ドラゴンは眠らない




黒竜戦記 後



王都の異変を感じつつも、グレイスはぼんやりしていた。
いつものように、豪奢な家具や敷物が置かれた広い居間の、大きな暖炉の前のソファーに寝そべっていた。
魔導書を読み漁るのにも、思い付いたままに魔導兵器の設計図を引くのも、眠ることすらも飽きていた。
大きなベランダの外に見える王都は、西側の平原から煙を立ち上らせているが、その様子は見えなかった。
王都を囲む巨大な城壁に阻まれているのと、グレイスの住まう灰色の城を囲む城壁に妨げられているからだ。
だが、別にその様子を見たいなどとは思わなかった。竜族対人間の戦闘など、あまり面白みがないのだ。
元々虐殺を得意とするレベッカは、その様子が面白いのか目を輝かせていたが、グレイスはそうでもなかった。
どうせ殺すなら、憎しみを煽り立てて絶望の深淵に落とすか、天国を見せてから叩き落とす方が楽しいのだ。
グレイスは、度の入っていない丸メガネを外し、灰色のローブの裾でレンズを磨いていたが、手を止めた。
彼の座るソファーの向かい側に座っていた、妙な髪型をしたメイド姿の幼女、レベッカもふと顔を上げた。

「お出迎えー、しましょうかー?」

「しなくてもいい。どうせ、すぐ来るんだから」

グレイスはぼんやりとしていた頭を冴え渡らせ、眠らせていた感覚を鋭敏にさせると、途端に気配を感じた。
生々しく温かな血の匂いと、激情を帯びた強烈な魔力。それが、居間へと繋がる廊下を駆けてきている。
激しい足音が居間と廊下を繋ぐ扉の前にやってくると、扉は乱暴に開けられ、女を担いだ甲冑が飛び込んできた。

「グレイス、いるか!」

「おおう、愛しのギルディオス・ヴァトラス。嬉しいねぇ、わざわざあんたの方から会いに来てくれるなんて」

にやにやしながら、グレイスはソファーから立ち上がった。ギルディオスは、背中に担いでいた女を下ろした。

「そうじゃねぇよ! 見て解るだろうが!」

ギルディオスに続き、竜の少女、フィフィリアンヌも駆け込んできた。息を荒げて、扉に手を付いている。
冷淡な表情が崩れ、今にも泣きそうになっている。彼女の視線は、グレイスにも甲冑にも向いていない。
柔らかな絨毯に横たえられている、口元を血で真っ赤に汚した竜の女、アンジェリーナを一心に見つめていた。
グレイスは、多少面倒に思いながらも、アンジェリーナの頭上にしゃがみ込んだ。すぐに、異常だと感じた。
アンジェリーナが傷を受けて弱っているのは見るからに解るのだが、これは負傷した時の弱り方ではない。
触れなくても感じられるほど、彼女の魔力の流れは乱れている。グレイスは、フィフィリアンヌを見やる。

「触るな、とか言うんじゃないぜ。ここに連れてきたのはお前らなんだからな」

「…解っている」

フィフィリアンヌは声を震わせ、俯いた。グレイスは太い三つ編みを背に放り、竜の女に手を伸ばした。

「いくらこのオレ様だって、触らなきゃ呪いの種類なんて解らねぇんだからよ」

グレイスの、大きくも色白な手が、アンジェリーナの額に触れた。驚くほど冷たく、血の気がかなり失せていた。
そこから、頬に這わせて首筋を滑り、締め付けられた傷の残る喉へと向かい、血に汚れた胸元に到達した。
アンジェリーナは意識を失っていて、息も微かにしかしておらず、豊満な胸はほんの少し上下しているだけだ。
柔らかく大きな乳房の間に指を進めたグレイスは、その内側に渦巻く魔力の乱れように驚き、手を引いた。

