ドラゴンは眠らない




はじめてのおつかい



十日後。ヴィクトリアは、雑踏の中を歩いていた。
灰色のエプロンドレスではなく、闇から切り取ったような黒の服を着て、肩からは革のカバンを提げている。
だが、そのどれも目立つようなものではない。スカートの長い服も装飾が少なく、カバンも使い込んである。
艶やかな黒髪はいつも通りに背中に流し、出来る限り表情を失せさせ、気配を殺して、ただ歩いていた。
彼女の周囲を行き交う人々は、戦地から逃げ延びてきた人々のようで、誰も彼も疲れ果ててすり減っている。
辛うじて破壊されずに残っていた街並みにも、戦前のような活気はなく、街全体の空気が重たく沈んでいた。
人の間を擦り抜け、影のような少女は進んでいった。通りの真正面には、旧王都のそれに似た時計塔がある。
だが、ヴィクトリアにとっては、この街の時計塔が旧王都のものと似ているかどうかなど判別が付かない。
何せ旧王都は、ヴィクトリアが物心付く前に破壊されたのだ。似ていると称したのは、カバンの中の彼である。
歩くたびに、たぽたぽと液体が揺れる。革のカバンに押し込めてあるフラスコの内側には、あのスライムがいる。
ヴィクトリアは機械的に足を進め、中央通りを抜け出すと、時計塔の足元に造られている広大な広場に出た。
そこは、異様な空間だった。元々は街の人間が集う場所であるはずなのだが、広場には魔法陣が描かれていた。
広場を埋め尽くしている無数の石畳の上に、巨大な二重の円と六芒星があり、大量の魔法文字が連ねてあった。
そして、その魔法陣の周囲には、小銃を担いでいたり拳銃を提げた男達が立っているが、兵士の恰好ではない。
かといって、ただの市民にしては目付きが鋭く、魔力の気配も整っているので、その中身は魔導師なのだろう。
ヴィクトリアは興味がないふりをしつつ、魔法陣に入らないように気を付けながら、広場を通り抜けていった。
時折横目に見ながら、魔法陣の中身を読み取る。広場を出てしまう頃には、その内容が全て頭に入っていた。
歩調を変えずに、けれど徐々に足早になったヴィクトリアは、広場からなるべく距離を開け、路地に入った。
路地の奥へ奥へと進み、街の喧噪から充分な距離が開いたと、周囲に人の気配がないことを確かめた。
汚れた壁の傍にあった木箱に腰を下ろし、カバンを膝の上に載せた。蓋を開き、中からフラスコを取り出した。

「あれ、簡単な魔法だわ」

ヴィクトリアはフラスコを両手で挟むと、額を寄せる。フラスコの中で、伯爵はぶるりと震えた。

「うむ、それは我が輩も感じたのである。この近辺に漂っている魔力は、それほど整っているわけではないのであるからして、あの魔法陣に用いられている魔法は大した技術でもないのである。だがそれは、あの女や貴君の外道な父親を基準にした場合である」

「そんなに古くない高位魔法だわ」

ヴィクトリアは、独り言のように言った。

「魔力の流れを制する魔法。魔法文字の並びと使い方からして、一点に集めるものだわ」

「その魔力の根源であり、魔法を制している場所が解るのであれば、話は早いのである。あの魔法陣は、あくまでも魔法の放出のためのものであり、魔法を造るものではないのである」

「解るわ」

ヴィクトリアは伯爵から顔を放すと、片手を挙げた。人差し指が時計塔に向いたが、すぐに外された。
彼女の白い指先は路地をぐるりと巡ってから、街から外れた場所に建てられている、小さめな城を指した。

