ドラゴンは眠らない




黒竜戦記 後



その日の出来事は、後に、黒竜大乱と呼ばれることとなる。


穏やかなる昼下がり、東より飛んできた黒竜将軍が帝都へと舞い降り、東部の住宅街を腹で押し潰した。
屈強な尾を振り回し、家々と共に人間を薙ぎ払うと、悲鳴を上げて逃げ惑う帝国国民に爪を振り翳した。
男も、女も、老人も、子供も、赤子も、まるで見境なく、人間という人間を切り裂き潰し噛み砕いて殺した。
帝都の上空には、黒竜将軍が引き連れてきた竜王軍の軍勢がいたが、誰一人として降下してこなかった。
黒竜将軍の戦う様は、悪魔をも怯ませるほどのものであったため、近付こうに近付けなかったのである。
帝都の、住宅街を始めとしたあらゆる建物を焼き尽くして薙ぎ払った黒竜将軍は、その瞳を皇居へと据えた。
おぞましく巨大なる瞳に睨まれた皇族達は、我先にと逃げ惑ったが、逃げるよりも早く、炎が訪れた。
皇居の全てに強烈な炎を吐き突けた黒竜将軍は、皇居の上空へとやってくると、真上から潰したのである。
数百年に渡って帝国を支配していた皇族は、一人残らず死に絶え、同時に帝国軍将軍も副将軍も圧死した。
その間、およそ一時間。恐るべき破壊力で帝都を壊滅させ、黒竜戦争に終焉をもたらした、黒竜将軍の名は。
ガルム・ドラグリクという。




正に、地獄だった。
目に映る全てのものが、死んでいる。もしくは焼けている。瓦礫の底から、死に損ないの呻き声がする。
帝都の中心であった巨大な城、皇居を真上から潰した際に城壁も崩れたので、帝都の様子が良く見えた。
散々吐き付けた炎と、振り回し続けていた尾で、建物という建物が破壊されて見通しが良くなっていた。
大量の瓦礫に埋め尽くされた帝都からは、どす黒い煙とむっとする熱気が立ち上り、空気が汚れている。
上空では、呆然とした様子の竜達が宙に留まっている。誰も彼も、大きく目を見開いて、硬直している。
ガルムは、体の至る場所に痛みと疲労を感じていたが、それすらも苦にならないほど気分が高揚していた。
竜の姿から擬態の姿に変化すると、瓦礫の中から立ち上がった。腹の下では、玉座が押し潰されていた。
上を見ると、中央から押し潰された城の名残である壁が四方に残っていたが、がらり、とどこかが崩れた。
口の端から零れた人間の体液を手の甲で拭い、ぺっ、と唾と共に吐き捨てると、体を起こして翼を伸ばす。
ガルムの足元には、人の形を一切止めていない人間の死体があり、頭と胴体が破裂して骨が砕けている。
その死体は、金糸で双頭蛇を刺繍された豪奢な服を着ており、頭の傍には冠であったと思しき金属塊がある。
皇帝だった。ガルムは、擬態になり切れずに残してしまった太い尾をゆらりと振り、上体を大きく逸らした。

「ふははははははは」

皇帝が、死んでいる。竜族を目の敵にして、竜族を滅ぼさせようとした、憎らしい人間が潰れている。

「くははははははははは」

ああ、愉快だ。

「あはははははははははははははははは!」

肩を震わせて笑い転げながら、ガルムは清々しさに浸っていた。人を滅ぼすことは、こんなにも楽しい。
昔から、ずっと人間が憎らしかった。竜族に劣る種族が繁栄している様を見るのは、不愉快極まりなかった。
知能も低く、身体能力も弱く、魔力も乏しい、空も飛べない劣等な獣に地上が支配されているのが悔しかった。
本来、地上は、世界は、優れた生き物が支配するべきだ。優秀なる者が、愚劣なる者を従わせるべきだ。
だから、人間などが繁栄するのはおかしい。竜こそが世界を統べて、竜こそが繁栄するべき存在なのだ。
世界を作りたもうた神は、生き物の配置を間違えたのだろう。竜と人の位置付けを、逆にしてしまったのだ。
そのことに、気付いているのは、神すらも知らなかった過ちを過ちだと理解しているのは、この自分だけだ。
気付いたからには、実行するのが必然だ。神の過ちを正すのは、神に最も近い生き物、竜が行うべきだ。