「うげっ」

「やっぱり、呪いなんだな」

アンジェリーナの傍に膝を付いたギルディオスは、グレイスに向く。グレイスは、手を軽く振った。

「ああ。間違いなく呪いだ。しかも、とんでもなく強い代物だよ。なぁ、ギルディオス・ヴァトラス。アンジェリーナの周りに死体があっただろう。それ、いくつぐらいあった?」

「八人。全部、帝国の魔導師だ」

ギルディオスが即答すると、グレイスは目を剥いた。

「そんなんで良く生きてるな、この女! さすがはフィフィリアンヌの母親だぜ!」

「ええい、まどろっこしいのである! 一人で納得しておらんで、さっさと説明したまえ、グレイス!」

フィフィリアンヌが腰に提げているフラスコの中で、ごぼごぼと赤紫のスライムが泡立ち、激しく叫び散らした。
グレイスは、アンジェリーナの胸元に、再び手を触れた。今度は指先ではなく、手のひら全体を押し当てる。
氷のように冷え切った肌の下からは、弱々しく脈動する心臓の鼓動と、掻き乱された魔力中枢が感じられた。
魔力の流れは、通常であれば、川を下る水の如く、魔力中枢から手足の末端へと穏やかに流れていくものだ。
だが、今のアンジェリーナの魔力中枢は、外へ出るべき魔力が内側に戻り、魂に出来た傷口を抉っている。
彼女の魂が魔力中枢の内で脈打つたび、傷口に流れ込んだ魔力が奔流し、肉体の弱い部分を攻めている。
アンジェリーナの魂に開いた傷口から、彼女のものではないどす黒い感情が、いくつも溢れ出していた。
グレイスは、そっと手を引いた。乱れに乱れた魔力を感じていた手のひらには、痺れに似た感覚があった。

「こいつは、命を滅する呪いの、一番強烈なやつだ。命を滅する呪いってのは、簡単に言えば、じりじりと被術者の魂を削って痛みを与え、肉体にも綻びを作り、苦しみに苦しませてから死なせるっつー素敵な呪いだ。この呪いは、普通に恨み辛みを込めて掛けてもそれなりの威力があるんだが、威力を最大限に引き出すのに最適なのは、術者の魂を呪詛の根源にしちまうことだ。普通に掛けられた呪いであれば、魔力中枢をいじくって、流れを元に戻して、魔力を乱している呪詛を解除してしまえばいいんだが、魂を力の源にされるとそうもいかねぇんだ。簡潔に言おう、こればっかりはオレにも治せない」

「…治せないだと?」

徐々に、フィフィリアンヌが目を見開いた。グレイスは、痺れの残る手を握ったり開いたりした。

「ああ、治せねぇよ。魂ってのは、当たり前の話だが、魂にねじ込むと最も作用するものだ。でもって、アンジェリーナの魂にねじ込まれた八人分の魂は、そのどれもが竜族に対して強烈な恨みを持っているみたいなんだ。まぁ、当然だけどな。だから、魔導師共の魂は、その恨みを牙にして、アンジェリーナの魂にがっつり噛み付いてやがるんだよ。無理に引き剥がそうとすれば、アンジェリーナの魂に傷が付くし、下手をしたら魂がぶっ壊れちまうかもしれねぇのさ。これ以上触るのも、あんまり良くねぇな。オレの魔力は呪いに慣れちまってるから、うっかり魔導師共の魂に引き寄せられてアンジェリーナの傷を深めちまうかもしれねぇからな」

グレイスは、呆然としているフィフィリアンヌと、項垂れたギルディオスを見比べた。

「んで、何があったんだよ。まぁ、予想が付かねぇでもないけどよ」

「貴様になど話したところで、無意味だ」

言葉を絞り出したフィフィリアンヌは、ずるりと座り込んだ。ギルディオスは、ヘルムを押さえる。

「オレ達ぁよ、竜王都に戻るつもりでいたんだが、どうにもアンジェリーナの様子が気になって、また戻ってきたんだ。別れ際に王都の方を見ていたから、フィルに乗って空に昇ってからそっちの方を見てみたら、帝国軍がいやがったんだ。派手な魔法をぶっ放した痕跡がそこら中にあったから、アンジェリーナが戦ったんだと思ったんだが、様子がおかしかったんだ。アンジェリーナの気配が妙に弱まっていたし、竜の血の匂いもしてくるしで、フィルと一緒に戦場に降りてみたら…これだったんだ」

