更に二年後。ブラッドは、もうじき三歳になろうとしていた。 足腰は頼りないが歩けるようになり、発音は怪しいが言葉を操れるようになり、以前にも増して活発になった。 屋敷の中だけでは狭かろうと思い、外へ連れ出すこともよくあった。野原や森の中、ゼレイブの街中などに。 特に楽しげだったのが、街中だった。ラミアンは外見と物腰のおかげで、街の夫人達と親交を深めていた。 なので、必然的にその子供同士も顔を合わせていて、ブラッドも近所の輪から外されることもなく遊んでいた。 同じ年頃の相手と遊ぶのは楽しくて仕方ないらしく、遊び疲れて眠たくなるまで、子供同士で遊び回っていた。 その日も、ラミアンはブラッドを連れて街に下りていた。近所の夫人達が街の一角に集まり、話し込んでいた。 ラミアンは彼女らの傍に寄ると、黒いマントで体の前を覆い隠して、深々と頭を下げ、礼儀正しく挨拶する。 「ご機嫌麗しゅうございます、奥様方」 「あらぁラミアンさん、おはようございます」 夫人達の中でも一際ふくよかなあの女性、ニーナはラミアンに頭を下げ返す。 「ラッド君、あっちでうちの子達と遊んできな。あたしらはお父ちゃんとお話ししてるからね」 ニーナは、街の中心の広場を指した。そこでは、数人の幼子達が騒がしく遊んでいる。ブラッドは、元気良く頷く。 「うん!」 ブラッドが威勢良く走り出していったので、ラミアンは彼の背に声を上げた。 「あまり急いで走るのではないよ、ブラッディ!」 わかってるー、と浮かれながら返したブラッドは駆けていった。転びそうになったが、なんとか転ばずに済んだ。 ラミアンは気が気ではなく、ブラッドを見つめていた。同年代の子供に話し掛けて、一緒に遊び始めている。 無邪気に笑う息子の表情には、所々ジョセフィーヌの面影があるのを感じ、ラミアンはつい顔を緩ませていた。 「ラミアンさんって、新しい人とかお探しにならないんですか?」 穏やかに微笑んでいるラミアンに、夫人達の中の一人が不思議そうに言うと、それに続けて別の夫人が言った。 「そういえばそうよねぇ。ラミアンさんなら、すぐにでも見つかりそうなもんだけどねぇ」 「私が心から愛する女性は、ジョーただ一人なのです。そして、ブラッドの母もジョーだけなのです」 ラミアンは、落ち着いた声色で話す。 「確かに、片親だけで子を育てるのは、容易ではありません。増して、それが父親だけというのも心許ないことです。ですが、だからといって、ジョーの代わりに新たな妻を迎えてしまうのは、ジョーに対しての裏切りとなるだけでなく、その女性にも非常に失礼なことです。ですから、私は待つのです。ジョーが、また帰ってくる日を」 ラミアンは、優しげながらも魅力のある笑みを作ってみせた。その表情に、夫人達は気恥ずかしげにどぎまぎした。 吸血鬼の外見や表情は、捕食の対象である人間、それも女性の心を簡単に虜にしてしまうように出来ている。 だから、女性を黙らせるのは簡単だ。色のある表情を見せれば、大抵の相手は戸惑って言葉に詰まってしまう。 頬を染めて目線を彷徨わせている彼女達から視線を外したラミアンは、快活に遊び回る息子に目を向けた。 こうして見ている分には、息子の表情に陰りはない。母親がいないことを、寂しがったことはあまりなかった。 だが、寂しいはずだ。何はなくともラミアンにべったりしてきて、時には離れないでと泣き喚くこともある。 どうにかしてやりたい。しかし、二年半以上の時が過ぎても、未だにジョセフィーヌの行方は掴めていなかった。 幼いブラッドを一人に出来ないのでゼレイブから離れられないせいからでもあるが、足取りすら解らなかった。 あの日、なぜ彼女は姿を消したのか。そして、どこへ行ったのか。そのどちらも、知り得ることが出来ていない。 