ドラゴンは眠らない




明日への逃亡



小さな街の手狭な宿屋は、連合軍によって取り囲まれていた。
幅のない玄関を塞ぐように横付けされた黒塗りの蒸気自動車には、髭を貯えた軍人が腕を組んで立っていた。
東側から昇ってきた朝日が、建物の輪郭を淡く浮かばせている。うっすらとした朝靄が、空気に満ちている。
宿屋は、ひっそりと静まり返っていた。夜が明ける前なので、さすがに従業員も起きてはいないようだった。
閉ざされた正面玄関に銃口を向けながら、兵士、ジムは緩く息を吐き出した。手の中の小銃が、重たかった。
罪悪感が、ないわけではない。だが、見てしまったものは仕方ない。運が悪かった、と思ってもらうしかない。
未だ戦火の燻る共和国へ進軍する途中に、小休止のために立ち寄ったこの街で彼を見掛けた時は、驚愕した。
最初は、他人のそら似だと思った。彼は、黒髪で青い瞳の、愛らしいが言動のきつい少女にこき使われていた。
申し訳ございません、と情けないぐらい気弱な態度で従っていて、すぐにリチャードには結びつかなかった。
ジムの知るリチャードは、理知的でそつがなく、誰に対しても親しく接する、優秀な魔導師であり講師だった。
魔法大学を恐ろしい早さで卒業し、二十五歳という若さで魔導師協会の役員になった、学生の憧れの存在だった。
中世時代から続く魔法に精通した一族、ヴァトラス家の末裔であり、しかもあのランス・ヴァトラスの直系だ。
ランス・ヴァトラスと言えば、魔法を勉強した者ならば知らないはずがないほど、名の知れた中世の魔導師だ。
現在では廃れてしまった精霊魔法の隅から隅まで研究し尽くし、あらゆる魔法を使え、学問にも長けていた。
ランスの書き残した魔導書は数知れず、魔法大学や魔法学校で教科書として使われている本も少なくない。
そんなランスの末裔であり、魔導師協会で確かな地位を持ったリチャードは、魔導師を志す者の目標だった。
ジムも、その中の一人だった。幼い頃からランスの魔導書を読み漁り、いつしか魔導師になりたいと思った。
昨今ではすっかり勢いを失った職業だったが、本を読めば読むほど気持ちが募り、家族の反対も押し切った。
家を出て、一人で暮らして、働きに働いて魔法学校に入り、奨学金を得てなんとか魔法大学まで進学した。
そして、リチャードの講義を受けた。魔法の始祖となった竜族の魔導技術について、深く広く教えてくれた。
その分野にはあまり興味を持っていなかったのだが、リチャードの講義を聞いたら、途端に興味を持った。
調べてみると、竜族の魔導技術の分野は奥が深く、今までに知ってきた魔法とは明らかに系統が違っていた。
魔法文字も多く難しく、魔力の流れも大分複雑で解りづらかったが、それを上回るほどの面白さがあった。
そんな厄介なものを、簡潔に、そして解りやすく教えてくれたリチャードに対して、尊敬と憧れを抱いた。
いつか、彼のように。ジムはそう思いながら、戦渦が広がる中でも勉強を続け、魔法大学に通い続けた。
だが、リチャードは戦争が始まる数ヶ月前に、魔導師協会からの命を受けて魔法大学を出て旧王都に出向いた。
そして、リチャードは特務部隊の隊長となり、改造した部下を率いて戦場で凄まじい所業を行い、戦犯となった。
一体、旧王都で何があったのだろうか。リチャードらしからぬ行動が、未だに信じることが出来なかった。
しかし、戦犯として手配されているのは事実だ。それに、戦場から生き残って帰ってきた兵士達の証言もある。
リチャードが魔法で地面を溶解し、泥の中に敵も味方も没させて大量に殺戮した、との話を多数聞いた。
信じられない。信じたくない。だが、彼らの話に信憑性は高く、目撃した兵士はかなりの人数だった。
リチャードが戦犯であることは、疑う余地などない。彼の姿を見た時、上官に報告するか、迷ってしまった。
尊敬する魔導師、だが、許し難い殺戮を行った戦犯。私情と、連合軍の兵士としての立場の間で揺れていた。
しかし、決断した。この場で仕留めておいた方が、後々のためになる。結果として、彼のためにもなる、と。
ジムは、ちらりと上官を窺った。黒塗りの蒸気自動車の上に突っ立っている上官は、兵士達をぐるりと見渡す。

