豪烈甲者カンタロス




第十三話 抉れた希望



 雨の溜まった屋上に立ち、夜景を見渡す。
 夜空の星々の代わりに燦爛と輝く無数の光は、湿気の多い空気に包まれて柔らかく溶け、匂いも潤っていた。
夜景の中でも一際目立つ東京タワーは、今日ばかりは違って見える。あの真下に、倒すべき者が存在している。
それを倒した後のことを思い描くだけで、ぞくぞくする。この世の全てが、自分と彼女の子で埋め尽くされるのだ。
 ベスパはねねを伴って、六本木の中でも特に大きな複合商業施設を兼ねた高層マンションの上に立っていた。
雨が止むまでの間は、階下の一室で待機していた。今し方出てきたばかりだが、状況は既に動きつつあった。
セールヴォランが配置された元麻布方面には、これまでのパターン通り女王が出現したが、一体ではなかった。
二体、三体、と次々に出現しているが、セールヴォランは複数の女王に押されるどころか、手際良く捌いている。
だが、立ち回りが相当派手らしく、次々に民家やビルが粉砕されて砂煙が煙幕のように広大に立ち込めていた。
彼女達らしい戦い方だが、あれでは体力の消耗が激しすぎる。長期戦には向かないタイプだ、とベスパは思った。

「おや」

 夜風に混じる匂いを感じたベスパは、東京タワーの南に位置する大学の屋上を見据え、人影を捉えた。

「黒田二佐のお出ましです、クイーン」

「つか、マジ遅すぎだし」

 ねねはフィルター近くまで吸い終えたタバコを無造作に捨て、ため息混じりの煙を吐き出した。

「てか、何やってんだよ。まさか、女とヤッてたんじゃねーだろうな」

「そのようです」

「え?」

 ベスパの答えにねねがぎょっとすると、ベスパは風に揺れる触角を下げた。

「黒田二佐の匂いと同時に妙齢の女性の匂いを感じ取りましたので、クイーンの御想像通りかと」

「うげ」

 ねねは一瞬のうちに様々な想像が駆け巡り、舌を出した。

「てか、そんなこと、解っても言うんじゃねーよ。マジキモいし」

「申し訳ありません」

 ベスパはお仕置きを受けるべく、深々と頭を下げた。ねねはそれを蹴り付けようと足を上げかけたが、止めた。
黒田、もとい、ブラックシャインは名の通った名門大学の校舎から街中に降りたが、女王に待ち構えられていた。
大量の建物の影と分厚い闇に隠れてよく見えないものの、ブラックシャインはそれなりに奮戦しているようだった。
渋谷駅前で初めて接触した時は弱腰なことを言っていたが、実のところ、ブラックシャインは一人でも充分戦える。
機動力や腕力こそ戦術外骨格に劣るが、それを補っても余りあるほどの経験と技術がブラックシャインにはある。
だから、女王ぐらい一人で倒せるはずだ。いや、倒せなければ、とっくの昔に東京は人型昆虫に滅ぼされていた。
今にして思えば、あれはベスパらの力量を調べるためだったのだろう。それが解ると、ますます信用出来なくなる。
もっとも、最初から欠片も信用していないのだが。ねねは二本目のタバコを抜いて銜え、手で覆って火を付けた。

「現在、地上に現れている女王は、倒された個体を含めても四体です。ですが、こんなものは序の口です」

 ベスパはねねの足元に這い蹲りながらも、的確に状況を説明した。

「黒田二佐だけでなく、私達を始めとした戦術外骨格によって人型昆虫と女王を大量に殺されたため、真の女王は相当焦っているのでしょう。自身の分身であり人型昆虫を繁殖させるために不可欠な女王を矢継ぎ早に出してくるのが、その証拠です。ですが、私達まで焦ってはいけません。戦力は真の女王側が数百倍も上ですので、消耗戦など不可能です。ですから、女王とは交戦せずに、真の女王が痺れを切らして出現するのを待ってから参戦した方が確実に勝利を得られます」

