豪烈甲者カンタロス




第十三話 抉れた希望



 三本目の土柱が落ち着き、土煙が流れていた。
 今のところ、真の女王が優勢である。セールヴォラン、ブラックシャイン、そしてベスパの順に倒されていった。
東京タワーの風下に位置するビルの屋上に立ったカンタロスと繭は、暴れ狂う神経糸の動向を見守っていた。
先に攻めた者から、手を読まれていって当然だ。皆が皆、違った強さを持っているが、今回は相手が悪すぎる。
増して、真の女王の武器である神経糸は、本来情報を採取するものだ。それを女王に接続して、視ていたのだ。
だが、三人とも、それを気にせずにいつも通りに戦った。挙げ句の果てに追い詰められて、地中に捕らわれた。
それは却って好都合だった。余計な邪魔が入らずに済むからだ。繭は暗い笑みを零しながら、戦場を見つめた。

「相手は神経糸だから、やることは一つだよね」

「ああ。簡単なことじゃねぇか」

 カンタロスはにやりと笑うかのように、顎を開いた。

「なんで、皆、そんなことも解らないんだろうね」

 繭は素肌の上に着ていたブラウスのボタンを外し、袖を抜いて足元に落とすと、カンタロスに向き直った。

「行こう、カンタロス。真の女王が皆に気を取られている隙に、攻めて攻めて攻め落とそう」

「お前もやっと解ってきたじゃねぇか」

 カンタロスは繭の背後に立つと、胸部の外骨格を開き、体液に潤った神経糸をにゅるりと出した。

「…うん。だって、カンタロスのためだから」

 繭は首筋に絡み付いてきたカンタロスの神経糸を抓み、口に含んだ。

「そうだ。俺こそが王だ、あらゆる生き物は俺に屈服するために生まれてくるんだ」

 カンタロスは神経糸を包み込んだ繭の口中と舌の暖かさにぞくぞくしたが、平静を保って、神経糸を動かした。
柔らかな太股に巻き付けてから陰部の奥深くに差し込み、頸椎に刺して繭の神経と繋ぎ合わせ、鼻と口を塞ぐ。
女王の卵に神経糸の先端を絡み付かせてから、繭を体内に収めると、感覚を共有させて意識を重ね合わせた。
 複眼には大都会が映り、柔らかく地表へ降りていく土煙の残滓が触角と体毛を掠め、真の女王の匂いを感じた。
カンタロスと化した繭はツノを上げ、待った。三人を飲み込んだ穴で暴れていた神経糸の一本が、動きを止めた。
それが合図であったかのように、二本、三本、四本、五本、とカンタロスを睨み付け、ぐねぐねと不気味に踊った。

「えっと…」

 カンタロスは琥珀色の羽を広げてから、周囲を見回した。そして、目当てのものを見つけて宙に身を躍らせた。
カンタロスが羽ばたき、飛行すると、神経糸は加速した。地面を砕き、ビルを真っ二つに割りながら追ってきた。
その様は、まるで巨大な無脊椎動物のようだ。カンタロスが振り返ると、追い縋ってくる神経糸は増殖していた。
セールヴォランらを叩き落として地中に飲み込んだ神経糸だけでなく、新たな軍勢が地中から飛び出したのだ。
最早、一目見て数えきれる数ではない。カンタロスは重たい体を懸命に浮き上がらせ、神経糸から距離を取る。
 手近なビルを蹴り上げて高度を上げると、そのビルが貫かれて崩壊した。住宅に近付くと、真下から砕け散る。
道路を行けば両断され、駅を過ぎれば電車が飛ばされる。カンタロスの通った後には、死体と瓦礫の山が出来た。
神経糸が二三メートルまで迫った時、速度を緩めて降下した。大きくしなった神経糸が落下してくる寸前、跳ねた。
 赤く縁取られた平らな屋根に、黄色い鞭が叩き込まれて真っ二つに割れ、石油会社の看板が破片で壊れた。
逃げ遅れた店員が瓦礫に潰される様を横目に見つつ、カンタロスは爪をアスファルトに擦り付けて勢いを殺した。
ガソリンスタンドの屋根が滑り落ち、事務所が呆気なく潰された。だが、神経糸は何事もなくそれらを押しのけた。
棘のようにコンクリート片が刺さった状態で再び現れた神経糸は、満遍なくガソリンに濡れて異臭を放っていた。