「総員、構え!」

その言葉と同時に、兵士達は一斉に小銃を構えた。ジムは他の兵士と共に腰を落とし、正面玄関の脇に回る。
先頭にいる兵士は中の様子を窺っていたが、高々と足を振り上げ、乱暴に扉を蹴り飛ばして錠前を壊した。
どばん、と盛大に開いた扉に向けて、ジムは駆け出した。客室からは、何事かと泊まり客が顔を出している。
兵士達は客室という客室に飛び込んでいき、あらゆる部屋の扉を壊し、宿屋を占領する勢いで突っ込んでいく。
それらを横目に見ながら、ジムは幅の狭い階段を二段飛ばしで昇っていき、二階の廊下までやってきた。
階段と同じくあまり幅のない廊下の両脇には、同じ作りの扉がずらりと並んでいて、いくつかが開いている。
扉の隙間からは、怯えたような目で客が顔を覗かせている。ジムは目を動かし、扉に付いた部屋番号を見た。
宿屋の店主から聞いた話によれば、フランシーヌという名の少女が泊まっていたのは、二○一号室だった。
右側の壁の扉には、手前から、二○五、二○四、二○三、二○二、二○一、と書かれた扉が並んでいる。
目指す二○一号室は一番奧だ。ジムは小銃を構え直すと、乱暴に床を踏み鳴らしながら一気に駆け抜けた。
数名の兵士と共に一番奥までやってくると、二○一、と簡単に書かれた古ぼけた扉を、何度か叩いてみた。
すると、内側から返答が返ってきた。それは、あのフランシーヌなる少女の声で、高飛車な物言いだった。

「何よ、騒々しいわね!」

腹立たしげで、不機嫌極まりない言葉だ。ジムは一瞬躊躇ったが、決意を固め、小銃の銃口を鍵穴に据えた。
引き金を引いて発砲し、取っ手ごと吹き飛ばす。硝煙の煙が落ち着いてから、扉を思い切り蹴り飛ばした。
扉が壁に当たる激しい音の後、薄暗い部屋の中が見えた。宿屋の外見に見合った、実に手狭な部屋だった。
装飾の少ない鏡台が左奧に、椅子とテーブルが中央に、奧にはベッドがあり、布団が丸く膨らんでいた。
ふと、ジムは何かの気配を感じた。それが何であるか考えるよりも先に、兵士達はベッドを取り囲んでいた。

「おい、起きろ!」

荒々しく、兵士の一人が叫ぶ。白い布団の中で衣擦れの音がし、布団が蠢いた。

「私を起こすなら、もう少し穏やかにして頂きたいものだわ。礼儀を知らないのね、あなた達は」

「へへ、女か」

全体的に角張った顔付きをした兵士が、下卑た笑みを浮かべる。その隣の兵士は、銃口で布団を小突く。

「おい、どうする、殺しちまうか?」

「その前に、引き摺り出して回しちまおうや」

遊びを楽しむ子供のように、角張った顔付きの兵士は浮かれている。その隣の兵士は、ジムに振り向いた。

「なぁおい、魔法使い! 女ヨガらせる魔法を知らねぇか、知ってたら掛けてやってくれよ!」

「言うだけ無駄だろ、そんなもん。あいつはお堅い学生さんだ、女遊びなんて知らねぇよ」

「それもそうだな、魔法使いのセンセーはやり方なんざ教えてくれねぇもんな!」

兵士達の軽口に、ジムはたまらずに顔を歪めた。敬愛するリチャードを侮蔑されたことが、無性に癪に障った。
言い返したかったが、文句が口に出てこない。ジムが押し黙っていると、兵士の一人が高らかに笑った。

