六本木壊滅事件から、三ヶ月が経過した。 真の女王の出現によって政府は人型昆虫の存在を隠し通すことが出来なくなり、情報公開を余儀なくされた。 六月以降に発生した六本木界隈の事故や事件も、人型昆虫が原因であると説明したことで、世間は混乱した。 六本木近隣に在住していた住民は政府の命令や本人の意志で退去し、東京全体からも多数の人間が消えた。 一時は東京が首都機能を失うのでは、と危惧されたほどで、三ヶ月が経過した今も事態は収拾していなかった。 マスコミは連日のように政府の対応を責め、民衆には不安と恐怖が蔓延し、時折人型昆虫の残党が出現した。 それを倒すために自衛軍は出動するが、やはり銃が効かないので、最終的には黒田が手を貸すことが多かった。 人型昆虫が出現する地点は大抵人間が密集しているので、黒田の姿はおのずと世間に露出することになった。 政府による情報操作のおかげで、公表されるのは黒田の外見とブラックシャインというコードネームのみだった。 そして、黒田はヒーローになった。幼い頃に憧れ、夢見ていた姿からは程遠かったが、ヒーローと呼ばれていた。 真の女王を倒したのも黒田、女王を倒し続けたのも黒田、人型昆虫を掃討したのも黒田、と政府は言い切った。 要するに、体裁の良い汚れ役だ。戦術外骨格を作るために行った、多数の人体実験から目を逸らさせるためだ。 だが、今更そんなことはどうでもいい。妹も、恋人も、新たな恋人も失った黒田には、何も失うものがないからだ。 だから、得るものすらない。 鋼鉄の荒馬が、猛々しく咆哮する。 手袋を填めた上両足で握るハンドルを操り、前輪を傾けさせ、アクセルを緩めて次第に速度を落としていった。 ヘルメットで覆い隠した複眼の隅では赤いマフラーと触角の先がはためき、長いコートの裾がうるさく揺れている。 街路樹の葉は茶色く乾き、吹き付ける風は冷たかった。怒濤のような夏が終わると、穏やかな秋が訪れていた。 あれほど凄絶な経験は、二度とないだろう。二度目があったとしても、黒田は生き抜けるとは到底思えなかった。 アメリカ製の大型バイクに跨り、車も人もまばらな幹線道路を抜けた黒田は、ハンドルを切って横道に入った。 途端に目の前が開け、背の高い木々に囲まれている墓地が現れた。黒田は駐車場に入ると、バイクを止めた。 荒々しい熱と震動の余韻を残す荒馬から降りた黒田はヘルメットを外すこともなく、途中で買った花束を取った。 引き摺るほど長い真っ黒なコートと、やはり黒のフルフェイスのヘルメットを被り、手袋とブーツもやはり黒だった。 三本の爪しか持たない上両足に填めた手袋には中指と薬指を偽装したものが仕込まれ、ブーツも同様だった。 人間らしい姿とは言い切れないが、人型ゴキブリの姿を隠すことが出来るので、外出する時は常にこの格好だ。 百香なら、怪しすぎると笑うだろう。櫻子なら、困って苦笑するだろう。紫織なら、お似合いですとべた褒めだろう。 三人のリアクションを想像して内心で笑いつつ、黒田は無数の墓石が並ぶ墓地を通り、目的の墓を探し出した。 黒田家之墓。その下では両親と妹が眠っている。黒田は上両足の爪を合わせた後、以前供えた花を捨てた。 花瓶の中の水も取り替えて新しい水を注ぎ、先程買ってきたばかりの花を生けて、ロウソクと線香に火を灯した。 「元気だったか、百香」 黒田は御影石の墓石を撫で、手袋越しにその冷たさを味わった。 「あれから、色々なことがあったよ。ありすぎるぐらいにな」 人型昆虫と戦術外骨格の戦い。戦術外骨格同士の戦い。そして、女王の座を巡る戦い。 「何から話せばいいのか解らないが、時間が経って、整理が付いたら話してやるよ」 黒田は目を細めるような気持ちで、顎を少し軋ませた。 「俺は、随分偉くなっちまったよ。下っ端じゃないが、部下がいるってわけでもない」 墓石から爪を外した黒田は、嘆息した。 「なあ、百香。俺は、間違っていなかったよな?」 事後処理の過程で、三人の素性や背景が解った。鍬形桐子は生体実験体であり、蜂須賀ねねも同様だった。 そして、兜森繭は完全な被害者だった。偶然女王に出会い、女王の卵を産み付けられ、人生をねじ曲げられた。 両親は別居して家を出て、友人はおらず、相談出来る相手が一人もいない中、彼女は戦士に出会ってしまった。 