ヴィクトリアは、遠い目をしていた。 中世時代の様式の、人が入れるほど大きな暖炉の前に据えてあるソファーに、小柄な少女が身を沈めている。 エプロンドレスを着た膝の上に広げてある魔導書は、先程から同じページのままで、一向に読み進められない。 艶やかな黒髪を背中の中程まで伸ばした、灰色の瞳を持つ少女は、日差しの差し込む窓をただ見つめていた。 薄く開いていた形の良い唇を、少し舐めた。少女は、テーブルを挟んだ向かい側にいる父親に目を向ける。 「お父様」 「んあ?」 豪奢なテーブルに製図用具を広げ、魔導兵器の設計図を引いていたグレイスは、顔を上げた。 少女、ヴィクトリアは父の書いていた設計図をちらりと見てから、灰色の上下を着た呪術師を見据えた。 「わたし、暇だわ」 「だろうぜ」 オレも暇だ、とグレイスは書きかけの設計図を見下ろした。そこには、人型の機械人形の図があった。 「今は呪いの仕事もねぇし、フィフィリアンヌも近頃は動きがねぇし、愛しのギルディオス・ヴァトラスは異能部隊の事が片付いちまったから、オレとの関わりもまたなくなっちまいやがった。とことんやることがねぇもんだから、なんでもいいから何かを考えていねぇと、頭ん中が腐っちまいそうなんだよな」 「それはなあに?」 ヴィクトリアが身を乗り出して設計図を覗き込むと、グレイスは製図用のペンをくるりと回す。 「改良型だよ、アルゼンタムの。つってもまぁ、発注はしねぇけどな。書いてみただけ」 「そう」 ヴィクトリアは乗り出していた体を戻し、ソファーに座り直した。歳を重ねて成長した娘を、グレイスは眺めた。 娘は、先月に七歳になったばかりだった。顔立ちには妻の面影が色濃く表れ、瞳の色はグレイスそのものだ。 鼻筋は綺麗に通り、唇は艶やかで、頬は白い。華奢な顎から首筋にかけては、子供らしからぬ色気があった。 目元は父に似て柔らかいが、表情は母に似て冷ややかだ。常に物静かで、言葉少なで、たまにしか笑わない。 時折見せる子供らしい表情や年相応の態度は可愛らしいのだが、それを見せる相手は、両親とレベッカだけだ。 ヴィクトリアは、膝の上に載せていた上級魔導書を閉じた。ソファーから下り、灰色のエプロンドレスを翻した。 「お父様」 ヴィクトリアは分厚い魔導書を胸に抱え、父親を見上げた。 「わたし、人を殺してみたいわ」 「おう、やってみろやってみろ。今は戦時中だから、そこら辺に適当なのがごろごろしてるぞー」 グレイスは嬉しそうに笑いながら、頷いた。だが、ヴィクトリアは、不満げに眉をひそめる。 「違うわ。もっと、素敵な相手を殺してみたいわ」 「雑兵じゃダメなの?」 「ダメなのよ」 ヴィクトリアはつまらならさそうに、頬を張る。 「お父様やお母様みたいに、素敵な相手を殺してみたいのよ」 「素敵な相手ねぇ…」 グレイスが答えあぐねていると、居間の扉が開いた。紺色のメイド服を着た幼女と共に、ロザリアが入ってきた。 不機嫌そうなヴィクトリアと弱っているグレイスに、二人は顔を見合わせたが、ロザリアが夫と娘に尋ねた。 「どうしたのよ。ヴィクトリアが我が侭でも言ったの?」 「いや、我が侭っつーか」 グレイスが妻に返すと、ヴィクトリアは二人の傍に歩み寄ってきた母を見上げた。 「お母様。わたし、人を殺す仕事をしたいわ」 「あー、そういうことですかー」 ティーポットとカップ、菓子を載せた盆を持っていたレベッカは、家族の集まっている暖炉の前にやってきた。 ロザリアも答えに困ってしまい、ちょっと肩を竦める。