ギルディオスは、指の間からアンジェリーナを見下ろした。アンジェリーナは、かなり苦しげに顔を歪めている。
ふうん、とグレイスは気の抜けた返事をした。通りで、王都付近に来た帝国軍がいつまでも進軍してこないわけだ。

「だが、帝国軍とやり合っていたのは、アンジェリーナだけだったのかよ? 昨日の夜中には、竜王軍の頭と部下が王都の近くにいた気配があったんだが」

グレイスの問いに、細かく震えているフィフィリアンヌの代わりに伯爵が言った。

「うむ、それは確かなのである。昨夜には、竜王軍将軍ガルム・ドラグリク率いる黒竜師団がいたのであるが、アンジェリーナとの口論の末に帝都へと向かっていったのである。その後、竜王軍副将軍エドワード・ドラゴニア率いる、生き残りの兵士達が北東の空を通っていくのを見たのであるが、こちらもやはり帝都へと向かったのである」

「じゃ、今頃帝都は焦土だな」

あっけらかんとしているグレイスに、ギルディオスはその態度の軽さにうんざりし、ぞんざいに返した。

「まぁ、それは間違いねぇだろうな。だが、ガルムの野郎はとうとうイカれちまったから、竜王軍が負けを認めるのは時間の問題だな」

グレイスは、ぼろぼろと涙を零すフィフィリアンヌと、自分のことのように苦しげなギルディオスを眺めていた。
いつのまにか、事態は物凄いことになっていたようだ。グレイスは、黒竜戦争には、手を出していなかった。
今期の皇帝は好きではなかったので近付いていなかったし、かといって、竜族に手を貸すほど物好きではない。
だから、グレイスにしては珍しく、傍観者を決め込んでいた。ただ単に、関わり合いになる気が起きなかったのだ。
なので、黒竜戦争における両軍の内情がどうなっているかなど知らなかったし、調べるような気持ちもなかった。
ギルディオスの口振りから察するに、竜王軍を率いていたガルムなる将軍は、追い詰められていたのだろう。
無理もない、とグレイスは思った。王都に入ってくる両軍の戦況は、明らかに、竜王軍がかなりの劣勢だった。
ガルムという男は知らないが、とにかく誇り高いらしい。それに、竜族は、それでなくても自尊心が高い。
そんな男が、誇りを掲げて戦いに戦った末に負け続けてしまえば、どんなに強靱な精神であっても摩耗する。
挙げ句に切れてしまい、壊れてしまうことも有り得る。グレイスは、それは見たかったかもな、と思った。
誇り高い男が自分自身の誇りに追い込まれ、堕ちていく姿は、想像しただけでも面白そうでたまらなかった。
だが、今から帝都に行っても、間に合わないだろう。グレイスは意識をガルムから外し、目の前に戻した。
きつく閉ざされていたアンジェリーナの目が、うっすらと開いた。青ざめた唇を震わせ、涙を目元から零した。
フィフィリアンヌは途端に顔を上げ、アンジェリーナの傍に寄った。母の口元を拭って清め、声を掛ける。