「あっちだわ」

「ほう。調べでもしたのかね?」

「いいえ、何も。ただ、歩いていただけよ」

ヴィクトリアは手を下ろすと、城を見つめた。

「だって、単純なんだもの。魔力の流れを隠そうともしないで垂れ流して、下品だわ」

「まぁ、あの連中がやろうとしていることの方が、余程下品であるがな」

伯爵は気泡を作り、浮かばせて弾いた。ヴィクトリアの見つめている城に視点を合わせながら、思い起こした。
この街にヴィクトリアと共に来たのは、三日前である。彼女の算段がまとまったので、空間転移魔法で飛んできた。
その後は何をするでもなく、ただ街をぶらついた。人ばかりがいて物がない街の中を、三日間歩き通した。
最初の頃は、相手に目を付けられないために、魔法陣の描かれている広場にはなるべく近付かないようにした。
あの巨大な魔法陣は、今日のようにちゃんと視認出来る日もあれば、すっかり消え失せている日もあった。
消えている日は、決まって軍の巡回がある日だった。軍に見つからないよう、彼らも必死になっているようだ。
情報は、簡単に収拾出来た。ヴィクトリアは、路地裏にたむろしている浮浪児達に、飴玉をばらまいたのだ。
この街に来たばかりで不安なの、知っていなくてはならないことがあれば教えて下さい、と問い、聞き出した。
薄汚れた子供達は最初は警戒していたが、飴玉の数を更に増やしてやると、声を潜めながら教えてくれた。
魔法陣の周りに立っている男達は、共和国軍の兵士でも連合軍の兵士でもないが、似たような存在だ、と。
魔法陣には入るな、あの中に入ると命はないと思え、軍の人間が来たら報告しろ、と言っているらしい。
つまり、あの大掛かりな魔法陣を使って、共和国軍にも連合軍にも後ろめたいことをするつもりでいるようだ。
先程、横目に魔法陣を見た時に読み取った魔法文字から察するに、あれは強烈な魔力弾を照射するものだ。
頭に叩き込んでおいた地図と照らし合わせてみると、その目標は、この街の近くにある連合軍の野営地だった。
考えずとも、すぐに解る。フィフィリアンヌの言っていた例の秘密結社が、魔法で戦いをしようとしているのだ。
恐らく、魔導師協会から奪取された魔導書を元にして作られたのだろう、あの魔法陣の文字は少し古かった。
フィフィリアンヌの言うように、魔導書を売り捌くのであれば、その前に魔導書の効果を示す方が手っ取り早い。
どんな形であれ、魔導書に印されている魔法が強力であると示せれば、裏の世界からの買い手が付くのだ。
ヴィクトリアは城を見ていたが、カバンの中に目を落とした。その中には、油の染みた紙包みが入っている。
紙包みを出し、膝の上に広げた。その中に入っていたクッキーを黙々と食べていたが、食べる手を止めた。

「けれど、安易だわ」

「それには、我が輩も同意するのである。あの大きなだけの魔法陣を使って、近隣に駐留している連合軍野営地を焼こうなどと、下らなくて笑えもしないのであるぞ」

「ええ、つまらないわ」

ヴィクトリアは五枚目のクッキーを半分囓ってから、もう半分に口に入れた。噛み砕くうちに、頬が緩んできた。
これは、灰色の城でいつも食べているものだ。レベッカが多めに作ってくれて、こちらに来る際に持たせてくれた。
ヴィクトリアは、それをじっくり食べていた。元々食べるのが遅いしあまり食べないので、三日経っても減りが遅い。
これで紅茶があれば良いわ、と思いながら、ヴィクトリアは食べる手を止めた。ハンカチを出し、指先を拭う。

「回りくどいわ」

「ふむ。貴君もそう思うのであるか、ヴィクトリアよ」

伯爵はフラスコの中で先端を伸ばし、少女に向けた。ええ、とヴィクトリアは頷く。

「フィフィリアンヌさんは、無駄に人を死なせたくないだけだわ。会長の地位から逃げ出せないからだなんて、商売が出来なくなってしまうからだなんて、嘘だわ」

「あの女は、いつまでたっても変わらぬのである。素直に好意でも正義感でも示せばよいものを、わざわざ遠回しに表現して辛辣な言葉と邪険な態度で本心を取り繕っているのである。いやはや、いやはや、あの女ほど面倒な女はいないと思うのである」

