その頃。フィフィリアンヌらは、王都へ戻ってきていた。 一年半も主が離れていた城は、以前にも増して寂れており、重たい夜の空気の中に巨体を沈め込んでいた。 古びた城はひっそりと静まり返り、周囲の森からは虫の鳴き声一つしてこなかったが、湖の水音だけがしていた。 夜の闇を吸い取った湖面が、静かに揺らいでいる。その傍で睨み合っている両者を、三人は眺めていた。 片方は、露出の多い魔導師の衣装を着た緑竜の女で、もう片方は、厳めしい甲冑を着込んだ黒竜の男だった。 城の正面玄関前で、伯爵を手に提げたフィフィリアンヌの隣に立つギルディオスは、若干気圧されていた。 アンジェリーナとガルムの気迫が、半端ではない。アンジェリーナは、美しい顔立ちを、怒りで歪めていた。 「馬鹿でしょ、あんた」 「愚かなのは帝国です!」 即座に言い返したガルムは、ぎち、と腰に提げた剣を僅かに抜く。柄を握り締める手に、力が籠もる。 「帝国は、我らの故郷を滅ぼしたのです! これが、報復をせずにいられましょうか!」 「少しぐらい待ってから、動きなさいよ。せめて、体勢を立て直せるようになるまで堪えなさい」 アンジェリーナの言葉に、ガルムは腹立たしげに眉を吊り上げる。 「アンジェリーナ様。あなたは軍務に関わらないと仰ったはずですが、私の作戦に口を挟むのですか」 「別に、そういうわけじゃないわよ。ただ、私はあんたに押さえろと言いたいだけよ」 「私は充分に冷静です! それより、アンジェリーナ様、なぜあなたは竜王都をお守り下さらなかったのですか! 何のための、守護魔導師なのですか!」 激昂したガルムに、アンジェリーナは声を張り上げる。 「守っていたわよ、あんたらの知らないところで! 竜王都に進軍する帝国軍の退路を断ち切って、補給部隊を全滅させて、魔導師部隊から魔力をごっそり抜いて、途中の山を吹っ飛ばして足止めしようとしたわよ!」 アンジェリーナは形の良い唇を歪め、鋭い牙を剥いた。 「だけど、あんたらが帝国軍を迎え撃ったりするから、後方から追い回して煽ったりするから、連中、進軍しちゃったじゃないのよ! 到達してから迎え撃とう、じゃなくて、到達する前に帝国軍をどうにかしようって頭はないわけ、この役立たずが!」 「役に立たないのはどちらですか、アンジェリーナ様!」 ガルムは背中の翼を思い切り広げ、アンジェリーナを睨む。 「あなたがいらしてくれたのであれば、竜王陛下や殿下は自害せずに済んだかもしれない、負傷した兵士達も逃げ延びられたかもしれない、都も破壊されずに済んだかもしれないというのに!」 「じゃあ聞くけど、帝国軍が竜王都に攻め込む理由を作ったのは誰よ!」 長い髪を振り乱し、アンジェリーナは叫ぶ。 「あんたが馬鹿みたいに人間を殺しまくったせいで、相手も歯止めが効かなくなっちゃってんのよ! そりゃ、発端は帝国がドラゴン・スレイヤーなんてことを始めやがったせいだけど、それを戦争にしたのは誰よ! 戦場の兵士だけじゃなくって、街まで砲撃させて焼き尽くしてばかりいたのは、捕虜にするべき上位軍人を斬り殺して交渉の機会も吹っ飛ばしたのは、エドワードの意見も聞かないで兵士が死ぬ作戦ばっかり展開していたのは、あんたでしょうが、ガルム!」 「この戦いは、竜族と帝国との全面戦争なのです! 帝国を全て滅ぼさない限り、終わりはしません!」 「その前に、私達が滅ぶっつってんのよ!」 アンジェリーナは息を荒げ、大きく肩を上下させた。 「いいこと、これからあんたがしようとしていることは、あんたの立てた作戦の中で一番愚かでダメで馬鹿馬鹿しくて最低な作戦だわ。残存した兵力を全て掻き集めて、帝都を叩こうだなんて、そんなのただの特攻よ。帝国も、そんなに馬鹿じゃないわ。竜王都に進軍したことで、あんたが報復に来ることなんてとっくに予想しているだろうから、帝都で待ち受けているはずだわ。