一体何が、ジョセフィーヌを去らねばならないまで追い詰めたのかもまるで解らず、悔しさに苛まれていた。 また、昔と同じに戻るだけだ。そう思おうとしたこともあるが、それが無駄であることは自分が一番知っている。 一度でも愛し合う心地良さと素晴らしさを知ってしまえば、孤独の苦しさをより強く感じるようになってしまう。 もう、過去のような寂しい日々には戻りたくない。だからこそ、なんとしても妻を捜し出さなくてはならない。 ラミアンは、ブラッドを目で追いかけていた。今のところ、目に見えて吸血鬼の力が現れている様子はない。 耳の先が多少尖っていたり、八重歯が少し鋭かったりするだけなので、他の子供にも受け入れられている。 このまま、吸血鬼の力が出ないままでいた方が良い。人外として生きていくよりも、人として生きた方が楽だ。 どうか、このままでいてくれ、私の愛しいブラッディ。ラミアンはそう願いながら、息子を見つめていた。 幼い息子は、笑っていた。 その日の夜。ラミアンは、地下の自室にいた。 暗く静かなその部屋は、最も気が休まる場所だった。壁に造り付けた本棚には、大量の魔導書が詰まっている。 赤ワインのボトルが本棚の隣の棚に整然と並び、テーブルの上にある鉱石ランプは青白い光を放っている。 部屋の奥には、場違いな棺桶が横たわっていた。黒塗りで年季の入った、大きさのある立派なものだった。 ラミアンは、その棺桶の蓋に腰掛けていた。先程まで棺桶の中で眠っていたのだが、どうにも目が冴えていた。 本来、吸血鬼は夜型なのだが、ブラッドに合わせて昼間に起きているせいで、睡眠の周期がずれてしまった。 息子は吸血鬼の血があまり現れていないので、普通の人間の子供と同じように、昼に起きて夜に眠っている。 ブラッドを育てるために、ラミアンも昼型の生活にしているのだが、本来の習性とは違うので無理が生じてしまう。 人間よりも魔力と体力が高いので堪えられるのだが、やはり辛いものは辛く、ラミアンは深いため息を吐き出した。 手にしているワイングラスに赤ワインを注ぎ、飲み下した。唇を舐めてから、舌の先で鋭くも太い牙に触れた。 ジョセフィーヌがいなくなってから、人間の血を飲まなくなって久しく、捕食の欲動がある程度溜まっていた。 人間を襲って血を啜りたいほどではないが、あの生温い鉄錆の味を喰らいたい気持ちばかりが高まっていた。 魔導書をめくっても気は逸れず、眠ろうにも気が休まらず、酒精も吸血鬼には効かないので酔うこともなかった。 ラミアンはやりきれない気分になりながらも、数杯目のワインを飲むべく、ボトルを傾けて注ぎ込んでいった。 それを飲もうとして、ふと、気配に気付いた。すぐ上で、この屋敷の中で、魔力の高まる気配が感覚に触れた。 鋭利でありながらも制御のされていない、荒々しい気配。強すぎる光のような、鮮烈な魔力が伝わってくる。 直後、泣き声が聞こえてきた。地下室の重たい静寂を掻き消して空気を揺さぶるような、息子の声だった。 何事かと、ラミアンは地下室を飛び出した。階段を駆け上って廊下を走り抜け、一階の右奥の部屋に向かった。 子供部屋にしている部屋の扉を開け放つと、鉱石ランプの弱々しい光に照らされた息子が泣き喚いていた。 ラミアンは部屋に入り、ベッドの上で体を丸めて泣いている息子に近寄り、震える小さな肩に手を触れた。 「どうしたんだい、ブラッディ。具合でも悪いのかい」 ひくっ、ひくっ、と喉を引きつらせていたブラッドは、シーツに埋めていた顔を上げて背後の父親を見上げた。 「とぉちゃん…」 ブラッドはシーツを力一杯握り締め、ぼたぼたと涙を落とした。 「こわいんだよぅ」 「何がどう怖いのか教えてくれないか、ブラッディ」 ラミアンはブラッドの傍らに腰掛けると、ブラッドの乱れた髪を撫でた。