うんざりしたように、伯爵は触手の先端を左右に振る。ヴィクトリアはカバンから飴玉を出すと、口に入れた。

「お父様が気に入るわけだわ。だって、とても可愛らしいもの」

飴玉を舌で転がしながら、ヴィクトリアはまた城を見やった。城の城壁は痛んでいて、崩れ落ちそうなほどだった。
ヴィクトリアは舌で飴玉を弄びながら、感覚を澄ました。空気に含まれる魔力が、水の如く、滑り抜けていく。
視認することは出来ないが、薄布が頬に触れて過ぎていくような軽い感覚があり、それを全身で感じ取っていた。
その流れが、一点に向かっている。視線の先にある古びた城の方向へ、ふわりふわりと、魔力が流れていく。
その流れを乱して、魔力を集めている魔法陣に逆流させてしまうのは簡単だが、そうしてしまうのは面白くない。
街ごと吹き飛んでしまうだろうし、そうなったら、後が面倒だ。暗殺というものは、密やかに行うべき仕事だ。
だから、無駄な魔法は使いたくない。あまり無駄が多いと、ヴィクトリアが言うところの、素敵、から外れてしまう。
効率よく事を進めるには、あの城に潜り込んで内側から叩かなくてはならないのだが、城の見取り図はなかった。
ヴィクトリアは魔法には精通しているが、グレイスやレベッカのような、盗みの技術まではまだ覚えていなかった。
そういった技術を覚えたい気持ちはあるのだが、今は魔法を操る方が楽しいので、盗みの訓練はしていなかった。
空間転移魔法で城に行くのは容易いが、魔法陣を支えている魔導師や見張りの魔導師に、見つかるのは確実だ。
そうなってしまっては、ますます効率が悪い。ヴィクトリアは小さくなってきた飴玉を、奥歯でかりっと噛んだ。

「困ったわ。あの城に入る方法が見当たらないわ」

「はっはっはっはっはっは。所詮は子供の浅知恵である、この辺りで撤退して父親でも呼ぶのが良いのである」

伯爵が笑い声を上げると、ヴィクトリアはぴんとフラスコを弾いた。

「うるさいわ」

「はっはっはっはっはっは。ヴィクトリアよ、貴君も身の程を知るのである。いくら父親がグレイスで母親がロザリアであろうとも、貴君は貴君である。この世に生を受けてからたったの七年と一ヶ月と三日しか過ぎていないのであるからして、経験どころか知識も何もかも足りておらんのである。そんな子供が、たとえ役立たずの元軍人であろうとも、大の大人を暗殺しようなどという話が馬鹿馬鹿しく下らないのである。いい加減に目を覚まして、旧王都に帰るのである、ヴィクトリアよ」

饒舌にまくし立てた伯爵に、ヴィクトリアは眉根をちょっとだけ歪めた。

「黙りなさい」

「はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは。我が輩が押し黙るようなことがあれば、全世界が大いなる悲しみに包まれてしまうのであるからして、我が輩は沈黙などしないのである」

フラスコの内側の伯爵は、にゅるにゅると蠢いている。ヴィクトリアは、フラスコを膝の上に置いた。

「鬱陶しいわ」

「はっはっはっはっはっはっはっは。そうであろう、そうであろう、我が輩も貴君の傍にいるのは飽き飽きしているのである。だから、早々に旧王都に帰るべきなのであるぞ」

ヴィクトリアの目が、じろりと伯爵を睨んだ。灰色の瞳に射抜かれたスライムは、一瞬、びくりとした。
表情が全くないことに驚いてしまったこともあるが、その視線と共に漲っている強烈な魔力が、感じられた。
少女の指先が、すうっとフラスコの表面をなぞった。ヴィクトリアは伯爵を見つめていたが、呟いた。

「あなたが先に行けばいいのよ」

「どういう意味であるか、ヴィクトリアよ」

「聞いたままよ。あなたが先にあの城に入ってくれれば、わたしは簡単に入れるわ。だから、そうしましょう」

「だからって、だからどういう意味なのであるかな、ヴィクトリアよ」

一抹の不安を覚えた伯爵は、ごぼりと泡を吐き出した。ヴィクトリアは、フラスコを掲げる。

「くどいわ」

「答えたまえ、ヴィクトリアよ! 麗しく素晴らしい我が輩を、一体どうしようというのかね!」

フラスコを持っている小さな両手に魔力が集まるのを感じた伯爵は、出来るだけ抵抗しようと、じたばたした。
だが、その抵抗も空しく、ヴィクトリアは魔力を魔法に変換していた。一瞬の後、伯爵とフラスコが消えた。
フラスコが失せ、虚空に伸ばす恰好になっていた両手を下ろしたヴィクトリアは、革のカバンの蓋を閉じた。
木箱から下りて黒いスカートを直し、のんびりと歩き出した。路地を抜けて通りへと出ると、街の外に向かう。
革靴の底を鳴らして石畳を進みながら、ヴィクトリアは次第に上機嫌になり、僅かではあるがにこにこしていた。
明日の朝にでも、伯爵を迎えに行こう。それまでの間は体を休めて、甘い物を食べて、ゆっくりしていよう。
そして、全てを滅ぼしに行こう。ハワード・アンダーソンなる人間を殺すことが、待ち遠しくてたまらない。
明日になるのが、楽しみだった。