グレイスも、どうしたものかと思いながら娘を見下ろした。 ヴィクトリアはどうしてもやりたいらしく、小さな唇を曲げている。我が侭を言う時は、大抵この顔になる。 グレイスとしては、ヴィクトリアの願いは叶えてやりたいし、そろそろ暗殺に手を染めさせても良いと思っていた。 ヴィクトリアは、グレイスに負けず劣らずの高魔力を有している上、魔法を理解し操る才能は相当なものだ。 簡単な、だが、確実に人を殺せる呪術も何度か使わせてみたし、いずれの呪いも素晴らしく出来が良かった。 だから、十歳になる前に人を殺すことを経験させて、行く行くはあらゆる呪殺技術を教えてやろうと思っていた。 その手始めに相応しい暗殺の仕事がないものかと待っているのだが、最近は情勢が不安定すぎて仕事がない。 共和国と周辺諸国の全面戦争が始まったばかりの頃は、双方の軍から、暗殺依頼が絶え間なく舞い込んできた。 上位軍人を殺して成り上がろうとする軍人や、下位軍人を殺してその手柄を奪おうとする上官がいたからだ。 だが、戦争が始まってから五年も過ぎてしまうと、内部のゴタゴタに関わる暗殺のほとんどは終えてしまった。 キース・ドラグーン演じるサラ・ジョーンズ大佐に関わっていたせいで、たまに暗殺者がやってくるぐらいだ。 そういう輩は、グレイスが手を下すこともあるが、基本的にはレベッカとロザリアがいたぶりながら殺している。 しかし、こういう日に限ってそんな輩は灰色の城には潜入しておらず、適当に殺す相手がいない状態だった。 グレイスは、娘の髪色とそっくりな自身の黒髪をいじっていたが、ふと思い付いた。こういう時は、彼女に頼ろう。 「フィフィリアンヌにでも頼めば、適当な暗殺の仕事でもくれるかもしれねぇぞ?」 グレイスは身を屈め、娘と目線を合わせた。途端に、ヴィクトリアは嬉しそうにする。 「本当なの、お父様?」 「まぁ、あの女はあなた以上に周りがぐちゃぐちゃだし、殺し殺される相手なんて腐るほどいるでしょうね」 ロザリアは窓の外に目をやり、戦火で城壁が崩壊した旧王都の、西側の森を見た。 「あの女の持ち物だった魔導師協会も、キース・ドラグーンがやらかした能力強化兵の件とか、魔導師協会本部の地下倉庫から魔導書が奪取された件だとかでごちゃごちゃしているし、その混乱に乗じて会長どのの首を刎ねようなんていう人間が、少ない方がおかしいわ。それでなくても、魔導師協会は様々な犯罪の温床になっていた場所よ。政府の深部まで影響を及ぼせていたせいで、魔法のためにとさえ言えば、大抵の犯罪行為を正当化出来ていたんだから。そんな組織の頂点にいたのに、あの女は良く今まで生き延びてこられたわね」 「ま、フィフィリアンヌだからな。あの女を殺せる人間がいたら、会ってみたいぜ」 グレイスは妻の横顔を見ていたが、娘に目を戻した。ヴィクトリアは、目を輝かせている。 「フィフィリアンヌ・ドラグーンね。わたし、あの人は好きよ。血も涙もないんだもの」 「おう、オレもだ。あの女は遊び甲斐があって楽しいからなぁ」 グレイスは少々乱暴に、ヴィクトリアの整えられた髪を乱した。ん、とヴィクトリアは小さく声を漏らした。 「でも、行ったところでほいほい殺しの話なんて寄越すかしら。罠を張られるかもしれないわ」 疑わしげに、ロザリアは細い眉を吊り上げた。グレイスは娘を抱き寄せながら、妻を見上げる。 「その時はその時だよ。喜んで、あの女と真っ向勝負をしてやるつもりだ」 「たぶんー、大丈夫だと思いますー。