「母上、私だ、解るか!」

「…ごめんねぇ」

アンジェリーナは力の抜けた腕を伸ばし、フィフィリアンヌの腕を掴んだ。泣きながら、顔を伏せる。

「ほんとうに、だめねぇ、わたしってぇ」

精一杯の力を込めて腕を握ってくる母の手に、フィフィリアンヌは自分の手を添える。

「何を言うか。母上は戦い抜いたのだ、誇るべきであり嘆くべきではない」

「ダメなもんは、ダメなのよ」

アンジェリーナは絨毯に顔を押し当て、深く息を吐いた。声は震えていたが、少し落ち着いていた。

「一度ぐらいは、母親らしいことしたいなぁって思ったんだけど、やっぱ、私ってダメだわ、親になんかなれないわ」

娘と夫の平穏を守るために戦ったのに、守り抜くことも出来ないまま、呆気なく呪いを受けてしまった。

「あんたの城と、あの人の墓と、どっちも守りたかったのに、やられちゃった…」

きっと、今頃は王都も夫の墓も娘の城も破壊されている。そう思ったアンジェリーナは、ぎゅっと目を閉じた。

「オレらが降りた頃には、帝国軍は一人残らず焼け死んでたぜ」

ギルディオスの言葉に、アンジェリーナは驚いて目を見開き、背後の甲冑に振り向いた。

「え…」

「母上は、魔法を放とうとしていた時に、呪いを掛けられてしまったのではないのか?」

フィフィリアンヌが問うと、アンジェリーナは何度か瞬きをした。

「したけど…でも、発動なんてしなかったわ」

「確かに、母上どのの放とうとした魔法は発動しなかったのである。だが、魔力は外へと向けられていたのである」

フィフィリアンヌの腰に提げられたフラスコの中で、伯爵はぐにゅりと身を捩った。

「我が輩の素晴らしく優雅で麗しい思考で考えた結論なのであるが、意識を失った母上どのから溢れ出した戒めのない魔力が、母上どのが何度となく放った魔法によって魔力濃度が異様に上昇していた戦場一帯に広がり、互いに影響し合って活性化したのではないのか、と推察するのである。その、高濃度である上に強烈な竜の魔力が、兵士一人一人の魔力中枢を高ぶらせ、内側から焼いてしまったのではないのか、と思うのである」

「だから、王都は無事だぜ。安心してくれや」

ギルディオスは、念を押すように頷いた。

「私の城も、父上の墓も無事だ」

フィフィリアンヌは涙を拭うことなく、アンジェリーナに顔を寄せた。アンジェリーナは安堵し、息を吐く。

「嘘だったら、承知しないわよ」

「嘘なものか。母上に対して嘘を吐いたところで、良いことなど、何一つありはせん」

フィフィリアンヌは、無理矢理に口元を上向け、ぎこちなく笑んだ。母は、小さく頷いた。

「当たり前よ。この私に嘘なんか吐いたら、蹴り倒してやるんだから」

フィフィリアンヌの腕を握り締めているアンジェリーナの手が緩み、外れた。そのまま、彼女は静かに目を閉じた。
王都が無事だと解って余程安心したのか、眠りに落ちた。だが、その表情は、やはり苦しげなままだった。
アンジェリーナの呼吸が穏やかになり、深く寝入ったのを確かめてから、フィフィリアンヌは涙を拭った。
目元は赤らんでいて声にも震えが残っていたが、普段のような冷徹な表情に戻してから、グレイスに言った。

「グレイス。本当に、貴様をもってしても、母上の呪いを解くことは出来ないのか」

「だーから、出来ねぇもんは出来ねぇっつってんだろうが。オレにだって、不可能はあるんだぜ」

グレイスは胡座を掻くと、頬杖を付いた。フィフィリアンヌは情けなさそうに、目を伏せる。

「ああ、そうだな。そうなのだ。だが、それすらも見失って、貴様のような馬鹿な男に頼ろうとするとは、私は余程取り乱していたようだ」

「気持ちは解らねぇでもないぜ、フィル」

ギルディオスは、フィフィリアンヌの頭をぐしゃりと乱暴に撫でた。フィフィリアンヌは、抵抗もせずに俯いている。
穏やかな言葉でフィフィリアンヌを慰めるギルディオスと、また泣きそうなフィフィリアンヌを、グレイスは見ていた。
二人の気持ちは、グレイスにはよく解らなかった。グレイスには、二人のように強く思える肉親などいないからだ。
百数十年前に、ただ一人だけこの世に幽霊として存在していた、腹違いの兄のデイビットにしか思い入れはない。
他の肉親とは違って親しく接してきてくれたデイビットは、割と好きだったが、愛情を感じるほどではなかった。
愛する者を失う苦しみは知っているが、肉親が傷付いたり苦しんだりしていても、動転したことはなかった。
むしろ、清々しかったほどだ。グレイスにとっては、血の繋がっている者は家族ではなく、ただの厄介事だった。
グレイスは昔に、家柄が持つ呪縛を押し付けてくる父親を殺したこともある。それほど、血縁者は嫌いなのだ。

