ドラゴンは眠らない




明日への逃亡



キャロルは、困っていた。


起き上がるべきか、迷っていた。枕元の懐中時計の針は朝の時間をとっくに過ぎていて、昼近くなっていた。
カーテンを閉めた窓の外からは人々の生活音が聞こえてきて、起きなくてはならない気分に駆られてしまう。
昔は日も昇らないうちからベッドを出て忙しく働き回っていたので、その習慣が体に染み付いてしまっていた。
どうしよう、と思いながら隣を窺うと、リチャードはキャロルの戸惑いなど知る由もなく、穏やかに眠っていた。
ヴァトラスの屋敷であれば、朝食の準備や掃除など仕事があるので起きられていたが、ここではそうはいかない。
ここは、宿屋なのだ。起きたところで、仕事などない。それに、下手に外へ出てしまうわけにもいかない。
キャロルは小さく息を零してから、体を捩った。胸元を見下ろすと、昨夜に付けられた赤い痕が散らばっている。
途端に、顔が熱くなった。何度となく繰り返してきた行為なのに、何度経験しても、恥ずかしくて仕方ない。
おまけに昨夜は、散々焦らされて泣かされて、挙げ句に何をされたいのかと問われてそれを言わされてしまった。
それが、恥ずかしくないはずがない。だが、愛撫に次ぐ愛撫で火照った体を持て余している方が辛かったのだ。
キャロルが真っ赤になっていると、背後で彼が身動きした。振り向くと、リチャードが目を薄く開けている。

「あ、起きてた?」

「はい」

頬を染めたキャロルが僅かに頷くと、リチャードはにやりとした。

「昨日の夜は良かったねぇ。いやぁ可愛かった」

「思い出させないで下さいよぉ…」

キャロルは消え入りそうな声で呟き、身を縮めた。少し思い出しただけで、逃げ出してしまいたいほどになる。
リチャードは上半身を起こすと、体を伸ばした。寝乱れた薄茶の長い髪を直してから、傍らの彼女を見下ろす。

「そう? 僕としては楽しくて仕方なかったんだけど」

「リチャードさんはそうかもしれませんけど、私は、その」

これ以上はとても言えず、キャロルは黙ってしまった。リチャードは笑み、キャロルの滑らかな肩に触れる。

「そんなに嫌かい? 僕とするのが」

「解ってらっしゃるくせに」

キャロルは、リチャードの言い草にむくれた。彼はいつも、敢えて逆を言い、こちらの本心を言わせたがる。
最初の頃はその意地悪に翻弄されていたが、さすがに連れ添って三年にもなると、慣れてしまうというものだ。
戦犯となった彼と共に旧王都から逃亡し、共和国政府や軍からの追っ手から逃れる日々が、未だに続いていた。
もちろん、どちらも初めてのことだった。いくらリチャードが魔導師とはいえ、全てが上手く行くわけではない。
途中で共和国政府の密偵に見つかってしまったり、リチャードを知る軍人に会ってしまったりしたこともあった。
だが、なんとか逃げられていた。危険が及んだことも一度や二度ではないが、その度にその場を凌いでいた。
実に、慌ただしい結婚生活だ。キャロルが幼い頃に思い描いていた結婚生活とは、かなり懸け離れた日々だった。
リチャードは、やけに残念そうな顔をしていた。キャロルが戸惑わなかったので、あまり面白くなかったらしい。

「キャロル。君も捻くれてきたねぇ」

「誰のせいだと思っているんですか」

キャロルは起き上がると、手近にあった自分の下着を着て肌を隠した。リチャードは背を丸め、頬杖を付いた。

「まぁ、そうかもねぇ。僕なんかの傍にずっといたら、いくら君でもちょっとは捻くれるよね」

つんと顔を背けているキャロルは、愛らしかった。十七歳になった今でも、少女の面影は色濃く残っている。
可愛らしいだけだった顔付きにも大人びた雰囲気が入り混じり、肉の薄かった体も柔らかなものとなっていた。
華奢だった太股も確かな太さになって尻も丸みを帯びて、平坦で硬かった胸はたっぷりと大きく膨らんでいた。
リチャードはキャロルの背に覆い被さると、腕の中に納めた。波打った赤毛に頬を当て、その温もりを味わう。