絶大な破壊力を持つ戦術外骨格は、少女の空虚な心を埋めたばかりか、どす黒い欲動を呼び起こしてしまった。 もしも、繭の傍に誰かがいたなら、結末は変わっていただろう。力を得たことで、皆が皆、歪んでいってしまった。 桐子も育ての親から捨てられなければ、少し変わった性格のお嬢様として華やかな人生を過ごしていただろう。 ねねも心から信頼出来る友人に出会えていたなら、あの性格は直らずとも穏やかな人生を歩めたかもしれない。 少女達に与えられるべきは、力ではなく温かな手だった。だが、少女達が掴んだのは生体兵器の爪先だった。 政府機関である人型昆虫対策班すらも少女達を救い出そうとは欠片も思わず、戦いの道具として利用し尽くした。 黒田もまた、そう思っていた。それ以外に人類が勝利を得る道はないと信じていたからこそ、少女達を利用した。 だが、今にして思えばそれは大きな誤りだった。しかし、そのことに気付いた時には全てが終わってしまっていた。 けれど、間違っていたことに気付いたとして、誰が道を正せたのか。少なくとも、黒田の力では到底無理だった。 当時は二等陸佐という地位を与えられていたが、それはあくまでも飾りの地位であり、黒田には部下などいない。 増して、政府上層に進言出来る立場でもなければ、少女達から信頼される立場でもなく、何も出来なかっただろう。 仮に、当時の黒田が少女達を理解しようと思ったとしても、不遇さを同情し合って傷を舐め合うばかりに違いない。 そうなれば、皆、戦いを放棄する。それぞれの武器であり鎧である虫と心を通わせ、恋と愛に溺れてしまうだろう。 紫織との恋愛に逃避することで、苛烈な現実から目を逸らそうとしていた黒田にはその気持ちは痛いほど解る。 「百香」 連日の戦いで渇き切った心を潤すかのように、黒田は妹の名を呟いた。 「俺は…もう…」 墓石にヘルメットをぶつけて黒田が低く呻くと、コートのポケットで携帯電話が鳴った。 「なんだ、こんな時に」 軍から支給された携帯電話を取り出した黒田は、弱っていた声色を元に戻し、フリップを開いて通話した。 「黒田だ」 『黒田一佐! 今、どこにおられますか!』 「青山墓地だ。それで、何があった」 動揺して裏返った声の兵士に、黒田は淡々と返した。 『天王洲にて、セールヴォランが出現しました! 現在、特装部隊が応戦していますが…』 兵士の声の背後では聞き慣れた水っぽい破裂音が響き、鈍い悲鳴が上がっていた。 「何人死んだ?」 『現時点での損害は、五、いや、六であります!』 「解った。俺が到着するまで、セールヴォランを足止めしておけるな?」 『は、はい!』 「現場で会おう。生きていたらな」 黒田は通話を切り、携帯電話を閉じた。コートと同じく黒の携帯電話をポケットに入れてから、黒田は跳躍した。 無数に並ぶ墓石の上を軽々と飛び越え、墓地を囲む街路樹の枝を足掛かりにして高度を上げ、ビルに向かった。 ビルの屋上に降り立った黒田は、コートの襟元を拡げて足捌きを楽にすると、力一杯ビルの屋上を蹴り付けた。 三ヶ月前の戦闘の影響で道路という道路が壊れ、封鎖されているので、バイクを使うと遠回りになってしまうのだ。 上空に躍り出ると、六本木の惨状を一目で見渡せた。建物は見事に破壊し尽くされ、原形を止めていなかった。 一時は高級マンションとして名を馳せたビルも、煌びやかなショッピングモールも、無惨な瓦礫の山と化している。 青山墓地も立ち入り禁止区域に指定されているのだが、一等陸佐の権限があるため、黒田は自由に立ち入れる。 灰色の海には波の代わりに瓦礫が立ち、海草の代わりに焼け焦げた鉄骨が曲がり、潮風の代わりに砂が舞う。 東京タワー跡地には、半径二百メートル超のクレーターが出来ており、倒れたタワーはそのまま放置されている。 撤去しようにも、地盤が崩れすぎていて重機が持ち込めない上、人型昆虫が全滅したという保証がないからだ。 全ての人型昆虫の母であり女神であった真の女王の死体は、数週間に渡る焼却処分の末に灰の山と化した。 東京湾から潮風が吹き付けるたびに、真の女王を成していた蛋白質の固まりは、さらりと崩れて一筋に流れる。 母の灰に包まれた卵も崩れ、乾燥した体液が舞い上がる。その様は、火葬場から立ち上る荼毘の煙を思わせた。 