「それでー、御主人様ー、どうしますー?」

グレイスの背後に駆け寄ってきたレベッカは、首をかしげた。グレイスは、ごろりと床に寝転がる。

「どうもこうもしねぇよ。なんか、やる気起きねぇんだよな、この戦争って」

「どうしてですかー?」

体まで傾けて、レベッカは更に首をかしげた。グレイスは天井を見つめながら、んー、と唸った。

「オレにも、良く解らねぇ」

生来、グレイスは残虐で邪悪な出来事が好きだ。だが、黒竜戦争に限っては、あまり興味が湧かなかった。
この一年半、帝国と王国が竜族によって掻き乱され焼き尽くされる様を見てきたが、見ていただけだった。
無数に積み重なった両軍の死体や、貴族と成り上がりの軍人が入り乱れる帝国軍も、引っ掻き回さなかった。
放っておいても、どちらも朽ちていくと解っていたからかもしれないが、なんとも自分らしくない思考だった。
しばらく思考に耽り、ようやくその理由が思い当たった。滅びることに、抗うのは無意味だと知っているからだ。
グレイスの一族であるルーは、先祖ルーロンが子孫に残した使命、ヴァトラスを滅ぼすという使命を行っていた。
その結果、帝国から目を付けられ、ルーの一族はほとんどが殺されてしまい、生き残ったのはごく少数だった。
グレイスは、その惨状を知っている。だが、次から次へと殺されていく血族を、誰一人として助けなかった。
血族が嫌いだったから、と言うこともあるが、穢れた一族が滅びる時が来たのだ、と思っていたからでもある。
これは運命なのだと、決まっていたことなのだと。だから、何もせずに傍観し、嵐が過ぎ去るのを待ったのだ。
だが、他の血族は、そうしなかった。帝国に抗い、運命に背き、戦った挙げ句に死んでいくばかりだった。
竜も、そうだ。世界の流れに逆らわずにいればいいものを、逆らってしまったから、滅びへと進んでしまった。
通りで、やる気が起きないわけだ。戦った末の結果が、既に見えているのだから、引っ掻き回しても面白くない。
グレイスは思考を止めると、目を閉じた。竜王軍も帝国軍も、馬鹿らしくなってきて、今度こそ興味が失せた。
下らない戦いだぜ、と、内心で吐き捨てた。




翌日。フィフィリアンヌらは、傷付いたアンジェリーナを連れて城に戻った。
空間転移魔法を用いて、正面玄関の前に現れた三人は、扉の前を固めている竜王軍の兵士達に出迎えられた。
彼らは皆、憔悴しきっていた。ガルムの姿も見受けられず、士気はないも同然で、誰一人として覇気がない。
フィフィリアンヌは、アンジェリーナを背負っているギルディオスを制してから、兵士達の前に歩み出た。