帝都には、上位軍人やら皇族を守るために高等技術を持った魔導師がごろごろしているわ。人間だからって侮ると、痛い目を見るわよ。魔法ってのは、発術者の魔力じゃなくて、才能で威力が決まるのよ。タカを括っていると、すぐに脳天吹き飛ばされちゃうんだから」 「発動する前に、喰らってしまえばいいことだけのです」 平然と、ガルムは言い返した。アンジェリーナは、忌々しげにする。 「だから、それが馬鹿だっつってんのよこの馬鹿! そんなことするから、帝国は竜を魔物と同一視しちゃうのよ! 確かに、魔法を成している最中の魔導師を喰ってしまえば、魔法は発動しなくなるけど、魔法に昇華出来なかった魔力が腹の内で暴れて、それだけで兵士は死んじゃうのよ!」 「同族を守るためには、致し方ないことです!」 ガルムの叫びに、アンジェリーナはこの上なく苛立たしげな声になった。 「守る守るって言って、結局死なせてんじゃないのよ、この馬鹿!」 「死なせてはいない! 誇り高く戦ったが、運悪く散ってしまっただけのことだ!」 アンジェリーナとガルムの言い争いを、離れた場所から傍観していたギルディオスは、肩を落としていた。 ああ、もう奴はダメなんだな、と思った。ガルムの言葉は常軌を逸しており、平常心を失ってしまっている。 以前であれば、いくらガルムでも、帝都への突撃は考えなかった。それだけ、竜王軍は消耗が激しかった。 開戦した当時は多くいた男達の大多数は死んでしまい、生き残っている者達は、兵士にするには頼りない。 種族を守るために女は出撃させるな、との命令はあるのだが、このままでは女達が戦わざるを得なくなるだろう。 アンジェリーナの言うように、ガルムの指示通りに戦いを続ければ、竜族は完全に滅びてしまうことだろう。 だが、ガルムはそれすらも見えなくなってしまうほど、帝国に、いや、人間に対して怒りを募らせている。 「もういい!」 ガルムは身を引くと、翼を広げて上向けた。ばさり、と羽ばたいて浮かび上がる。 「どれだけ言っても解って下さらないのなら、これ以上の言い争いは無駄です!」 「解ろうとしないのはそっちでしょうが!」 アンジェリーナは、次第に高度を上げるガルムを見上げた。ガルムは、彼女を一瞥したが、森の上を飛び去った。 その羽音が聞こえなくなった頃、アンジェリーナはくたりと肩を落とした。叫び続けて、気力が尽きたらしい。 「どうして、こうなっちゃうのよ…」 「どうもこうもせん。奴の頭が、遂に切れてしまっただけのことだ」 今まで黙っていたフィフィリアンヌは、母の元に歩み寄った。アンジェリーナは、ふう、と息を吐く。 「ああ、だから戦争って嫌い。戦って戦って殺し合いまくって、最後にはみぃんなおかしくなっちゃうから」 「戦闘高揚剤を作れ、などという話を持ち掛けてきた辺りから、どうにも妙だとは思っておったのであるが…」 フィフィリアンヌの腰に提げられたフラスコの中で、伯爵がごぼりと泡を出した。ギルディオスは、首を振る。 「全く、どうしようもねぇな。竜族が本当に滅んじまう前に、ガルムが死んでくれることを願うしかねぇな」 「そうだな」 フィフィリアンヌは、ガルムが飛び去った方角を見上げた。深い闇に包まれた森は、ひっそりとしている。 だが、ざわめきがあった。音ではなく、神経にかすかに触れてくるような、高ぶった魔力の気配が潜んでいる。 それが竜のものであることは、考えずとも解った。ガルムが引き連れてきた軍勢が、この近辺に隠れているのだ。 当初は、多少なりとも、ガルムの考えは理解出来た。意味もなく同族を殺されてしまえば、怒るのは当然だ。 しかし、今はもう何も解らない。彼の言うところの誇りも、負けると解っているはずなのに戦い続ける理由も。 ガルムの頭には、もう、同族を守ることなどないのだろう。