東京湾上の天王洲に向かいながら、黒田はコートの下の外骨格に染み入ってくる死の匂いを感じ取っていた。 戦いを終えてから、東京は死んだ。首都機能も衰えたばかりか、人間の生気は失せ、生きていても死んでいる。 人智を越えた存在に過剰なまでに畏怖し、怯え、蔑み、憎む。皆が皆、負の感情に囚われて、沈み込んでいる。 だからこそ、ヒーローは必要だ。黒田自身もそう思うし、政府側もそう思ったから、黒田を祭り上げたのだろう。 だが、ヒーローは倒すべき敵がいるから成り立っている存在であり、それがいなくなってしまったらどうなるのか。 考えたくないことほど、考え込んでしまった。 無数のビルと海を越えた先が、戦場だった。 上空から現場を確認した黒田は、天王洲内を突っ切る道路を目指して、アスファルトを蹴り付けながら駆けた。 普段は輸送車両や乗用車が行き交う道路には、自衛軍の装甲車が横付けされ、絶え間なく銃声が轟いていた。 だが、着弾した様子はないらしく、血の匂いが増えて絶叫が聞こえたので、黒田はアスファルトを強く踏み切った。 複数の装甲車を易々と飛び越えた黒田は、手袋に内蔵していた小型注射器を関節の隙間の膜に突き立てた。 かすかな痛みの後、体液に薬液が染み渡る。そして、着地した瞬間には黒田はブラックシャインに変身していた。 黒ずくめの衣装を脱ぎ捨てたブラックシャインが立ち上がると、肉塊が吹き飛ばされ、複眼の端を掠めていった。 べしゃっ、と重たい水音が背後に落ち、本来の広さを取り戻した視野の隅では兵士と思しき胴体が転がっていた。 回転した勢いで血液と共に内臓と内容物が撒き散らされ、アスファルトには奇妙な赤黒い模様が出来上がった。 「黒田一佐!」 装甲車に身を隠して銃撃を行っていた兵士が、ブラックシャインの姿を認めて歓声を上げた。 「違うな。俺の名はブラックシャイン、正義の味方だ」 トレードマークの赤いマフラーを靡かせながら、ブラックシャインは血溜まりの中に立つ異形を見据えた。 「生きていたか、セールヴォラン!」 返り血で全身を汚してぐじゅぐじゅと人肉を噛み締める巨体の人型クワガタムシは、半身が醜く焼け爛れていた。 あぎとを失った右半身は外骨格が火傷で茶色く変色し、右の複眼と触角は潰れて失われ、上右足も同様だった。 下右足も上手く動かないらしく、重心がずれている。ぢゅるり、と血液を啜ったセールヴォランは、鈍い声を発した。 「きり、こ」 「まさか、あの炎の中を生き延びていたとはな!」 ブラックシャインが駆け出すと、セールヴォランは食いかけの死体を投げ捨て、よろけながら駆け出した。 「きりこ、きりこ、きりこ、きりこ、きりこ!」 「そこだけは褒めてやるよ、セールヴォラン!」 姿勢を低めて駆けてきたブラックシャインに、変則的に身を捩ったセールヴォランは上左足を振り翳した。 「きりこぉおおおおおっ!」 「爆撃の後、俺はお前達の死体を探した! だが、見つけ出せたのはベスパの死体と蜂須賀君だけだった!」 腰を落としてセールヴォランのでたらめな攻撃を避けたブラックシャインは、拳を焼け爛れた胸に突っ込んだ。 「だから、俺は探した! お前を、そして、カンタロスを!」 「きりこ、きりこ、きりこきりこきりこきりこきりこきりこきりこきりこ!」 胸部に打撃を受けたセールヴォランはぐらりと両膝を曲げたが、奇妙な角度で首を捻ってあぎとを振った。 「きりこきりこきりこきりこきりこぉおおおおっ!」 「おっと!」 焼け爛れたあぎとが首に向かってきたが、ブラックシャインは上体を反らして避け、笑うように顎を開いた。 「どうした、お前達の実力はこんなものじゃないだろう?」 「きりこ…」 姿勢を崩したセールヴォランは血溜まりに倒れ込み、ぎりぎりと顎を噛み合わせた。 「まさか、とは思うが」 ブラックシャインはセールヴォランに歩み寄り、炎によって羽を失った背を踏み付けた。 「鍬形君が死んだのか?」 茶褐色の爪を押し込まれると、分厚く頑強だった外骨格が歪み、容易く割れた。 「あ、あ、あ、あああ! ぼくの、きりこ、ぼくのぼくのぼくのきりこぉおおお!」 羽の根本に爪を深く刺されたセールヴォランは、青い体液を吐き出しながらしきりに頭を振った。 「死んだんだな?」 彼の反応でブラックシャインが確信すると、セールヴォランは上左足で頭を抱え、突っ伏した。 