「そこで何をしている」

兵士の一人は、ギルディオスに担がれている青ざめた顔のアンジェリーナに気付き、立ち上がった。

「いかがなされたのですか、アンジェリーナ様!」

「そこを通せ。母上を休ませねばならん」

フィフィリアンヌは、アンジェリーナを示した。隊長と思しき兵士は三人の前に出てくると、立ちはだかった。

「それは許されない」

「なぜだ。ここは私の城だ。私が私の城に戻るために、誰の許可を得る必要がある?」

フィフィリアンヌが細い眉を吊り上げると、隊長は項垂れた。

「すまないが、教えてくれ。我々は、どうしたらいいのだ…」

「オレ達は、さっさと城の中に戻りたいんだがね。早くしねぇと、アンジェリーナが疲れちまう」

ギルディオスはアンジェリーナを背負い直し、フィフィリアンヌの背後に歩み寄った。少女の腰から、伯爵が言う。

「貴君らとて、守護魔導師の立場は知っておるであろう。早々に通さねば、無礼に値するのである」

すると扉の内側から、通してやれ、と力ない声がした。隊長は扉に振り返ったが、再び三人を見やる。

「しかし…」

隊長の弱々しい目線と、フィフィリアンヌの鋭くも強い目線がぶつかった。

「何があったのかは知らん。そこに誰がおるのかも解らん。だが、ここは私の城だ。それだけは違いないことだ」

ざあ、と湖面を走ってきた風が吹き付け、古びた城を囲んでいる木々を揺らし、有機的な匂いを散らばらせた。
その中に、兵士達から漂っている濃厚な煤と煙の匂い、血臭が入り混じり、フィフィリアンヌは眉根を歪めた。
竜の血臭に含まれている、生々しい狂気の残留思念を感じ、ギルディオスはえづきそうになったが堪えた。

「…お前ら、誰を殺したんだ。竜の血の、すげぇ匂いがするぜ」

「隊長。話しても、良いでしょう。どうせ、隠せはしないのです」

赤竜族の兵士は立ち上がると、涙の滲んだ目元を拭った。フィフィリアンヌの前に跪き、深く頭を下げる。

「無断で城をお借りしてしまい、申し訳ありません。ですが、我らは、他に行く場所が思い当たらなかったのです」

「貴様らは、帝都を滅ぼしてきた後だろう。ならば、早々に竜王都へ帰り、戦果を報告するのが当然ではないのか。破壊されたとはいえ、竜王都は竜王都であり、貴様ら生粋の竜族にとっての故郷であることには違いなかろうて」

フィフィリアンヌが言うと、赤竜族の兵士は首を横に振った。

「我々は、勝利していません。これから、帝国王国の両国へ、竜王軍の敗北を宣言するのです。…将軍閣下が」

「するならすれば良かろう。それを行うのはガルムであって、私には関係のない話だ」

素っ気なくフィフィリアンヌが言い放つと、赤竜族の兵士は地面に付けた手を握り締めた。

「…将軍閣下は、いえ、ガルム閣下は、もうおられません。今、この城の中におられる将軍閣下は、エドワード閣下なのです。ガルム閣下は、エドワード閣下の手によって、命を落とされてしまったからなのです」

「てぇ、ことは」

ギルディオスは顔を上げ、閉ざされている正面玄関の扉を見上げた。そこから、一際強く血臭が流れている。

「エドが、ガルムを、殺したのか…?」

「はい」

赤竜族の兵士は唇を震わせ、ぼたぼたと涙を落とした。

「自分には、お二人の間に何があったのか、解りません。ですが、エドワード閣下がガルム閣下を手に掛けたことは違いありません。このまま竜王都へ戻れば、エドワード閣下は、同族殺しの罪で処刑されることでしょう。ですが閣下は、処刑される前に、帝国王国の両国へ敗北を宣言なさるおつもりなのです。自分達は、そのどちらも嫌なのです。エドワード閣下が処刑されてしまえば、上位軍人の大半が戦死してしまった竜王軍は統率を完全に失い、我々は、もう戦えなくなってしまいます。敗北を宣言するということは、戦い抜いて死した同族達の命が、その全てが、無意味なものとなってしまうのです。その、どちらも、決して、受け入れられないのです」

