ドラゴンは眠らない




父と子の日々



ラミアンは、混乱していた。


小さく幼い息子は、ぎゃあぎゃあと激しく泣き喚いている。だが、何をどうしたらいいのかさっぱり解らない。
手をぎゅっと握り締めて口を大きく開き、声を張り上げているのだが、何を求めているのか全く掴めなかった。
それでなくても、妻であるジョセフィーヌが姿を消してしまって動転しているのだ。落ち着けるわけがない。
だが、落ち着かなくては。そう思えば思うほど焦燥は増してきて、ラミアンは何も出来ずにただ突っ立っていた。
その間にも、愛息子、ブラッドは泣いている。部屋どころか屋敷全体に響き渡るほどの声で、相当やかましい。
ラミアンは幼児用のベッドに近寄ると、その中にいる息子を見下ろした。思い付くことは、全てやってみた。
いつも妻がしていたように作った離乳食を食べさせておしめを替えたのだが、それぐらいしか知らなかった。
息子の世話の全ては、ジョセフィーヌに任せていた。むしろ、彼女がやりがってさせてくれなかったほどだ。
その間、ラミアンも多少は手伝ったのだが、その全てまでは把握していないし、あまり見てもいなかったのだ。
だから、知識が全くなかった。普段読み漁っている魔導書には、幼子の育て方など載っているはずなどない。
どうすればいいんだ、とラミアンは半ば絶望しながらブラッドを見つめたが、ブラッドは一向に泣き止まない。

「ああもう…」

ラミアンは自分が不甲斐なくなってきて、がっくりと項垂れた。妻がいる間に、教えてもらえば良かった。
第一、子供を持つのは初めてなのだから解るわけがない。それなのに、これといって知ろうとしていなかった。
ジョセフィーヌが屋敷を出ていった理由の一つにそれがあるのかもしれないと思うと、絶望は更に深まった。
肩を落として俯いている父親の姿に、ブラッドは余計に泣き喚いた。親が不安げなので、不安になったのだ。

「あ、ああ、すまんブラッディ」

ラミアンは狼狽えながら、顔を上げた。

「なんでもない、なんでもないんだ。だから、そう泣かないでくれないか」

だが、父親の懇願も空しく、息子は泣き続けていた。ラミアンは情けなくなりながら、銀髪を掻きむしった。
ちらりと横目に窓を見ると、やつれた吸血鬼が映っていた。妻が出ていってから、ろくに食べていないせいだ。
吸血鬼といえど、血ばかりを吸っているわけにはいかない。ある程度他のものも食べなければ、栄養が偏る。
思考は幼くとも料理の腕は確かなジョセフィーヌが作ってくれた食事は、ラミアンにとって不可欠なものだった。
というより、妻が不可欠だった。幼女の頃から愛し続けていた、この世で何よりも大切な掛け替えのない女性だ。
その妻がいなくなってしまったせいで、何事にも気力が湧かず、趣味であった魔導書の読書にも身が入らない。
挙げ句に、幼い息子の世話もろくに出来ていないので、ますます自己嫌悪に陥ってしまい、気が滅入っていた。
青白い月明かりが差し込んでくる薄汚れた窓には、顔立ちは整っているがくたびれ果てた様相の男がいる。
この有様をジョセフィーヌが見たら、何と言うだろう。ラミアンはおとーさんしないとダメだよー、と怒ってきそうだ。
ラミアンは息子を抱き上げてみたが、首が据わって間もないので首が頼りなく、恐る恐るとした手付きになった。
柔らかくて小さくて、力を入れたら壊れてしまいそうだった。妻は、どうやって息子を抱いていたのだろうか。
それを思い出そうとするが、やはり思い出せなかった。ラミアンは息子を腕に抱えたまま、苦し紛れに唸った。

「助けてくれ、ジョー…」

ラミアンは、泣きたくなった。自分自身への不甲斐なさと妻への思いと息子への申し訳なさが、入り乱れている。
あやせばいいのだとは思うのだが、あやし方など当然知らないし、下手に揺すったら落としてしまいそうで怖い。
ラミアンは、またしばらくの間突っ立っていた。何度となく、うわごとのように消えた妻の名を呼んでいた。
帰ってきてくれ、ジョー、と。