「ふーん」

「私の策をお解り頂けましたか、クイーン」

「全然」

「ああっ、やっぱり! だがそれがまた魅力的ですぅっ!」

 大袈裟な身振りで落胆したベスパを、ねねはぐりぐりと踏み付けた。

「てか、そういうのマジめんどいし。つか、女王も真の女王も全部ぶっ殺しゃいいんだろ?」

「それはそうなのですが、私達の力にも限界というものがありまして! あ、ああっ、そこが良いんですぅっ!」

「つか、何がいいんだよ。マジ解んねーし」

 ねねは訝りながらも力一杯踏み躙ると、あああああっ、とベスパは一際大きく身悶えした。

「良いものは良いのです、ああクイーン、クイーン、素晴らしすぎて昇天してしまいそうです! 性的な意味で!」

「つかマジ死ねっ!」

 ねねが全力でベスパの頭を蹴り飛ばすと、ベスパは腹部を膨らませて息を荒げた。

「もっと、もっとお願いします!」

「てか、さっさと戦った方が楽じゃね?」

 ねねは吸いかけのタバコを水溜まりに吐き捨ててから、つま先でベスパの顎を上げさせた。

「要はあたしらが最後に勝ちゃいいんだろ? マジそれだけの話だし」

「まあ、それはそうなのですが」

「真の女王になるっての、なんか面白そうだし。つか、あたしが一番強くなきゃマジ異常だし」

「それでは、クイーン!」

 歓喜して身を起こしたベスパを、ねねは体重を掛けて踏み付けた。

「てか、それ別にあんたのためじゃねーし! つかマジ勘違いすんな、ウザすぎだし!」

「さすがはクイーン、それでこそ私が選んだクイーン、クイーンこそが世界を支配するのですぅっ!」

 ねねの足の下で、ベスパは声を上擦らせた。ねねは足を外すと、ベスパに背を向けた。

「解ったんなら、さっさと合体しろよ。てか、マジあんたのためじゃねーし、あたしのためだし」

「了解しました、クイーン」

 泥の足跡を頭部にべったりと付けたまま、ベスパは起き上がった。

「痛くすんなよ」

 ねねは素っ気ない返事をし、汗の染み込んだTシャツを捲り上げて脱ぎ捨て、ハーフパンツとサンダルも脱いだ。
膨らみかけの乳房を覆っていたスポーツブラと揃いのデザインのパンツも脱ぐと、羞恥を少々感じて唇を歪めた。
ベスパはねねの背後に近寄ると、胸部の外骨格を開いてにゅるりと神経糸を出し、ねねの幼い体に絡み付けた。
冷ややかな体液の中に引き摺り込み、感覚を共有させる。程なくしてねねはベスパと化し、複眼で夜景を捉えた。
 ベスパは湿って重たい空気を羽で叩き、浮かび上がった。ぐるりと周囲を見渡して女王の気配を探ると、感じた。
羽ばたきを緩めてビルの屋上から降下したベスパは、地面に叩き付けられる寸前で羽ばたいて勢いを和らげた。
いきなり現れた異形に驚いた人々が逃げ惑うが、それを無視し、ベスパはかちかちかちかちと顎を叩き鳴らした。
感情を表すために顎を擦り合わせるのとは全く違った意味を持つ音を放っていると、アスファルトが揺れ始めた。

「てか、マジ早いし」

 顎を鳴らすことを止め、ベスパは顔を上げた。本来ならば、スズメバチの仲間に警戒を送るための音である。
だが、戦術外骨格であるベスパには同じ遺伝子を持つ群れはいないため、人型昆虫相手の挑発に使う音だ。
今までは一度も使ったことはなかったが、なかなか使える技だ。ベスパはアスファルトが砕ける寸前に浮上した。
 濡れたアスファルトが波打ち、ひび割れ、裂け、爆ぜた。ビルの足元に現れた女王は、ぎちぎちぎちと鳴いた。
ベスパの挑発に煽られたらしく、ひどくいきり立っている。顎を鳴らすだけではなく、触角も忙しなく揺らしている。