赤竜族の兵士は頭を抱え、言葉にならない声を漏らした。叫びたい衝動を堪えているのか、歯を食い縛っている。
ギルディオスには、その無念さが理解出来た。戦って戦って戦った末に得るのが、勝利ではなく敗北では空しい。
そこに至るまで、竜王軍は、いや、竜族は多くのものを失いすぎた。その上で、敗北するのは、さぞ悔しかろう。
だが、賢明な判断だ。これ以上苦しい戦いを続けてしまっては、竜族が完全に滅びてしまうのは確実となる。
ギルディオスは、フィフィリアンヌを見下ろした。見上げてきた彼女に、顎でしゃくり、両開きの扉を示す。

「オレが話しても、ろくなことにはならねぇだろうから、フィル、お前が行ってこい」

「貴様如きに言われずとも、行くつもりでおったわ」

フィフィリアンヌは腰のベルトに付けた金具から、スライム入りのフラスコを外すと、ぽいっと足元に投げ捨てた。

「無駄口を叩かれた困るからな」

草の間に転げたフラスコの中から、伯爵は、フィフィリアンヌの翼の生えた背を見ていたが、黙っていた。
今は、何も言うべきではない。エドワードの判断も、兵士達の苦悩も、伯爵には全く関係のないことだからだ。
余計な口を挟んで煽り立ててしまった挙げ句、激情のままに荒ぶられたり自害されたりしたら、後味が悪い。
フィフィリアンヌは、分厚く重たい扉を引き、蝶番を軋ませた。細い光が、薄暗い広間の中に差し込んだ。
隙間から体を中に滑り込ませてから扉を閉め、周囲を見回すと、右手の壁に寄り掛かっている影があった。
城の手入れを怠っているために、床に積もった埃にマントの裾を汚しながら、だらしなく座り込んでいる。
白く立派な翼の端は赤黒く汚れ、滑らかで美しかった白銀の甲冑も、白いマントも、やはり赤黒くなっていた。
それが誰の血であるか、何の血であるかは、解っていた。フィフィリアンヌは、慎重に、彼に歩み寄った。
こつ、と硬い足音が響くと、ようやく彼は反応した。虚ろながら理性のある赤い瞳が、竜の少女へと向く。

「フィフィリアンヌ…」

フィフィリアンヌはもう一歩近寄り、座り込んだままのエドワードを見下ろした。

「エドワード。貴様、ガルムを殺したのか」

「…ああ、殺したとも。見て解らないか」

エドワードは手を挙げて、軽く握った。手袋に染み込んだ血は既に固まっていて、乾いた音がする。

「約束を、果たした結果だ」

「そうか」

フィフィリアンヌは、苦しげで切なげでありながらも、どこか晴れやかな顔をしているエドワードを見据えた。
エドワードは、いつになく険しい顔付きのフィフィリアンヌを見上げ、血の筋が付いた頬に涙を滑らせた。

「私達は、愚かだ」

冷ややかで埃っぽい空気に、沈痛な声が広がる。

「本当に、愚かだ。そう、思わないか」

「ああ、全くだ」

フィフィリアンヌは、小さく呟いた。ガルムのこともそうだが、アンジェリーナのことも、そうだった。
なぜ、母が呪いを受ける前に戻らなかったのか。もう少し早く戻っていれば、母は無事であったはずだ。
後悔してもどうにもならないと思うが、後悔は尽きなかった。エドワードも、同じような状態なのだろう。
エドワードは、ふと、あることを思い出した。自分が死んでしまえば、このことを知っている者はいなくなる。
そうなってしまえば、ガルムに関することを覚えている者はいなくなってしまい、この事実も消え失せてしまう。
それでは、あまりにも寂しすぎる。そう思ったエドワードは、母親に良く似た顔をした竜の少女を、見据えた。