それにー、今はー、フィフィリアンヌは忙しいですからー」 レベッカは、盆から出して並べた四つのティーカップに、丁寧に紅茶を注いでいく。 「御主人様と遊んでいる暇なんてー、ないと思うのでー、心配しなくても良いと思いますー」 「あ、ひっでぇなぁレベッカちゃん」 グレイスは、その言葉とは裏腹に、とても楽しげだった。レベッカは主の感情を察して、にこにこしている。 ロザリアもそのようで、普段は冷たい笑みを作っている口元が綻んでいる。どちらも、娘の成長が嬉しいのだ。 父親の腕の中に押し込められてしまったヴィクトリアは、ぐいっとグレイスの胸を押して腕を緩ませ、脱した。 ここまで喜んでもらえるとは思っていなかったので、少し驚いていたが、喜んでもらえるとこちらも嬉しい。 ヴィクトリアはあまり器用に出来ない笑顔を浮かべてみせたが、はにかんでしまい、顔を伏せてしまった。 その様子に、グレイスは一層娘が愛おしくなってしまったが、また抱き締めるとこの表情が失せてしまう。 ヴィクトリアは小さな手で魔導書を抱えながら、両親をもっと喜ばせてやりたい、という思いが湧いてきた。 フィフィリアンヌが寄越してくる暗殺依頼がどんなものかは解らないが、素晴らしく美しい惨劇を作り出そう。 そうすれば、二人とも今以上に喜んでくれるだろう。父親のように邪悪に、母親のように残虐な殺しをしよう。 少女の笑みに、どす黒いものが混じった。 そして、ヴィクトリアは父親と共に竜の城にやってきた。 グレイスがいきなり絡んでしまったせいで、喧嘩腰のギルディオスに通されたのは、二階の居間ではなかった。 石組みの階段をいくつも昇り、幅広で底冷えのする廊下を延々と通った先にあった、スイセンの扉の部屋だった。 竜の城の本来の主が誰であったかを示す、スイセンの家紋の浮き彫りが刻み込まれた、分厚く古い扉だった。 ギルディオスがその扉を叩くと、心底鬱陶しそうな態度の少女の声で、入れ、とだけの簡潔な返事があった。 扉の中は、本の要塞だった。壁という壁は本棚に埋め尽くされ、その本棚は隙間なく分厚い本が詰めてある。 床だけでなく天蓋付きのベッドの上にも、所構わず大量の本が重ねて置いてあり、独特のカビ臭さがあった。 本の要塞の主は、部屋の中ではまだ本が少ない窓際にある、やたらと大きな机に向かって何かを書いていた。 机の上には、本ではなく、これまた大量の魔法薬が入った瓶と実験器具が並んでいて、魔法薬の匂いがした。 薬瓶の間には、一つだけ大振りなワイングラスが置いてあり、その中には赤紫の粘液が充ち満ちていた。 顔を伏せるようにして書き物をしていたツノの生えた少女は、背中の小さな翼を下げると、目を上げる。 瞳孔が縦長の爬虫類じみた赤い瞳を動かし、灰色の呪術師の傍で無表情に立っているヴィクトリアを捉えた。 「酔狂な娘だな。私の元になど来るとは」 「あなたほどではないと思うわ」 ヴィクトリアが間髪入れずに言い返すと、フィフィリアンヌは鼻先に載せていたメガネを直した。 「まぁいい。どうせ、下らん用件だろう。さっさと話せ。見ての通り、私は忙しいのだ」 「何やってんだよ、フィフィリアンヌ」 グレイスが尋ねると、また書き物を始めたフィフィリアンヌに代わり、ワイングラスの中の伯爵が返した。 「この女は、数日前から魔導師協会に所属していた魔導師の名簿を、全て見直しているのである。きな臭かったり背後関係が見えなかったりする輩の名を挙げて別紙に印しながら、数千人程度いる魔導師共の名前を延々と頭に叩き込んでいるのである。