ドラゴンは眠らない




黒竜戦記 前



三日後。竜王軍と帝国軍は、睨み合っていた。
帝国北部の広大な草原の西側には装備を固めた帝国軍が、東側には巨体の竜の兵士達がずらりと並んでいた。
その光景に、帝国軍の兵士達はそれだけで気圧されていた。天を突くような竜の姿は、それだけで恐ろしい。
鋭い目を吊り上げ、眉間に深いシワを刻み、太い牙を剥いている竜達の前に、竜王軍の将軍が立っていた。
漆黒の甲冑に身を固め、竜王家の紋が入った前垂れをなびかせ、長く伸びたツノを誇示するようにしていた。
対する帝国軍の前には、帝国軍の騎士団長がいた。深い茶色の毛並みの馬に跨り、竜の男を見下ろしている。
エドワードは、その光景を離れた位置から見ていた。竜王軍の背後の小高い山の上に、近衛兵達と共にいた。
竜を従えて草原に佇むガルムの表情は、遠いためにあまり良く見えなかったが、その気配が鋭いのは解る。
空気に満ちた緊迫感の中でも、ガルムから発せられる殺気が最も強く、竜王軍の兵士が身震いするほどだ。
エドワードも、気を張っていなければガルムに飲まれてしまいそうだったが、なんとか気圧されずにいた。
竜王軍と帝国軍。どちらも、相手が動くのを待っていた。広大な草原を、ざあ、と強い風が吹き抜ける。
ガルムの羽織っていた黒いマントが広がり、大きな翼が露わになった。その翼が、ばしん、と空気を叩いた。

「竜王軍、地上部隊っ!」

ガルムは腰から剣を抜くと高々と掲げ、敵軍に突き出した。

「進軍開始ぃっ!」

将軍の掛け声が、戦場を震わせた。それに呼応した竜達の叫びが大地を揺さぶり、雷鳴に似た咆哮が轟く。
帝国軍は一瞬怯んだが、すぐに騎士団長が前方を示した。帝国軍の兵士達も、我先にと駆け出していった。
それに続き、歩兵部隊のすぐ後ろに配備されていた魔導師部隊が構え、一斉に魔力弾を発射し始めた。
無数の光の弾丸が飛び抜け、地面に着弾すると土煙を上げながら炸裂し、山の斜面を抉り、砕く。
竜王軍の地上部隊は、弾幕の中、浮かび上がり、帝国軍の歩兵が進む先に降下し、ずん、と着地した。
どん、どん、どん、どん、と着地した足元で骨が砕けて血が飛び散り、それだけで幾人か兵士が死んだ。
空を背負った巨体は、尾を振り、兵士を薙ぎ払う。咆哮を繰り返して相手を畏怖し、牙を剥いて爪を振り翳す。
帝国軍の歩兵部隊は、あっという間に蹴散らされていく。竜の太い尾で、紙屑のように千切れて吹き飛ぶ。
ガルムは竜王軍の歩兵部隊が進軍する様子を見守っていたが、地面を蹴って飛び上がり、翼を広げた。
彼を狙って飛んでくる魔力弾を剣で弾き返し、その弾を発射した魔導師の首に向かわせ、吹き飛ばした。
更なる追撃を加えられる前に高度を上げて羽ばたき、エドワードらの立っている山の上に舞い降りた。
山の上にガルムが降下してくると、エドワードは敬礼し、彼の背後の近衛兵達も姿勢を正して敬礼する。
ざっ、と地面に足を付けたガルムは、剣を腰の鞘に戻すと、竜王軍が優勢に立っている戦場を見下ろした。
竜王軍の歩兵は、全部で三十五人。たったそれだけの数でありながら、敵の数千の歩兵を叩き潰している。
これだけ見れば、竜王軍が勝利を収めるのは時間の問題に見えるが、戦争はそう簡単に行くものではない。
ガルムは、帝国軍の後方を睨んだ。歩兵や騎士団の陰に隠れて見えなかったが、魔導師達が並んでいる。
恐らく帝国軍は魔導師部隊を、最前線で戦う部隊と、後方から支援を行う部隊の、二手に分けたのだろう。
あの魔導師達が竜王軍への砲撃を一斉に始めたら、堪ったものではない。エドワードは、そう判断した。