ブラッドは、ぎゅっと目を閉じる。 「おなか、すいた」 震える息子から感じられる魔力は、どんどん高ぶっている。息が荒いのは、泣いているからだけではないだろう。 何を渇望しているのか、ラミアンは考えずとも解った。ブラッドは、獣のような低い唸り声をしきりに漏らしている。 「くいたいよぅ」 荒い息の合間に、苦しげな言葉が混じる。 「くいたいけど、こわいんだよぉ」 「落ち着くんだ、ブラッディ。眠ってしまえば、その怖いのもなくなるさ」 ラミアンはブラッドの濡れた頬を拭うと、ブラッドは恐る恐る父親を見た。 「ほんとに? くいたいのも、からだがあっついのも、どくどくするのも、こわいのも?」 「ああ、本当だとも。朝が来れば、元に戻る。だから今は、ゆっくりお休み、ブラッディ」 ラミアンは、息子の小さな頭をゆっくりと撫でた。ブラッドは口を開くと、歯を剥いた。 「とうちゃん、くちんなか、なんかへん」 「開けてみせてごらん」 ラミアンはブラッドの顎を持ち、上向けさせた。あー、と声を出しながら、ブラッドは口を大きく開いて見せた。 血色の良い口内には柔らかな舌と真っ白な乳歯が並んでいたが、八重歯だけが異様な存在感を誇っていた。 明らかに、それだけが形状が違っている。八重歯は上下左右、合計四本あったが、それのどれもが獣じみている。 鋭く尖っていて、肉を切り裂けるようになっている。淡い色の金髪の間から見える小さな耳も、先が尖っている。 先程感じた魔力の気配は、ブラッドの体が人間のものから吸血鬼に変化する際に、発せられたものだったようだ。 今の今までブラッドの体に吸血鬼の血が現れていなかったのは、恐らく、さなぎのようなものだったのだろう。 種族の違う両親の血は、どちらも均等に受け継がれていたのだが、その生体構造は人間のものに酷似していた。 だが、成長するに連れて高まった魔力によって、今までは現れていなかった吸血鬼の血が表に現れたのだろう。 ブラッドは体こそ人間に近いが、魔力中枢や魂の形状は吸血鬼だ。その影響で、体が変化してもおかしくない。 魔力は、物質に作用を与える力だ。そして、肉体も物質だ。強い力を受けて、形を変えてしまうのは当然のことだ。 開いていた口を閉じたブラッドは、ごしごしと目を強く擦った。泣いたせいで赤くなった目元が、もっと赤らんだ。 「とうちゃん」 「なんだい、ブラッディ」 「かあちゃんも、ばけものなの?」 そう言いながら父親を見上げてきたブラッドの瞳は、深い黒ではなく、濃い銀色になっていた。 「だって、とうちゃん、いっつもオレにいうじゃんか。かあちゃんはにんげんだからオレもにんげんなんだ、って。でも、なんか、へんなんだよ。くちんなか、とうちゃんみたいなきばがあるんだ。よくわかんないけど、むねんとこがあっついんだ。そういうのってさ、まりょく、っていうんだよな?」 ブラッドは、不安げだった。 「そのまりょくっての、とうちゃんからもかんじるんだ。なんか、つよくて、ちょっとこわいの。でも、ほかのみんなからはかんじないんだ。ほかのうちのとうちゃんとか、かあちゃんからは、なんにもかんじないんだ。でもな、それ、オレのなかからもかんじるんだ。だからさ、オレのかあちゃんも、とうちゃんみたいなのかな?」 ラミアンは、答えられずにいた。確かに、ジョセフィーヌは人を超えた異能力を持った、人外と言える存在だ。 だが、化け物ではない。増して、自分のような魔物ではない。知性は成長しないが、れっきとした普通の人間だ。 ラミアンが答えずにいると、ブラッドはぐしゃりと顔を歪めた。急に、顔も知らない母親への恐怖が湧いてきた。 それと同時に、寂しくなった。いるのなら、どうして屋敷に帰ってこないのだろう、自分に会いに来ないのだろう。 