ドラゴンは眠らない




魂の在処



石は、沈黙していた。
間近には、彼女がいる。清潔な服を身に付け、豊かな長い金髪を整えた、可愛らしい少女が寝息を立てている。
ベッドの端には、甲冑が腰掛けている。今は軍服は着ておらず、腰までの長さの赤いマントを付けている。
簡素な、灰色の箱に似た部屋だった。フローレンスの眠るベッドも装飾がなく、壁もただ平たいだけだった。
ベッドの他にある家具は、小さなタンスと机だけだった。壁の上部にある窓には、太い鉄格子が填っている。
あの草むらの中で彼女に拾われてから、大分時間が過ぎた。鉄道に乗り、船に乗り、蒸気自動車に乗って来た。
ここがどこなのか、彼には解らない。時間の感覚は辛うじてあるのだが、距離の感覚までは備えていなかった。
鉄格子の隙間から見える空は薄暗いが、ほのかに明るい。夕方なのか、朝方なのか、判別が付けづらかった。

「おはよう、同類」

ギルディオスの冷え切った鉄の手が、荒く尖った青を覆う。

「お前、随分とフローレンスと仲がいいみてぇだな。他の隊員とは話さねぇのに、お前とはずうっと話してる」

ぴん、と太い指先が石の表面を弾いた。

「ちぃと妬けるぜ、おい」

石は、揺れた。だが、何も返せなかった。言葉を成そうにも言葉にならず、感情を高ぶらせようとも高まらない。
空しくもあり、寂しくもあり、悲しかった。だが、それは仕方ないのだと、そうであるのが当然なのだと思った。
石は石なのだ。彼女の声を聞いた時は、己はただの石ではないと思ったが、やはり、それ以外の何者でもない。
フローレンス。魂の内で、彼女の名を呼ぶ。フローレンス。聞こえないと解っていても、呼びたくてたまらない。
フローレンス。間近にいるのに触れられない、傍にいるのに傍にいない。絶対に埋められない隙間が、ある。

「なぁ、お前」

石の呼び掛けを、ギルディオスの言葉が妨げた。

「体、欲しいか?」

体。体。肉体。身体。彼が何を指しているのかすぐには解らなかったが、石は何度も言葉を反芻して把握した。

「お前は純度がいい。オレの見立てだから信用は出来ねぇけど、不純物も少なそうだし、魔力数値も高かった」

ギルディオスの手の甲が、ごちっ、と石を小突く。

「上手い具合に加工してやれば、いい魔導兵器になれると思うぜ? もっとも、それをやるのはオレじゃねぇけどな。オレは戦うことしか出来ねぇからよ」

どうだおい、とギルディオスは石に語り掛ける。石は、このままでいいような気もするし、欲しいような気もした。
ギルディオスは、こちらを見ている。石はその視線を見つめ返していたが、石の内側に染み入るものに気付いた。
風のようにささやかな、だが力を持ったものが、硬い表面を擦り抜けてやってくる。逃れようが、なかった。
ギルディオスの声が遠ざかる。その代わりに、力が迫ってくる。石が、外界に向けていた意識が包まれていく。
そして、落ちた。




落ちて、落ちて、落ちた先は闇だった。
彼は、目を覚ました。石ではないが生身でもない、形を持たない肉体を持ったような、不思議な感覚がある。
手を伸ばそうと思えば手が生え、足を伸ばそうと思えば足が生える。頭を出せば、首が伸びて、頭が出来上がる。
虚空を掴むと、闇は柔らかく崩れる。綿のような感触が手のひらに広がり、指の間からほろほろと崩れていく。
彼は、その中を藻掻いた。頭を振り、腕を伸ばし、足を踏ん張ってみたが、その場からは動けそうになかった。
ここは、何だ。声にならない声で言葉を漏らすと、声にならない声が、闇を震わすほどの大きさで返ってきた。