「ガルム。今のうちに、こちらの魔導師部隊も前進させて戦闘配備させておこう。そうしなければ、敵の魔導師部隊に対処出来ないぞ」

「いや、まだだ」

ガルムはエドワードを一瞥し、また戦場を見下ろした。悲鳴と絶叫と、竜の咆哮だけが響いている。

「飛行部隊の到着を待て」

「何を悠長な! 飛行部隊は次の作戦で使う者達だ、今回の戦いでの出撃予定はない!」

エドワードが叫ぶと、ガルムは言い返した。

「エドワード、お前に口出しされる筋合いはない。ホルス、飛行部隊からの連絡は!」

いきなりガルムに怒鳴られた近衛兵の青竜族の青年は、びくっと肩を震わせた。

「あっ、はい。今朝方、ウェイラン隊長の伝令用ワイバーン、シャオにて連絡がありました。ウェイラン隊長のご到着は、本日の昼頃になるかと…」

「お前が飛んで呼び付けろ。死ぬ気で行け、今すぐに連れてこい!」

ガルムが命ずると、青竜族の青年は反射的に敬礼した。

「了解であります、閣下!」

それでは失礼します、と青竜族の青年は二人に深々と頭を下げ、空間転移魔法を使ってその場から消え失せた。
ガルムの命令には、他の近衛兵達も戸惑っているようだった。ウェイラン率いる飛行部隊は、まだまだ遠い。
元々、ウェイラン・ドラグラウは竜王都の竜ではない。東方の奥地にある東竜都にいた、青竜族の若者だ。
竜王都での従軍経験もあり、空中戦での戦績が素晴らしかったために、ガルム直々に呼び寄せたのである。
だが、その命令が届いたのは昨日だ。いくら竜族でも、たった一日で、東竜都から帝国までは来られない。
それに、そんな長い距離を飛んできた後に戦いなどしたら、消耗が激しく、戦死してしまうかもしれない。
そうなってしまっては、強力な部隊の一つである飛行部隊に損失が生じ、敗北を招いてしまう可能性もある。
そんなことぐらい、ガルムにも解っているはずだ。一体、飛行部隊で何をしようというのか、読めなかった。
普通に考えれば、空爆だろう。飛行部隊の背に魔導師部隊を乗せ、戦場を一掃してしまうのが有効な手立てだ。
だがガルムは、魔導師部隊をまだ動かさないと言った。エドワードであれば、魔導師部隊を先に動かしている。
当然ながら、竜王軍の魔導師部隊の方が、帝国の魔導師部隊に比べて魔法の数も出力も遥かに上回っている。
だから、こちらの魔導師部隊が本気を出しさえすれば、あちらの魔導師部隊など、簡単に一掃出来るはずだ。
そうしてしまえば、敵に多大なる損害を与えられるし、士気も下がる。その隙に、敵将の首を刎ねればいい。
エドワードはそれを口にしようとして、ふと気付いた。敵の魔導師部隊の動きが、気持ち悪いほど、ない。
両軍の歩兵達は入り乱れて戦い続けているのだが、帝国軍の背後の森に潜む魔導師部隊は、微動だにしない。
じっと目を凝らしてみると、魔導師達の顔はフードによって隠されていて、その装備も黒の外套に隠されている。
何か、ある。エドワードは風に掻き乱された長い銀髪を押さえ、自軍の将軍を窺うと、ガルムは言った。

「聞こえるか」

ガルムは、顎で敵の魔導師部隊を示す。

「奴らの声が」

エドワードは訝しみながらも、感覚を高めた。戦場の喧噪に邪魔をされて、魔導師達の声など聞こえなかった。
だが、感覚を研ぎ澄ませて、魔導師達の魔力の高さに合わせてみると、不意に静かな声が耳に飛び込んできた。
それは、死霊を操るための呪文だった。様々な人間の様々な高さの声が混じり、奇妙な音楽のようにも聞こえた。