「フィフィリアンヌ。私が死ぬ前に、君に教えておきたいことがある」

「なんだ」

フィフィリアンヌが返すと、エドワードは穏やかに呟いた。

「ガルムは、アンジェリーナ様を愛していたのだ」

「…そうか」

フィフィリアンヌは、その事実に対して様々な感情が沸き起こってきたが、言葉に出来たのはそれだけだった。
二人は、それぞれに複雑な思いを抱えていた。だが、どちらも何の言葉も発しないまま、向かい合っていた。
何を言おうと、何をしようと、何がどうなるわけでもない。起きてしまったことは、取り戻せやしないのだから。
エドワードは、この瞬間が永遠であるような錯覚に陥っていた。だが、全身に付いた血が、現実へと引き戻す。
この城に止まっていれば、事は進まない。竜王軍は敗北を宣言しないし、自分も死ぬことはないだろう。
だが、進めなくてはならない。負けを認めて戦いを止めなければ、自分が死ななければ、竜族は滅びてしまう。
エドワードは、腰を上げ、壁から背を外し、立ち上がった。血の染みた手袋で涙を拭い、汚れたマントを払う。
扉に手を掛けようとして、ふと、手を止めた。広間の奧にある末広がりの階段の、踊り場の壁に絵があった。
随分と昔のもののようで、立派な金の額縁は大分古びていたが、絵の具の色は褪せておらず、鮮やかだった。
それは、竜と人の絵だった。若草色の巨大な竜と戯れる一人の男を描いた、温かくも穏やかな、風景だった。
エドワードがそれを見上げていると、フィフィリアンヌは懐かしげに目を細めて、竜と人の絵を仰ぎ見た。

「私と夫を描いた絵だ。気に入ったか?」

「ああ、とても」

エドワードは、胸どころか魂までもを締め付けられたような、悲しさとも切なさとも付かない感情を覚えた。
この広間に入った時は下ばかりを見ていたので、あんなに素晴らしいものがあることなど、気付かなかった。
額縁の中の画布に描かれた世界は、エドワードが求めていたものと、思い描いていたものと、相違なかった。
フィフィリアンヌと思しき緑竜と、その夫であるカインと思しき男は、互いを見つめ、互いに触れ合っている。
男の表情は見えないが、緑竜の眼差しはとても穏やかで、逞しい尾は横たえられ、大きな翼は下げられている。
美しく輝いている湖を背景に、緑竜と男は相手への惜しみない愛を溢れさせ、至福の一時を過ごしている。
理想は、全くの妄想ではなかった。エドワードの考えるような、竜と人が生きる世界は、存在していたのだ。

「君が、羨ましいよ」

エドワードが漏らすと、フィフィリアンヌは少々気恥ずかしげに目を逸らす。

「あの男ほど、私を好いてくれた者はおらんからな」

「それでは、私は行こう」

エドワードは、もうしばらくあの絵を見ていたい気持ちが残っていたが、振り切って背を向け、扉に手を掛けた。
フィフィリアンヌは、彼を引き留めることもなく、頷いた。エドワードは、うっすらと微笑み、扉を開けた。
分厚い扉の隙間から差し込んできた、外からの眩しい光の中を通り抜け、白竜の男は部下達の元へ戻った。
外からは、兵士達のものと思しき声が聞こえていたが、エドワードの声が聞こえてくることはなかった。
フィフィリアンヌはしばらく扉を見ていたが、末広がりの階段に向かい、一段一段踏み締めながら昇った。
二階へと繋がる階段と一階の階段の中間にある、割りと広さのある踊り場に付くと、正面の壁を見上げた。
巨大な緑竜と、一人の男。フィフィリアンヌは手を伸ばし、装飾の付いた額縁に指を滑らせていった。
緑竜の首に寄り掛かっている身なりの良い男、夫、カインを見つめながら、フィフィリアンヌは思っていた。
彼がこの戦争を知ったら、どう思っていただろうか。嘆き、怒り、悲しむことは容易に想像が出来る。
カインが苦しむであろう姿を思い描いただけで、フィフィリアンヌは胸苦しくなり、額縁に額を押し当てた。
人が皆、カインのように心穏やかで愛に溢れていたら、母も呪いを受けず、ガルムも死ぬことはなかった。
そう思うことは、無駄だとは知っているが、思わずにはいられなかった。フィフィリアンヌは、きつく目を閉じた。
そうしなければ、泣いてしまいそうだった。





 


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