「計算通り」

 カンタロスは電柱に衝突して炎上している乗用車を掴むと、腰を据えて下両足を踏ん張り、投げ飛ばした。

「い、よっと!」

 火の粉を散らしながら宙を飛んだ乗用車は神経糸に触れた途端、凄まじい爆発が発生し、炎が駆け抜けた。
一瞬に地下のタンクに満たされていたガソリンに引火して爆発に次ぐ爆発が始まり、カンタロスは緊急回避した。
手近な建物の陰に身を隠したカンタロスは、炎と共に飛び散ったガソリンを浴びた人間達が焼死する様を眺めた。
炎から逃れようとアスファルトの上で転がるが、炎は弱まるどころか強くなり、焼け焦げた皮膚や肉がずり落ちた。
辺りにはガソリンの異臭に混じっては蛋白質が焦げる匂いが漂い、どす黒い煙が荒れ狂う炎から立ち上っていた。
 炎の海の中で神経糸はぐねぐねと暴れ回っていたが、次第に動きが鈍くなり、表面がぐつぐつと煮え滾っていた。
その痛みが他の神経糸にも伝わったらしく、カンタロスに襲い掛かることすらなく、住宅街を無意味に壊している。
相手が神経糸ならば、痛みを与えてやれば直接本体にも伝わる。このまま攻め続ければ、本体が現れるだろう。
そして、攻めて攻めて攻め抜けばいい。街中には、武器になりそうな物資や餌になる人間がいくらでもあるのだ。
 上手く立ち回れば、勝てる。カンタロスは勝利を確信しながら、真っ黒く焼けて表面が縮れた神経糸に近付いた。
すると、ずっ、と炎に包まれた瓦礫の山が盛り上がった。焼け焦げた神経糸を押し上げて、別の神経糸が現れた。
頭上から雨霰と降り注いできた灼熱の飛礫を全て避けたカンタロスは距離を取るために後退したが、誤りだった。

「うぐうっ!?」

 住宅街を壊していた神経糸が、死角から飛び出してきた。避けることも出来ず、背面に凄まじい打撃が加わる。
そのまま空高く弾き飛ばされたカンタロスを、もう一本の神経糸が叩き落とし、瓦礫と化したビルに突っ込ませた。
粉塵に視界を奪われ、外骨格に無数の傷を付けながら、カンタロスはビル一階の抉れた床から上体を起こした。

「なんで、動けるの…?」

 カンタロスであろうとも、神経糸を直接攻撃すれば抵抗すら出来なかったのに。

「どうしよう、こんなの、困る…」

 こんなことでは、勝てない。勝たなければいけないのに。勝って、真の女王になって、気持ちを伝えたいのに。
だから、立ち上がって戦わなければ。カンタロスは瓦礫を掴んで立ち上がると、震える下両足を強く踏ん張った。

「でも、頑張らなきゃ!」

 カンタロスは自分自身を奮い立たせながら足元を蹴り付けて、重たい体を空中に弾き出してから羽を広げた。
だが、崩れたビルから脱する前に神経糸がまたもや振り下ろされ、カンタロスは呆気なくアスファルトに転がった。
姿勢を直す前に背面から激しく叩き付けられ、視界がぶれ、水中で動かされた石のように容易く横転してしまった。
炎の海にツノの先端が掠めたが、最後の意地で踏ん張り、火達磨になることは避けたが状況は悪いままだった。
 神経糸は増え続けている。神経糸には死角はなく、その全てに意志が宿っている以上、倒すことは難しかった。
炎を使って焼け焦がしても、ダメージを受けた神経糸はすぐさま切り捨てて別の神経糸を操って襲い掛かってくる。
消耗戦しかなさそうだが、カンタロスは消耗戦が最も不得手だ。無敵の腕力を持つが、反面、持続力がないのだ。
だから、こういった状況が一番苦手だ。戦い慣れたセールヴォランやブラックシャインであれば、別なのだろうが。
 諦めずに立ち向かうしかない。カンタロスは軋む膝を立てて痛む体を支え、ツノを上げると、顎を打ち鳴らした。
何度も何度もぶつかれば、勝機が見つかる可能性がある。薄っぺらく、稚拙な策だったがそれに掛けるしかない。