「ははははははは、はははははははは、はははははははは!」

あまりにも愉快で、気分が良くて、笑いが止まらない。ガルムは皇帝の死体を、どちゃり、と踏みにじった。
鋭い爪の生えて硬いウロコに覆われた、竜のままの足の裏に、砕けた肋骨や破裂した臓物が貼り付いた。
皇帝の座っていた玉座の周辺には、皇帝の傍から逃げ出した皇妃や側室達が、瓦礫で潰されている。
形の歪んだ目玉や、割れた頭の隙間から流れ出した脳漿が、生臭い匂いを放ち、血溜まりに沈んでいる。
それらの死体を見ると、腹の底から嬉しくなる。戦いに勝った、これで同族は滅ぼされずに済むのだ、と。
竜王都は、必ず再建出来る。竜王家は死に絶えたが、これからは、己が竜王として君臨すればいいことだ。
今し方思い付いた考えに、ガルムはもっと可笑しくなった。そうだ、どうして今まで気付かなかったのだろう。
竜王も、さっさと殺してしまえば良かったのだ。将軍になどならず、竜王を殺してその位置に付くべきだった。
そうすれば、竜王の許可など得ずに戦いを始めることが出来ただろうし、人間を虐げた上に君臨も出来ただろう。
どうして、ついこの間まで、あんなに愚鈍な銀竜になど従っていたのだろう。それが、不思議でならない。
いつも玉座に座っているだけで、民には戦うなとばかり命じて、軍を編成しながらも滅多に動かさなかった。
民のためだとかなんとか言って、鍛え上げた兵士達を戦い以外のことに使わせて、佐官すらもそうさせた。
軍隊とは戦うばかりのものではない、などと竜王は言っていたが、軍隊とは戦うためだけにあるものだ。
竜王軍は、竜族のための軍だ。竜族の敵は、悪しき帝国と、その帝国に生きている全ての人間共だ。
だから、竜王軍は人を滅ぼすために存在している軍だ。竜族を守るのはその次で、第一は、人間の虐殺だ。
それなのに、兵士共は虐殺どころかやられてばかりいる。鍛えてから投入しても、すぐに死んでしまう。
あんな役立たず共は同族ではない。単なるトカゲだ。地べたに這いつくばって虫を喰う、矮小な生物だ。
真に誇り高い竜は、刃向かってくる人を滅ぼし、人の上に君臨している者だ。そう、今の自分のように。

「ガルム!」

ガルムが悦に浸っていると、頭上から怒声がした。見上げると、擬態の姿のエドワードが降下してきた。
白く大きな翼を羽ばたかせながら、瓦礫の中に着地したエドワードは、ガルムの前に歩み寄ってきた。

「これはどういうことだ、ガルム!」

「決まっている。報復だ」

ガルムは、ぐにゃりと口元を歪めて笑みのような表情を作った。その眼差しは、最早焦点を失っている。
明らかに気の違っている表情に、エドワードはぞわりとした悪寒を感じたが、それを堪えて声を張った。