近所に住む他の子供の母親のように、可愛がってくれないのだろう。そう思い始めたら、止まらなくなった。 「とうちゃん。かあちゃん、ばけものだからいなくなったの?」 ブラッドは体を起こし、父親に詰め寄る。 「とうちゃんがばけものだからいなくなったの? かえってこないの?」 父親は戸惑っているようでもあり、悲しげでもあった。 「とうちゃん、かあちゃん、どこにいるの? どうしたら、うちにかえってきてくれるの?」 「それは、私も知りたいことだ」 ラミアンは、沈痛な面持ちで目を伏せた。息子を引き寄せ、抱き締める。 「だが、私にも解らないのだ。だから、お前と共に待ち続けているんだ」 「とうちゃん。かあちゃん、ばけものなの、ばけものじゃないの?」 ブラッドは父の腕の中から、整った顔立ちの父親を見上げた。ラミアンは、愛おしげな笑みになる。 「彼女は人だ。人でないのは私だけだ。だからブラッディ、お前は人なのだ」 「でも、とうちゃんみたいなきばができた」 ブラッドが不可解げにすると、ラミアンは返す。 「お前はどちらでもあってどちらでもない。人であり、吸血鬼である存在だ。だから、どちらでもあるんだ」 「わかんない」 ブラッドは、ぐいっと首をかしげた。ラミアンは息子をベッドに横たわらせて、布団を掛け直す。 「そのうち解るようになるさ、ブラッディ」 「ん」 ブラッドは理解しかねるようだったが、頷いた。ラミアンはベッドの脇に腰掛け、布団を軽く叩いた。 「さあ、もう眠ってしまおう。朝が来るまで夢を見ていたまえ」 「とうちゃん」 ブラッドは、父親の太い手首を掴んだ。一人にされるのが、嫌だった。 「オレのかあちゃん、ほんとにいるんだよね?」 「ああ、いるとも」 ラミアンは頷き、手首を掴んでいる息子の手に手を添えた。ブラッドは、父の冷たい手の感触に少し安心した。 「ほんとにほんとだよね」 「空がなければ海が青くないように、夜がなければ星が見えないように、父親と母親がいなければ子は生まれない」 ラミアンは、息子の小さな手を優しく撫でた。 「それだけは、間違いのないことだ。だから、安心したまえ、ブラッディ」 父親の優しい声と言葉に、ブラッドは安堵した。理屈は解らなかったが、父親の言いたいことはなんとなく解った。 ほっとすると、眠気が襲ってきた。高鳴っていた鼓動も胸の奥の熱さも落ち着き、訳の解らない欲動も消えた。 口の中にある牙の異物感だけは消えなかったが、耳の辺りがむず痒いのも残っていたが、心は安らいでいた。 「うん」 ブラッドはふにゃりと表情を緩め、目を閉じた。ラミアンはブラッドの寝息が落ち着くまで、布団を叩いてやった。 そのうち、ブラッドの寝息は一定になり、深く寝入った。ラミアンはそれを確かめてから、ベッドから立ち上がった。 窓に近付いて、青白い月を見上げた。真円の月が、死んだように眠る森に、冷ややかな光を降り注がせていた。 ラミアンは窓枠に軽く腰掛け、部屋を見渡した。棚には、ジョセフィーヌが愛用していたぬいぐるみが並んでいる。 この部屋は元々、ジョセフィーヌの部屋だった。もっと広い部屋があったが、彼女が、ここがいい、と言ったのだ。 理由は、ラミアンの地下室に最も近いからだった。ジョーはラミアンからはなれたくないんだもん、とも言った。 ならばなぜ地下室に来ないのか、と問うとジョセフィーヌはちょっと泣きそうな顔をしてから、無理に笑ってきた。 でられないきがするから、きちのどくぼうみたいでなんかこわくていやだから、と申し訳なさそうにしていた。 ラミアンは、それが仕方ないと思いつつも残念だった。ラミアンも、彼女から離れるのは惜しくてならなかった。 だが無理強いは出来ない、と諦めた。吸血鬼と人間、自分と彼女の感覚も価値観もそもそもが違うのだから、と。 