「羨ましい」

彼女の声だった。

「石は痛くない。でも、あたしは痛い。体も、心も、全てが痛い」

激情を迸らせた、がなり声。

「いらない。いらない。いらない。あたしなんて、いらない」

そんなことはない、と彼が思うと、彼女は咆哮した。

「いらないものはいらないんだ。あたしはいらないんだ」

でも、必要だ。

「何もいらない。こんな力なんて、いらない。あたしは何も知りたくない、何も視たくなんてない」

その力も、君だ。

「うるさい。お前に解るものか。黙れ。黙れ。黙れ」

解らない。でも、黙らない。

「黙れ」

黙らない。

「黙れ、黙れ、黙れ。あたしは嫌いなんだ、あたしが嫌いなんだ。誰も、あたしを好きじゃないからだ」

自分は、君を好ましいと感じている。

「うるさい。嘘だ。皆、そう言って、あたしのことが嫌いなんだ。好きだと言っておきながら、嫌っているんだ」

嘘じゃない。

「それが嘘なんだ。あたしは、人間じゃないんだ。化け物なんだ。だから、皆、嫌いで当然なんだ」

君は、化け物じゃない。

「化け物だ。だからこうして、あたしとお前は話をしているんじゃないか。あたしの中で」

ここは、君の中か。

「そうだ、あたしの中だ。よく解らないけど、お前とあたしが繋がっているんだ。こんな力、いらない。こんな力があるあたしなんて、いらない。殺せ。いっそ殺してしまえ。怖いんだ。自分の力も、お前の心も、あの人の温度も!」

あの人とは、あの、甲冑の男か。

「そうだ、あの人だ。あの人は、とても温かいんだ。でも、それが、怖いんだ。あたしは今まで、そんなのを感じたことなんてなかったんだ。誰も彼も、痛くて重たくて尖ったものしか出していなかったのに、あの人だけは柔らかいんだ、温かいんだ。だから、どうしていいのか全然解らないんだ。解らなくて、困って、どうしようもなくて、逃げ出したいけど逃げられなくて、感じていたいけど感じ方が解らなくて、だから、怖いんだ」

怖くは、ない。

「怖いんだ!」

なぜ。

「帰りたくなくなるからだ。あたしには家があるんだ。帰らなくちゃならないんだ。働かなくちゃいけないんだ」

なぜ。

「あの二人がいるからだ。働かなきゃ、あの二人に殴られるんだ。だから、働いていなきゃいけないんだ」

なぜ。

「あの二人が働かないからだ! だから、あたしがするしかないんだ!」

なぜ。

「それがあたしの役目だからだ」

なぜ。

「なぜって…あたしは、子供だからだ。子供は、道具なんだ。道具だから、使われて、殴られるんだ」

なぜ。

「解らない」

なぜ。

「だって、そう言うんだ。あの二人は、あたしをそういうものだと言うんだ」

なぜ。

「それこそ、解らない」

なぜ。

「そっちこそ、なぜ。どうして、あたしに、そんなに聞いてくるんだ」

解らないから。君も、外のことも、全てが解らないから。得たい、知りたい、取り入れたい、欲しい、触れていたい。
体が欲しい。あの人が言っていたような、機械の体が欲しい。外を見たい。君に近付きたい。そして、触れたい。

「なぜ」

それこそ、解らない。

「うん、あたしも解らない。でも、あたしも、欲しい」

何が。

「あの人の、温度が」

重たい綿に似た闇が、綻んだ。その綻びから、彼女の髪の色に似た澄んだ金色が溢れ、隅々まで伸びていく。

「帰りたくない。逃げたくない。力は、いらない。でも、捨てられない。だから、あたしは、ここにいたい」

あの人と、お前の傍に。その言葉を残し、闇は金色に覆い尽くされた。彼の手足がそれに触れると、崩れた。
視界の端で、形を失うものが見える。水を掛けられた土人形のように、呆気なく、光の海に溶けていく。
痛みは、あった。彼女が受けていたであろう痛みが、頭に、腕に、足に、腹に、胸に、背に、魂に流れ込む。
激しい痛みの最中、彼は、浮上した。




ギルディオスは、酷い頭痛で目を覚ました。
久々の、感覚だった。五百年近く前に失った肉体で感じていたような、鈍く重たい痛みが頭に響いている。
ギルディオスは頭を振って頭痛を掻き消そうとしたが、無理だった。吐き気さえ催しそうな、ひどい苦しさだ。
油断した。フローレンスは異能部隊に入って三日なので、能力を制御するための訓練を、まだ受けていない。
そうした者が放つ異能力は、制御されていないので荒々しく乱暴だ。それを直接受ければ、当然、影響が出る。