泣き止まない息子を連れて、ラミアンは街に下りていた。
息子を抱えて彷徨い歩くうち、無意識に向かってしまい、気付いたらゼレイブの街中でぼんやりとしていた。
季節は初夏だが、夜なので吹き付ける風はひやりとしていた。黒いマントが風を孕み、ふわりと広がった。
まばらに並んでいる民家の間を歩きながら、何をやっているんだろう、と思ったが、他に何も思い付かない。
土を均しただけの道を項垂れて歩いていると、ふと、人の気配を感じたので顔を上げ、前方に目を凝らした。
見ると、女性が腕に幼子を抱えて立っている。ゆらゆらと体を揺らしながら、穏やかに言葉を掛けている。
その女性は、全体的にふくよかで温和な顔付きをしている。背後にある家の窓から、明かりが零れていた。
ラミアンがなんとなくその女性を見ていると、彼女はラミアンの視線に気付いて顔を上げ、丸い目を瞬きさせた。

「あれま」

「どうぞ気になさらず、お続け下さい」

ラミアンが即座に笑みを作ると、女性は歩み寄ってきた。

「あんた、ジョーさんとこの旦那さんじゃないかい。どうしたのさ、ジョーさんは」

「妻は、二三日前に姿を消してしまったのです。気付かぬうちに、妻を苦しめていたのやもしれません」

ラミアンは笑みを作ったが、情けなさと悲しさで少し歪んでしまった。あらまぁ、と女性は頬に手を添える。

「そりゃあ大変でしたねぇ。それで、その子はどうして泣いてんですかい」

「それが解らないので、悩んでいるうちに彷徨い歩いてしまったのです」

ラミアンは腕の中の息子を見下ろしたが、息子はまだ泣いている。

「妻が何をどうしていたのか思い出そうとするのですが、何も思い出せず、何も出来ないままなのです。私は夫としても不甲斐ないばかりか、父親にもなれていないのです。こんなことでは、息子に泣かれても仕方ございません」

「そりゃ夜泣きだよ。お母さんがいなくなって不安なのにあんたまで不安なもんだから、この子も不安なのさ」

うちの子預かってて、と女性はラミアンに己の子を渡してから、ブラッドを受け取って太い腕で抱きかかえた。

「ああよしよし、もう大丈夫だからねぇ。あんたがあんまり泣いてると、お父ちゃんまで泣いちゃうよ」

その言葉を否定出来ないので、ラミアンは暗がりの中で笑みを曖昧にした。泣きそうだったのは、間違いない。
ほうらいい子だ、と女性があやすうちにブラッドは泣き声を静めていき、とろりと瞼を下げ、そして閉じた。
まるで、魔法のようだった。あれほど泣き喚いていた息子が静かになったので、ラミアンはかなり驚いていた。
自分の抱き方と女性の抱き方のどこが違っているのだろう、としきりに考えたが、あまり相違ないように思える。
ラミアンが女性を凝視していると女性は、あらやだぁもう、と気恥ずかしげに笑って身を捩り、照れてしまった。

「そんなに見ないで下さいな。旦那さんみたいな男前に見つめられると、困っちまいますよぅ」

「あなたはまるで、素晴らしい魔法をお使いになったようです。よろしければ、その魔法を教えて下さいませんか」

ラミアンは女性の子供を女性に返してブラッドを受け取ると、身を屈めて胸の前に手を差し出し、深々と礼をした。
女性はきょとんと目を丸くしていたが、手を左右に振る。ラミアンの顔を上げさせてから、笑いながら言った。

「そんな大したもんじゃないよ、旦那さん。しっかり抱いて落ち着かせてやりゃあいいだけのことさ」

「はぁ」

ラミアンは、その言葉の意味があまり解らなかった。すると、女性の背後の家の扉が開き、大柄な男が出てきた。
それは、この女性の夫である農夫だった。ランプを掲げて近付いてくると、ラミアンを眺め回し、訝しげにした。