「でも、もう少し付き合ってくれてもいいじゃない」

「今まで散々お付き合いしてきたじゃないですか。これぐらい、いいじゃありませんか」

「だけどねぇ…」

「それよりも、いい加減に着替えましょうよ。もうお昼なんですから」

キャロルは、上目に背後のリチャードを見上げる。リチャードは、枕元の懐中時計に目をやった。

「あ、そうなの。それは残念だ」

「今度から、もっと早く起きて下さいよ。そうじゃないと、やりづらいんですから」

キャロルはリチャードの腕を緩めてから脱し、ベッドの脇にあった自分の靴を引っ掛けてカーテンを開けた。
途端に、窓から差し込む光の量が増した。太陽は既に高く昇っていて、青い空には雲が散らばっている。
キャロルは窓を開けてから、リチャードに振り向いた。彼は仕方なさそうにベッドから下り、服を着た。

「僕としては、昼過ぎまで眠っていたいんだけど。どうせ、やることなんてそんなにないんだし」

「自堕落にも程があります」

キャロルは多少呆れつつも、自分の服を取った。手触りの良い、上質の生地で出来た上流階級の服だった。
細い袖に腕を通し、絞ってある腰の部分をぐいっと引き上げる。布にゆとりが少ないので、動きづらい服だ。
以前に着ていたメイドの服は装飾が少なくて、実用性を重視しているものだが、この服はそうではない。
スカートは無駄に膨らませてあるし袖は細いし腰もきついので、着慣れていない頃は苦しくて仕方なかった。
広い襟刳りを整えてから袖を直し、髪を背中に投げた。鏡に映っている自分は、戸惑ったような顔をしている。
背後では、リチャードが小間使いの着る服に着替えていた。旧王都にいた頃とは、懸け離れた服装だった。
キャロルは、これからやらねばならないことを思うとげんなりした。いつものこととはいえ、疲れるものは疲れる。
リチャードは長い髪を一括りにしてから、キャロルの背後に寄ってきた。鏡の中の彼女を見、楽しげに笑う。

「んじゃ、そろそろ行こうか。忘れてないよね」

「忘れてませんけど、腑に落ちてません」

キャロルは鏡の傍から飾りの付いた扇子を取ると、リチャードに寄り掛かった。

「なんでいつも、私がリチャードさんを使役する立場なんです? この間は私が魔導師で、リチャードさんが弟子で」

「その前は、君が富豪の跡取りで僕が護身役」

「そして今度は、私が貴族のお嬢様で」

「僕がそのお付き。いいじゃない、楽しいんだから」

リチャードはにこにこしながら、キャロルを見下ろす。キャロルは扇を広げ、口元を覆う。

「ですけど、全部逆の方が良くありませんか? 元々はそうだったんですから」

「そうすると、すぐにばれちゃうだろう? 戦犯リチャード・ヴァトラス中尉とその妻だってことがさ」

リチャードは、キャロルの頬に唇を当てた。髪の間から覗く耳元に、囁いた。

「大抵の人間は、僕らの関係が一定だと思っている。僕は魔導師協会の役員なんてことをしていたし、君も僕の下で働いていたから、僕が上で君が下という固定観念が出来上がっているんだ。だから、それを利用しない手はない。それに、共和国は戦時中でごたごたしているから、政府も軍も、今はまだ本腰じゃない。その間に翻弄して、完全に逃げてしまうのが一番じゃないか」

「そうですけど…」

キャロルはリチャードを引き寄せ、唇を重ねた。離れてから、申し訳なさそうに呟く。

「なんだか、悪い気がするんですもん。リチャードさんを使う、なんて」

「今まで散々僕が君を使ってきたんだ、だから今度は僕が君に使われる番なんだ」

リチャードはキャロルから体を離すと、向き直らせた。波打った赤毛に手を添えて身を屈め、額に口元を寄せる。
ほんの小さな声で、魔法を紡いだ。キャロルは目を閉じて、彼の魔力が変化をもたらしていく感覚を味わった。
温かな熱が全身を巡り、ふわりと風が舞い上がった。キャロルは目を開いてから、背後の鏡に振り返った。
鏡に映っている少女は、髪と瞳の色が変わっていた。波打った赤毛は、クセのない艶やかな黒髪になっていた。
緑色だった瞳も深い色合いの青になり、傍目から見れば別人だった。キャロルは、しなやかな黒髪をつまむ。