「ルドルフ。この魔法の意味は」

ガルムは振り返り、近衛兵の一人、赤竜族の青年に向いた。彼は目を閉じていたが、見開いた。

「一般的な死霊術ですが、端々の言葉が違います。範囲も広く設定されています」

「魔法陣はあると思うか?」

ガルムの言葉に、赤竜族の青年は答える。

「普通に考えたら、あるものだと思われます。ですが、敵の魔導師部隊がいる場所は森です。適応範囲の広い魔法を放つためには、不向きというか、まず不自然です。敵の魔導師部隊が揃って同じ魔法を操っているのは、恐らく、魔法陣を使用していないために起きてしまう、魔法生成時の魔力値変動を押さえるためでしょう。大人数であれば、いかに大きな魔法であっても、魔法陣を使わずに操ることは可能です」

「そうか」

ガルムは素っ気なく返し、腰に提げている剣の柄に手を添えた。

「エドワード。ここがどういう場所なのか、知っているか」

「帝国領土北部地方、ロギル山脈のふもとの平地だ。見通しが良く、市街地からは遠く、戦場には相応しい地だ」

エドワードが返すと、ガルムは軍靴のつま先で地面を小突いた。

「無論、それだけではない。この山は、竜の骨で出来ている山だ。旧世代のドラゴン・スレイヤー共がのさばっていた時代に、運悪く狩られてしまった竜の骨を積み重ね、その上に近隣の鉱山から出た土砂を被せて埋めてしまった、という場所なのだ」

「そういうことか。だから、敵はここを指定してきたわけか」

ガルムの話を聞き、エドワードは納得した。帝国軍の魔導師部隊が動こうとしない真意は、そこにあったのだ。
恐らく、帝国軍の魔導師部隊は魔法陣を使わずに、竜族の死者達を蘇らせて、味方に付けるつもりなのだろう。
歩兵達の小競り合いは、それまでの時間稼ぎだ。だが、そうだと解っているなら、なぜ飛行部隊を待つのだ。
こちらの魔導師部隊を使って帝国軍の魔導師部隊の統率を乱し、その作戦を乱してしまった方が、余程早い。
すると、感覚に竜の気配が訪れた。エドワードが顔を上げると、その真正面から、青竜達がやってきていた。
だが、彼らと戦場との距離はまだまだ遠く、人間達は気付いていない。エドワードは、ふと疑問が湧いた。
東竜都に住まうウェイラン率いる飛行部隊は、東から来るはずだ。だが、青竜達は、ほぼ真西から来ている。
考え得るに、これはガルムの指示なのだろう。そう思っていると、ガルムはほんの少しだけ、得意げにした。

「馬鹿正直に兵を動かすのは、面白くないからな」

しかし、いやに早く来たものだ。敵の裏を掻くために遠回りをしていたのなら、その距離は伸びるはずだ。
どうやって距離を縮めたのか、と思いながら目を凝らすと、青竜族達に混じって、近衛兵がいるのが見えた。
彼の仕業だ、と直感した。エドワードの近衛兵の魔導師、ホルス・ドラグラウは魔法の生成が恐ろしく速い。
そして、空間移動魔法に長けている。空中であろうとどんな場所であろうと、空間軸を捉えて固定してしまう。
大方、ウェイラン達飛行部隊ごと空間を移動してきたのだろうが、飛行部隊の構成員の数は半端ではない。
何せ飛行部隊は、東竜都に住む青竜族の若い男達を、手当たり次第に掻き集めて訓練を付けた部隊だ。
それに、主力部隊とするために竜王都から送り込んだ兵士もいるので、その数はかなりのものになっている。
今回、先発部隊としてやってきた飛行部隊は全体の半分だが、それでも、隊員の数は五十を越えている。
見ていると、ホルスだけ羽ばたきが弱々しかった。五十以上もいる竜を、一度に転送すればバテて当然だ。
ホルスはエドワードの視線に気付いたらしく、目が合った。すると、空間が僅かに歪み、彼の姿が失せた。
直後、どたっ、と情けない着地音がした。振り返ると、他の近衛兵に支えられた、青ざめたホルスがいた。
擬態の姿に変化しているのだが、消耗のせいで中途半端で、手には爪が、肌にはウロコが残っている。
ホルスはなんとか姿勢を戻すと、敬礼した。ガルムはちらりと彼を一瞥したが、視線を飛行部隊に戻した。