「あんた、うちのに何の用なんだ」

「奥様をお借りしてしまい、申し訳ありません。私の子が泣き止まないのを見かねて、手を貸して下さったのです」

ラミアンが農夫に深々と礼をすると、農夫は戸惑ってしまったらしく、言葉を濁した。

「ああ、いや、うん」

「この旦那さんね、ジョーさんに逃げられちまったんだよ」

女性はラミアンに同情したのか、哀れむような口調になる。農夫は太い眉を曲げ、首をかしげた。

「ジョーって、あのジョーさんかい? いっつもへらへら笑って子供みてぇな喋り方する、あの人か? あの人が子供抱いてるのは見たことあったが、まさかあんたが父親だったとはなぁ…。だがあんた、吸血鬼だろうが。よくもまぁ、人間との間に子供なんざ出来たなぁ」

感心している農夫に、ラミアンは穏やかに微笑んだ。

「私も、この子は神が授けて下さった奇跡の子だと思っております。ですから尚のこと、この子を守り育てていきたいのですが、何分子供を持つのは初めてのことでして、何をどうすればいいのか、全く把握出来ていないのです。もしよろしければ、ご教授頂きたく思います」

「ご教授だって! やっぱり首都帰りの人は違うねぇ、吸血鬼だけど!」

女性は、ラミアンの肩を多少乱暴に叩いた。

「いいよ、それぐらい教えてやるよ。魔物でもご近所さんはご近所さんだからね。明日、うちにいらっしゃいな」

「よろしいのですか?」

ラミアンが躊躇うと、女性はにんまりする。

「いいも何も、あんたみたいな男前が困ってるんじゃ放っておけないじゃないか」

「ああ、ありがとうございます。あなたのようなお優しい方に出会うことが出来たこの夜を、私は生涯忘れません」

「やぁだもう!」

女性は大袈裟な身振りで手を振り翳したが、夫に家に戻るよう急かされ、名残惜しげだったが戻っていった。
農夫はなんだか面白くなさそうな顔をしていたが、ラミアンが愛想良く笑んで礼をしたので、彼も戻っていった。
二人が家に入ったのを見届けてから、ラミアンは屋敷に戻るべく歩き出したが、いつになく慎重な歩調だった。
腕の中の息子は、泣き疲れたのか深く寝入っている。夜風が冷えてきたので、ラミアンのマントでくるんでやった。
真っ黒な布に包まれた乳児は柔らかく、半吸血鬼だけあって、吸血鬼である父親よりも大分体温が高かった。
ラミアンは、ジョセフィーヌと出会ったばかりの頃、初めて彼女に触れられた時に感じた温かさを思い出した。
あの時は他人から触れられることに全く慣れておらず、やけに驚いてしまって、逆に彼女を怯えさせてしまった。
今も、そうだった。泣き喚く息子をどう扱って良いのか解らなかったため、及び腰で接して不安にさせてしまった。
子供が不安な時は、親がしっかりしなければならないのに。こんなことでは、大事な息子をちゃんと育てられない。
ジョセフィーヌがいなくなってしまった今、ラミアンがブラッドを育てていかなくては、誰が育てるというのだ。
何もかもが、手探りだ。長い間研究を重ねてきた魔法や暗殺技術など、子育てには一切役に立たないだろう。
だが、出来るだけのことをしよう。ジョセフィーヌがいつ帰ってきてもいいように、ブラッドをちゃんと育てていこう。
家路を辿りながら、決意を固めた。




二ヶ月後。ブラッドは、順調に成長していた。
目鼻立ちもはっきりしてきて、顔立ちはラミアンに大分似てきたが、その瞳と髪の色には妻の色が現れていた。
ラミアンは輝くような銀髪でジョセフィーヌは栗色の髪をしているのだが、丁度、その中間の色合いになっていた。
銀に茶色を混ぜたような色で、ぱっと見た感じでは金髪のように見える。そして、瞳の色は深みのある黒だった。
両親の血を程良く受け継いだ息子は元気な盛りで、はいはいが出来るようになり、しきりに動き回っていた。
床に絨毯を敷き詰めた子供部屋で、ブラッドは這いずり回っている。ラミアンは、活発な我が子を眺めていた。
壁に背を預けて膝に分厚い魔導書を広げてはいたが、それを読んではおらず、ブラッドから目を離せなかった。
少しでも目を離すと、途端に危ない方へ行ってしまう。それは、テーブルの脚であったり家具の角であったりする。
ブラッドはぬいぐるみに這い寄っていってそれを掴むと、ぺたっと床に座って、ぬいぐるみを抱きかかえた。