「気持ち悪ぃー…」

ギルディオスは、マスクを押さえた。気を抜けば、えづいてしまいそうだ。恐らく、彼女の精神に同調したのだ。
精神感応能力は、その名の通り、他人の精神に感応して思考や感情を読み取る力だが、その逆も可能なのだ。
つまり、剥き出しにした精神を他人の精神と接触させれば、精神感応能力者自身の思考や感情を送り込める。
それを意識して行う場合もあるが、まだ制御する術を持っていないと、無意識に送り込んでしまう場合がある。
だが、それは普通であれば大した威力ではない。せいぜい、相手の思っている言葉が頭の中に響くぐらいだ。
しかし、先程の思念はやけに出力が強烈だった。考え得るに、魔導鉱石の原石が傍にあったからだろう。
異能力は魔法とは違うが本質は似ていて、魔力を媒体にして使用する。そして、魔導鉱石は魔力を帯びた石だ。
魔導鉱石は魔力を帯びているだけでなく、魔力を拡大して作用を増させる、レンズに似た機能を持っている。
フローレンスの思念は、魔導鉱石の原石を通じて増幅されたに違いない。だから、こんなに気分が悪いのだ。
おぶ、と喉の奥で呻きを押し殺し、ギルディオスは背を曲げた。生身だったら、吐き戻していたことだろう。
激しく痛む頭の中心には、思念とその中身が光景が残留している。闇の中、少女と誰かが会話を繰り返していた。
少女の方は、当然だがフローレンスだ。だが、もう一人の声の主が解らない。少なくとも、ギルディオスではない。
となれば、魔導鉱石の原石が喋っていたのだろうか。まさかな、と思いつつ、二人の会話の内容を思い返す。
フローレンスの声は、かなりいきり立っていたが、怯えてもいた。必死に、己の存在を維持しようとしていた。
両親の子供で在りたいから、一人でいたくないから、精一杯の虚勢を張って痛みを堪え、踏ん張っていた。
だが、痛々しいだけだった。フローレンスの境遇が悪いことは知っていたが、彼女の苦しみは予想より深かった。
もっと、早くに動いていれば良かった。ギルディオスは後悔に苛まれたが、いつものことだ、と思い直した。
共和国内に希に存在する異能者達を見つけ、異能部隊へと引き入れる際には、いつも悲惨なものばかりを見る。
周囲の理解を得た中で生きている異能者など、数えるほどしかいない。彼らは、力を持った時点で不運なのだ。
異能部隊は、それを見つけ出してやり、抱き締めてやり、彼らの力と存在を認めてやることが最大の任務だ。
こうしてフローレンスを連れてこられたのだから、後悔する意味はない。既に、任務の半分以上は終わっている。
残る任務は、彼女に人間らしい生活を与え、仲間と愛情を得させ、笑って生きられるようにしてやることだ。
だから、するべきことは後悔ではない。これから先、どうやればフローレンスを幸せに出来るか、なのだ。
ギルディオスは気を張って、強引に吐き気を飲み下した。この苦しさはきっと、フローレンスの苦しみの証だ。
何度も呼吸を繰り返し、フローレンスの思念によって過熱した魔導鉱石を冷却し、乱れた魔力の流れを戻す。
頭痛は消えていなかったが、多少は楽になった。だが、立ち上がると立ち眩みが起きそうなので、座っていた。
フローレンスを見下ろすと、穏やかだった寝顔が険しくなっている。枕に押し付けた目元には、涙が光る。
その手は、石をきつく握っていた。ギルディオスは、フローレンスの頭に手を載せて、そっと髪を撫でた。

「フローレンス」

少女が、目覚める気配はない。

「子供ってぇのはな、そういうんじゃねぇよ。道具でも、なんでもねぇ。子供は、子供なんだ」

ギルディオスは、内心で目を細める。

「子供ってのは、必要なもんなんだぜ。オレには、特に必要だ。お前みてぇなのが、可愛くてどうしようもねぇんだ」

銀色の太い指で、細い金髪を掻き分ける。

「いい子だ、フローレンス」

髪から手を滑らせ、柔らかな頬に触れる。腫れは引いていて、血色も良くなっていた。

「お前は、オレの大事な子供だ」

フローレンスの目元が、緩んだ。うっすらと開いた瞼は、徐々に持ち上がり、数回瞬きしてから開き切った。
長い睫毛の端が、しっとりと涙に濡れている。苦しげだった表情は和らいでいて、眉根もしかめられていない。
半開きになっていた唇が、閉じた。フローレンスはギルディオスを見上げていたが、弱々しく、言葉を発した。