棚に押し込められて月明かりを浴びているぬいぐるみの、無機質なボタンの目が、ラミアンを無表情に見ていた。 一際大きなクマのぬいぐるみは、首都からゼレイブに来るまでの道中で、せがまれたので買ってあげたものだ。 ジョセフィーヌはそのクマを抱き締めて寝るのが好きだったが、そのうち、ラミアンもいっしょに、と懇願された。 そして、二人でクマを間に挟んで眠ったものだ。ラミアンとしては、クマのぬいぐるみが邪魔で仕方なかった。 たかがぬいぐるみ一つとはいえ、その分だけでもジョセフィーヌとの距離が出来ているのが、無性に寂しかった。 だが、ジョセフィーヌはそのぬいぐるみを一向に離そうとせず、ラミアンに押し付けながら抱き付いてきた。 ジョセフィーヌが熟睡している間に、ぬいぐるみをそっと抜いて、ジョセフィーヌを思い切り抱き締めていた。 今にして思えば、なんとも情けなくて馬鹿げた話だ。いい歳をして、ぬいぐるみになど妬いていたのだから。 ラミアンは、呼吸を整えた。彼女を思い出せば思い出すほど苦しくなってきて、忘れかけていた欲動も高まった。 血が、彼女が欲しい。愛へと変わったものだとばかり思っていた恋心が膨れ上がり、内側から責め立ててくる。 「ジョー…」 ラミアンは息子に申し訳なく思いながらも、窓を開けた。ブラッドが起きる前に、戻ってくればいいことだ。 窓枠に足を掛けて、宙へと身を躍らせた。体が落下する直前に羽織っていたマントを変化させ、黒い翼に変える。 羽ばたいて高度を上げ、屋敷を見下ろせる高さまで上昇した。吹き付けてくる夜風が、火照った体を冷やす。 ジョセフィーヌ。触れたい。会いたい。恋しい。愛しい。そして、喰らいたい。欲動ばかりが、迫り上がってくる。 衝動を和らげるために、風を切って飛び抜ける。目一杯翼を動かして速度を上げ、銀色の長い髪をなびかせる。 眼下の景色から田舎町や畑などが過ぎ去ると、目の前に山が近付いてきた。斜面を登ってきた風が、強い。 だが、今のラミアンにはそんなものは障害にもならなかった。高ぶった力と欲動に任せ、高度を上げていく。 そびえ立つ山を越えて深い森を見下ろし、更に飛んでいく。先の見えない重たい闇が、世界を満たしていた。 藍色の夜空に散らばる無数の星が、煌めいていた。飛んでいくうちに、作り物でない翼が背中から生えてきた。 上着を破ってマントを引き裂き、巨大な翼が出来上がる。太い骨に薄い皮を張り詰めさせ、風を孕んでいる。 銀色の髪と同じ色の体毛が手足に溢れ出して全身を覆い、体格も大きさを増し、鼻先が突き出て耳が大きくなる。 思っていた以上に、欲動は激しかったようだ。本来の姿へ変化しながら、ラミアンは内心で舌打ちしていた。 このままでは、理性が弱まる。人間相手でないにせよ、家畜や獣を襲ってその血を啜ってしまうかもしれない。 山を越えた先にある広大な平原の上を飛んでいき、その途中にある湖に近付くと、さあっと湖面が波打った。 その水鏡には、黒い布の切れ端がまとわりついた銀色の獣が映り、吊り上がった目は欲望にぎらついていた。 まずいな。そう思ったラミアンは湖の傍に足を下ろし、かかとを擦りながら着地して、ばさりと翼を折り畳んだ。 息を漏らすと、喉が低く唸る。踏み出して歩くと重みのある足音がし、柔らかな草には大きな足跡が付いた。 気が静まるまで、下手に動かない方がいい。変化してしまったら、本能に任せて誰彼構わず襲うかもしれない。 そうなってはいけない、とラミアンは、すっかりダメになってしまった服の切れ端を捨て、草に腰を下ろした。 銀色の獣は、夜空を仰いだ。恋しくて、苦しくて、情けない。こんなにも自分が弱いのだとは、知らなかった。 フィフィリアンヌの側近として暗殺稼業に手を染めていた頃は、かなり思い上がっていて、粋がっていた。 