「将軍閣下! 任務、遂行して参りました!」

「ご苦労だった」

ガルムの代わりに、エドワードが返した。ガルムは眼下の戦闘を見ていたが、歩兵の竜の一人がよろけた。
金属を軋ませるような耳障りな咆哮を放ちながら、喉を射抜かれた黄竜族の歩兵は、後退っていった。
他の歩兵の竜が手助けに向かおうとするが、黄竜族の歩兵は傷が回復するよりも先に、矢を射られた。
その矢は、咆哮を繰り返す喉や見開かれた瞳を狙い、喉の傷にも次々に射られ、無数の矢が刺さった。
矢が刺さるたびに咆哮は引きつり、目を射抜かれて視力を失ったらしく、狂ったように頭を振っている。
負傷した歩兵の竜を狙い、無数の魔力弾が発射され、強固なウロコや太いツノ、鋭い牙などが砕かれていく。
エドワードは歩み出そうとしたが、ガルムの腕に制された。ガルムは、暴れ狂う歩兵を見つめ、言った。

「放っておけ。もう助からん」

「だが、ガルム!」

エドワードは反論したが、ガルムは冷淡に返した。

「丁度良いではないか。このままゲイブ一等兵が命を落とせば、帝国の魔導師共が練っていた魔法が、奴にも作用される。そうなれば、ゲイブ一等兵は生きながらに身を腐らせることになり、帝国共の目はそちらに向き、私が呼び寄せた飛行部隊には向かない。これで、奇襲が成功する」

「な…」

エドワードは言い返そうとしたが、言葉に詰まった。視力を失った黄竜族の歩兵は、大量の血を流している。
げっ、げっ、と胃液と共に血を吐き戻し、彼の足元は血と泥と死体だらけになっていて、強烈な臭気がした。
よろけながらも歩み出そうとするが、胸元に突き刺さった矢の根元がごぼりと泡立ち、黄色のウロコが割れた。
臓物に似た肉塊が溢れ出し、地面に落ちる。傷口という傷口から汚らしい液が零れ、腐臭が漂い始めた。
頭を振り回して咆えると、ずるりと目玉が抜け落ちる。牙の隙間から吐き出した血は、どす黒く変色していた。
我を失って腐肉を辺りに撒き散らす死にかけの竜に、帝国の魔導師達は困惑したらしく、呪文が途切れた。
死にかけの竜は、肉がずり落ちて頸椎が覗いた喉に息を吸い込み、ひゅるひゅると音を出し、胃液を落とした。
あまりの光景に、エドワードは顔を歪めた。背後の近衛兵達も気分が悪そうだったが、ガルムは平然としていた。
ガルムは目を上げると、次第に戦場へ近付いてきた飛行部隊を見定めた。剣を引き抜き、飛行部隊に向ける。

「飛行部隊、総員、直ちに降下せよ!」

ガルムの命令が聞こえたのか、青竜達は首をもたげて降下を始めた。凄まじい風が走り、腐臭が散らされる。
いきなりの強い風と頭上を覆う影に気付いた帝国軍は、振り返って応戦しようとしたが、遅かった。
飛行部隊の先頭にいたウェイランを始めとした竜達は、大きく息を吸い込み、鮮烈な炎を吐き出し始めた。
腐臭の混じる風に、熱が含まれた。飛行部隊の放った炎が、帝国軍の背後の森を焼き、煙を昇らせていく。
竜王軍の歩兵部隊や魔導師部隊は素早く撤退したが、帝国軍の歩兵部隊はそうはいかず、逃げ惑っている。
帝国軍の魔導師部隊は、背後から迫る炎と竜から逃げようとしたが、逃げようとした先に炎を吐き付けられた。
草と木、血と死体が焦げる嫌な匂いがする。エドワードが口元を曲げていると、足元が、少し動いた気がした。
見下ろすと、山の斜面から、骨の竜が顔を突き出していた。だが、飛行部隊の放った炎を浴び、すぐに崩れた。
羽ばたいて上昇し、燃え盛る地上から離れた地上部隊は、飛行部隊と同じように、一斉に炎を吐き出した。
炎の中で、腐った体の竜が嘆いている。声にならない声で、死にたくない、死にたくない、と叫んでいる。
抜け落ちた目玉が千切れ、足元に転がる。それを踏み潰した腐った竜は、窪みだけの目でガルムを見上げた。
だが、その目はすぐに外れた。腐った竜は首の根元がへし折れ、どしゃっ、と炎の中に倒れ込んでしまった。
炎の海を見下ろす山の上に、魔導師部隊の隊長が舞い降りた。翼を折り畳み、ガルムの前に膝を付く。