その頃。伯爵は、盆の中で伸びていた。
出来る限り薄っぺらくした体の中で視点を動かし、辺りを見回すと、杖を持った魔導師達が取り囲んでいた。
天井は高いが古びていて、魔導師達の背後にある窓もかなり汚れている。そして、魔法の気配が満ちていた。
盆の傍には、つい先程まで入っていたフラスコがあるのだが、その中には消毒液と思しき液体が入っていた。
フラスコから漂ってくるつんとした薬臭さを粘ついた表面で感じつつ、伯爵は状況を把握するべく思考した。
まず、ヴィクトリアによって空間転移魔法で飛ばされてしまい、気が付いたらこの部屋の中に転がっていた。
逃げるために空間転移魔法を使うよりも早く、魔導師の一人に掴み取られて、盆の中に開けられてしまった。
スプーンやら棒やらで引っ掻き回され、混ぜ返された挙げ句、適当な魔法で魔力を抜き取られ、そして脱力した。
ヴィクトリアの所在が掴めない今、下手に空間転移魔法を使って逃げ出しても、妙なところに出かねない。
そんな間抜けな事態になってしまっては、グレイスに命令に背くどころか、己の命すら危うくなってしまう。
さて、どうしたものか。そう思いながら伯爵が伸びていると、盆を囲んでいる魔導師の一人が、首をかしげた。

「おかしいな」

その隣の魔導師は頭を覆っていたフードを外すと、訝しげにした。

「ああ。伝令用の生体魔導兵器なら、刺激を与えれば言葉を発するはずなんだが」

「飛ばされた時に、変色でもしたのだろうか。色がおかしい」

そう言いながら、濃紺のマントを羽織った魔導師が伯爵に手を伸ばしてくると、おもむろに指を突っ込んだ。
思い掛けない刺激が訪れたせいで、伯爵は大いに戸惑ってしまい、ぐにゅりと波打って盆から滑り出た。

「何をするのかね、この無礼者が! 我が輩を何だと思っているのである!」

つい反射的に言い返してしまってから、伯爵はふと気付いた。どうせなら、黙っていた方が良かったのではないか。
先程の会話から察するに、彼らは伯爵を、伝言に用いる生体魔導兵器であると勘違いしていたようだった。
そのまま伝令用のスライムを装っていれば、なんとかなったかもしれないが、つい声を出してしまった。
魔導師達は、突然喋ったスライムに驚き、呆気に取られている。何もなかった、ということには出来なさそうだ。
伯爵は気を取り直し、ずるりと動いて盆に戻った。平べったくしていた体を寄せ集めると、一塊にしてしまう。
魔導師達は顔を見合わせていたが、一人がなぜか笑った。子供のように好奇心に満ちた顔をして、近寄ってきた。

「こりゃ驚いた! 突然変異か何かか!」

「スライムが喋るなんてこと、今まで聞いたこともないぞ。こんなのは初めてだ!」

もう一人の魔導師も、はしゃいでいる。彼らに一斉に凝視されてしまい、伯爵は困惑してきたが、黙っていた。

「もう一度、喋ってはくれないものか」

濃紺のマントの魔導師が、伯爵の表面に触れた。伯爵はそのむず痒さでぶるりと震え、飛び退いた。

「だから、そう触るでない! 我が輩は繊細なのである、あまり触られると穢れてしまうのであるぞ!」

「あ、ああ…」

手を引っ込めた魔導師は、戸惑い気味に苦笑した。伯爵はその魔導師に既視感を覚え、記憶を掘り起こした。
随分前だが、魔導師協会の役員候補として名が上がっていた魔導師だったが、役員選挙で落選した男だ。
フィフィリアンヌと伯爵は、その役員会議を隣の部屋から覗き見ており、暇だったので記憶に刻み込んでいた。
他の面々も、魔導師協会に関わる出来事で見た覚えがあるような人間ばかりだったが、名前は出てこなかった。
せめてそれぐらいは思い出そうとしていると、部屋の扉が叩かれたので、魔導師の一人がそちらに返事をした。
扉が開くと、やはり魔導師が入ってきた。手には魔法の杖と紙を持っていて、そこには魔法陣が印されている。
それは、あの広場に書き記されていた魔法陣とそっくり同じだったが、魔法文字がいささか古いものだった。
部屋に入ってきた魔導師は、魔法陣を描いた紙をぞんざいに投げてから、手近な椅子を引っ張り、腰掛けた。