あるのは、憎き人間を滅ぼすための闘争心のみだ。 元々、彼の内には人間への憎しみが燻っていた。騎士であった頃から持っていた、どす黒い感情の固まりだ。 歳を重ねて落ち着きを得たガルムは、それを押さえ込めるようになったので、表に出すことはなくなった。 だが、再び竜族を殺され、その憎しみが蘇った。そして、竜王都と竜王家を滅ぼされ、憎しみは一気に増大した。 きっと、その憎しみが強すぎてしまったのだ。ガルムの思考はもとい、信念すらもぐらつかせてしまうほどに。 戦えば、戦った分だけ、同族は滅びる。それが解っているはずなのに、憎しみに身を焦がしすぎて、解らなくなる。 帝国も、そうだ。戦えば戦うほどに、自国が傷付いて民が死んでいくのに、それでもまだ戦わずにはいられない。 最初は、魔物や竜族を屠ればもらえる金と地位が目的だったのに、いつしか、竜を滅ぼすことが目的になった。 誰も彼も、狂っている。気付かぬうちに価値観は壊れ、平常な思考を失い、憎しみばかりが連鎖を続けていく。 この世に生き物が在る限り、生きている者達が争いという手段を忘れない限り、その狂気が途絶えることはない。 フィフィリアンヌは、背筋が冷たくなった。震えが起こりそうなほどのおぞましさを堪え、ぐっと唇を噛み締めた。 「ちょっと、私、王都の様子見てくるわ」 突然、アンジェリーナは翼を広げ、言い終える前に飛び上がった。フィフィリアンヌは、訝しむ。 「母上、どうかしたのか?」 「別にどうもこうもしないわよ、ただ、ちょっと引っ掛かることがあるってだけ。うるさいわねぇもう」 アンジェリーナは宙に浮いたまま、フィフィリアンヌに向けて手をひらひらと振る。 「あんた達は、また竜王都にでも戻ってなさいよ。ファイドの奴が、手ぇ足りなくて困ってるはずだから」 「しかし、母上」 少しばかり不安げな顔をしたフィフィリアンヌに、アンジェリーナは身を屈め、娘の頬に手を添えた。 「あんた、私を誰だと思ってんのよ? 天下の守護魔導師様よ? あんたにいちいち心配されなきゃならないほど、弱っちい女じゃないわ。大丈夫大丈夫、気が済んだらすぐに戻るから。竜王都で待ってて」 アンジェリーナは、フィフィリアンヌの頬からするりと手を外した。娘の眼差しは、まだ心配そうだった。 引き留められる前に、上昇した。両の翼を羽ばたかせて風を起こし、体を持ち上げて空を切って飛んでいく。 なるべく高度を上げず、木々のすれすれを飛びながら、魔力を高めて目を凝らし、闇に沈む王都を見据えた。 分厚い城壁に囲まれているため、王都の向こうは見えないが、周囲に配置した魔法陣から気配は伝わってくる。 王都に異変が起きたらすぐに感づけるように、と、王都の周辺に、いくつか魔力探知の魔法陣を書き記した。 その近くを、魔導師、或いは竜が通れば、アンジェリーナの感覚に反応を飛ばしてくるように設定しておいた。 反応から察するに、これは人間だ。それも、竜族に対して多大なる敵意を漲らせた、帝国軍の大部隊だった。 アンジェリーナは王都に近付きながら、眉根を歪めた。帝国軍が王都に進軍してくる予定など、なかったはずだ。 帝国と王国は、実質帝国が王国を制圧しているが、表面上は協力関係にあり、協定を結んで竜族と戦っている。 そんな相手の首都を、襲撃するだろうか。そんなことをしては、帝国軍と王国軍が内乱を起こしてしまう。 だが、王都に敵がいたら話は別だ。憎き竜が王都の近くにあったとしたら、それは襲撃ではなく、迎撃になる。 しかし、アンジェリーナは、出来る限り竜の気配を殺して行動してきた。髪と目の色だけでなく、身なりも変えた。 その姿で王都の中を歩き回ってみたが、誰一人として、アンジェリーナが竜族であると見咎めるものはいなかった。 となれば、恐らく、王都の人間がガルムの影を見つけたのだろう。そして、それを帝国軍に報告したのだ。 