「しっかし、お前も悪い生徒だぜ! 自分のセンセー殺して手柄にしようってんだから、とんでもねぇワルだな!」

「そういうこたぁ、魔法使いのセンセーのドタマを撃ち抜いてから言おうじゃないか」

浅黒い肌をした兵士は、銃口を布団の中に深く埋めた。黒光りする銃身が、布に包まれた綿を抉る。

「だがその前に、この女を始末する方が先だ。生かしておいても、役には立たないだろうしな」

「下は撃つんじゃねぇぞ、穴がなくなっちまうからな」

「解っているさ、それぐらい。女なんてもんは、穴がなきゃ意味がないからな」

浅黒い肌の兵士の視線がジムへと向いたが、ジムは目を逸らしてしまった。お前も参加しろ、との意味だろう。
だが、あの少女を撃ち抜く気にも犯す気にもなれなかった。兵士になったとはいえ、やはり気が進まない。
ジムが肩を怒らせて俯いている間に、浅黒い肌の兵士は布団に手を掛け。そして、がばっと勢い良くめくった。
布団の下には、眠たげな顔をした少女がいた。黒髪は乱れていて、青い瞳は半分ほど薄い瞼に覆われている。

「戦犯のくせに、随分と可愛いのを連れていたんじゃないか」

兵士が、少女、フランシーヌの腕を掴んで引っ張り上げようとしたが、少女はその手を払い除けた。

「汚い手で触らないでくれる? こちらまで汚されてしまいそうだわ」

「ガキのくせに言うじゃねぇか、このっ」

手を払われた兵士は小銃を振り、少女の腕に叩き付けた。フランシーヌはよろけ、ベッドに転げた。

「薄汚い庶民のくせに!」

寝間着の裾を乱しながらも言い返してきたフランシーヌに、兵士は小銃を下げ、その小さな体を押し倒した。

「薄汚ぇのはどっちだよ、悪魔みてぇな男に囲われてやがったくせに!」

「立場を弁えなさい。私が誰だと思っているの?」

兵士に組み敷かれたフランシーヌは、落ち着いた様子だった。優雅ささえ感じさせる笑みを、浮かべていた。
その笑みは冷酷で、青い瞳には鋭い光が含まれていた。容姿に似合わない表情に、兵士は少しぞくりとした。
だが、今更止める気など起きない。それどころか、この女を乱してやりたい、という気分にすらなっていた。
薄手の寝間着に手を掛け、下着ごと一気に引き裂いた。びっ、と糸の切れ端が散り、白い乳房が露わになる。
滑らかで柔らかな乳房の間に、異様なものがあるのが見えた。無機質な光を放つ、金属が深く埋まっていた。
その金属には、文字が書かれていた。ジムはその文字を読み、気付いて声を上げようとしたが、遅かった。
フランシーヌを組み敷いていた兵士の顔目掛けて何かが飛び、べちゃっ、と顔全体を覆い尽くしてしまった。
その兵士は茶色く粘ついたものに覆われた顔を掻きむしったが、一向に剥がれる気配はなく、こびり付いている。
とうとう息が詰まってしまったのか、声を漏らすことなく、力なく揺らいでベッドの傍に倒れ伏してしまった。
ベッドを取り囲んでいた兵士達は、倒れた兵士とベッドの上の少女を見比べていたが、慌てて発砲した。
動揺しているせいで、正確な射撃は出来なかった。だがそれでも、数発の弾丸がベッドの上の少女を貫いた。
白い腹や頭を弾丸が抉るたびに、金属の埋まった胸がびくんと跳ね上がり、豊かな乳房が震えている。
がちっ、と引き金を引く音と、荒い呼吸が繰り返されている。硝煙が晴れると、撃ち抜かれた少女が見えた。
だが、その体からは一滴の血も出ていなかった。顔の右半分を抉られた彼女は、ゆらりと起き上がった。
動くたびに、抉られた部分からぼろぼろと土が零れた。白い肌に包まれていたのは、人の血肉ではなかった。