「頑張らなきゃ、いけないんだあああっ!」

 渾身の咆哮を放ちながら、カンタロスは端が僅かに焦げた羽を羽ばたかせ、飛び上がった。

「なんだっていいから、私が勝たなきゃいけないの!」

 真上から振り下ろされた神経糸を掴み、爪で切り捨てる間にも新たな神経糸が振り下ろされ、煙が散った。

「そうしなきゃ、カンタロスは私を認めてなんてくれないっ!」

 粘ついた体液と組織片を散らしながら、カンタロスは絶え間なく放たれる神経糸の中心で踊り続けた。

「私には、カンタロスしかいないの! カンタロスしか、いらないの!」

 一本、二本、三本、四本、五本、と次々に神経糸に傷を与えながら、カンタロスは猛る。

「だから、私はあなたを倒す!」

 ずびゅるっ、と真正面に迫ってきた神経糸に上両足の爪を押し当てながら飛び、真っ二つに引き裂いた。

「私には、もう、それしかないから!」

 裂けた神経糸を上両足で握り締めたカンタロスは、出せるだけの力を出し、地上に出ている部分を引っ張った。
羽ばたきながら背負い、ぎりぎりと引き絞る。断ち切った際に零れた神経糸の筋が千切れ、体液が飛び散った。
その痛みを感じ、カンタロスを取り囲む神経糸が動きを止めたが、一斉にカンタロスに向かって飛び掛かってきた。
だが、無数の神経糸の先端がカンタロスに至る前に、カンタロスが背負っていた神経糸の中程がぶちっと切れた。
最大加速を行っていた状態で脱したため、神経糸が至った時にはカンタロスの姿は消え、直後に両者は激突した。
互いの力を受け止め合ってしまった神経糸はぐにゃりと歪み、びくびくと痙攣しながら地面に倒れ、動かなくなった。

「…やった、かな?」

 千切れた神経糸を投げ捨てたカンタロスは、手近なビルの屋上に着地し、息を荒げた。

「でも、まだまだ、だよね」

 力を一気に出したからか、頭がくらくらする。意識を鮮明にするべく懸命に呼吸を行ったが、空気が濁っている。
天を焦がさんばかりに盛るガソリンの炎から噴き上がる黒煙と、それに勝るほど濃い真の女王の匂いのせいだ。
繭が体内にいるのに、カンタロスの意識が落ち着いていない。真の女王の発する匂いが、あまりにも強いからだ。
繭自身の嗅覚では解らないが、カンタロスの嗅覚を通じて感じる真の女王のフェロモンは、甘く、切なく、激しい。
全ての人型昆虫の祖であり、母であり、神である真の女王の力が伝わるようで、繭までもが揺らぎそうになった。
だが、繭が折れてしまえば全てが無に帰してしまい、カンタロスに思いを伝えるどころではなくなってしまうだろう。

「カンタロス…」

 カンタロスと化した繭は燃え盛る炎を背負い、真の女王が眠るであろう東京タワーを睨んだ。

「私、頑張るね。だって、私は」

 カンタロスが好きだから。言えなかった言葉を胸中に収めた繭は、足元を踏み切って空中に身を躍らせた。

『…そうか』

「え?」

『あれは、そういう名前の感情なんだな』

「カンタロス、それって何のこと?」

『やっと解ったぜ。お前のおかげでな』

 繭の意識が力任せに引き摺り下ろされ、カンタロスの意識が上位に上がり、彼の意識が自身の体を支配した。

「この俺が礼を言ってやったんだ、光栄に思えよ、繭!」

 え、と脳内に驚いた繭の声が少しだけ聞こえたが、カンタロスの羽ばたきと破壊の轟音に掻き消されてしまった。
背後から新たな神経糸が追ってくる。倒しても倒しても倒れない神経糸は、怒りを帯び、動きが荒々しくなっている。
他の連中と同じく、カンタロスもすぐに倒せると思っていたのだろう。だが、自分だけは倒されるわけにはいかない。