アンジェリーナは、ガルムに対して先程以上の憤りが起きそうになったが、気を張り詰めさせて押さえ込んだ。 今は、ガルムに怒っている場合ではない。一刻も早く帝国軍を迎え撃ち、娘の住まいの城と夫の墓を守るのだ。 長い間ずっと、したくても出来なかった、やれるはずなのにしなかった、妻らしく、母らしいことをするために。 人間の夫、ロバートには様々なものをもらった。素直になる嬉しさや、笑い転げる楽しさや、愛し合う心地良さ。 だが、彼には何も返してやれなかった。何かしなければ、とは思うが、何も出来ないまま、彼は命を落とした。 何度、それを後悔しただろう。後悔しても遅いのだと思い知るたびに、どれだけ、夫が愛しくなっただろう。 そして、夫との間に出来た半竜半人の娘、フィフィリアンヌからも、愛し愛する素晴らしさを教えられた。 竜王都を訪れた娘との、辛辣だが温かい会話。娘の城で、娘から振る舞われる、紅茶の香りや菓子の甘さ。 全てが、愛おしい。家族らしいことをほとんど出来なかった家族であっても、やはり、家族は家族なのだ。 素直になれなくて、料理も下手で、愛情表現も下手で、意地ばかり張ってしまう、母らしくない母親だった。 けれど、夫は、娘は、そんな自分でも家族として愛してくれた。母親としての喜びを、与えてくれた。 今も、器用ではない。だから、二人に上手く返してやれないから、返す方法はこれしか思い付かなかった。 夫の墓と娘の城と、二人の平穏な日常を守り抜く。魔法しか知らない女には、それぐらいしか出来ない。 王都に向かって飛びながら、アンジェリーナは笑っていた。全身に漲る力は、戦意ではなく、愛情だった。 それが、とても心地良かった。 王都の西側に広がる平原を、帝国軍は進軍していた。 竜王都への襲撃の第二波として進軍している最中、王都に配置していた兵士が馬を走らせ、伝えてくれた。 黒竜と思しき影が、王都の西側の山に降りた、と。報告役の兵士以外の複数の兵士も、見たと断言した。 闇に紛れていた黒竜の周囲には、巨大な竜が複数おり、その部隊編成は黒竜将軍の護衛と全く同じだった。 それが黒竜将軍であるとの断言は出来ないが、竜王軍は大分消耗しているので、襲っておいて無駄ではない。 一体でも多くの竜族を殺してしまうことが、この戦争の目的であり、帝国を支配する皇帝の願いだからだ。 平原の果てには、城壁に囲まれた王都が見えた。東の山から昇ってきた朝日の切れ端が、空に伸びている。 軍勢の先頭を進んでいた騎士は、乾いた草の生えた平原の真っ直中に、人影と思しき影があることに気付いた。 王都まで延々と広がっている、青々とした初夏の草原に比べると、その人影だけ色が濃く、いやに目に付いた。 色鮮やかな緑のマントをなびかせ、そのマントと同じか、それ以上に鮮やかな深緑の長い髪を広げている。 マントの下には、骨張っていて皮の張り詰めた翼が下げてあり、頭にはすらりとしたツノが二本生えている。 耳は長く尖っていて、人外であることを示していたが、兵士達は畏怖を覚えるよりも先に、圧倒されていた。 遠目でも解るほど、その女は美しかった。均整の取れた体はしなやかで、長い足が惜しげもなく晒されている。 切れ長の目からは長い睫毛が伸び、目元に影を落としている。すっとした鼻筋の下には、形の良い唇がある。 抜けるような白さの頬は、差し込んできた朝日で輝いていて、華奢な顎には細い指が添えられていた。 白い肌に映える真っ赤な紅を塗った唇が開き、美しく整った外見に見合った、透き通った声が発せられた。 「ごきげんよう、皆様」 帝国軍が反応しないでいると、女神のような竜の女は、柔らかく微笑んだ。 「どちらに向かわれるおつもりですの?」 「そこを退け! 進軍の邪魔である!」 先頭の騎士は剣を引き抜き、女に向けて叫んだ。