「報復だと!? これは、単なる殺戮だ!」

「人など全て滅んでしまえばいいのだ、地上に君臨するは竜なのだ!」

けたけたと笑いながら、ガルムはエドワードとの間を詰めた。エドワードは、腰に提げた剣の柄を取る。

「ガルム…」

「どうした、喜ばないか! 次なる竜王はこの私だ、この私こそが世界を統べるに相応しい!」

ガルムは、人間の血と粉塵にまみれた手を伸ばし、エドワードの襟元を掴んで力任せに引き寄せた。

「さあ喜べ! 喜ばないか、エドワード!」

「…竜王は、銀竜の血を引く男子だと、古より決まっている。断じて、黒竜は竜王にはなれん」

エドワードは、すぐ目の前にあるガルムの目の異常さに畏怖を感じつつも、なるべく表情に出さないようにした。

「なれるとも! 竜王都は滅びた、滅びたのならやり直せばいい! 新たなる竜王を頂点に据えてな!」

エドワードの襟元を引き寄せるガルムの手に、更に力が込められる。

「女達は生きているんだ、いくらでも子は作れる! 都など、我らの手に掛かれば簡単に成し上げられる!」

ははははははははは、と耳元で上げられるガルムの高笑いに、エドワードは次第に悲しさが湧いてきた。
ガルムの強攻姿勢と凝り固まった価値観は好きになれなかったが、彼という人格は、決して嫌いではなかった。
腹に据えた信念を曲げることなく、竜族への誇りと深い愛に満ちた、冷徹でありながらも力強い、将軍が。
その、彼が壊れてしまった。いつ頃から壊れ始めていたのか、エドワードには、まるで思い当たらなかった。
ガルムが狂気へと堕ちる最大の引き金は、竜王都が滅びたことであろうが、それ以外にも要因はあるはずだ。
だが、今そんなことを考えても、もう遅い。ガルムは狂気のままに帝都を滅ぼし、狂気から脱せずにいる。
エドワードは、空しく、悔しくなってきた。握り締めていた柄から手を離し、だらりと両腕を下げ、項垂れる。

「何が、あったんだ」

「ははははははははは。全て人が悪いのだ、人が我らに逆らうからこうなるのだ」

エドワードの襟元から手を離したガルムは、にたりと口元を広げ、血濡れた太い牙を見せ付けた。

「喰われる側の存在が、喰う側の存在である我らに勝てるはずがなかろう!」

「…喰ったのか」

エドワードが唖然とすると、ガルムはにやりと目を細めた。

「当然だ。奴らも、我らを喰っていたではないか。戦場で死んだ役立たずのトカゲが、捌かれて肉となって人間共に振る舞われているのだからな。だから、喰い返してやったまでのことよ。まぁ、味は悪かったがな」

「ぐ…」

エドワードは、周囲に散らばっている人間から漂い始めた死臭と、人の味を想像して吐き気を催した。
確かに、帝国軍が竜族を喰っている、という話はあった。事実、皮と骨だけと化した竜の死体が転がっていた。
その際にも吐き戻してしまいそうになったが、目の前の男が人を喰ったと聞くと、強烈な生臭さを感じた。
堪えきれずに、胃液と内容物を吐き出した。口元を拭ったエドワードは、おぞましさで背筋が冷たくなった。

「お前、何をしたか、解っているのか!?」

「ああ解っている、解っているとも!」

ガルムは、高らかに笑った。



「家畜を喰ったまでだ!」



ガルムは、笑っている。今までに一度も聞いたことがないような、恐ろしく気分の良さそうな声を上げている。
エドワードの知っているガルムは、寡黙で口数がそれほど多くなく、常に威圧感を生じさせている男だった。
彼が笑う様など、ほとんど見たことがない。笑い顔と言っても、嘲笑であったり、侮蔑であったり、だった。
だから、余計におぞましさが増していた。あのガルムが笑っている姿など、異様極まりなく、不自然だった。
そして、痛感した。なぜエドワードとガルムが相容れることがなかったのか、その理由がようやく解った。
エドワードは、人間を人格あるものだと認めている。竜と同じように、思考し、知恵を使う生き物だからだ。
彼らにも竜と同等の人格があり、感情があり、歴史があり、知性があるものだという感覚を持っている。
人間は、一見すれば似たような外見しかしていないが、その一つ一つが違っていて、自我を持っている。
遠い昔に会ったカインという人間や、死した人間のギルディオスなどと接した経験から、そうだと知っている。
だが、ガルムはそうではないのだ。人間は人格を持った存在ではなく、獣の一種だとしか見ていないのだ。
通りで、食い違うわけだ。二人の価値観は根本からずれているのだから、いくら話しても解り合えはしない。
エドワードは、笑い続けるガルムを見ていた。彼は、もうエドワードを見てはおらず、虚空を見つめている。