「街側の魔法陣はもう少し、改良の必要がある。決行の日は、まだ延びてしまいそうだよ」

「そうか」

魔導師達の中でも一番年嵩が上であろう壮年の魔導師は、肩を落とした。残念そうに、その紙を見つめる。

「やはり、我々の知識だけでは古代竜族言語の翻訳は難しいな」

「せめて、魔導師協会の書庫が健在だったら良かったんですが、首都襲撃で焼けてしまいましたからね」

大半の魔導書が、とまだ若い金髪の魔導師が悔しげにした。その言葉に、伯爵の傍の魔導師が言う。

「まぁ、そのおかげでオレらは禁書を手に入れることが出来たんですから、良しとしませんと」

「しかし、あの話は本当ですかね? 会長どのの正体が、竜だってのは」

信じられません、と金髪の魔導師は両手を上向けた。壮年の魔導師は、彼を見やる。

「あれは、あくまでも噂に過ぎん。だが、噂が起きるにはそれなりの根拠が必要だ。そんなことがあるとは思えんし、荒唐無稽という他はないが、もしそうであったとしたら、また人の世が竜族に脅かされるのは時間の問題だ」

「いっそのこと、グレイス・ルーにでも竜を一掃するように頼んでみましょうか? ありったけの金を積んで」

冗談めかして、伯爵の傍の魔導師が笑う。濃紺のマントの魔導師は、それを一蹴した。

「魔導も呪術も軽視しているような輩に手を貸してもらうくらいだったら、我々が竜と戦うさ」

伯爵は彼らの会話を聞き、彼らがどういう存在であり、ここがどういう場所なのか、ある程度の見当が付いた。
ここは恐らく、フィフィリアンヌが言うところの秘密結社とやらで、彼らはその構成員の魔導師なのだろう。
フィフィリアンヌの口振りでは、彼らは魔導書を売り捌こうと画策する死の商人、という雰囲気だった。
だが、内側から見れば、そんな印象は全くない。かつて魔導師協会に所属していた、普通の魔導師達だ。
グレイス・ルーに対して嫌悪感を抱いているのだから、決して邪悪な方向へと傾いているわけではなさそうだ。
では、なぜ魔法で連合軍を焼こうなどという過激なことを思い立ったのか、その理由が良く掴めなかった。
伯爵は無駄に喋らないようにするために、意識を沈めた。どこにでもいるスライムになるべく、力を抜く。
盆の上で再びでろりと広がったスライムに、盆を置いてあるテーブルの傍にいた魔導師が気付き、落胆した。

「ああ、休眠状態になってしまった」

「ん、どうした」

テーブルに寄ってきた壮年の魔導師は、盆の中にいるスライムに変な顔をした。

「スライムか。だが、伝令用のものじゃないぞ。あれは青緑色だ。なんでこんな野良が」

「ザース先生。さっき、これが喋ったんですよ」

ザースと呼ばれた壮年の魔導師は、手袋を填めた手で顎をさする。

「喋っただと? 本当か、ウォル」

「聞いたのは自分だけじゃありません。なぁ?」

ウォルと呼ばれた魔導師は、他の二人に同意を求めた。金髪の魔導師は頷く。

「はい、僕も間違いなく聞きました。人間みたいな声でいきなり喚き出したんです、それ」

「興味深いな」

ザースは太い眉の下で、鋭さのある目を細めた。それは、悪事を企てる悪人の顔ではなく、学者の顔だった。

「こういう時でなかったら、生体構造、魂の有無、魔力中枢などを調べたのだがな」

半開きになっている扉の外に、足音が近付いてきた。伯爵は体を動かさないようにしながら、視点を動かした。
扉の隙間から部屋に体を滑り込ませた男は、歩調を緩めずにやってくると、魔導師達をぐるりと見渡した。
体付きの良い、青年だった。短めに切った髪を後ろへ撫で付けていて、立ち姿には育ちの良さが現れている。
こちらに歩いてくる姿勢には、優雅さや気品が備わっているが、貴族のそれとは少しばかり違っていた。
伯爵は、すぐに思い当たった。この青年の立ち振る舞いは、士官学校を出た者が行うものと良く似ている。
フィフィリアンヌによれば、魔導師達の作った秘密結社に身を置いているハワードは、元士官候補生だという。
キースによって軍から切り捨てられてしまい、士官となる道を閉ざされてしまった、キースの被害者の一人だ。
伯爵が、近いうちにヴィクトリアに殺される男の名を思い浮かべていると、伯爵の頭上でザースが言った。