「将軍閣下、ご指示を」

「帝国の連中を、全て焼き払え。骨も残さず、魂も潰し、一人残らず殺し尽くせ!」

ガルムの猛りに、魔導師部隊の隊長は深々と頭を下げた。

「了解しました、閣下!」

魔導師部隊の隊長は体を起こすと、振り返った。上空に浮かんでいる魔導師部隊の隊員達に、手を掲げる。

「聞いての通りだ! お前達、人間共を皆殺しにせよ!」

はっ、と揃って声を上げた魔導師部隊の隊員達は、炎の海へと飛び去っていき、隊長もまた飛び去っていった。
草原と森は炎に舐め尽くされ、火の粉が飛び散っている。鼻を突く煙の匂いには、死臭が入り混じっていた。
腐った竜は、身悶えながら命が果てたのか、奇妙な形で体を歪ませており、体の下では翼がへし折れていた。
つい先程まで戦場であった草原は炎に満たされ、この分だと、帝国軍の兵士は放っておいても全滅するだろう。
エドワードは、ガルムに向いた。目の前で自軍の兵士が腐り果てていっても、この男は眉一つ動かさなかった。
それが、信じられなかった。目の前で部下に死なれることに慣れているエドワードですら、あれには動揺した。
副将軍が取り乱してはいけない、と理性で押し止め、表面には出していないだけで、内心は乱れに乱れていた。
帝国軍のやり方が毒々しいことは知っているし、ガルムのやり方が極端なのも知っているが、今回は別だった。
エドワードは、腐りながら死んでいった兵士を助けてやりたかった。魔法が効く前に、撤退させてやりたかった。
どんな状況であろうとも、部下は見捨ててはいけない。それが上に立つ者のするべき仕事だと、思っている。
だから、ガルムの判断が腹立たしかった。彼の立てた作戦は良かったとは思うが、それとこれとは全くの別物だ。
エドワードが肩を怒らせている様を横目に、ガルムは戦場を見下ろしていた。炎の海から、熱い風が昇ってくる。
これで良かったのだ。敵を全て殺さなければ、帝国は更に増長する。それを防ぐためには、これが最も有効だ。
結果として囮となった歩兵には、申し訳ない気持ちがないわけではないが、後悔や謝罪の気持ちなどは起きない。
所詮、部下は手駒の一人に過ぎない。戦いに置いて優先されるべきは勝利であり、兵士の命を守ることではない。
炎の海の所々で、爆発が起きる。竜王軍の魔導師部隊が放った魔法で、魔力の炎の勢いが増し、煙も増した。
しばらく、爆発が続いた。爆音が轟くたびに、人間の断末魔と思しき絶叫が響くが、その声も炎に焼き尽くされた。
爆発が落ち着くと、炎の海の上を巡っていた魔導師部隊が上昇した。一塊になって浮かび、全員で手を翳す。
彼らは、一声叫んだ。最も簡単な呪文ではあったが、彼らの魔力と炎を成す魔力により、強大な力となった。
魔力の風に巻き上げられた炎が巨大な柱となり、空を焼け焦がさんとするように、上へ上へと伸びていく。
何本もある炎の柱は戦場の中心に動いていき、絡み合って一塊になったかと思うと、不意に強烈な熱が失せた。
魔導師部隊は、皆が手を下ろした。彼らの下には、全てが炭と化した戦場があり、ぶすぶすと火が燻っている。
所々に、人間の骨や変形した武器などが転がっているが、どれもこれも黒くなっており、見分けが付かない。
魔導師部隊の隊長がガルムへと向くと、ガルムは頷いた。将軍が、帰還せよ、と叫ぶと、彼らは姿を消した。
ガルムは剣を引き抜くと、横に構えた。顔の前で直立させたが、すぐに下げて鞘に戻し、戦場に背を向けた。