「まー!」

言葉にならない声を発したブラッドは、ぬいぐるみの耳に噛み付き、歯の生え揃っていない口を動かしている。
涎でべとべとに汚れたぬいぐるみを見、ラミアンは苦笑した。洗ったばかりなのに、また洗わなくてはならない。
ブラッドはぬいぐるみの耳をもぐもぐと噛んでいたが、ぬいぐるみを放り出し、父親に丸っこい目を向けてきた。

「なんだい、ブラッディ」

「たー」

よたよたと這い寄ってきたブラッドは、父親の膝に縋ると、その上に広げてある本に小さな手を伸ばす。

「うー、あー」

「ああ、こらこら。これはお前が遊ぶものではないのだよ」

ラミアンは魔導書を持ち上げ、息子から遠ざけた。ブラッドは、目一杯魔導書に腕を伸ばす。

「だー!」

「もう少し大きくなったら、色々な魔法を教えてやろう。それまで、堪えてはくれないか?」

ラミアンは、不愉快そうなブラッドを見下ろした。ブラッドはどうしても欲しいのか、更に声を上げる。

「あー!」

「参ったな…」

そうは言いながらも、ラミアンは嬉しくて仕方なかった。こうして、息子の成長を日々感じるのは楽しいのだ。
まだ言葉を発したり自分の意思を伝えたりすることは出来ないが、以前に比べてかなり動き回れるようになった。
はいはいさせていれば、いつのまにかラミアンの傍に寄ってきて、遊んでくれと構ってくれとしきりにせがむ。
言葉にならない声の具合が、幼い頃のジョセフィーヌに似ている瞬間もあって、それがまた愛おしかった。
ラミアンは本を傍らに置くと、息子を抱き上げた。ブラッドは、本を手に入れられなくて面白くなさそうだった。

「たぁ!」

「ブラッディ。お前は、どうしてこう素晴らしいのだろうな」

ラミアンは目を細め、息子の頬に頬を当てた。それはとても柔らかで、軽く押し潰せてしまいそうなほどだった。
ジョセフィーヌに出会うまでは、子供になど一切興味がなかった。それどころか、邪険に思っていたほどだ。
すぐに泣き喚いてやかましく、自制心などない、稚拙な人間。捕食の対象にするには小さすぎ、血の味も薄い。
非力で脆弱で、何の役にも立たない。だが、己の血を分けた子を授かると、そんなふうには思えなくなった。
この世に、こんなに愛しいものがあっただろうか。妻と接する時のように、触れれば触れるほど愛情が湧く。
すると、息子の緩んだ口から涎が零れ、ラミアンの服に落ちた。艶々とした滴が、黒い礼装に吸い込まれた。
ラミアンは、なんともいえない顔になった。礼装の胸元には、息子の涎による大きな染みが付いてしまった。
涎の染みを見つめていると恨めしくなったが、子供の世話をするのに、こんな服を着ている自分が悪いのだ。
だが、脱げない。吸血鬼たるもの、いつ何時も優雅でなくてはならない、という信念がラミアンの中にあった。
女性から血を頂く際もそうなのだが、整った顔立ちと外見に見合った言動をするべきだ、と常に思っている。
服装にしてもそうで、滅多なことがなければマントも礼装も脱がず、上から下まで黒ずくめになっていた。
二百数十年もそうしてきたので、煩わしいと思ったことはないし、服装だけはいくら整えていても損はない。
フィフィリアンヌに命じられて暗殺を行う際も、やはり黒の方が返り血も目立たないし、闇に紛れやすい。
マントは鬱陶しいと思う瞬間はあるが、敵に覆い被せて目くらましに出来るし、暗殺した死体に被せておける。
礼装は意外に武器を隠す場所が多く、便利なのだ。だから、多少動きづらくともこの恰好でいた方が便利だ。
しかし、今ばかりは別だ。ラミアンは、いつのまにか増えている涎の染みを見下ろしていたが、力なく漏らした。

「洗濯物が増えてばかりだな」

これ以上汚されては困る、とラミアンは礼装の上着を脱ぐと椅子に向けて放り投げ、その背もたれに引っ掛けた。
タイも外してから、息子を抱き直した。ブラッドは上着を脱いだ父親を見ていたが、小さな手を伸ばしてきた。
その手は、父親の肩から流れ落ちていた銀髪を掴み、引いた。髪を引っ張られたラミアンは、首を曲げる。