「ハワードどの。珍しいですな、あなたがこちらにいらっしゃるとは」

「私は魔法は全く解りませんが、語学のためにも見ておかなくてはと思いましてね」

ハワードと呼ばれた青年は、外見の年齢よりも若干幼めな表情で笑った。彼の名は伯爵が、思っていた通りだ。
この場にいればいるほど、戦意が削げていく。伯爵も、今回の事に絡むに当たって、一応は気を張っていた。
彼らが見るからに悪辣な者達であったなら、ヴィクトリアが来るよりも先に、窒息させて殺そうと思っていた。
だが、誰一人として、悪らしくない。伯爵は内心で拍子抜けしてしまっていると、ザースが伯爵を指した。

「丁度、珍しいものが手に入りましてね。大方、連絡役の者が間違えて飛ばしてきたのでしょうが」

「スライムですか?」

ハワードは盆の傍にやってくると、伯爵を見下ろす。ザースは頷く。

「ええ。ですが、これはただのスライムではないようなのです。なんと、言葉を発したのです」

「へええ。聞いたことないなぁ、そんなものは」

面白そうに、ハワードは声を弾ませた。ザースは伯爵の真上に手を伸ばし、するりと動かした。

「時間が許せば徹底的に研究したいところですが、今はそうは行きませんからな」

「ええ、そうですね。一刻も早く、魔導師協会の再建を阻止しなくてはいけません」

ハワードは、不意に表情を硬くした。その言葉に伯爵は動揺したが、表面を僅かに振るわせるだけに止めた。
動揺が落ち着くと、今回の事の真相が見えてきた。フィフィリアンヌの言い草は、あの娘を担ぐためだったのだ。
どういう経緯で彼らの企てを知ったのかは解らないが、その企てが目指している方向を、早くに見越していた。
だが、調べるに連れて明らかになってきた秘密結社の構成員達は、かつて自分の配下にいた魔導師達だった。
そうだと解ってしまったから、あの冷酷なフィフィリアンヌといえども、多少渋ってしまう部分があったのだろう。
しかし、このまま彼らを放っておけば、魔導師協会から奪われた魔導書がばらまかれ、魔法禁止令が敷かれる。
そして行く行くは魔導師協会が滅されると判断したから、かつての部下を填めてしまうことにしたのだろう。
だが、その役目を行うのに相応しい存在であった側近のラミアンは、故郷に戻り、暗殺稼業から退いている。
銀色の骸骨となった今でもフィフィリアンヌに忠誠を誓っている彼のこと、呼び出せばすぐにやってくるだろう。
けれど、銀色の骸骨、アルゼンタムとしての顔が魔導師達に知れすぎているし、今の彼には妻と子が在る。
かといって、ギルディオスは異能部隊やキースの件で負った傷が癒えていないし、彼に頼むのは酷というものだ。
フィフィリアンヌ本人が動いてしまったら、余計に事はこんがらがるだろうし、グレイスは引っ掻き回してしまう。
となれば、彼女に残された手札は限られているが、その一枚の中に、ルーの娘、ヴィクトリアが入っていたようだ。
ヴィクトリアはグレイスの娘だが、七歳になって少しの幼女なので、今の今まで一切の悪事を行ってこなかった。
そして、グレイスに溺愛されているので灰色の城からほとんど出ないので、旧王都付近の者も顔を良く知らない。
つまりヴィクトリアは、誰にも顔が割れていないのだ。暗殺稼業を行う際には、それ以上の強みはないだろう。
そこまで考えて、伯爵は思考を戻した。ハワードらは、なぜ、魔導師協会を陥れようと画策するのであろうか。
キースのせいで軍から干されたハワードが恨みを持つべき相手ではないし、魔導師達にとっては知識の宝庫だ。
魔導師は、学術者とも似ている。数字の代わりに魔法文字を、文学の代わりに呪文を、常日頃から求めている。
そんな彼らが、魔導師協会を陥れるというのは穏やかではない。伯爵は感覚を鋭敏にさせ、注意を強めた。

「もう二度と、特務部隊のような部隊は作ってはならないのです」

ハワードは、語気を強めた。

「ジョーンズ大佐は、正しく悪魔でした。自軍の兵士達を無作為に選び出し、特務部隊に引き込んですぐに改造手術を施していましたから。昨日は普通の人間だった兵士が、次の日には人形になっていることなどざらにありました。私は、軍の腐敗の根源であり、軍の兵器に流用されている魔導技術の根源でもあった特務部隊に敢えて志願したのです。差し違えてでもジョーンズ大佐を殺し、これ以上の暴挙を許してはならないと思っていたのですが…」