「繭」

 カンタロスは胸部の外骨格に爪を立て、体内の彼女に触れるように握り締めた。

「俺がお前を守ってやる。繭は俺の女王だからだ」

 神経糸を通じて流れ込む情報の中には、カンタロスの感情も入り混じり、意識を落とした繭の脳を掻き乱した。
その中には、繭の知らないカンタロスがいた。些細なことで戸惑い、躊躇い、迷い、困る、同年代の少年がいた。
初めて出会った時からの記憶が動画のように流され、繭の意識に染み渡り、細胞の一つ一つまでに彼が浸る。
きっと、これはカンタロスが心を許してくれた証なのだろう。繭はそれを嬉しく思いながら、情報に意識を委ねた。
 怒濤のように押し寄せる情報の中には、カンタロスが繭に対して抱いていた様々な感情が織り交ぜられていた。
特に多いのが、繭の笑顔を見た時のものだった。困り顔、泣き顔、怒り顔などもあったが、笑顔の数は桁違いだ。
ハンバーグを食べた時の感覚や、繭が体を許してくれた際の嬉しさや、繭を失いかけた時の畏怖も混じっていた。
そのどれもが愛おしく、泣き出したいほど胸が苦しくなった。このままずっと彼に浸っていたい、と思った時だった。
 東京タワーへ向けて飛行するカンタロスの真下から、太く束ねられた神経糸が出現して天高く伸び上がってきた。
死角であり、不覚だった。カンタロスは真下から突き上げられて舞い上がり、羽を広げ直す前に追撃を喰らった。
二度、三度、と空中で鞠のように弄ばれた後、飛行するだけの余力を失ったカンタロスは、地球の重力に従った。
 触角が風を切り、ツノが巨大な穴を示す。だらりと脱力した六本足を曲げ、カンタロスは自分自身を抱き締めた。
答えが出ないと思っていた感情の答えは、すぐ傍にあった。他でもない繭から、繭に対する思いの意味を知った。
 傷付けたい、傷付けたくない、壊したい、壊したくない、泣かせたい、泣かせたくない、笑わせたい、喜ばせたい。
どれほど傷付けても、どれほど痛い目に遭わせても、どれほど辛い戦いがあっても、繭はいつも傍にいてくれた。
繭の存在は日に日に膨れ上がって、カンタロスの浅はかな疑似感情に厚みを与え、熱を加え、重みをも授けた。
だが、それを認めるのが怖かった。虫である己を誇っているから、人である繭を好いたことを後悔してしまった。
けれど、振り切れなかった。それどころか、繭をどんどん愛してしまう。利用するために手に入れた少女なのに。
だから、繭を守らなければ。しかし、肝心の羽は開かず、繭の意識も失せて、二人は底知れぬ地下へと没した。
 真の女王が待ち受ける、闇の世界へと。




 体の火照りは、収まらなかった。
 自分のものではない異物が押し込まれた感触がありありと残り、何度となく摩擦されたために陰部がひりつく。
だが、嫌ではなかった。腰のだるさも倦怠感も喉の渇きも、そのどれもが嬉しくて、切なくて、泣き出しそうになる。
彼の外骨格から滲み出る分泌物に汚れたベッドに横たわった紫織は、乱れた服も直さずに天井を見つめていた。