「痛いのだがね、ブラッディ」

「あー」

父親の嘆きを無視し、ブラッドはラミアンの髪をぐいっと引いた。ラミアンは、なんだか情けなくなってきた。
そういえば、幼い頃のジョセフィーヌに似たようなことをされた。きらないのー、と言って引っ張ってくるのだ。
だが、それは二人のじゃれ合いのようなもので、決して本気でラミアンの髪を切って欲しいということではない。
むしろ、ジョセフィーヌはラミアンの長い髪が好きだった。いろがきれいでつるつるなんだもん、と笑っていた。
ラミアンが過去に浸っていると、また髪が強く引っ張られた。ブラッドは父親の銀髪を握り締め、唸っている。

「ばー!」

「ああ、すまないブラッディ。つい、お前のお母さんのことを思い出してしまったのだよ」

ラミアンはブラッドに髪を掴まれたまま、優雅な仕草で胸に手を添えた。

「お前のお母さんは、それはそれは素晴らしい女性なのだよ、ブラッディ。秋の木の葉を思わせる柔らかな色の髪、夜の闇のような深みのある黒い瞳、屈託のない可愛らしい笑み。そのどれもが、私に愛を生み出してくれる」

ラミアンは、しなやかに手を伸ばす。

「長らく闇の中に身を窶していた私に光を示し、温かな愛とお前を与えてくれたのだ。金や地位とは比べものにならないほど素晴らしく、至上にして究極の幸福だ。お前の母は、私にとっての太陽であり女神なのだ。この広い世界の中で、彼女に出会えたことは奇跡であり、運命だったのだよ」