「相変わらず、お見事です」

「うん、可愛いよ」

リチャードは櫛を取ると、キャロルの黒髪を梳いた。普段の状態とは違い、するりと容易く滑り抜けてしまう。
慣れた手付きで、彼女の髪をまとめていく。丁寧に編んで太い三つ編みを作って丸め、後頭部に留める。
後頭部でまとめられた黒髪に魔導鉱石の付いた髪飾りを差してから、化粧道具を取り出し、彼女に渡した。

「はい」

キャロルはリチャードに手渡された化粧道具を広げ、鏡に顔を寄せた。桃色の頬紅を叩き、口紅を引いた。
それらを馴染ませてから、鏡に映った己の瞳を見据えた。強い赤の口紅を載せた唇を引き締め、表情を固める。
気を張り詰めてから、深く息を吐いた。自分でない自分になるために、気持ちを切り替えて気合いを入れた。
手にしていた扇をぱちりと閉じ、優雅な動作で身を翻した。彼に化粧道具を返してから、隣を通り過ぎる。

「行くわよ、オスカー」

「はい、フランシーヌ様」

リチャードはうやうやしく頭を下げ、すっかり表情の変わったキャロル、もとい、フランシーヌの後に続いた。

「今日はどちらに行かれますか、フランシーヌ様?」

「そうねぇ…。観劇にも飽きてしまったわ。でも、他にやることなど思い当たらないのよね」

大きく広がったスカートを揺らしながらフランシーヌが扉に近付くと、リチャード、もとい、オスカーが扉を開ける。

「旦那様がお迎えに上がられるまでの辛抱でございます、フランシーヌ様」

「ああ、私はなんて不幸なのかしら。こんな寂れた場所に押し込められた挙げ句に、あなたのような役立たずを付けられて。共和国と連合軍の戦いが終わってお父様のお迎えが来たら、すぐにでも首を切らせるわ」

フランシーヌはかかとの高い靴を鳴らしながら廊下を進んでいたが、途中で足を止め、振り返った。

「それまで、せいぜい私に尽くすことね」

「承知しております」

オスカーは深々と頭を下げ、部屋の扉に鍵を掛けてから、階段を下りていくフランシーヌの背を追っていった。
その足取りは洗練されており、堂に入っていた。なんだかんだで楽しんでいるんだよなぁ、と内心で思った。
もちろん、追っ手への目眩ましのための寸劇を始めた頃は、キャロルの演技は辿々しくて見ていられなかった。
だが、回数を重ねるうちに度胸が付いてきたのか、今となっては本気でリチャードに手を上げることすらある。
その後で泣きそうな顔で謝られるのだが、演じている最中の高飛車な彼女との落差が激しくて、可愛くもあった。
従者らしく控えめな態度で彼女を追いつつ、内心でにやけた。いつのまにか、この寸劇での楽しみが増えている。
最初は、魔法で髪や瞳の色を変えたのだから立場も変えるべきだ、とリチャードが提案して始めたことだった。
メイドの姿で忠実に従ってくるキャロルも良いのだが、それ以外の姿と言動をするキャロルを見たかったのだ。
しとやかであったり、つんけんしていたり、我が侭であったり。リチャードが希望すれば、努力して演じてくれた。
それがまたいじらしくて、一層愛おしくなる。彼女への愛しさで緩みそうな表情を整え、階段を下りていった。
階段の下では、キャロル演じるフランシーヌが眉を吊り上げて待っていた。