「う…」

 身を起こすと、やや温度の低い精液が太股を伝って流れ出した。

「これで、良かったんだよねぇ…?」

 紫織は肩を震わせて俯き、白衣に包まれた腕を握り締めた。過去の女から彼の心を奪えたことが嬉しすぎる。
案の定、黒田の心は櫻子から紫織に傾いてくれた。このまま上手く行けば、彼の心中には紫織しかいなくなる。
 妹を失い、恋人を失い、復讐心だけで生きる男を利用するには、精神的な逃げ場となる女をあてがうべきだ。
そんな命令が紫織に下されたのは、改造手術を乗り越えた黒田が人型昆虫対策班に配属されたばかりの頃だ。
もちろん、最初は戸惑ったしとてつもなく嫌だったが、仕事だと思えば割り切れたから黒田と接するようになった。
だが、近付くうちに黒田の孤独と憎悪に焼け焦げた心が垣間見え、苦しみを知ってしまい、紫織の良心が痛んだ。
政府の命令とはいえ、苛烈な過去を背負う彼を利用して良いのか。そう思ううちに、心が動き、嫌悪感が失せた。
それどころか、人間ではなく兵器扱いされても尚戦い続けられる黒田の強さを感じ取り、本当に好きになっていた。
だから、今の今まで彼に体を許せなかった。政府から何度となく急かされていたが、どうしても誘えなかったのだ。
拒絶されることが怖くて、近付くことは出来ても迫れなかった。こんなことがなければ、ずっとそうだったのだろう。

「後で、謝らなきゃ。全部、話さなきゃ」

 紫織は白衣の袖に涙を吸わせ、しゃくり上げた。

「絶対に帰ってきて下さいね、黒田二佐」

 黒田は紫織を荒々しく貫く一方で、壊れ物を扱うかのように優しく抱き締めて、思ってくれているのだと解った。
異形と化した己を恥じる言葉を何度となく零しながら、人の肌など一撃で切り裂ける爪を伏せ、足だけで抱いた。
きっと、黒田は他人の体温に飢えていたのだろう。だが、人でもなければ虫でもない彼に触れる人間はいない。
もっと早く、それに気付いてやれば良かった。そうすれば、黒田の深い苦しみを少しでも癒せたかもしれないのに。
 だから、帰ってきてほしい。紫織が出来る限りのことをして、黒田の傷を埋めて飢えを潤して、愛してやりたい。
心の底から、好きだと言おう。今度は、もう少しおいしいものを食べさせてやろう。時間を掛けて、体を重ねよう。
やりたいこと、話したいこと、したいこと、させたいことがいくらでもある。戦いを終えたら、一つ一つこなしていこう。
 ベッドから立ち上がった紫織は、黒田の爪痕が浅く付いた肩と二の腕を白衣で隠してから、東京を見下ろした。
何度も地震が起きていたと思ったが、違っていた。至るところから土煙が立ち上り、不気味なものがうねっている。
人型昆虫や戦術外骨格を解剖する際に見慣れた神経糸だったが、その長さを知覚した途端に、紫織は戦慄した。
周囲のビルを遙かに超えていて、地中に没している部分を含めれば、どう短く見積もっても数百メートルはある。
 黒田は、あんな化け物と戦っていたのか。生き残れるわけがない。生き延びていたとしても、無事とは限らない。
それ以上考えるのが怖くなり、紫織は座り込んだ。ぼろぼろと涙を落として頭を抱えて震えていると、物音がした。

「何…?」

 ノブが壊れたドアが叩かれて、紫織は振り向いた。脱出を促すために兵士が来たのだろうか、と思って開けた。
ドアを押し開くと、廊下全体に赤黒い池が広がっていた。天井からは雫が垂れ、貼り付いた肉片が剥がれ落ちた。
重みを感じてドアの外側を見ると、原型が思い描けないほど平たく潰された頭蓋骨が付着して、脳が流れていた。
その頭蓋骨の持ち主と思しき首のない兵士が転げているが、身動き一つせずに折れた自動小銃を抱えていた。