「いいこ?」

「そうだ、いい子だ」

ギルディオスは、フローレンスの髪をぐしゃぐしゃと乱した。フローレンスは胸苦しくなり、シーツを握り締める。

「違う、あたしはそんなんじゃない。いらないんだ」

「いいや、オレにはお前が必要なんだ」

ギルディオスはフローレンスを抱き起こすと、膝の上に座らせた。フローレンスは、すぐ傍の上官を見上げる。

「隊長…」

「そんな、泣きそうな顔すんな」

な、とギルディオスは笑ってみせた。フローレンスは手にしていた石を強く抱き締め、彼の胸に寄り掛かった。
受け止めるのが、怖い。どうしたらいいのか解らないから、受け入れて良いのか知らないから、怖いのだ。
でも、受け入れてしまいたい。迷っていると、ギルディオスの腕はフローレンスを抱き締め、胸に押し当てた。

「泣くんだったら、ここで泣け」

ギルディオスの胸から、直に熱が伝わってくる。抗ってしまいたい気持ちもあったが、それ以上に気持ち良い。
フローレンスは、とろりと目を閉じた。頭痛もさることながら、あの闇の中で感じていた痛みが消えていく。
手の中の石が、ほんの少し光を放つ。その光に含められた石の思念は、とても穏やかで、心地良さそうだった。
フローレンスの表情が安らいでいくと、ギルディオスの感じていた強い頭痛も吐き気も、次第に消えていった。

「そうだ、それでいいんだ。辛いのは、誰だって嫌なんだからよ」

ギルディオスは、フローレンスの髪にマスクを当て、その柔らかさを味わった。

「楽になっちまいな、フローレンス」

「隊長」

髪に当たるマスクの感触に少々戸惑いながら、フローレンスはギルディオスを見上げた。

「うん?」

「この子、体が欲しいんだって。機械の体が欲しいんだって」

フローレンスは、青い魔導鉱石の原石をギルディオスに差し出した。ギルディオスは、その手をそっと包む。

「そうか。なら、そのうち造ってやろうな。それで、お前は何が欲しい?」

「あたしは」

手を包んでいる銀色の手の大きさと、その内から流れる熱を感じ、フローレンスは顔を綻ばせた。

「隊長がいてくれれば、ずっといてくれれば、それだけでいい」

「おう。いてやるさ、ずうっとな」

フローレンスが笑ったことが嬉しくて、ギルディオスも笑った。フローレンスもそれを受け取り、更に笑った。
なんで、こんなにいいものを感じることを躊躇っていたのだろう。彼の熱も、この好意も、どれも心地良いのに。
その心地良さに身を任せていると、両親の元やあの街になど戻りたくなくなった。ずっと、ここにいたくなった。
本当にそれでいいのかと問われれば、良くないと答えるかもしれない。でも、そうしたくて、たまらないのだ。
そんなの、ただの我が侭に過ぎない。だけど、譲れない。フローレンスは手の内にいる彼に、語り掛けた。
お前はどうなの、と。すると、彼は答えた。それでいい、きみがそうおもうなら、きっと、それでいいんだ。
フローレンスはギルディオスに縋りながら、彼を胸に押し当てた。どちらからも、温かいものが流れてくる。
他人の心を勝手に読み取ってしまうこの力は、いらないと思っていた。だけど、これを感じられるなら、必要だ。
闇の中で感じていた痛みや苦しさは、もうどこにもなかった。




心を読む力を持つ少女は、無機に生まれし彼と、無機に生きし彼と出会う。
二人の与えし温もりは、少女が痛みの奥底に封じ込めていた魂を、外へと導いた。
そしてまた、無機に生まれし彼に、明確な魂をもたらした。

愛が在れば、魂は在れるのである。







06 9/5