「ガルム」

だが、ガルムは反応しなかった。笑うことも、楽しくて仕方ないのだろう。

「はははははははははは、はははははははははははは、ははははははははははは!」

「お前は、あの約束を忘れたかもしれん」

エドワードは腰の剣に手を掛け、がちり、と鍔を鞘から外した。

「だが、私は決して忘れてはいない」

しゃりっ、と剣を引き抜いたエドワードは、真っ直ぐに構えた。切っ先が、黒竜の男を見据える。

「お前が人の世界を滅ぼす気なのであれば、私はあの日の約束通り」

エドワードは足元を踏み切り、一気にガルムとの間を詰めた。

「お前を滅ぼそう!」

しなやかな動きで振り抜かれた細身の剣は空を切り裂き、笑い声を上げる将軍の首筋へと、叩き込まれた。
皮と筋を叩き切った刃は勢いを失うことなく、頸椎へと到達し、ごぎっ、と鈍い音を立てて骨を砕いた。
ガルムの首から噴き出す生温い飛沫を全身に浴びながら、エドワードは血で滑りそうな足に力を込めた。
剣を振り抜くと、肉と骨の感触が途切れた。胴体から切り離された首は、自重で、ずるりと横滑りした。
切断された首からは、異様な白さを誇る骨が覗いていた。笑ったままの顔で落ちた首が、床に転げる。
どん、と重みのある音が響いた。出来たばかりの生首は、傷口から血をだくだくと流しながら半回転した。
そして、頭を失った体は膝を折り、どちゃりと血溜まりに膝を付くと、前のめりに倒れ伏してしまった。
返り血を浴びたエドワードは、剣をそのままに、息を荒げていた。口中に、ガルムの血が流れてくる。
苦い、鉄錆の味がした。頭を濡らした血が額を伝い、顎から滴となって落ちていく感触が、むず痒かった。
エドワードは剣を下ろすと、力任せに顔を拭い、手袋を填めた手の甲に染みたガルムの血を見つめた。
すると、頭上に影が掛かった。事が落ち着くまで様子を窺っていた部下が、擬態に変化して、降下した。
エドワードから少し離れた場所に着地すると、首と胴を切り離されたガルムの死体に、目を見開いた。

「将軍…閣下」

「将軍閣下はご乱心なされた」

エドワードは、出来る限り平静な声で言った。部下は呆然としたまま、血にまみれた白竜の男を見つめた。

「一体、どうして…」

「私にも解らん。だが、こうする他は、なかったのだ」

エドワードは、上空で羽ばたきを繰り返している竜王軍の兵士達を仰いだ。

「将軍閣下は、乱心なされた! 私は、将軍閣下がこれ以上乱心されないために、やむを得ず粛正した! これを謀反と見るのは勝手だが、断じて謀反ではない! 信じるか否かは、お前達に任せよう!」

兵士達は戸惑った様子で、しきりに顔を見合わせている。エドワードは、更に叫ぶ。

「だが、私が将軍閣下を殺したのは事実! 竜王都に戻り次第、軍法会議を始めても構わん! だが、その前に、私はやっておかなければならないことがある!」

一度言葉を切ってから、エドワードは、声を強く張り上げた。



「竜王軍は、帝国及び王国に対し、全面的な敗北を宣言する!」



崩壊した皇居の上空で、竜達はざわめいた。エドワードの背後に近寄った部下は、焼け野原の帝都を指す。

「で、ですが、我々は勝利しました! 帝都を滅ぼした今ならば、帝国軍を打破するのも容易いはずです!」

「これの…どこが勝利だというのだ」

エドワードは、俯いた。頬を伝い落ちたガルムの血に、エドワードの涙が混じる。

「我々は、人を滅ぼすために、戦ってきたのではない。我々の戦いの目的は、竜の誇りを取り戻すことではなかったのか。それがいつのまにか、人を滅ぼすことへとすり替わってしまった。これ以上の戦いは、無意味でしかない」

「しかし、閣下!」

部下は悲痛な面持ちで、相当な悔しさが滲んでいる。エドワードは、涙混じりの血を拭う。

「我ら竜王軍は、半数以上が戦死してしまった。この上で戦えば、更なる死者が出るのは、目に見えているではないか。そうなれば、我々の滅亡は決定的となる。いくら女達が生きていたとしても、種となる男がいなければ、何をどうしたところで、竜が再び繁栄することはない。我々は、人間への憎しみと滅びへの恐怖のあまりに、自ら足を進めてしまったのだ」