悔しげに、ハワードは肩を怒らせる。その肩を、ウォルが優しく叩いた。

「その気持ちは私にも解る。会長命令でさえなければ、魔導兵器と化した人の魂を潰しはしなかった」

「ああ、ありゃ本当にひどかったなぁ。確か、戦犯になっちまったリチャード・ヴァトラスも、その仕事をやっていたな。そういえばウォル、お前も駆り出されていたな、魔導兵器狩りに」

濃紺のマントの魔導師が、思い出しながら言った。ウォルは濃紺のマントの魔導師に、顔を向ける。

「違法改造された魔導兵器一種の摘発と粛正、と言えば聞こえが良いが、要は魔導兵器一種の一掃だった。中には魔導兵器となったことを望んでいなかった者達もいたが、その多くは死を恐れていただけだ。重い病を煩って死にかけていた者や、子供が生まれたばかりでまだ死ぬわけにいかなかった者、商売を放り出せば従業員達が路頭に迷ってしまうから仕方なく魔導兵器になる道を選んだ者、そんな人間達ばかりだった。私も他の魔導師もそのことを会長に進言したが、聞き入れられることは一度もなかった」

「ジョーンズ大佐が悪魔だとすると、我々の会長であった男は魔王だ」

ザースは、拳をきつく握り締めた。伯爵は彼らの言い分を聞きながら、言い返したかったが、出来なかった。
確かに、外側から見ればそうだろう。九年ほど前に行った魔導兵器の一斉摘発は、苦渋の末の判断だった。
フィフィリアンヌも、魔導兵器と化した人々の苦悩は理解していたし、出来れば救いたい、とも口に出していた。
彼女が違法改造された魔導兵器を一掃せざるを得ないと決断した原因は、共和国政府の動きの鈍さにあった。
フィフィリアンヌは、常々政府に進言していた。魔導兵器の存在も、魔導師と同じく、免許制にするべきだと。
そして、登録と審査の際に入念に調べ尽くして、本人の意思に添った改造なのかどうかを、調べるべきだとも。
魔導兵器を造る魔導技師や魔導師が、魔導兵器の存在を傘にして、己の悪事を覆い隠してしまっていたからだ。
だが、共和国政府は一向に動かなかった。そちらの管轄だろう、そちらだけでやってくれ、という態度だった。
そうこうしているうちに、違法改造された魔導兵器の数は急増し、その裏で魔導技師達の悪事も増大していった。
自分が殺した人間の魂をいじって封じ、意のままに操ったり、或いは魔導兵器となった人に己の罪を被せたり。
これ以上放っておいては、魔導技師と魔導兵器どころか魔法そのものの沽券に関わる、と彼女は腹を決めた。
だから、魔導師協会にその存在を申告していない魔導兵器を皆殺しにし、罪を重ねた魔導技師達も屠った。
それでなくても、共和国軍内部では魔導兵器が乱用されている。大抵は、剣や銃と同じ、単なる兵器とされる。
だが、彼らには意思がある。人であった頃の誇りや自我があるのだが、施されている魔法のせいで逆らえない。
伯爵はどちらの気持ちも解るだけに、言葉が出てこなかった。どちらも、決して間違っているわけではない。
全く、やりづらいものだ。これ以上付き合っても面倒なことになるだけだが、逃げるとまた面倒なことになる。
ヴィクトリアの口振りでは、明日迎えに来るという。その時に伯爵が居なければ、彼女は捕らえられてしまう。
そうなれば、ヴィクトリアが危機に陥ると言うことであり、それすなわち伯爵がグレイスに殺されるということだ。
それこそ、嫌だ。伯爵は追い詰められている実感を感じながらも、動くわけにも行かず、不自由極まりなかった。

「魔導師協会が再建してしまえば、会長の意のままにならない者は手に掛けられてしまうだろう。会長が魔導師協会の腐敗を止めてくれたのは確かだが、やることが全て極端なのだ。会長は我々と同じく、魔法を愛し、魔導を極めた者であることを信じたいが、軍に魔導技術を売って粗悪な魔導兵器を量産させ、挙げ句には魔法の何たるかをまるで解っていない兵士共に魔法を使わせ、魔法を兵器に貶めてしまった。それが、魔法に対する愚弄でなくてなんであろうか」