「何を偉そうに。おお嫌だ、口の利き方を知らない人間と口を利いてしまったなんて、一生の恥だわ」

薄い唇が歪み、高飛車な言葉が吐き出される。フランシーヌの形をしたものは、ベッドから下りる。

「この私と擦れ違えただけでも素晴らしいと思いなさい。共和国があんなことにならなければ、あなたのような下民と私が顔を合わせることなど叶うはずのないことだったのだから」

顔の右半分と腹を弾丸に吹き飛ばされたフランシーヌの手が、身動いでいる兵士の顔を掴んだ。

「ああ、早くお父様が迎えに来て下さらないかしら。こんな街から、一瞬でも早く出てしまいたいわ」

フランシーヌの手が下げられると、頭を掴まれた兵士は先程の兵士と同じく、泥に顔を覆い尽くされていた。
その兵士がぐらりと倒れると、ふと、その目が上がった。その視線に射抜かれたジムは、思わず後退る。

「あ…」

「土、或いは砂を操る中級魔法の方法として確実なものは、その土を戒める魔力の根源を定めることである」

人でない少女は、外見から懸け離れた男の声で話し始めた。その間にも、兵士達の口と鼻を泥で塞いでいく。

「一般的には魔法文字の加工を施した魔導金属、もしくは魔力を込めた魔導鉱石を用いるが、それらが手元にない場合はどうするべきか。それは至って簡単な話で、石ころでもなんでも使えばいい。それすらないのであれば、土を固めて石にしてしまうことが最適だ。それぐらいの魔法だったら、君達ぐらいの腕になれば、呪文なんか使わずとも施せるだろうからね」

聞き覚えのある、声と言葉だった。驚きに驚いたジムが動けずにいると、少女は兵士達を全て倒してしまった。

「だが、今日、僕が教えてやりたいのはそんなことじゃない。その程度のことだったら、そこらの魔導書を読めばいいことだからね。僕が今日教えるのは、物質を操る際に生じる魔力の流れの規則性と、それに関する計算方程式だ。これを理解するためには、まずは初歩の初歩の魔法を知っていてもらわなければならないから、そのための確認をしたかったんだ。まぁ、魔法大学に進学するほどなんだから、知らないわけがないとは思うけどね」

土で出来た少女が、ジムを見据えた。

「さて。最初の質問だ。魔力によって固められた土から魔力を抜き、元の土に戻した時、その土に残留している魔力が完全に抜けるまでの時間を割り出すには、どんな計算式が求められる? 魔法に用いた魔力出力は五十とし、土に魔法を施していた時間は二時間十七分とする。それを踏まえて、計算してみたまえ」