いつものように、二人は同じ場所を巡った。
我が侭な貴族の娘フランシーヌと大人しく従順な従者オスカーとして、決まり切ったことを毎日繰り返していた。
昼近くまで宿屋で眠り、夕方になったら歌劇場に入り、夜になったらまた宿屋に戻るという、平坦な日々だった。
二人のいる街は、共和国から離れた北部の国の西側にあり、戦火から逃げ延びた人々も多く暮らしていた。
街の大きさは大したことはないものの、戦火が及んでいない場所だということもあり、人間の数は多かった。
軍人もちらほらと見掛けたが、いずれも連合軍の下位軍人で、リチャードの顔を知っている者はいなかった。
戦争の影響で、共和国だけでなく周辺諸国の経済事情も悪化しているため、この国の物価も高騰していた。
なので、共和国から持ってきたネルゴ札や硬貨は役に立たなかったのだが、装飾品が金の代わりになった。
落ちぶれていたヴァトラス家と言えどかつては名士であったので、古い時代の装飾品が山のようにあったのだ。
二人はその装飾品からスイセンの家紋を魔法で消して、使いすぎない程度に使いながら、日々を凌いでいた。
大振りな魔導鉱石や、近代では希少な宝石を金代わりにしているので、一般的な人々よりも多少裕福だった。
といっても、それは演技を確かなものとするために必要なことなので、リチャードもキャロルも不本意だった。
出来れば節制して暮らしたいのだが、一度始めてしまった演技を止めると、却って怪しまれてしまうのだ。
嘘を吐くのは簡単だが、貫き通すのは楽ではない。だから、二人は、嫌々ながらも浪費を繰り返していた。
フランシーヌとオスカーは、あまり大きさのない歌劇場から出て、ゆったりとした足取りで街中を歩いていた。
店に並んでいる品数は少ないが人だけは多い商店街を歩きつつ、ひたすらフランシーヌは文句を言っていた。
オスカーは、その文句を黙って聞いていた。情けなさそうな、困ったような顔をして、少女の後ろに付いていく。
二人が通り掛かると人々は振り返り、オスカーに対して同情するような目を向けてきたが、声は掛けなかった。
薄暗い商店街を歩いていたフランシーヌは、振り返った。不機嫌そうに眉を吊り上げて、オスカーを見上げた。

「なんてことなの。今夜も夜会がないなんて」

「仕方のないことでございます、フランシーヌ様。ここは首都とは違いますゆえ」

オスカーが取り繕うように笑うと、フランシーヌは閉じた扇を握り締めた。

「ああもう忌々しい。退屈で退屈で死んでしまいそうだわ」

「お気を静められませ、フランシーヌ様」

「お前の傍にいると、もっと退屈になってしまうわ。けれど、お前がいなければもっと退屈になってしまうわ」

フランシーヌはオスカーの笑顔を睨んでいたが、ふいっと目を逸らす。

「さあ、早く帰るわよ。帰っても、どうせ眠るぐらいしかやることなんてないけれど」

フランシーヌは歩調を早めようとしたが、止めた。彼は、彼女の横顔が素の表情に戻っていることに気付いた。
彼女はちらりと彼を見てから、正面に向けた。商店街の中心を貫いている通りの先に、黒い車があった。
雑然とした街並みの中で、黒塗りの大きな蒸気自動車は浮いていて、異様なまでに存在感を誇っていた。
蒸気自動車の側面には、連合軍の紋章が印されていた。その手前には、紺色の軍服を着た者が立っていた。
壮年の軍人で、硬そうな髭を貯えている。軍帽の下の瞳は鋭く、威圧感を持った視線が人々を見回している。
その軍人の前では、若い兵士が突っ立っていた。小銃を肩に担いで腰に剣を提げ、背筋をぴんと伸ばしている。
もう一人の若い兵士は、人を呼び止めては話を聞いている。距離があるので、その会話は聞こえてこなかった。
オスカーは反対側からやってきた、中年の女性を呼び止めた。連合軍の軍人を指して、声を潜めて尋ねた。