女は軽い足取りで踏み出ると、長い髪を払う。 「このまま向かわれたら、困りますの。どうか、お引き取り願えませんこと?」 騎士は、一瞬言葉に詰まった。竜だとは頭で解っているのだが、思わず、その美しさに呑まれてしまった。 それほど、この竜の女は美しかった。ツノと翼がなければ、戦場に舞い降りた戦女神だと思ってしまうだろう。 騎士が答えあぐねていると、もう一人の騎士が馬を前に進ませた。女に圧倒されないように、気を張っていた。 「断る! 我らの目的は、竜を滅ぼすこと、ただ一つ! 邪魔立てするなら、切り捨てるのみ!」 「あっそう」 途端に、竜の女は笑みを消した。かなり不機嫌そうな顔になると、細い腕を振り上げる。 「出来るもんなら」 朝焼けに染まりつつある空に向けられた白い手から、電流が迸った。ばちり、と鋭い破裂音が繰り返される。 電流が輝きを増すと、風が巻き起こった。強烈な魔力によって起こされた気流が、女の周囲の草を薙ぎ払う。 草と砂を巻き上げながら吹き付けてきた風に、先頭の騎士や兵士達は押されてしまい、身動いでしまった。 風が通りすぎると、女の影は浮いていた。地面から浮かせたつま先を揃え、優雅に、腕を頭上で合わせる。 「やってみなさいよ!」 その腕が振り下ろされると、先程のものとは比べものにならないほど激しい風が訪れ、兵の列を乱した。 それは、風というよりも、水圧に近かった。あまりの重みに動きが取れず、膝を付く者や倒れる者が出た。 絶え間なく迫る風のために、息が詰まってしまった騎士は、風の壁の向こうにいる竜の女を睨み付けた。 竜の女の白い腕が上げられると同時に、豊満な胸も上がった。頼りない腰が反り、ゆっくりと、上体を逸らす。 「逆風!」 甲高い叫びと同時に、風の流れが反転した。今し方まで上から吹き付けていた風が、下からに変わった。 本来なら、風など出てくるはずのない足元からの風に、兵士達は戸惑っていたが、足元が浮き上がった。 抵抗しようとするが、魔力によって作られた風は弱まることがなく、次々に兵士達を空中に飛ばしていった。 手前から一気に吹き飛ばされた兵士達は、馬や武器ごと宙に浮かんだが、すぐに落下することもなかった。 紙屑のように浮いている兵士達を一瞥した竜の女は、片手を前に突き出すと、指先から電流を走らせた。 「一閃!」 掛け声と共に振り切られた手から、激しい電光が駆け抜けた。一直線に、宙に浮いている兵士全員を狙う。 逃げる間もなく、兵士達に衝撃と熱が襲い掛かった。鎧や剣を通じて流れ込んできた電流が、全身を焼いた。 竜の女の手が下げられると、風も止み、電流も止まった。兵士達はぼたぼたと落下し、積み重なっていく。 だが、誰一人として、呻き声すら漏らさなかった。白目を剥いて、口から僅かに煙を出し、絶命している。 一瞬の出来事だった。あっという間に死体と化した兵士の奧にいた兵士は、無意識に後退ってしまった。 「さあ、どんどん行ってやろうじゃないの!」 竜の女はばさりと翼を動かして上昇すると、左右に突き出した両手に魔力弾を生じさせ、弾き飛ばした。 光の弾は草を薙ぎ倒して、土に潜っていった。てっきり炸裂するかと思っていたので、兵士達は少し安堵した。 虚仮威しか、と誰かが口に出した、直後。地面が急速に熱し、ぶちぶちと草の根が千切れ、地面が割れた。 ぐうっと膨らんだ地面に持ち上げられた兵士がよろけ、倒れたかと思うと、地面の割れ目から閃光が迸った。 そして、凄まじい爆発を起こした。電流で死んだ兵士の山をも呆気なく吹き飛ばし、爆心地の兵士は砕け散った。 空高く、誰かの首が飛んでいった。くるくると回転しながら落下してきた頭に、鋭く、電流が発射された。 ぱぁん、と軽い破裂音の後、焼け焦げて砕けた人体の破片が降り注いできた。さながら、雨のようだった。 指先を空に掲げ、電流を放った姿勢のまま、竜の女は叫んだ。