退屈凌ぎに魔導師協会で地位を上げる日々、刺激を求めて危険な仕事に身を投じる日々は、とても楽しかった。 ラミアンを田舎の吸血鬼だと見くびっていた魔導師達を見下す瞬間の心地良さ、死と隣り合わせの緊迫感。 何もかもが、思い通りだった。人には操れない魔法を操れ、人では勝てない相手を呆気なく殺せたのだから。 何にも、不自由しなかった。フィフィリアンヌからだけでなく、あらゆる方面から高額な報酬をもらっていた。 共和国政府や軍人をぎりぎりまで惹き付けて誘い込んでから手に掛けたり、わざと危険な状況を作ったりした。 孤独な世界に生きる自分に、酔っていた。青臭い若者のように、斜に構えていることを格好良く思っていた。 あのまま生きていたら、遠からず、あの竜の青年、キースのように道を違えて人を殺め続けていたことだろう。 孤独故に起きる飢えを癒すために刺激と快楽を求め、欲動のままに生きていく、身勝手極まりない犯罪者に。 ジョセフィーヌは、そんな愚かな男を受け入れてくれた。そして、愛情の心地良さと温かさを教えてくれた。 ラミアンは、彼女に精一杯答えた。答えていたつもりだった。だが、ジョセフィーヌは姿を消してしまった。 裏切られた、ということになるのだが、なぜか解らないが、ジョセフィーヌに対しての怒りや憤りは起きなかった。 理由を考えてみたが、出てくる答えは一つだけだ。心の底から愛しているから、裏切られたとは思わないのだ。 いつか必ず帰ってきてくれる、いつかまた会える、そして触れ合い愛し合い、息子共々暮らすことが出来る。 理由も根拠もないが、強い確信だった。だが、それを信じたい。いや、彼女を信じていなくてはならないのだ。 それが、夫というものだ。そして、父親だ。家族という小さくも広い世界を守るには、それぐらいでなくては。 ラミアンは、次第に気が静まってきた。夜風を浴びていたからか、血への欲動も薄らぎ、呼吸も落ち着いた。 手を見下ろすと、銀色の体毛に覆われた大きなものから人間に酷似したものに戻っていて、爪も鋭くはない。 湖面に目をやると、そこに映る影は人間の姿をしていた。ラミアンはひどく安心して、口元を緩ませた。 ジョセフィーヌへの恋しさと寂しさは募る一方だったが、欲動に任せて猛ってしまわずに済んで良かった。 そうなってしまえば、自分ならずとも息子も苦しむ。人の世界で生きるには、その調和を乱してはならない。 家畜でもなんでも喰らってしまえば、必ず見つけ出され、誰の仕業かと調べられて言及されてしまうだろう。 それでなくても、昨今は魔物族にとって生きづらい時代なのだ。弾き出されでもしたら、息子が可哀想だ。 早く帰ってしまおう。ブラッドが、もしまた目を覚まして泣いていたりしたら、寝かしつけてやらなくては。 ラミアンは魔力を高め、口の中で魔法を紡いだ。ふわりと風が抜けたかと思うと、彼の影は失せていた。 静寂を取り戻した湖面には、月明かりが注いでいた。 翌朝。普段と変わりなく、ブラッドは起きてきた。 食堂でラミアンが朝食を並べていると、半分閉じた瞼をなんとか開きながら、ズボンの裾を引きずって歩いてきた。 サスペンダーが片方しか止められていないのと前のボタンを締めていないせいで、ずり落ちてしまっていた。 ラミアンは牛乳の入った瓶をテーブルに置いてから、眠たげな顔の息子に近付いて、そのズボンを直してやった。 「おはよう、ブラッディ」 「ん…」 ブラッドはぼんやりしていたが、何度か瞬きしてから、長い髪を一括りにしているラミアンを見上げた。 「おはよう、とうちゃん」 息子の笑った口元からは、昨日はなかった牙が覗いていた。朝日を浴びて、真新しい牙が滑らかに輝いている。 ラミアンはそれを見、笑った。どんな形にせよ、息子が成長したことには変わりない。