全く持って、暇の極みなのである」 「考えただけで、頭ん中が煮えちまいそうだぜ」 ギルディオスが、がしゃりと肩を竦める。フィフィリアンヌは、名簿と思しき分厚い帳面をめくっている。 「なかなか面白いがな。これだけ大量の人間が私の足元にひれ伏していたかと思うと、気分が良くてならんのだ」 「あー、オレもそういうの解るなー。今までに殺してきた依頼主とかの名簿見たりするのって、気持ちいいんだよな」 にこにこしながら、グレイスはフィフィリアンヌの向かう机に寄った。ヴィクトリアも、それに続く。 「ええ、お父様。考えただけで、面白そうだわ」 ヴィクトリアはフィフィリアンヌのいる机の前までやってきたが、机の背が高いので、見上げる必要があった。 本と薬瓶に囲まれているため、竜の少女の姿が良く見えず、ヴィクトリアが背伸びをしていると、抱え上げられた。 振り返ると、ギルディオスがヴィクトリアの両脇を持っていて、そのまま持ち上げて肩の上に載せ、座らせた。 ギルディオスの上に肩車をさせられたヴィクトリアは、少々戸惑っていたが、抵抗する必要はないと思った。 それに、あのままではフィフィリアンヌとの会話もままならなかった。むしろ感謝するべきだ、と思い、言った。 「とりあえず、お礼だけは言っておくわ。ありがとう、ギルの小父様」 「ヴィクトリア。しばらく見ねぇうちに大きくなったなぁ、お前も」 ギルディオスは顔を逸らし、頭上のヴィクトリアを仰ぎ見た。その隣で、グレイスが不満げにむくれた。 「ヴィクトリアだけじゃなくてオレも構ってくれよぅ、ギルディオス・ヴァトラスぅ」 「死んでもごめんだ」 乱暴に吐き捨てたギルディオスは、再びヴィクトリアを見上げた。 「んで、今日はどんな用事だ? まぁ、フィルの言う通り、ろくでもねぇことなんだろうとは思うけどよ」 「ええ」 ヴィクトリアはギルディオスの兜を掴んで落ちないようにしてから、フィフィリアンヌに向き直った。 「わたし、人を殺してみたいわ」 フィフィリアンヌは名簿から抜き出した名前を書く手を止め、メガネの下から目を上げて、ヴィクトリアを見据えた。 竜の少女の赤い瞳が、少女の灰色の瞳を射抜く。きつく吊り上がっているが形の良い目が、鋭さを増した。 フィフィリアンヌはようやくペンを置くと、分厚いレンズを填め込んである丸いメガネを、鼻先から外した。 頬杖を付くと、甲冑の肩に担がれているヴィクトリアをまじまじと眺め回していたが、唇の端を引きつらせた。 「ヴィクトリア。貴様の魔法の腕は?」 「拳大の魔導鉱石さえあれば、この城なんて吹き飛ばせるわ」 ヴィクトリアが淡々と返すと、フィフィリアンヌは更に問うた。 「魔法文字だけで魔力を魔法へと変化出来るか?」 「ロロイだけで炎が作れるわ」 「呪文の意味は何だ」 「言葉による力の戒めよ。なくても使えないことはないけど、魔力に縛りを与えることで魔法を使いやすくできるわ」 「六芒星の二本目の線は」 「魔法陣に注がれた魔力に圧力を掛けて、魔力を魔法へと変換させるために不可欠な均衡の一片を成すものよ。対になる位置に存在し、二本目の線と同等の作用を与える線は、下向きの三角形の上の線よ」 「ゼゼンの語源は」 「古代竜族言語の、波。咆哮に込められた魔力によって空気中に生じた振動波を制御し、破壊力に変換するために不可欠な魔法文字の一つよ。発展系のズゼズは、近代魔法文字のピヴェの元だけれど、ピヴェはあくまでも汎用型だから、物質に対する振動を制限するだけで出力を上げることは出来ないようにされているわ」 「ピヴェは汎用型だが、出力を上げられないように制限を施してはいない」 フィフィリアンヌは、ヴィクトリアを射抜くように睨みながら、切り返した。 