「我々も帰還する。竜王陛下に、我ら竜王軍の勝利をお伝えしなくては」

「…ガルム」

エドワードの押し殺した声に、ガルムは振り返った。

「エドワード副将軍。貴君は帝国領土への進軍を続けよ。我らも追って進軍する」

「あの約束を、覚えているか」

エドワードは両の拳を固めながら、ガルムの前に立ちはだかった。ガルムは、間を置いてから答えた。

「さて、何のことだ」

「覚えていないのなら、それでも良かろう。だが、覚えているのなら、私はあの約束を果たさせて頂く」

エドワードは白いマントを翻し、ガルムに背を向けた。歩き出したエドワードを、彼の近衛兵達が追っていった。
いつになく腹立たしげな副将軍の姿が見えなくなってから、ガルムは大量の煙に覆われた空を見上げ、呟いた。

「約束か…」

腰の剣に手を掛け、ガルムは過去に思いを馳せた。遠い昔に、エドワードと交わした約束は、忘れてはいない。
実に、他愛もない嘘を吐いてしまった。だが、そうした方がエドワードにとっては楽かもしれない、と思っていた。
百数十年前。まだ、ガルムもエドワードも竜王軍の騎士であった頃に、二人でフィフィリアンヌの城に赴いた。
その際に、フィフィリアンヌによって煽られたガルムは本心を暴き出され、己の行動で同族が死んだことを知った。
ガルムが帝国の鉱山を壊したために、結果として死んでしまった竜族は、エドワードの掛け替えのない弟だった。
それを知ったエドワードは激昂し、ガルムに向かって叫んだ。人の平穏を乱そうというのなら、お前を殺そう。
彼の言葉にガルムは、頼むよ、と言った。己の正義を貫くが故に進む道を見誤ってしまったら、止めてくれと。
ガルムは、不意に笑顔を浮かべた。自虐的であったが、エドワードへの複雑な思いも籠もったものだった。
確かに、印象の強い約束だろう。あの出来事があって以来、二人は何かと接するようになり、仕事も共にした。
だが、昇進して立場も変わってしまった今となっては、仕事以外では疎遠になり、会話する機会も減っていた。
元々、ガルムとエドワードは友人ではない。遠回しながら弟を殺した憎き仇と、扱いづらい同僚の一人だった。
二人の間には、絆も、友情も、連帯も、何もない。存在しているのは、仇への憎しみと、相容れない壁だけだ。
ガルムがエドワードを理解しようとしないように、エドワードもまた、ガルムを理解しようとはしなかった。
これからも、きっとそうだろう。戦いが始まってしまったのなら、尚のこと、エドワードとの価値観の差は開く。
戦いほど、二人の差が目に見えるものはない。ガルムが力を好むように、エドワードは理性を好んで戦う。
明日は、エドワードが行軍する。その途中で多少は小競り合いがあるのだろうが、戦い方はかなり違うだろう。
ガルムは戦場に背を向け、羽ばたいて上昇した。それに続いて近衛兵達も飛び上がり、彼らは先に竜に戻った。
戦場から漂ってくる熱を翼に孕ませ、高度を上げたガルムは、口の中で魔法を唱えて、甲冑を消した。
巨大な黒竜に戻り、竜王都に向けて飛びながら、ガルムは咆哮した。竜の力を示すために、大気を震わせた。
黒竜の将軍が空を往く姿を、見上げている影があった。戦場を見下ろす山の裏手に、白衣姿の男が立っていた。
背からは黒い翼が生え、肌は褐色で、赤黒い瞳を持った中年の男だったが、白衣には竜王軍の紋章があった。
竜王軍医療部隊の医者、ファイド・ドラグリクは、竜王都へ向かっていった将軍から目を外し、振り返る。