今は、喜んでやるべきだ。 「ブラッディ。その牙は恐ろしいものではないよ。大人へと近付いた証だ」 「ほんと?」 ブラッドは、ぱっと表情を明るくする。ラミアンはブラッドを抱き上げ、椅子に座らせた。 「そうだとも。他の子らとは少し形は違うかもしれないが、気にすることはない。それがお前なのだから」 「オレ、おっきくなれんの!?」 椅子の上に立ち上がって身を乗り出してきたブラッドに、ラミアンは彼の肩を押さえて座らせた。 「椅子の上には立つものではないよ、きちんと座りたまえ。ああ、そうさ。ブラッディは私の子なのだから、私のようになることだろう。さぞ、立派な吸血鬼になるだろうよ」 「かあちゃんも」 ブラッドはちょっと言い淀んだが、すぐに快活な声を上げた。 「かあちゃんも、オレがおっきくなったらよろこんでくれる?」 「ああ、喜ぶとも。血を分けた我が子が成長する姿は、親にとって何より素晴らしい贈り物なのだから」 ラミアンが笑むと、ブラッドは牙を見せ付けるようににっと笑った。 「じゃ、オレがんばる! いっぱいおっきくなる!」 「だからといって、食べ過ぎるのはいかんぞ。腹が痛くなるのは嫌だろう?」 「う」 ブラッドは、情けなさそうに眉を下げた。ラミアンはブラッドの前に、パンケーキの載った皿を差し出した。 キツネ色に焼けていて、温かな湯気を昇らせている。黄金色のハチミツが、溶けたバターと混じり合っていた。 ブラッドはフォークを手にすると、嬉しそうにしながら食べ始めた。ラミアンは、ブラッドの向かい側に座った。 息子は手と口の周りをハチミツでべたべたに汚しながら、幸せそうな顔をして、パンケーキを懸命に食べている。 自分の分のパンケーキを半分ほど食べて、ラミアンは落胆した。今回も、ジョセフィーヌのようにはいかなかった。 どうやっても、粉っぽさが残ってしまう。きちんと混ぜたはずなのだが、どこかで加減を間違えているらしかった。 ブラッドは上機嫌に食べているし、ラミアンも食べられないことはないのだが、つい彼女のものと比べてしまう。 帰ってきたら、ちゃんと作り方を教えてもらおう。そう思いながらラミアンは、淹れたばかりで熱い紅茶を傾けた。 「とうちゃん」 「なんだい、ブラッディ」 ラミアンが聞き返すと、ブラッドはパンケーキの欠片を差したフォークを掲げた。 「あとでごほんよんで!」 「ああ、解ったよ。何がいいんだい?」 「んーとね、まほうつかいが、どらごんにあいにいくやつ!」 「またそれか。まぁ、良いのだがな」 ラミアンは紅茶を飲み干してから、可笑しげにした。息子が読んでほしがる本は、いつも決まって同じだった。 中でも、登場人物が冒険をして魔物達に会いに行く話や、俗に言う勇者が悪人を退治する話が、特に好きだった。 ラミアンとしては、もっと他のものを読んでやりたいのだが、それ以外の本にすると拗ねてしまって嫌がってしまう。 読んでくれと言われるだけありがたいか、と思いながら、ラミアンは二杯目の紅茶をティーカップに注いだ。 窓の外からは鳥のさえずりが聞こえ、木々の葉が光を撥ね、日差しが眩しい。柔らかで、優しい時間だ。 永遠にも思えるが、ほんの一時の時間だ。寿命の長い吸血鬼にとっては、五年十年など呆気なく過ぎてしまう。 だが、だからこそ、とても大切なのだ。決して失いたくない、壊してしまいたくない、大事な宝物のようなものだ。 父と子の日常は、ゆるやかに続いていた。 麗しき吸血鬼の父と、半吸血鬼の幼い息子の、温かき日常。 突如として姿を消した母が帰る日を待ち望みながら、二人は日々を繰り返す。 しかしその日常は、父の成した過去の罪と、悪しき竜の青年によって砕かれてしまう。 だが、今は、穏やかな平和に満ちているのである。 06 5/2 |