「制限を施されていると表現するに値する使用法は、魔法陣の上に連ねた時に、ピヴェの前後の魔法文字が、前に、オル、ニニ、エダン、シュド、後に、ウルス、マトリ、ヴェクト、を用いた時だけだ」 「まあ」 ヴィクトリアは、ほんの少しだが悔しげにした。フィフィリアンヌは、僅かに目を細める。 「だが、いい答えだ。恐らく、貴様の読んでいた魔導書の発行年月日が一千百二十年前後のものだったのだろう。その頃は古代竜族言語の解析は七割程度しか進んでおらなかったから、ピヴェの発展系の使い方が間違っていて当然なのだ。その頃は、ゼゼンが振動波を制するための魔法文字ではなく、魔力を制する作用を持った魔法文字の一つとしてしか認識されていなかったからな」 「合ってる?」 グレイスに尋ねられ、ヴィクトリアは小さく頷いた。フィフィリアンヌの言う通りの年代の魔導書を、良く読んでいた。 「ええ。違わないわ」 二人の少女の会話を聞き流しながら、ギルディオスは内心で渋い顔をした。ここまで来ると、全く意味が解らない。 長い間フィフィリアンヌの傍にいて、読み書き計算も出来るようになり、魔法文字の読み方も大半は覚えている。 だが、専門的なことは、昔から面白いほど理解出来ない。いくら説明されても、頭の中に入ってきてくれないのだ。 多少は努力してみるのだが、理屈の固まりのような言葉と魔法の複雑さに参ってしまい、結局は理解出来ない。 だから、先程の会話で解ったのは、二人が口にした魔法文字ぐらいだ。それ以外は、何一つ解っていなかった。 フィフィリアンヌは、どことなく楽しげだ。さすがの彼女も、大量の名簿を読むことに飽きていたようだった。 「ふむ」 ため息に似た吐息と共に声を漏らしたフィフィリアンヌは、手元の名簿に手を滑らせ、一人の名に指を止めた。 「丁度、屠っておくべき男がおる。キース、いや、サラ・ジョーンズに人生を掻き乱された哀れな男だ」 とんとん、と白い指先がその名を小突く。 「奴はかつて、サラ・ジョーンズ大佐率いる特務部隊に派遣されていた士官候補生だったのだが、サラ・ジョーンズ大佐が己の計略のためにブラッド・ブラドールの暴走による破壊行為の隠蔽を行い、その際に犠牲とさせられてしまったのだ。それ以降、奴は転落を始める。共和国議会の下院議員を父親に持っていたのだが、サラ・ジョーンズに惑わされた将軍や共和国政府高官の手によって父親は引き摺り下ろされてしまい、いい加減な罪で処刑された。奴は、本来であれば訓練所送りになるところだったのだが、輸送の途中に脱走し、現在は魔導師共が造った秘密結社めいたものの中でのさばっている」 フィフィリアンヌは間を置かずに、続ける。 「奴は、その秘密結社を造った魔導師共が持っている、魔導師協会の機密であった魔導書を売る算段をしている。素人になど操れない魔法ばかりが印されていて、そんなものが売り捌かれて裏でも表でも流通してしまったら、国際政府連盟が推し進めている魔法禁止条令が議会を通りかねん。そうなってしまえば」 「商売上がったり、なのである」 ごぼり、と伯爵が気泡を吐き出した。ヴィクトリアは、目を丸くする。 「まあ。あなたって、なんて利己的な人なのかしら」 「いっそのこと、オレみたいになればいいのに。その方が楽だぜー、色々と」 グレイスがにたりとすると、フィフィリアンヌは灰色の呪術師を見上げた。 