「要するに、こいつらを全部ぶっ殺しゃいいんだろ?」

 きち、と爪先を擦り合わせたベスパは羽ばたきを強め、びいいいいいいいんっ、と鋭い羽音を響き渡らせた。
女王は上両足を振り上げてベスパに襲い掛かってくるが、ベスパは急上昇して第一撃を回避し、周囲を巡った。
円を描くように周りながら、かちかちと挑発を送り続ける。女王はベスパに追い縋るが、右往左往するだけだった。
挑発に挑発を重ねられたばかりか、うるさく飛び回るベスパを叩き落とせない苛立ちで、女王は巨体を反らした。
 その隙を逃すわけがなかった。ベスパは急接近して女王の懐に入り、急上昇し、首の根本に爪を突き立てた。
瀑布のように噴き出した青い体液を避けて上に周ると、痛みと不意打ちに怒り狂う女王の頭部に毒針を刺した。
分厚く硬い外骨格を貫いた凶悪な針から神経毒を注ぎ込むと、ずくん、と女王の巨体が跳ね、六本足が蠢いた。
毒針を引き抜いてから退避したベスパが見下ろすと、女王は倒れた。びくんびくんと痙攣していたが、息絶えた。

『御見事です、クイーン。ですが、毒針の乱用は避けた方がよろしいかと』

「んだよ、毒使った方がマジ楽じゃん」

 ねねがむくれると、ベスパは冷静に言い返した。

『確かに私の毒は強烈で、針も何度も使用することが出来ますが、毒液を精製するためには体力と体液を消耗してしまうのです。使いすぎては、倒される前に自滅してしまいます』

「つか、それを先に言え!」

『言う前に使われてしまいましたので』

「んだよ、マジ馬鹿だし!」

 ベスパは毒突きながら浮上し、東京タワー方面に向けて飛び立とうとしたが、死んだはずの女王の足が動いた。
気のせいか、と思って一旦制止して見下ろすと、頭部の穴から体液を垂れ流している女王の足が確かに動いた。
だらりと投げ出されていた足が一本一本持ち上がり、有り得ない方向に首を曲げて、よろけながら起き上がった。
 確かに止めを刺したはずなのに、とベスパが動揺していると、女王が地面に開けた大穴から何かが伸びていた。
体液と土にまみれた黄色く太い糸、神経糸だった。だが、その太さは人型昆虫のそれとは比べ物にならなかった。
巨体の女王の腹部に直接突き刺された神経糸が蠢くと、死んだはずの女王の体が跳ねてベスパを見上げてきた。

「うげっ」

 死体を操る気色悪さにベスパが声を潰すと、死んだ女王は開け放した顎から体液を幾筋も零して、這ってきた。
だが、その歩みはすぐに止まった。ベスパが距離を置きながら事の次第を見守っていると、背後から轟音がした。

「え?」

 振り返ると、ベスパの姿が映っていた大きな窓が砕けて、分厚い壁だけでなく家財道具などが吹き飛んできた。
雨よりも巨大で危険な物体の嵐に、ベスパは素早く回避すると、住人と思しき人間も転げ落ちて地上で潰れた。
高層ビルの壁を砕きながら現れたのは、やはり神経糸だった。ベスパが戸惑っていると、神経糸は伸びてきた。
鞭のようにしなって振り下ろされた神経糸を避けきれなかったベスパは、真っ逆さまに地上へと叩き落とされた。
全身を揺さぶる衝撃の奔流に視界どころか意識も揺さぶられたが、羽ばたきが間に合い、落下だけは回避した。

「んだよこれ、つかマジキモすぎだし!」

 着地したベスパが神経糸を罵倒するが、ビルを割って出現した神経糸は、怯むどころかその数を増やしてきた。
女王と同じく地中から伸ばされているであろう神経糸は、一本、二本、三本、と増え、ビルを真っ二つに破壊した。
ミラーガラスの破片が無数に降り注ぎ、さながら流星雨のように煌めく。人々の悲鳴は一際高くなり、大きくなった。
ベスパは後退り、神経糸との距離を取ろうとしたが、三本に増えた神経糸はベスパの頭上と左右に回り込んだ。
だったら後ろだ、と振り返るが、死んだ女王の顎からも太い神経糸が伸びていてぐねぐねと気色悪く動いていた。