ジムは、魔法大学にいるような錯覚に捕らわれたが、声を上げた。

「ヴァ、ヴァトラス講師! そこにいらっしゃるのですか!」

「さあ、答えてみたまえ。出来た者から僕の元へ来るように」

「リチャード・ヴァトラス講師!」

「魔法は不思議なものじゃない。多少の算段さえ出来れば、どんな仕組みかはおのずと理解出来る」

ジムの叫びが聞こえていないかのように、土で出来た少女は言い続ける。ジムは、混乱していた思考を静める。
そうだ。そうなんだ。リチャードの声で混乱してしまったが、少女を成している魔法は、そういうものではない。
フランシーヌの胸に埋まっている金属は、遠隔操作をするためのものではなく、単に魔力を充填しているだけだ。
そして、彼女は自分で考えて喋っているわけではない。魔導金属に封じられた、記憶を吐き出しているだけだ。
落ち着け、落ち着くんだ、落ち着けばなんとかなる。ジムは動揺で乾き切った喉に唾を飲み下し、小銃を構えた。
銃身の先の照準を合わせ、息を止める。肩を据えて引き金に指を掛け、ぐいっと押し込むと、銃声が轟いた。
空を切った弾丸は、土で出来た少女の胸、魔導金属を貫いた。途端に、少女の体はがらがらと崩れ始めた。
白い肌から色が抜けて柔らかな乳房が落ち、腕の付け根が砕け、倒れている兵士達の上に散らばっていった。
少女であった土塊は、魔力が抜けたのか、形を失っていき、土から砂と化して完全に崩壊してしまった。
ジムは、息を荒げていた。銃口を下げると、つんとした硝煙の匂いが鼻を突いて目を刺激し、涙が出てきた。
リチャードは、虫も殺さないような笑顔を振りまいていた。だから、その実もそうなのだと、思い込んでいた。
だが、違っていた。やはり、彼は戦犯だ。人を道具に貶めて人を土に埋めて殺した、紛う事なき戦争犯罪人だ。
そうでなければ、こんなことはしない。躊躇いもなく、傍にいた少女の姿をしたもので、人を倒せはしない。
悲しいのと、腹立たしいのと、訳が解らないのと、他にも様々な感情があり、全てが内側で渦巻いている。
ジムは、奥歯をきつく噛んだ。リチャード・ヴァトラス。その名もその姿もその講義も何もかもを過去にしよう。
そして、殺そう。彼は、戦犯なのだから。




街外れの道では、連合軍が検問を行っていた。
草原に続く道を、黒塗りの蒸気自動車が挟んでいる。その右側にある車の脇に立っている兵士は、街を望んだ。
朝靄に包まれている小さな街は、静かだった。離れた場所にいるので、何がどうなっているのか解らない。
銃声が何発か聞こえた気がしたが、それぐらいだった。戦闘が起きた様子はなく、街の空気は至極穏やかだ。
兵士、ジョンは両手に抱えた小銃を持ち直し、本隊に回されている兵士の一人、ジムの安否を心配していた。
ジョンとジムは、共和国から落ち延びた魔法大学の学生で、境遇が似ていることもあって友人になっていた。
ジョンは、今回の作戦で射殺されるはずの戦犯、リチャード・ヴァトラスの講義を受けたことはなかった。
それでも、大学の構内で擦れ違ったり見掛けたりしたことはあるので、多少なりとも困惑してしまっていた。
そのリチャードに傾倒していたジムは、それ以上だろう。ジョンは彼の心境を思い浮かべ、同情してしまった。
作戦が終わったら、やれる限り励ましてやろう。そう思っていると、街の方から重たい駆動音が聞こえてきた。
ごとごとと車輪を軋ませながら、黒塗りの蒸気自動車が近付いてきたので、ジョンはそちらに向き直った。
それは、連合軍の蒸気自動車だった。他の兵士達と共に敬礼していると、その蒸気自動車は検問の前で止まる。
運転席に座っていた軍服姿の男が身を乗り出し、ジョンを手招いた。蒸気機関がうるさいので、声を張る。

「ここ、誰か通ったかい?」

「いえ、誰も。何か異常でもあったのですか?」

ジョンが聞き返すと、軍服姿の男は軍帽の下から細い目を上げた。

「リチャード・ヴァトラスが逃亡した。こちらに向かっているとのことで、私は先回りをしてきたんだ」

「それは本当ですか!」

ジョンの向かい側、助手席側に立っている兵士が声を上げた。軍服姿の男は頷く。

「だが、まだ捕獲する機会は残っている。こちらに兵力を回して、重点的に固めてしまうんだ。そうして前後で挟んでしまえば、さしもの魔導師も身動きが取れなくなるだろうからな。私はこの道の先に行き、更なる逃亡を阻止しようと思う。すまんが、ここを通してくれないだろうか」