「ばー」

父親が何を言っているのか解らず、ブラッドはきょとんとしている。ラミアンは、うっとりとしていた。

「ああ、神よ。この卑しき吸血鬼に、愛の女神たる妻と素晴らしき我が子を与えて下さったことを感謝します」

これでジョセフィーヌがいたら、げたげた笑い転げていたのだろう。ラミアンは、そんなことまで思い出した。
ジョセフィーヌは、ラミアンが格好を付けたことを言えば言うほど笑ってしまって、一度だって口説けなかった。
そのおかげで、体を重ねるまでかなり手間が掛かった。その間、ラミアンがどれだけ堪えていたか知らないだろう。
ラミアンとしては、ごく普通に貴婦人達を口説くようにしていても、ジョセフィーヌにとっては可笑しいだけだった。
体だけは年頃になっても中身はいつまでも子供である彼女は、感情の起伏が激しく、些細なことでもすぐに笑う。
なので、一度ツボに入ってしまえば一時間ぐらいは笑い続け、そして、笑い疲れてころりと寝入ってしまうのだ。
泣く時もそんな感じで、泣くだけ泣いて気が済めば呆気なく眠ってしまう。その姿が、どれほど無防備なことか。
笑ったり泣いたりしているうちに緩んだ襟元や広がったスカート、だらしなく開いた唇が、妙に扇情的だった。
起きている時は体格に合わない子供の言動をしているのだが、眠っている時だけはその幼さが消えてしまう。
その落差がたまらなく、思い余ってしまいそうになったことまで思い出し、ラミアンは自己嫌悪で半笑いになった。
思えば、あんなに他人を欲したのはジョセフィーヌが初めてだ。傍にいたくて、触れていたくて、切なくなる。
今も、そうだった。ジョセフィーヌが姿を消してから二ヶ月以上経ったが、彼女のいない日々に慣れなかった。
目覚めたら、名を呼んでしまいそうになる。どこかにいないか探してしまう。帰ってきていないか、期待してしまう。
彼女が消える前日は、至って普通だった。良く晴れていた日で、おせんたくいっぱいするー、と張り切っていた。
ブラッドの汚した産着やシーツ、ジョセフィーヌが汚したエプロンや服、ラミアンのマントなどを全て洗った。
古びた屋敷の手入れの悪い庭には、白い布に混じって真っ黒なマントがはためいていて、それだけ目立っていた。
それを見たジョセフィーヌは、にこにこ笑いながらこう言った。ラミアンのだけがまよなかのいろだね、と。
洗濯が終わると、今度は屋敷の掃除を始めた。これもいつものことで、普段使う部屋を丹念に掃除していた。
そして、その夜。夕食を終えて後片付けをしていたジョセフィーヌが、本当に、不意に姿を消してしまった。
食堂のテーブルの上に、ごめんね、とだけ書かれた手紙があったが、それ以外は何も残っていなかった。
ラミアンは、すぐに彼女を捜した。だが、どこをどう探しても、手掛かりどころか足跡も見つけられなかった。
その日の衝撃と絶望は、忘れられない。彼女は何かを予知していて、予知したままに動いたのかもしれない。
彼女は、予知能力を持っている。ラミアンの知らないところで、恐ろしい未来でも視ていた可能性もある。
ラミアンが考え得るに、ジョセフィーヌの知性が成長しないのは、予知能力に自分自身が耐えるためなのだろう。
ジョセフィーヌが持っている予知能力は、異能力の中でも特異なもので、能力者自身が制御することが出来ない。
視たい未来だけを選んで視ることなど出来ないので、視たくもないものばかり視てしまうことが多いらしい。
ジョセフィーヌもそうで、時折不意に泣き出しては苦しんでいた。やなの、こんなのやなの、と喚いていた。
ラミアンがそれが何なのか問うと、ジョセフィーヌは辿々しく答えてくれたが、答えてくれないこともあった。
それは、ジョセフィーヌが言うべきではないと判断したからではなく、映像が解らないから言い表せないのだ。
語彙が少ないので、擬音ばかりで概要は掴めない上に状況など解るはずもなく、最終的にはうやむやになる。
だが、それでいいのだと思う。これから訪れる未来を全て視てしまっては、心と体に相当な負担が掛かる。
未来は、明るいものばかりではない。増して、ジョセフィーヌが言っていたように、戦争が始まるなら尚更だ。
どれだけの人が死ぬのかも解らないしどんな戦争なのかも解らないが、一人で受け止められるものではない。
きっと、ジョセフィーヌの魂か心が、自己を守るために知性を封じ込め、幼いままに止めてしまったのだろう。
ちゃんとした診断をしてないからはっきりしたことは言えないが、少なくとも、ラミアンはそうだと思っている。
思考から戻ると、髪を引っ張る感触が変わったことに気付いた。息子を見下ろすと、父親の髪を銜えていた。
銀色の長い髪が面白いのか、涎でべたべたにしながらいじっている。ラミアンは、もう諦めることにした。