「つか、マジ? てか、最悪すぎだし」

 ベスパは完全に逃げ場を失い、焦りを紛らわすためにぎちぎちと顎を軋ませた。あの女王は陽動だったのだ。
複数の女王をセールヴォランやブラックシャインにぶつけていたのは、こちら側の力量を計っていたに違いない。
そして、女王では太刀打ち出来ないと判断したから、真の女王自身で直接手を下すべく神経糸を伸ばしたのだ。

『お逃げ下さい、クイーン!』

「つか、こんなんで逃げられるわけがねーだろ!」

『それでもお逃げ下さい、クイーン!』

「だから、どこに行きゃいいんだよ!」

 ねねは畏怖に負けて、取り乱して叫んだ。神経糸だけでもこの大きさなら、真の女王はどれほど巨大なのだ。
こんなものに、勝てるわけがない。虫が相手ならまだしも、これは本物の怪物なのだ。戦おうにも戦いようがない。
だが、逃げようにも逃げられない。他の連中に気を取られてくれないか、と思って西側を見やると、爆発が起きた。
丁度、セールヴォランが配置されていた地点の近辺の建物が、地中からの物体で噴水のように押し上げられた。
土の飛沫には、右のあぎとを失ったクワガタムシも紛れていた。セールヴォランだった。では、ブラックシャインは。
ブラックシャインの配置された南側からも、ビルごと押し上げられた土柱が噴き上がり、彼もまた宙を舞っていた。

「てか、何、マジ有り得ないし」

 こんなものと、戦えるわけがない。細かく震えながらベスパが後退ると、神経糸が唸りを上げて振り下ろされた。
全身を強張らせる畏怖のせいで回避することすら出来ず、ベスパは枯れ葉のように吹き飛ばされて転げ落ちた。
落下した途端に新たな神経糸が振り下ろされ、ベスパを叩き潰そうとしてきたが、身を反転させて辛うじて避けた。
だが、三本目の神経糸が襲い掛かってきた。ベスパの視界が神経糸に塞がれて、頭部に強烈な衝撃が訪れた。
アスファルトが抉れるほどの力で頭を埋められ、前のめりに倒れたベスパは、今度こそ動けなくなってしまった。
 死ぬ。死ぬ。死ぬ。そればかりが頭を駆け巡って、六本の足から力を奪い取り、戦意が途端に冷え込んでいく。
様々な後悔が過ぎるが、どれも形にならない。だが、このまま死ぬのは嫌だった。やっと、居場所が出来たのに。
立ち上がらなければ、戦わなければ。ベスパはぎこちなく下両足を軋ませながら起き上がるが、地面が揺れた。
また女王か、と警戒したが、違った。三本の神経糸の根本と思しき場所からひび割れが起き、足元に迫ってきた。
アスファルトが盛り上がり、車両が横転し、残っていた窓ガラスが割れ、そして、ベスパの足元から噴き上がった。
 轟音が聞こえないほど、意識は薄らいでいた。セールヴォランやブラックシャインと同じく、高く、高く飛んでいた。
土塊とアスファルトの破片が外骨格を叩き付け、複眼が汚れ、羽が千切れ、腹部に傷が付き、痛みが溢れてくる。
だが、それすらも恐怖には勝てなかった。土の噴水が収束した後に出来た、底の見えない穴に体が落ちていく。
 生まれて初めて、心も体も許せる相手が現れたのに。その相手のためなら、なんでもしてやりたいと思ったのに。
なのに、思った傍から挫かれた。虚しくて、悔しくて、やるせなかったが、ねねは羽ばたくことすらも出来なかった。
 そして、ベスパとねねは地中に没した。





 


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