「さあ、私らも帰還するとしよう。将軍閣下もお帰りになったことだしな」

彼の背後には、ファイドと同じように竜王軍の紋章が入った白衣を羽織った者達がおり、彼らも将軍を見ていた。
その中に、一際小柄な竜族がいた。長い緑髪を白い帽子の中に押し込め、やはり白衣を着ている少女だった。

「出番がないなら、呼び出さないで欲しいものだ」

「そう言わないでくれたまえ、フィフィリアンヌ。将軍閣下の命令は絶対だ、我らにとってはね」

ファイドは、小柄な少女、フィフィリアンヌに向いた。フィフィリアンヌは、白衣の襟を引っ張る。

「というより、なぜ私まで医療部隊に回されてしまったのか、全く理解出来んのだが。人手不足なのか?」

「効率を重視した結果さ。君が近くにいた方が、私らとしてはありがたいのさ。薬剤が尽きたとしても、いちいち補給部隊に要求しなくてもいいからね」

ファイドは、フィフィリアンヌを指す。フィフィリアンヌは、不可解げに眉根を歪めた。

「して、貴様はいつから軍医になどなったのだ。正直、似合わんぞ」

「理由は簡単だ。君と同じように、私もこれでもかというほど金を積まれたのだよ。だから、引き受けただけだ。戦いが終わったら軍務から解いてくれる、って約束もして下さったしね」

ファイドは医療器具の入ったカバンを、がしゃりと担いだ。フィフィリアンヌは、薬剤の入ったカバンを持つ。

「ほう。貴様にしては、随分と即物的な理由だな」

「私にも、色々とあるのだよ」

ファイドは、フィフィリアンヌや他の医者達に笑った。さあ行こう、と白衣を着た者達を急かし、歩き出した。
歩きながら戦場を見回してみるが、焼け焦げたものの他には何も見えず、生者の姿はどこにも見えなかった。
ファイドは、戦場の中心付近にある、真っ黒く焦げた竜の骨を見上げた。ああなってしまっては、解剖は無理だ。
山のようにも見えるほど巨大な骨は、頸椎や肋骨が崩れていて、その身に受けた魔法の強烈さを物語っていた。
中でも一番ひどいのが、魔力中枢のあった胸元で、薬品を掛けて劣化させたかのようにぼろぼろになっている。
ファイドは、帝国軍が憎くなった。自軍の兵士を死に追いやったのもそうだが、死体を腐らせてしまったからだ。
腐ってさえいなければ、解剖してやったものを。ファイドは残念に思いながら、焼き尽くされた戦場から離れた。
ファイドが竜王軍の医療部隊に手を貸した理由としては、多額の報酬の他にも、死体を解剖出来るからであった。
竜族は、良くも悪くも頭が古い。今後の医療のために必要だと言っても、竜の死体を解剖させてもらえなかった。
なので、現存する竜の体の資料は大雑把で、当てにはならない。だから一度、徹底的に解剖してみたかった。
骨から筋から何もかもを調べ尽くし、書き記し、研究すれば、施術の失敗も少なくなって助かる患者も増える。
過去に何度となく、様々な竜族に死体を解剖させてくれるように頼んだのだが、誰一人として了承しなかった。
誇り高き竜の体を穢す気か、死者への愚弄だ、と言われることも少なくなく、もどかしくやりづらい日々だった。
だが、戦争が起きれば違う。損壊はひどいかもしれないが、死体がごろごろ出来、処分に困る時が来るだろう。
その処分に必要なのだと言い訳でもして、解剖に回してしまおう。捌き甲斐がありそうだ、と内心で呟いた。
しかし、戦争が起きたことが嬉しいはずはない。解剖は好きだが、無駄に生き物が死んでいくのは嫌いだ。
ファイドは、戦場からある程度離れた位置で、立ち止まった。不意に、がらがらと轟音が響き、何かが崩壊した。
振り返ると、ツノの生えた竜の頭蓋骨が、真っ二つに割れていた。





 


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