エドワードは、静かに呟いた。

「滅びへと、続く道へな」

部下はまだ何かを喚き立てていたが、エドワードの意識には届かず、彼の意識はガルムの死体に向いていた。
首を失った黒竜の男は、両手両足には爪とウロコが残り、翼と尾が生えた、不格好な擬態の姿をしていた。
彼の死体から血と共に魔力が抜けると、その変化も解け、じきに元の巨大な黒竜の姿へと戻ることだろう。
全身に浴びたガルムの血が、乾き始めていた。顔を撫でると、粘ついた血が指先に付き、鉄の匂いが鼻を突く。
彼を殺したことに、後悔はしていない。だが、時間が経つに連れて、己の犯した罪の重さがのし掛かってきた。
形はどうあれ、同族を殺したことには代わりはないのだ。同族殺しは、竜族の中では、最も重たい罪だった。
竜王都には、帰れないかもしれない。帝国と王国に敗北を宣言してすぐに、処刑されてしまう可能性は高い。
だが、不思議と、寂しくも悲しくもなかった。あまりに人を殺めすぎて、自分の死さえも感じなくなったのか。
エドワードは、唇の端を流れていた血を舐め取り、飲み下した。彼の血の味は、決して悪くはなかった。
ああ、やはり。エドワードは、ガルムを殺してからようやく表に現れてきた彼への思いを、胸の内に感じた。
エドワードは、ガルムが好きではなかった。ガルムも、エドワードは好きではなかった。だが、常に傍にいた。
騎士であった頃から、竜王軍の上位へと上り詰めた時も、戦いを始めてからも、離れることなどなかった。
そうだ。憎むあまり、気にするあまり、愛していたのだ。価値観の懸け離れた意固地で強靱な黒竜、ガルムを。
だが、その愛は、情欲に繋がる愛ではない。深い部分での連帯感を生じさせる、兄弟への愛情に似ている。
愛していたのなら、説明が付く。今の今までガルムを殺そうと思わなかったのも、心底嫌いになれなかったのも。
恐らくガルムも、エドワードを愛していたのだろう。そうでなければ、とっくの昔に斬り付けられていただろう。
何がなんでも相容れなかった理由も、互いへの愛故の反発だったのだろう、とエドワードは内心で思っていた。
皮肉なものだ。幼かった弟、コルグを死なせた原因を作った男を憎み恨むあまりに、愛を感じてしまっていた。
弟に申し訳ない気もしたが、簡単には払拭出来ない。エドワードは、血を流し続ける彼の死体を、見下ろした。
殺すべきであったのか、殺すべきでなかったのか、今にして迷いが生じた。




王都の手前の草原で、帝国軍の大半は死体へと変えられていた。
焼け焦げた草の中心に立つ竜の女は、長い緑髪を振り乱し、女神の如く整った顔を恐ろしい形相に変えていた。
肩を上下させて息を繰り返し、見開いていた目を瞬きさせて潤わせ、赤い紅の剥げた唇をぺろりと舐めた。
竜の女が向いている方向は、連続して放たれた魔法によって惨状と化していて、千切れた手足が散乱している。
かかとの高い靴を焼けた土にめり込ませ、裾の汚れた長いマントを翻し、竜の女は高らかに声を上げた。

「雷道!」

直後。竜の女の目の前に現れた光の固まりが、ヘビのようにうねる閃光となり、兵士達へと一直線に向かった。
一瞬の後、帝国軍の歩兵部隊を直撃し、炸裂した。どぉん、と腹に響く爆音が轟き、粉塵が飛び散っている。
竜の女は魔法を放った先を見据えていたが、途端に身を引いて跳ね上がった。すると、足元に人の姿が現れた。
短距離の空間転移魔法を使い、彼女の元へ飛んできた帝国軍の魔導師は、両腕を竜の女に向けて突き出した。