ザースは、毅然とした声を張る。

「会長の正体は、依然として掴めない。だが、その中身が毒々しいことだけは解る。国が乱れに乱れている今、これ以上のさばらせておけば、壊滅状態の政府を動かして共和国を乗っ取り、いや、大陸全体に影響を及ぼせるように画策するかもしれん。そうなれば、魔導師や魔法はおろか、世界の危機だ」

「それもこれも、会長がいけないんですよ。魔導兵器を殺したり軍に魔導技術を流したりするから、国際政府連盟に目を付けられちゃって…。そのせいで、魔法禁止令なんてものが議題に上るんですよ」

と、ウォルがぼやいた。ハワードは、親しげな笑みになる。

「我々が手に入れた魔導書は、そういった方面には流しません。あくまでも、魔導師の皆さんのために、封じられていた魔導書を日の目に晒すのです。それこそ、あなた方が望んでいたことなのですから」

「まずは、この戦争を終わらせなくてはな」

ザースの言葉に、金髪の魔導師は窓の外を見下ろし、魔法陣を描いた広場に目をやる。

「再び、魔法を世に広め、そして、魔導師協会を潰してしまうためにも」

伯爵は音をさせないように、そっと体の端を持ち上げて触手にすると、そろそろと伸ばしてテーブルの上を見た。
スライムの入った盆の周辺には、魔導師協会の機密の印が押されている魔導書が、ぞんざいに重ねてあった。
その大半は、一般的に危険だとされる高出力の古代魔法の魔導書だったが、三冊は系統が少し違っていた。
古代竜族史七巻、上位精霊魔法水の章、魔法と医学。そのいずれも、伯爵は一度だけだが読んだことがある。
といっても、フィフィリアンヌが読んでいる傍から覗き込んでいただけだが、それでも充分に危険だと解るものだ。
内容もそうだが、著者が穏やかではない。古代竜族史はカイン・ストレイン、上位精霊魔法はランス・ヴァトラスだ。
二人とも、五百数年前に関わりが深かった者達だが、彼らは知らず知らずに魔導の深淵に踏み込んでいた。
古代竜族史に至っては、事細かに書き記した大陸全体の魔導鉱石の鉱脈図が載っていて、かなり危ないものだ。
魔導鉱石の鉱脈は、言ってしまえば魔力の鉱脈だ。その鉱脈を破壊されて連鎖でも起こせば、大陸が吹っ飛ぶ。
上位精霊魔法は、近代ではその姿を見る者が激減した精霊を操ったり、呼び起こすための魔法が書いてある。
それだけであれば良いのだが、精霊の力を借りて天変地異を起こすことの出来る魔法陣が、書き記されている。
自然現象は、魔法で操るべきものではない。魔法は物質に作用を与えるが、それ以上でもそれ以下でもない。
もし、天候を操ってしまったりしたら、神を名乗る者達が横行し始めて、共和国に新興宗教が溢れるだろう。
無論、起きるであろう危険はそれだけではないのだが、伯爵が具体的に思い浮かぶ危険と言えば、それだった。
そして、三冊目。魔法と医学の著者は、伯爵自身も良く知っている黒竜族の医者、ファイド・ドラグリクだった。
基本的には人間や魔物、竜族の解剖図などで構成されている本だが、人造魔物の製造方法まで書いてあった。
ファイドが何を思って書いたのか解らないが、それはギルディオスの妹、ジュリア・ヴァトラスの手法だった。
魔生物学者であった彼女の造った人造魔物は素晴らしく、彼女の子供達を凌ぐ人造魔物は未だ生まれていない。
しかし、晩年のジュリアは積み重ねてきた研究を焼き払い、魔法大学に保存してあった子供達の標本も燃やした。
それは、ジュリア自身が、人造魔物を造ることは魔物達への侮辱であり人間への脅威、と判断したからである。
それでも、彼女の著書はいくつか残ってしまった。どうやらファイドは、それを読んで覚えており、書いたようだった。
ファイドの本が書かれた年月日は黒竜戦争以前のものであるので、ファイド自身に悪気はないのは確かだった。
かなり傍迷惑だが、過去に危険でなかったものが未来では危険視されることなど、予想出来るわけがない。
なんとかして彼らを阻止しなければ、面倒なことになる。だが、今はどうにも出来ない。彼女を、待つしかない。
伯爵は彼らの会話を聞き流していたが、感覚を沈めているうちに、さざ波の如く打ち寄せる眠気に襲われた。
そして、いつしか眠り込んでいた。





 


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