「誰が、いつのまに」

 紫織が後退ると、階段に上半身を投げ出していた死体がおもむろに起き上がり、折れた顎を上下させた。

「妾は知りたいだけじゃ。この星で最も優れた種である妾に刃向かう、そなたら人間の愚かさをのう」

 濁った水音混じりの言葉を発する兵士は頭部が砕け、間違いなく死んでいたが、頸椎に何かが刺さっていた。
糸のように細い、神経糸だった。紫織が更に後退ろうとすると、その兵士が投げ飛ばされ、ドアの脇に激突した。
壁を揺さぶる衝撃の後、潰れた内臓から生臭い匂いが溢れ出した。紫織は吐き気を堪え、ドアを閉めようとした。
だが、今度は首を失った兵士の死体が這いずってきてドアの間に腕を挟み、死体とは思えぬ力で開けようとする。
紫織はがちがちと震える顎を噛み締め、兵士の腕を蹴り付けて外に押し出すと、ドアを閉めて壊れた鍵を掛けた。
これでどうにかなるとは思えないが、気休めにはなる。紫織は玄関脇の棚を開けて拳銃を出し、マガジンを差した。
拳銃を握り締めてドアから離れた瞬間、隙間から神経糸が入り込み、ぬめぬめと動きながら紫織へと伸びてきた。

「愚かよのう」

 窓の外から聞こえた声に紫織が振り返ると、首を神経糸に絞められた研究員がぶら下がり、揺れていた。

「ひっ!?」

「愚かさ故に、興味が湧くというものよ」

 動かないはずの喉を動かして喋った研究員の死体は前後に大きく揺すられ、窓を破って室内に飛び込んできた。
紫織は研究員の死体に発砲したが、意味はなかった。ドアから逃げようとしても、また新たな死体がぶつけられた。
遂にドアを破って滑り込んできた神経糸と窓から這いずってくる神経糸に追い立てられ、紫織は壁際に後退った。

「いやあっ、私はまだ死にたくない!」

 紫織は夢中で神経糸に発砲するが、弾丸は掠りもせずに天井や壁に埋まった。

「黒田二佐が帰ってくるんだから、私はあの人を待っていなきゃいけないの、だからお願い、許してぇええっ!」

 紫織は弾丸の尽きた拳銃を落とし、首を横に振った。だが、神経糸は近付いてくる。

「妾が知りたいのはそれよ。なぜ、そなたらは異性同士でまぐわい、繁殖するのかえ?」

 いつのまにか、あの声は紫織の脳内に響いていた。紫織が身動ぐと、頸椎に痛みが走っていた。

「あ、ああああっ!」

 紫織は首筋に差し込まれた細い神経糸を引き抜こうとすると、行く手を阻んでいた太い神経糸が襲い掛かった。
神経とは思えぬほどの力で壁に叩き付けられた紫織に、太い神経糸の先端から伸びた細い神経糸が這い回る。
首に絡み付き、手足の動きを封じ、陰部にまでも滑り込んできた。黒田のものとは異なる感触が、おぞましかった。
何度も何度も黒田の名を叫ぶが届くわけもなく、紫織の喉も神経糸に塞がれ、脳の中にも直接神経糸が及んだ。

「ほほほほほほほほほ。全く、人とは脆いものよのう」

 ぐじゅぐじゅと紫織の脳を掻き混ぜながら、真の女王は囁いた。だが、脳を損傷した紫織の意識は失せていた。
上顎を破って脳に到達した神経糸を伝って、崩れた脳の破片や脳漿が血と唾液に混じって落ち、散らばっていた。
真の女王はひとしきり紫織の脳を混ぜて求めていた情報を得てから、紫織から神経糸を引き抜いて投げ捨てた。
脳を失った紫織の死体は、でたらめに手足を動かして暴れていたが、心臓を貫いて失血させると動きが止まった。
目当ての情報を取得して満足した真の女王は、神経糸を黒田の部屋から引き出すと地下深くへと没していった。
それが合図であったかのように、地上の神経糸は一本残らず地下に戻り、地上には大量の瓦礫だけが残された。
 真の女王の座を巡る、戦いの幕開けだった。





 


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