美しく整った顔に、凄まじい形相が浮かんだ。 「我が名は、アンジェリーナ・ドラグーン! 竜女神に守られし古よりの都、竜王都の西を司る守護魔導師なり!」 竜の女の全身から発せられた魔力が、また強烈な風を生み出していた。 「その命捨てたくば、我に牙を剥くが良い!」 魔力の気流が、女の髪とマントを乱していた。その背後の山から眩しい朝日が現れ、白い光を溢れ出させた。 アンジェリーナは、裂けて吹き飛んだ地面と、その上に散らばっている無数の死体に、胸苦しさを感じた。 あの者達にも、家族は在るだろう。顔を見ると、兵士の大半はまだ若く、少年と言っていい年齢の者もいる。 しかし、夫の墓と娘の城を守るには、これしか方法はないのだ。それに、戦いを仕掛けたのはこちらだ。 決して、もう後へは退けない。 日が昇り切り、滅びた竜王都が照らし出された。 あれほど威圧感のあった竜王城は半壊し、湖には砕けた壁の破片が沈んでいて、波間からの光を受けていた。 丸一日中死体を焼いても、まだ死体は残っているので、死体を焼く炎と煙は未だに収まっていなかった。 高地の澄んだ空気を汚す、灰と脂の匂いに辟易しながら、ファイドは湖に白衣を浸してざばざばと洗っていた。 負傷者から流れ出た血や膿、埃や泥ですっかり汚れてしまい、少し洗っただけでも大分汚れが流れ出た。 一度水から出し、絞ってみると、まだまだ汚れが出た。ファイドは、再び白衣を湖に浸し、晴れた空を仰いだ。 竜王都での戦いが沈静化するなり、飛び出していったガルムを、エドワードとその部下も遅れて追っていった。 ついこの間まで竜王都に隠れ住んでいた、女子供は東竜都に行ってしまったし、負傷者の大半は死に絶えた。 故郷に攻め入った帝国との戦いで、そして、再生する力を妨げられ、苦しみながら命を落としていった。 魔法も、竜も、医者も、万能ではない。だが、万能であったなら、どれだけの数の命を救えたのだろうか。 そんなことは、考えるだけ無駄だと解っているだが、ここまで凄まじいことになってしまうと、考えずにいられない。 ファイドがため息を零していると、少し離れたところに小さな人影が腰を下ろした。それは、リーザだった。 昨夜に比べて、心なしか、雰囲気が大人びていた。ファイドは、ぼんやりしている白竜の少女に顔を向けた。 「体力が戻ったら、東竜都に行きたまえ。竜王都に長くいても、良いことはないと思う」 「あの、お医者様」 リーザは、おずおずとファイドを窺った。 「なんだい」 ファイドが聞き返すと、リーザはつま先で湖水を弄びながら、気恥ずかしげに顔を伏せた。 「男の方って、皆様、あんなに荒々しいものなのですか…?」 「一概にそうだとは言い切れん。だが、それは本能だから、どうしようもない部分もあるのだよ」 ファイドの答えに、リーザは白い頬を赤く染めた。 「私が、エド様を欲してしまったのも、そうなのでしょうか」 「そうだろうよ。我々は、理性と知識を得たトカゲに過ぎん。人も、知能を得た生き物に過ぎん」 ファイドは、遠い目をした。朽ちた城と晴れた空を映した湖面が、風で波打った。 「元を正せば、生物の元素は同じなのだよ。生体構造は違えど、生命は生命であり生き物は生き物だ。欲するものも、願うものも、突き詰めれば同じだ」 「同じ、でございますか?」 リーザが呟くと、ファイドは頷く。 「帝国軍、というか、人間は自由を求めているのだよ。まぁ、私の私感でしかないがね。人間の脅威であり、人智を越えた存在である魔物や竜族を真っ向から否定し、人間の尊厳と居場所を勝ち得ようとしているのさ。そんなことをしなくとも、人間は既に生きる権利と場所を得ているはずなのだがね。言葉を操り、道具を造り、繁栄を続けているのだから、これ以上の欲望は無意味、いや、欲望がなくなってしまえば、生き物ではなくなってしまうな。