「そうしたいのは山々なのだが、魔導師協会の内紛が全て片付いて再建して魔法に市民権が戻るまでは、会長の座から離れられんのだ。この状態で放り投げたら、政府やら軍やらに悪用されるのは目に見えているからな」 「んで、フィルに商売の危機をもたらしかねない野郎の名前は、なんつーんだ?」 ギルディオスはヴィクトリアの柔らかな足を支えながら、身を屈め、フィフィリアンヌの指している名を覗き込んだ。 「ハワード・アンダーソン。聞いたことねぇ名前だな」 「ニワトリ頭が知らないとなると、元々大したことのない奴だったのやもしれんな」 キースに使い捨てられるような人間だ、と付け加えてから、フィフィリアンヌは今一度ヴィクトリアを見上げた。 「ヴィクトリア。貴様には、ハワード・アンダーソンの暗殺と魔導書の奪還を命ずる。して、報酬は何が良いかな」 「私にも扱える拳銃がいいわ。お母様のものは大きすぎて、私の手には余ってしまうのよ」 ヴィクトリアは子供らしい顔になり、小さな両手を重ねた。フィフィリアンヌは引き出しを開け、その中を探った。 様々な書類や小物などの間を掻き分けて取り出したのは、いつかの日、ギルディオスに突き付けた拳銃だった。 全体的に小振りな銀色の拳銃で、あまり長さのない銃身が滑らかに光っている。それを、ごとり、と机に投げる。 「事が終わったら、これをやろう。随分前にラミアンから寄越されたのだが、使う機会がないのだ」 「だろうな」 その言葉に、ギルディオスは納得した。考えてみたら、フィフィリアンヌが銃を撃つ様など、一度も見たことがない。 遠い昔に、使ってみたが射撃の腕が皆無で散々だったのは魔導拳銃であって、火薬で鉛玉を放つ拳銃とは違う。 それに、彼女の場合、銃を撃つよりも魔法を使った方が速い。それでなくても、竜族は人間を超越しているのだ。 撃たれたところで、弾が貫通していればすぐに回復出来るし、やろうと思えば撃たれる前に相手の拳銃を潰せる。 ヴィクトリアは、フィフィリアンヌの差し出した銀色の拳銃が気に入ってしまったらしく、じっと見つめている。 グレイスは、それがなんだか面白くなかったが、娘のやる気に水を差すのも何だと思い、口には出さなかった。 フィフィリアンヌは、ハワード・アンダーソンに関する情報を早速書き写していて、紙にペンを走らせている。 手近にあった便箋の半分程度を、神経質な雰囲気がある鋭角な文字が埋め尽くした頃、彼女の手が止まった。 「だがやはり、ヴィクトリア一人だけというのは気掛かりだな」 「だからっつって、オレかレベッカちゃんが一緒に行くわけにもいかねぇしなぁー。そんなことしたら、目立っちまって暗殺どころじゃなくなっちまう」 グレイスはかなり残念そうに、肩を落とした。ギルディオスは、頭上のヴィクトリアに言う。 「かといって、オレも行けねぇな。異能部隊に関わるゴタゴタがまだ落ち着いてないうちに、下手なことをしちまうと、ゼレイブに逃げたラミアンとジョーだけじゃなくってフィオ達にも迷惑が掛かっちまうし、ダニー達にも影響が出るかもしれねぇし、巡り巡ってリチャードとキャロルまでやられちまうかもしれねぇからな。けど、やっぱ、一人だけっていうのはなぁ…」 「そうね。わたしも、一人だけでは困ってしまうわ」 ヴィクトリアはギルディオスを見下ろし、呟いた。そのうちに、彼らの視線は揃ってある一点に向かっていった。 その先には、ワイングラスの中に満ちたスライムがいた。彼らの視線に捉えられた伯爵は、ぐにゅりと身を捩る。 「我が輩、であるか」 「私は忙しい。ニワトリ頭は危うい立場にいる。