「好きにするがいい、ブラッディ。もう止めはしないさ」

「あう」

父親の言ったことが解ったのか、ブラッドは機嫌良さそうにした。ラミアンは、小さな息子を手で支える。

「私の髪で良ければ、いくらでも遊ぶがいい。後で洗えば済むことだ」

「うー!」

ブラッドはもう一束髪を掴むと、勢い良く引っ張った。ラミアンはそれが痛かったが、抵抗はしなかった。
下手に抵抗して機嫌を損ねては、後が面倒だ。それでなくても、幼い息子は事ある事に泣いているのだから。
機嫌が良いに越したことはない。ラミアンはブラッドに髪を遊ばれながら、日差しの差し込む窓へと目を向けた。
ブラッドが生まれた頃は雪の残る初春だったが、もう秋が深まっている。息子と共にいると、時間が早く流れる。
というより、暇な時間がない。目を離せばどうなるか解ったものではないので、常に近くにいなければならない。
それを煩わしいと思ったことがないわけではなく、読書の時間も欲しかったが、息子のためだと思うと諦めが付く。
これで、上司であるフィフィリアンヌだったらどうしていただろう。彼女ならば、どちらを優先するのだろうか。
彼女は遠い昔に貴族の領主と添い、二人の子を成した経験がある。だが、彼女の活字中毒振りは相当なものだ。
ラミアンが魔導師協会の会長室に呼び付けられて赴くと、フィフィリアンヌは、決まって何かの本を読んでいた。
それは魔導書であったり小説であったり図鑑であったり辞典であったり様々だが、本であったのは確かだった。
彼女は、本から顔を上げて話をするのだが、たまに目線も上げないことがあり、やりづらかったことを覚えている。
ラミアンがフィフィリアンヌから仕事の内容を聞いていると、喋るスライムの伯爵が、毎度のように口を挟んできた。
この女の本の趣味は悪すぎる、だの、いい加減にワインを注げ、だの、ラミアンは我が輩を愛でぬのかね、だの。
その度に、ラミアンは反応に困ってしまった。伯爵との付き合いは浅いので、あしらい方が解らなかったのだ。
持ち上げるようなことを言ったかと思えば罵倒を並べ立て、そうかと思えば、意味もなく高笑いをしている。
にゅるにゅるした粘液の体のように伯爵には掴み所がないが、フィフィリアンヌだけは扱いが上手かった。
伯爵の言うことを端から否定しては徹底的に叩きのめし、場合によっては黙らせてしまって、鮮やかだった。
だが伯爵は、決してフィフィリアンヌに屈することはなく、しばらくすれば再び彼女を罵倒し始めていた。
しかし、フィフィリアンヌは辛辣なだけではない。本当にたまにしか見せないが、彼女にも温かな部分はある。
だから、幼子と読書のどちらも優先しそうに思えた。どちらもする、という器用なこともやってのけるかもしれない。
あの人ならやりかねない、とラミアンは少し笑った。フィフィリアンヌらとの日々も、すっかり遠くなった気がする。
あの頃は、顧みるものがなかった。いつ死んでも構わない、というような気持ちで、危険にばかり身を投じていた。
あれは、一人でいたから出来たことだ。妻と息子を得てしまうと、自分から危険に飛び込む無謀さは消えた。
帰らなければならない場所が出来、守らなければならない者が出来ると、命を捨てるような真似は出来ない。
ラミアンは、胸元に重みを感じた。見下ろすと、ブラッドは父親の髪束を握り締めたまま、眠りこけていた。
髪の先とシャツに付いた涎は乾き始めていて、がびがびになっている。これでは、洗うのに苦労しそうだった。
ブラッドは寝言と思しき声を漏らし、父親に縋っている。ラミアンは微笑むと、小さな息子の背を軽く叩いた。

「ブラッディ」

手の下にある頼りない背は、温かい。

「お前の母が太陽であるならば、お前は輝かしき光の子だ」

ブラッドの金に近い銀髪が、日差しを浴びて煌めいていた。

「お前は、彼女に良く似ているよ」

ラミアンは片手を挙げ、ぱちんと指を弾いた。乾いた破裂音が部屋に響き渡ると、古びた窓が独りでに開いた。
滑り込んできた風で薄いカーテンがゆらめき、日光の温かさを帯びた空気が、頬を心地良く撫でていった。

「ジョー。お前は今、どこにいるのだい」

すぐ傍に彼女がいるかのような気持ちで、ラミアンは優しい口調で呟いた。

「私とブラッディは、ここにいる。だから、ジョー」

穏やかな声色が、震えた。

「すぐにでも、帰ってきておくれ」

何が悪かった。何がいけなかった。何を忘れていた。彼女が去ったその日から、何度となく自問を繰り返していた。
彼女以外の血を求めるとすぐに機嫌が悪くなるから、ここ十数年はジョセフィーヌ以外の血は口にしていない。
ジョセフィーヌの生活に合わせて昼間に起きるようにもして、手伝えと言われた家事は出来る限り手伝ってきた。
誰よりも愛している。何よりも好いている。彼女のためになら、魂も命も、全てを捨てる覚悟は出来ている。
なのに、なぜ。ラミアンは、胸中に広がる重たい痛みで息が詰まりそうになり、奥歯をきつく噛み締めていた。
二ヶ月の間で絶望は薄らいでいたと思ったが、そうではなかった。忙しさで、無理に忘れていただけなのだ。
ふと我に返る瞬間が訪れると、嫌でも感じてしまう。傍らから、愛しい彼女がいなくなった空虚な感覚を。
彼女は、半身だった。それが失せてしまって、魂をえぐり取られて身を削られたような、そんな気分だった。
ラミアンは、魔力中枢のある位置に手を載せた。シャツに爪を立てて皮に食い込ませ、痛むほど握り締めた。
爪の痛みよりも、胸の痛みの方が余程激しかった。






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