「はつ」

「遅いっつってんのよ!」

魔導師が魔法を発動させるよりも早く、竜の女、アンジェリーナは鋭い爪の生えたしなやかな手を、大きく振った。
彼女の爪が、魔導師が被っているフードを容易く切り裂くと、その下に隠れていた魔導師の首筋を捉えた。
どしゅっ、と鈍い音を立てて爪を叩き込み、着地と同時に抜く。途端に、首筋から勢い良く血が噴き出した。
アンジェリーナはもう一度跳ねて、草むらに倒れ込んだ魔導師の死体から距離を開けると、ちぃ、と舌打ちした。
予想以上に、帝国軍の手勢が多い。魔法陣を描いている暇がないので、魔力を調整した魔法を放てていない。
魔力の固まりをそのまま放っているにも等しい、乱暴で簡単な魔法ばかり使っているので、消耗が激しかった。
普段であれば、どれほどの威力の魔法を使っても息も上がらないのに、今は肩で息をしてしまっている状態だ。
このままでは、いつか押し切られる。敵の魔導師も、アンジェリーナの魔法が途絶える隙を掴んでくる。
いくらアンジェリーナとて、強い魔法を放った直後だけは、高めていた魔力が失せ、空白が出来てしまう。
帝国軍の魔導師の兵士は、先程のように空間転移魔法を使って、その空白の瞬間に攻撃を加えようとしてくる。
今は辛うじて凌げているが、これ以上消耗したら、反射神経も鈍ってきて、持久力も低下してきてしまうだろう。
アンジェリーナは額にうっすらと滲んだ汗を拭い、息を整えた。魔力中枢に力を込めて、魔力を高ぶらせる。
両手を体の前で重ねると、ぶわりと風が舞い上がった。マントと髪をゆらめかせながら、魔力を魔法へと変える。
重ねていた手を外して振り翳そうとした瞬間、アンジェリーナの周りの空間が一斉に歪み、そして閉じた。
空間がねじ曲げられた場所から、音もなく、魔導師達が現れた。彼らは、アンジェリーナの周りに円を作った。
アンジェリーナが羽ばたいて、魔導師の円から抜け出そうとすると、翼に炎の飛礫を当てられてしまった。
皮が焼かれる熱い痛みで、一瞬、翼の動きが止まった。もう片方の翼にも当てられしまい、その場に落下した。
再び地面に降りたアンジェリーナが姿勢を直そうとすると、帝国軍の魔導師達は一歩前に進み、円を狭めた。
アンジェリーナが、魔法を放つべく手を上げようした途端、魔導師の一人が分銅の付いた鎖を投げ飛ばした。
じゃらり、と魔導金属製の鎖がアンジェリーナの細い腕に絡み付いて戒め、もう一方の腕にも鎖が巻き付いた。

「くっ」

両腕を引っ張られる形となったアンジェリーナは、身を捩った。鎖は、更に前後左右からも飛んできた。
首、腰、両足、翼にも魔導金属製の鎖が巻き付き、その先を持っている魔導師達は一斉に引きを強めた。

「あふあぁあっ!」

皮と肉に食い込んだ鎖に首を締め付けられ、アンジェリーナは苦しさと痛みで仰け反ってしまった。

「たとえ竜とて、捉えてしまえば造作もない!」

黒いフードに顔を隠していた魔導師は、鎖の先を捻る。その捻りと共に放たれた熱が、翼の根元を焼く。

「ぃやぁああああ!」

背中から、皮の焼ける音と匂いがする。アンジェリーナは限界まで目を見開き、涙を溢れ出させる。

「死んでしまえ、悪しき竜め!」

反対側の魔導師も鎖を捻り、魔力を熱へと変換して放った。腕に巻き付いた鎖が熱し、じゅっ、と煙が昇る。

「がぐぅっ」

アンジェリーナは度重なる強烈な痛みで、我を忘れてしまいそうになった。人ではない、竜の言葉が漏れた。

「思い知れ、我らが帝国の痛みを! そして、人間の痛みを!」

左側の魔導師は鎖を目一杯引き、アンジェリーナの喉を更に締め上げる。滑らかな喉は、鎖に潰された。
がっ、と声にもならない声しか出ず、出るのは涙だけだった。アンジェリーナは、強烈な悔しさに襲われた。
抵抗しようにも、これでは身動きが出来ない。たとえ脱することが出来ても、翼も腕も使い物にならない。
このまま、帝国軍の魔導師にやられてしまうだろう。そうなれば、娘の城と夫の墓を守ることが出来ない。
苦しさとは別の涙が、頬を滑っていく。唇に食い込んだ牙が、皮を破り、うっすらと血を滲ませていた。
すると、魔導師の一人がアンジェリーナの前に滑り出た。そして、アンジェリーナの胸に手を押し当てる。
泥に汚れたいかつい男の手が、白く豊満な胸をぐにゅりと潰し、その奥にある心臓の位置を押さえ込んだ。