生き物は、欲望がなければ生きることは出来ないのだからな」 一呼吸を置いてから、ファイドは続ける。 「そして、我々竜族も、自由を求めているのだよ。ただのオオトカゲではなく、人格を持った生物としての意義を得るために、人間を否定している。何かを否定しなければ己を肯定出来ない、という辺りも実に似ている。詰まるところ、どちらも影が欲しいのだよ。己が光となるために、踏み台とするものが必要である、というような価値観が、根本に存在しているのさ。そりゃ確かに、比較は大事だが、比較と差別は違う。将軍閣下も帝国も、その辺りを履き違えているのかもしれんなぁ。これも、ただの私感だがね。深読みしないでくれたまえ」 穏やかながら、覇気のある医者の言葉が止んだ。リーザは、ぱちゃり、と水面を軽く蹴った。 「エド様は、そうではありませんよね?」 「彼は崇高なのだよ。ただ、崇高すぎる」 ファイドは水に浸したままの白衣を、ゆらりと動かした。袖の端で泥が巻き上げられ、散る。 「戦うには、向かない男だよ。いつか押し潰されるのではないかと危惧していたが、先に押し潰されてしまったのは、将軍閣下であったようだな」 「将軍閣下には、奥方はいらっしゃらないのでしょうか。いらしたら、支えてあげてとお伝えするのですが」 リーザが、少し悲しげにした。ファイドは、首を横に振る。 「将軍閣下は、戦いに女はいらんと言って、婚礼の話を全て蹴り飛ばしたのだよ。だから、奥方はおられない」 「まぁ…」 リーザは、ぱしゃり、と小さな両足を湖水に浸した。 「確かに、女は非力です。私なんて、特にそうです。成人しても体が大きくならないし、心も弱いままで、エド様を支えにしていなければとっくに折れてしまっていました。荒々しい戦いの中では何の役にも立たないでしょうし、足手纏いにしかならないでしょう。けれど、出来ることはありますわ」 「ほう。なんだい」 ファイドの問いに、リーザは小さく笑んだ。 「男の方がいつ帰ってこられてもいいように、帰ってくる場所を保っておくことですわ」 「うむ、それは大事だ。どんな生き物であっても、帰れる場所は必要だ」 ファイドは帝国の方角を見据え、物悲しげに眉を下げた。 「戦士といえど、安らげる時がなければ、いつか地に膝を付き、倒れ伏してしまう。だが、地に膝を付くことをしようとせずに無理に立って戦い続ければ、肉体よりも先に、魂が壊れてしまうのだよ」 帝国の方角から、風に乗って竜の咆哮が聞こえてくる。それが誰のものなのかは解らないが、激情に震えていた。 ガルム。彼は、ファイドの遠い親戚だ。ファイドも黒竜族なので、元を正せば、同じ血筋から生まれた竜だ。 だから、少なからず親近感を覚えていた。ガルムはそうではないのだろうが、ファイドはそうだったのだ。 故に、彼が道を外していく様を見ているのは心苦しかった。しかし、一介の軍医では、将軍に進言は出来ない。 休息を取ってくれ、気を静めてくれ、もう少しだけでも長く眠ってくれ、酒だけではなくちゃんと物を喰ってくれ。 何度となく、そう言いたかったことだろう。だが、言えなかった。軍医の立場を奪われることを、恐れたからだ。 軍医でなくなったら、助けられる命も助けられなくなってしまう。そんな考えが、頭の片隅にあったのだ。 今にして思えば、地位や立場など考えず、躊躇わずに進言していれば、結果は変わったかもしれない。 だが、もう遅い。憎しみに駆り立てられたガルムは部下を連れ、帝都を破壊し尽くすために、出撃していった。 滅びの時は、確実に迫っている。 破壊は破壊を呼び、憎悪は憎悪を生み、狂気は狂気を作り出す。 その身に誇りと憎しみを宿した黒き竜は、狂気のままに、空を駆ける。 そして、気高き竜の母は、家族への愛を戦意へと変える。 竜の戦いは、更に続くのである。 06 6/9 |