「あの、検問か何かでしょうか?」

「そんなもんじゃないわよ、もっと凄いことよ」

中年の女性は怯えたような顔で、左右を窺ってから、オスカーに小さく言った。

「戦犯の魔導師がこの辺りにいるんですって。なんでも、共和国軍の、あの変な部隊にいた魔導師らしいのよ。その魔導師を探すために、色々と聞いて回っているみたいなのよ」

「変な部隊と言いますと?」

オスカーが怪訝そうにすると、中年の女性は首を縮めた。

「人間を改造したりしてた、ほら、あの部隊よ。あなた、知らないの?」

「私は共和国とは縁がございませんので、その手のことには疎いのです」

オスカーは愛想笑いを浮かべてから、そっとフランシーヌを見た。高飛車な表情は失せて、唇を締めている。
ここまで聞けば、誰を探しに来ているのかは解る。十中八九、リチャードの足取りを追ってやってきたのだろう。
オスカー、もとい、リチャードは素早く思考を巡らせた。どこでヘマをしてしまったか、必死に思い出そうとした。
この街に来るまでの道中で、強い魔法は使っていない。せいぜい、髪と瞳の色を変えるものを使ったぐらいだ。
空間移動魔法も、追っ手に魔導師がいればすぐにばれてしまうから使っていないし、近頃は戦闘もしていない。
金代わりに消費してきた装飾品もヴァトラスの家紋は全て消してあるし、その魔法が解けないようにもしてある。
ならば、一体どこに穴がある。ほぼ一瞬のうちにそこまで考えた彼は、フランシーヌの背に慎重に触れた。

「あちらで手間取ってしまっては、宿に帰り着くのは夜になってしまいます。道を変えましょう」

「当たり前よ。このまま外にいたら、冷えてしまうわ」

フランシーヌは身を翻し、反対側に歩き出した。オスカーは、中年の女性に礼をする。

「教えて下さって、どうもありがとうございました。軍の方々に関わってしまっていたら、フランシーヌ様が機嫌を損ねてしまうところでした」

「あんたも大変ねぇ、いつも」

中年の女性の哀れむような言葉に、オスカーは笑みに苦みを混ぜた。

「ええ」

「何をしているの、早く来なさい! 私の傍から離れるなんて、立場を解っていないのかしら!」

雑踏の中で、フランシーヌが声を上げた。オスカーは足早に駆け、苛立ち始めている少女の傍に寄った。

「申し訳ございません、フランシーヌ様」

フランシーヌは怒りを露わにして、大股に石畳を踏み付けて歩いていく。オスカーは、その背を追っていった。
雑踏の中を抜けて宿屋に向かう道を辿っていくと、次第に周囲から人が失せ、辺りはひっそりと静まった。
古びた家がいくつも並んだ住宅街を通りながら、フランシーヌは歩調を緩め、オスカーとの距離を詰めた。
まばらに立っていた街灯もなくなったので、二人の周囲は暗くなり、目を凝らさなければ見えないほどだった。
頭上には欠けた月が浮かんでいたが、薄い雲に覆われて陰っており、明かりの役割は果たしていなかった。
こつ、とかかとの高い靴を鳴らし、フランシーヌは足を止めた。すぐ隣に立っている彼を見上げ、呟いた。