「いっ!」

男の手が動くと、その位置から何かが引き摺り出される。形を成さない、眩しい光が胸元から迸る。
魔導師の手が掴んでいるのは、アンジェリーナの魂だった。手が握りを強めると、激痛が全身を駆け巡る。

「…っあああああ!」

アンジェリーナの意識は、魂を引き摺り出されたことと、魔力中枢に与えられる痛みで、混濁していた。
魔導師が、アンジェリーナの魂である白い光の固まりを高く掲げると、他の魔導師達も光に手を伸ばした。

「我らが魂よ! 我らが言霊に戒められ、我らがために力を成し、我らが願うままとなれ!」

魔導師達は、皆、同じ呪文を唱えた。

「いやあ、いやああっ、はなしてぇっ、はなしてよぉおお」

虚ろな意識の中、アンジェリーナは無我夢中で身を捩るが、鎖は緩まず、魂は戻ってこなかった。

「彼の者に、緩やかなる苦しみと、絶え間ない絶望と、永久なる深淵を与えたまえ!」

「いやあっ、ろばーとぉ、ろばーとぉおおっ、ふぃふぃーなりりあんぬぅっ、ふぃふぃりあんぬぅうううっ」

「我らが力を道とし、我らが呪怨を標とし、我が手中に示せし御魂へと、いざ旅立たん!」

「しにたくないぃいいいいいっ!」

アンジェリーナの絶叫にも、魔導師達の呪文は掻き消されることはなかった。

「無限なる、魂の監獄へ!」

「しにたくないよぉ、ろばーとぉおおおっ!」

「発呪!」

魔導師達の呪文が途切れると、鎖の戒めが緩んだ。魔導師達は次々に崩れ落ち、力なく倒れ込んでしまった。
アンジェリーナは、何度も絶叫したために喉に痛みを感じていた。鎖が外れたが、よろけたまま立っていた。
魔導師が頭上に掲げていたアンジェリーナの魂が、ふわりと降下してくると、その主の胸元へと沈んだ。
温かく柔らかな光が、胸の内と収まった。魂の鼓動が魔力中枢に染み渡り、弱まっていた魔力が戻ってくる。
不意に、その温かさが鋭くなった。魂の底から押し上げられるような苦しさに、咳き込み、背を曲げる。
何度も何度も咳き込むと、足元に血が滴り落ちた。手のひらには、赤黒いものがべっとりと付いている。

「あ…」

アンジェリーナは後退ったが、足に力が入らず、その場に座り込んだ。

「ああ…」

けふっ、けふっ、と小さく咳き込んだだけで血が溢れ出し、口の端から零れ、胸元から太股までを汚す。
翼の根元に付いた火傷も、腕に出来た鎖の焼き印も、首筋と足に付いた鎖の跡も、徐々に再生を始めていた。
だが、腹の内に、魔力中枢と魂に作られた傷が作用して生まれた傷だけは、一向に回復する兆しはなかった。
アンジェリーナは、口元を押さえてもぼたぼたと溢れ出てくる己の血を見ながら、深い絶望に震えていた。
結局、ダメなのだ。母親らしいことなんて、出来ないのだ。娘の城も、夫の墓も、何一つ守れやしない。
魂に刻み付けられた、体を蝕む呪いが成す痛みよりも、全身に残る鎖の傷よりも、絶望の方が遥かに深かった。
涙で歪んだ視界の向こうには、竜の女がやられたと見た帝国軍が、勢い良く向かってくるのが見えていた。
馬と歩兵が近付いてくる震動と、人々の罵声と叫声を感じてはいたが、意識が薄らぐと感じられなくなった。
絶望に沈んだまま、竜の母は、地に倒れた。





 


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