「了解しました」

ジョンは再び敬礼してから、軍服姿の男の階級章を見、付け加えた。

「大尉」

「それでは、武運を祈る。魔導師とはいえ相手は人間だ、決して倒せない相手ではない」

軍服姿の男は敬礼をして返してから、蒸気自動車を発進させた。ジョンは、その助手席にあるものに目を留めた。
座席の上に、いやに大きな袋があった。穀物を入れている麻袋なのだが、妙に丸みを帯びた膨らみ方をしている。
それが何なのか考えるよりも先に、蒸気自動車は走り抜けていった。煙を散らしながら、次第に遠ざかっていく。
黒塗りの蒸気自動車が山道に消え、こちらからは見えなくなった頃、また蒸気自動車の駆動音が聞こえてきた。
街の方へ振り返ると、先程と同じようにやってくる。その上にいる兵士は小銃を構えていて、穏やかではない。
ジョンが他の兵士達と顔を見合わせていると、蒸気自動車は検問の前で止まり、その上の兵士が叫んだ。

「おい、お前達! ここを誰か通らなかったか!」

「今し方、大尉どのが」

ジョンが返すと、その兵士は腹立たしげに喚いた。

「所属は聞いたのか!」

「いえ。リチャード・ヴァトラスの逃亡を阻止するのだと仰ったので、手間取らせてはいけないと思いまして」

ジョンの向かい側の兵士が言うと、兵士は力一杯車体を殴り付けた。

「それがリチャード・ヴァトラスだ! 気付かなかったのか、この馬鹿共は!」

「え、ですが」

ジョンが困惑すると、兵士は怒りで顔を真っ赤にしながら叫び散らす。

「我々が宿屋に気を取られている間に、連合軍の本陣が襲撃され、ケビン・カーン大尉どのの軍服と蒸気自動車が一台奪われたんだ! 奪ったのは当然、リチャード・ヴァトラスとその連れの女だ! いくら軍服を着ていたからとはいえ、顔は見たはずだろうが! なぜ解らなかったんだ!」 

「上官の方々も数がおりますので、てっきり新しく配属された方なのかと…」

ジョンが戸惑いながら答えると、兵士は強く握り締めた拳を振るわせている。

「この、役立たず共が! 貴様ら全員、後で懲罰を与える!」

その激しい罵声に、ジョンはたまらずに首を縮めた。兵士のがなりは続き、ひっきりなしに文句が並べ立てられる。
本隊がダメだの共和国移民は使えないだの魔法なんて絶滅しろだの、中には八つ当たりと思えるものもあった。
ジョンは神妙な顔を作ってはいたが、その言葉を聞き流していた。意識は、リチャードなる戦犯に向いていた。
彼の逃げ方は、実に鮮やかだった。無駄もなければ怪しむ隙も与えずに、あっという間に走り去ってしまった。
リチャードの連れている女は、恐らく、あの袋の中にいたのだろう。大きさからして、それ以外考えられない。
ジョンはリチャードに感心していたが、顔には出さず、口にも出さないことにした。決して、言うべきではない。
ただでさえいきりたっている兵士の神経を逆撫でしてしまうし、下手をしたら、反逆者として処刑されてしまう。
ジョンは、あの袋の中にいたであろう少女に思いを馳せた。聞いた話では、彼女はかつてメイドだったという。
リチャードの住まう屋敷に仕えていた少女は、一体どういう経緯で、戦犯となった男の傍にいるのだろうか。
強引に連れ回されているのであれば連合軍に助けを求めるはずだが、今まで一度だってそんなことはなかった。
それどころか、リチャードの逃亡を手助けしている、との話も聞く。ますます、その少女の考えが解らなくなった。
行く末は間違いなく不幸なのに、なぜ。ジョンは内心で首をかしげたが、一向に解らないので考えるのを止めた。
他人の感覚など解るはずなどないのだから、考えるだけ無駄というものだ。




黒塗りの蒸気自動車は、山間の道に止まっていた。
蒸気機関から白い蒸気を溢れ出させ、辺りには熱が立ち込めている。その座席で、二人は安らぎを得ていた。
運転席に座る軍服姿の男は軍帽を外し、ぽいっと放り投げた。帽子の中に入れていた長い髪が、落ちる。
一括りにしていた薄茶の髪を背に放ってから、足から軍靴を脱ぎ、これもまた放り投げてから、息を吐いた。