「どういうことよ」

「私には心当たりなどございません、フランシーヌ様。フランシーヌ様にはおありですか?」

オスカーが彼女を見下ろすと、フランシーヌは目元を歪める。

「いえ…」

「でしたら、どういうことでしょうなぁ」

丁寧だった口調を砕き、彼は腕を組んだ。彼女は扇を開くと口元を隠し、ため息を零した。

「せっかく落ち着けたと思っていたのに」

「残念がるのは後にしましょう、フランシーヌ様」

オスカーは身を屈め、フランシーヌの耳元に口を寄せた。リチャードに戻ると、囁いた。

「とりあえず宿へ帰ろう、キャロル。それが一番だ」

「ええ。そうしましょう、リチャードさん」

フランシーヌもまた、キャロルとして答えた。だがすぐにフランシーヌになり、足早に歩き出した。

「お前がもたもたしているから、すっかり暗くなってしまったじゃないの!」

「申し訳ございません、フランシーヌ様」

オスカーは平謝りし、全くもう、と拗ねているフランシーヌの背に続いた。彼女の高い靴音が、辺りに響いている。
彼女との距離を開かないように、だがあまり近付きすぎないように、彼は歩幅を狭めながらゆっくりと歩いていた。
感覚を強めて周囲に魔法の気配がないか探りながら、記憶を呼び起こし、ここ最近の二人の行動を確かめた。
この街に来たのは、一月半ほど前だ。共和国から離れた街道を通り、山奥を抜け、巡り巡って辿り着いただけだ。
その間、派手なことはしていない。賊にも運良く会わなかったし、戦闘らしい戦闘など、半年以上行っていない。
歩いてきた道もなるべく目立たないものばかりを選んだし、互いの髪や瞳の色や服も変えて慎重に進んできた。
連合軍の検問も難なく突破してきたし、その際に兵士の記憶も少々いじって、危険は全て潰してきたはずだ。
ならば、どこに綻びがある。どこで何をしくじった、それをどうして感付かれてしまったのか、考えに考えた。
こぢんまりとした家々に挟まれた石畳を歩いていたオスカーは、先を行く彼女の背を見ていたが、足を止めた。

「あ」

突然素の声を発した彼に、彼女は振り返った。オスカーは渋い顔をして、前髪を掻き乱している。

「あー、そういうことかー…」

「何がそういうことなの」

訝しげに尋ねてきたフランシーヌに、オスカーは顔を近付け、その耳元へ呟いた。

「さっきの兵士の片方、僕の生徒だ。魔法大学の」

途端に、彼女の目が見開かれた。澄んだ青い瞳は虚空を見ていたが、そろりと横に動き、すぐ傍の夫に向いた。
本当ですか、と唇だけ動かして言った幼い妻に、困惑気味に眉を下げて口元をひん曲げた彼は、頷いてみせた。
連合軍は、共和国から逃げ出した共和国国民を徴兵している。その中に、魔法大学の学生がいてもおかしくない。
魔法大学から離れて久しい上に、学生の数など膨大だ。リチャードがすぐに思い出せなくて、無理はないだろう。
だが、このままでは見つかってしまうのは時間の問題だ。この街は、旧王都の五分の一程度の広さしかない。
連合軍が本気を出せば、一日と経たずに燻り出されてしまうことだろう。そうなる前に、手を打たなくてはいけない。
演技を忘れてすっかり素に戻ったリチャードは、唸りながら髪を乱していたが、にやりとした嫌な笑みを浮かべた。

「いいこと思い付いた」

「何を思い付いたっていうのよ」

キャロルは、とりあえず演技を続けた。リチャードは背を曲げて、キャロルと目線を合わせる。

「君の魔法を使おう。うん、それが一番だ」

その言葉にキャロルはぎょっとしてしまい、内心ではかなり狼狽えていたが顔には出さず、彼を睨み返していた。
一体、どういうつもりなのだろう。確かに、キャロルの魔法の腕は、三年前とは比べものにならないほど向上した。
だがそれでも、フィリオラはもといリチャードに敵うはずもなく、大抵の場合はリチャードが魔法を使っていた。
それに、キャロルが得意な魔法はあまり強烈なものではなく、戦闘などに置いては役に立つはずのないものだ。
そんなものを、どうやって使うというのか。困惑と共に不安が沸き上がってきて、キャロルは眉を下げてしまう。
リチャードは、意気揚々と歩き出していた。一見すればにこやかな笑顔だが、薄茶の瞳には狡猾な光があった。
キャロルはむくれた表情を作り、待ちなさいよ、と彼を罵倒しながら小走りに駆け、その背後に追い付いた。
嫌味なまでに機嫌の良い、だが端々に邪心の滲んでいる彼の笑顔を見上げていると、次第に不安が和らいだ。
リチャードの考えが全て正しいものだとは限らないし、間違っていないとも解らないが、それでも構わない。
彼の傍で、彼に従い、彼と共に在ることが出来ればそれでいい。キャロルは、そっと左手の薬指に触れた。
十四歳の頃は填らなかった結婚指輪も、十七歳になった今では丁度良く、ぴたりと薬指の根元に填っていた。
親指の先で指輪の滑らかな表面を撫でながら、キャロルは目を細めた。彼の傍にいられるだけで、それでいい。
もしもしくじってしまっても、命を落としてしまっても、それがリチャードの腕の中であるならば構わない。
彼の妻として死ねるのならば、本望だ。







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