グレイスは目立ちすぎる。それだけの理由だ」 フィフィリアンヌはワイングラスの上に手を翳し、スライムを浮かび上がらせて掴むと、その三分の一を千切った。 「うごぉおおおう!」 突然の痛みに驚いた伯爵はぐにゅりと蠢き、彼女の冷ややかな手から脱してワイングラスに戻ると、叫んだ。 「いきなり何をするのであるか、フィフィリアンヌよ! 麗しき我が輩が腐敗したらどうしてくれるのである!」 「案ずるな、伯爵。貴様はもう腐っている」 フィフィリアンヌは伯爵の三分の一を、手元にあった空の薬瓶に入れた。 「今回も、貴様の意識はそちらに残しておけ。やりたくないのは解るが、ヴィクトリアの手元から空間転移魔法などで逃げ出すのではないぞ。そんなことをしたら、貴様の命はないぞ」 「そういうこと」 グレイスは伯爵の入ったワイングラスに顔を寄せると、指先でワイングラスの端を弾き、ぴんと鳴らした。 「オレの娘を危険に晒してみろ、死ぬよりも嫌な目に遭わせてから呪い殺してやるからなぁ」 「…声が笑っておらんのである」 グラス越しに見えるグレイスはにこやかに笑っていたが、目は笑っておらず、口調も低めてあり威圧感があった。 伯爵は、ぶるりと身悶えした。グレイスの末恐ろしさは、フィフィリアンヌと共にいれば身に染みて解っている。 こうなってしまっては、もう断ることは出来ない。伯爵は気が進まなかったが、ヴィクトリアに視点を合わせた。 ヴィクトリアは無表情だったが、フィフィリアンヌのそれとは違っていて、存在感の薄い類の無表情だった。 フィフィリアンヌのような威圧感や冷淡さはないものの、彼女とは逆に、底知れぬ闇のようなものが垣間見えた。 さすがに、グレイスとロザリアの娘ということだけはある。両親の持つ悪い部分を継ぎ、更に凝縮している。 ヴィクトリアはギルディオスの肩の上から、手を伸ばしてきた。伯爵のワイングラスに触れると、薄く笑った。 途端に、伯爵の体組織を繋ぎ止めている魔力が逆立った。電撃にも似た魔力の奔流に、伯爵は驚いてしまった。 「こっ、これ!」 「少し、確かめただけよ。あなた、なかなか面白いわ」 ヴィクトリアは伯爵のワイングラスから手を放すと、細い指先を唇に添えた。 「うふふ。どうやって、そのハワードとかいう人を殺してやろうかしら」 「奴を殺す算段は自分で考えろ、ヴィクトリア。私はまだまだ仕事があるのでな」 フィフィリアンヌは便箋にびっしりと情報を書き込むと、インクが乾いたのを確かめてから、丁寧に折り畳んだ。 便箋と揃いの封筒に入れてから、ヴィクトリアに渡した。ヴィクトリアは大事そうに、その封筒を受け取った。 「ええ、解っているわ。とても素敵なことだもの、自分でやらなくては楽しくないわ」 ヴィクトリアは封筒をそっと撫でながら、笑っていた。どんな呪いで、どうやって人を殺そうか、考えていた。 魔力を絞り出して体組織を崩壊させるのも悪くないし、内蔵をじわじわと腐らせて苦しめるのも面白そうだ。 切り落とさせた腕を喰わせてしまうのも楽しそうだし、相手を生かしつつその血で魔法陣を描いて呪うのも良い。 見た目は綺麗なまま絶命させて魂を抜き、その魂を再び死した肉体に戻して、腐りながら果てさせるのも素敵だ。 どんな方法が良いだろう。どうやって、素敵な殺し方にしよう。考えただけで、ぞくぞくする快感が沸き起こる。 ああ。とても気分が良い。ヴィクトリアは封筒を胸に押し当てると、うっとりと目を細め、想像していた。 殺戮した後に浴びるであろう、返り血の温かさを。 06 5/20 |