、事業どころか一族にも関わってくる」

平坦な、父の声。そして、母の声。

「ですが、幸いなことに大御婆様はあの子を気に入っています。これを使わない手はありませんわね」

「そうだ。あの子を生かしてさえおけば私達を悪いようにはしない、と言うことだからな」

「けれど、当てになりませんわね。昔の魔導書なんて」

母の声。そして、父の声。

「そうだな。竜の命を削ぐには魔力を削げばよい、とあったが、それだけではいけないのだとは知らなかったよ」

「ああ、忌々しい。なぜ、この世には竜なんて存在しているのかしら」

そこから先は、一切聞こえなくなった。いや、聞こえていたのだろうが、フィリオラの耳には届いてこなかった。
握り締めていた手が緩んで、はらはらと花が零れ落ちた。肩を支えてくれている大きな手に、力が込められた。
忘れたきゃ、忘れろ。だが、覚えていたけりゃ覚えておけ。ギルディオスの穏やかな言葉が、間近から聞こえた。
無性に、眠ってしまいたかった。父と母の声は耳の奧に残留していたが、それを理解してしまいたくなかった。
目を閉じると、眠気が訪れた。フィリオラはギルディオスの胸の内から熱を感じながら、とろりと寝入った。
眠ってしまえば、夢になる。全ては悪い夢で、目が覚めれば温かなベッドの中にいるはずだ、と思っていた。
そうであってほしいと、願っていた。







06 4/14