「ああもう、動きづらいったらありゃしない」

「…それは私のセリフです」

助手席に座っている赤毛の少女は、後部座席に投げた袋を忌々しげに睨んだ。あの中は、暗くて狭かった。

「もう二度と、あんなものに入れないで下さいね」

「無事に逃げられたんだから、良しとしなきゃ」

軍服の襟元を緩めたリチャードは、軍帽に押し込めていたせいで歪んでしまった前髪を指で梳いている。
薄手の寝間着姿のキャロルは、後部座席の足元に隠していた荷物から上着を取り出すと、羽織った。

「それもそうですね」

検問を突破した後に蒸気自動車を飛ばし、大分遠くまで来たが、追っ手はなく、ちゃんと逃げられたようだ。
キャロルは安堵して、全身から息を吐き出した。蒸気自動車に揺られている間は、気が気ではなかった。
自分の魔法の腕には自信がないし、あの魔法はまだ上手く操れていないので、時間を稼げるかどうか怪しかった。
だが、成功してくれたようだ。リチャードの立てた計略の半分を担えたことが、妙に誇らしくて嬉しかった。
リチャードの立てた逃亡するための計略は、こうだった。まず、キャロルが、魔導金属の板に魔法を施した。
それを適当な土に埋め込み、魔力を注ぎ込んでキャロルとそっくりな姿形に変化させ、宿の部屋に運び込んだ。
キャロルは、魔導金属を扱うのが得意だ。父親も魔導金属に長けていたからか、不思議と相性が良いのだ。
なので、土の質感や冷たさを失せさせて、見た目も温度も感触もまるきり同じの人形を作ることが出来た。
その人形の外見を、リチャードの魔法で更に変え、黒髪青目のフランシーヌとし、ベッドの中に寝かせておいた。
無論、それだけではすぐに怪しまれるので、言葉を覚えさせ、近付かれたらその都度言い返すように仕掛けた。
少しでも時間を稼いで、注意を宿屋へ向けさせておくために。その間に、兵士の捌けた野営地に向かった。
案の定、連合軍は大半の兵士を宿屋へ回していて、野営地には必要最低限の兵士しか残されていなかった。
ここでもまた、簡単な魔法を用いた。見張りの兵士に暗示を掛けて、二人が怪しくないものだと認識させた。
そうすれば、下手に眠らせたりするよりも確実だ。眠らせたり殺したりすれば、それだけで目立ってしまう。
そして、呆気なく野営地に侵入した二人は、士官用のテントにあった予備の軍服を奪い、蒸気自動車も奪った。
蒸気自動車の蒸気機関は魔導鉱石式ではなかったが、魔力で熱を生じさせて蒸気機関を動かし、走らせた。
後は、知っての通りだ。今頃、検問の兵士達は叱責されているだろうと思うと、少しばかり悪い気がしてきた。
だが、仕方ないことだ。キャロルは安堵と共に眠気がやってきたので、欠伸をしてから、座席に身を沈めた。
リチャードは、くたびれ果てているキャロルに目を向けた。袋の中にいたため、波打った赤毛が乱れている。
瞳の色も髪の色も態度も、元に戻っていた。リチャードは運転席から身を乗り出すと、妻に顔を寄せた。

「それで、次はどこに行こうか?」

「リチャードさんが決めて下さい。私なんかが決めると、面倒なことになりそうですから」

キャロルは腕を伸ばしてリチャードの首に回し、その後ろで手を組む。

「ですけど、次の場所に行く前に、少しぐらいお休みになりませんか?」

「うん、悪くない考えだ」

リチャードはキャロルの腰を引き寄せ、間を狭めた。弾力のある温かな体を腕に納めてから、髪に頬を当てる。
滑らかな額に落ちた髪を払ってやり、その額に唇を当て、目尻に当て、頬に当ててから、唇を重ね合わせる。
舌の先で唇を割り、滑り込ませる。彼女の舌をまさぐって絡めてやると、鼻に掛かった喘ぎが小さく漏れた。
唇を離すと、キャロルの額に額を当てた。リチャードは彼女の顔を両手で挟むと、にんまりとした笑みになる。

「まぁ、別にどこだっていいんだけどね。君がいてくれれば」

「私もです」

キャロルは気恥ずかしげにしながらも、微笑んだ。リチャードはそれがたまらなく愛おしくなり、再び口付けた。
服に手を掛けようかと思ったが、さすがに思い止まった。外だし、何よりこんな真っ昼間では彼女が哀れだ。
震えるほど羞恥に苛まれる姿は可愛らしいのだが、あまり追い詰めてしまうと本当に泣き出してしまうからだ。
それに、どうせ楽しむなら彼女も楽しませたい。ようやく彼女の体が慣れてきて、心地良くなってきたのだから。
リチャードがキャロルから顔を放すと、キャロルは切なげな眼差しで、軍服の胸元をきつく握り締めていた。

「ちょっと、思い出しちゃいました」

キャロルは、リチャードの広い胸に顔を埋めた。

「あの日のこと」

「大丈夫だよ。僕はもう、君に銃を向けたりなんてしないし、いなくなったりしない」

リチャードは、キャロルの後頭部に手を添えた。キャロルは小さく頷いたが、顔を上げなかった。

「解ってます。解ってますけど、ちょっとだけ、思い出しちゃっただけなんです」

「気持ちは解るよ、僕も」

リチャードはキャロルを抱き締める腕に力を込め、遠い目をした。三年前の雪の日は、忘れることが出来ない。
三年前の壮絶な出来事の諸悪の根源であるキース・ドラグーンが最期を迎えた日は、再会の日でもあった。
キースに命じられて、今は無きヴァトラスの屋敷に戻ってきたリチャードは、キャロルに銃口を向けてしまった。
それが、キースを填めるためには仕方ないことだと解っていても、弾丸は入れていなくとも、心苦しかった。
リチャードは何度もそれを詫び、キャロルは何度となく許した。そのおかげで、二人の愛は更に深くなった。
だが、それだけではない。キースに対しては様々な複雑な思いがあり、それは三年が過ぎた今でも消えなかった。
リチャードが軍服を着ていたのは三年前の一時期だけだが、その時期は、お互いにとって辛い時でもあった。
心を通わせたばかりであったのに、キースによって引き離されてしまい、身を裂くような思いを味わった。
それを、嫌でも思い出してしまう。リチャードは腕の中にいる彼女の体温と感触を味わいながら、目を閉じた。

「大丈夫さ」

リチャードは、この上なく幸せそうだった。

「死ぬ時は、一緒だから」

「…はい」

キャロルは彼の背に手を回し、抱き返した。キャロルにだけ聞こえるように、愛しているよ、と言われた。
すぐ傍から、彼の鼓動が聞こえる。その音を聞いていると、胸中が満たされていくような感覚が起きてきた。
なんて、幸せなんだろうか。心から愛した人から愛されて、その腕の中にいることほど、嬉しいものはない。
平和な未来などないことなど、解っている。逃亡してしまった時点で、リチャードの罪状は更に重くなっている。
いつか、必ず捕まってしまうだろう。そして、リチャードだけでなく、キャロルも処刑されてしまうことだろう。
だが、それでも構わない。愛しい夫の傍で眠りに落ち、その腕の中で明日を迎えることが出来るだけでいい。
いつ終わるとも知れない日々であっても、逃げ続けた先に待ち受けているものが、破滅であると解っていても。
何一つ、厭わない。




戦場で罪を作り、更なる罪を重ねながら、二人は逃げる。
穏やかな日常を諦め、夫婦としての幸せを切り捨て、お互いを偽りながら。
その先にあるものが見えていても、それが幸福でないと知っていても。

愛し合うため、生きるため、逃亡するのである。







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