「きりこ、きりこ、きりこ、きりこ、きりこ、きりこきりこきりこきりこきりこきりこきりこぉおおおおおおっ!」 「だったら、俺も仕事が楽だ!」 セールヴォランの背から下右足の爪を引き抜いたブラックシャインは、身軽に跳躍し、下右足を突き出した。 「俺の必殺技を受けてみろ! シャイニングキィークッ!」 「きりこ…」 左の複眼と右の潰れた複眼に血を擦り付け、涙のように伝わせながら、セールヴォランは重たく起き上がった。 戦術外骨格に比べれば小柄ながら強靱な筋力の改造人間の蹴りは、熱で傷んだ外骨格を難なく砕き、貫いた。 先程の傷口が数十倍に広がり、青い体液が赤い血溜まりに流れ落ち、飛沫と共に潰れた物体が押し出された。 脱力したセールヴォランが転倒する前に、彼の肩を蹴って足を抜いたブラックシャインは、しなやかに着地した。 大きく傾いた巨体は、自身の体液と先程殺した人間の血の海に沈み、半開きの顎から血混じりの唾液を零した。 「きりこ…」 愛する少女を求めて、セールヴォランは上左足を伸ばすが、その爪が彼女に触れる寸前で力尽きてしまった。 青と赤に汚れた漆黒の爪は、ブラックシャインに蹴られた際に飛び出した、ぐずぐずに腐った物体に伸びていた。 変色して千切れた髪、剥がれた頭皮、露出した頭蓋骨、眼球のない眼窩、とろけた皮膚、液体と化している脳。 頭蓋骨にはセールヴォランの体液の色が染み付き、青くなっている。それは、鍬形桐子の頭部に違いなかった。 「おい」 ブラックシャインは装甲車に向き、自動小銃を握って青ざめている兵士に命じた。 「すぐに記録を取れ。セールヴォランは死んだ。鍬形桐子の死亡も確認した。報告書を上げなきゃならん」 「あ、はい、了解しました!」 装甲車の陰に隠れていた兵士は、慌てて記録係の兵士に駆け寄っていった。 「これで、一段落か」 ブラックシャインはセールヴォランの体液に汚れた下右足を気にしつつ、血溜まりに散らばる死体を見下ろした。 セールヴォランに殺された兵士達は、いずれも特殊合金製の外骨格を装備しており、光学兵器を携帯していた。 人造外骨格と呼ばれる特殊装備で、生体兵器である戦術外骨格とは正反対の方向性で開発されたものだった。 意志を持った戦術外骨格がことごとく暴走したため、政府は方向転換を余儀なくされ、機械の力に頼ることにした。 だが、人造外骨格は戦術外骨格ほどのパワーもなければ耐久性能もなく、当然ながら飛行能力も持っていない。 人型昆虫の弱点である高熱を発する光学兵器を装備しているが、それを撃つ前に殺されて、成果は上がらない。 故に、結局は改造人間である黒田に頼るしかなく、国民への体裁を保つために使っているとしか言いようがない。 「鍬形君」 即効性だが持続時間の短い戦闘高揚剤が切れたため、ブラックシャインは黒田に戻っていた。 「君は幸せだったか?」 溶けるほど腐った桐子の生首は、答えなかった。 「いや…野暮な質問だったな」 生前の桐子の顔を知らない黒田は資料で見た桐子の顔を思い出しながら、青味を帯びた頭蓋骨を見つめた。 年齢にそぐわない色気を持った少女で、頭も良く、僅かばかり手を組んでいた時はよく言い負かされてしまった。 だが、セールヴォランへの執着の強さは精神年齢の低さを垣間見せ、確かな強さと共に脆さも併せ持っていた。 東京タワー跡地への爆撃の後、黒田らはベスパとその体内のねねは回収したが、他の二組には逃げられた。 セールヴォランは焼け落ちた羽や足を見つけたので、東京近郊だと踏んで捜索し、やっと追い詰めて殺処分した。 だが、カンタロスだけは未だに見つからなかった。見つけ出さなければ、と思う反面、見つけたくないとも思った。 躊躇いを感じるべきではないのに、引っ掛かってしまう。黒田が少し考え込んでいると、兵士が声を掛けてきた。 「黒田一佐!」 「なんだ」 黒田が振り返ると、黒田の衣装一式を抱えた兵士が敬礼した。 「私物をお返しします!」 「お前らの車に置いておけ。今、そいつを着たら汚れちまうだろうが」 黒田が爪先で汚れた外骨格を示すと、兵士は再度敬礼した。 「了解しました!」 「ああ、それと」 装甲車に向かおうとした兵士を呼び止め、黒田は顎をしゃくった。 「急な任務だったから、青山墓地にバイクを置き去りにしちまったんだ。悪いが、そいつも回収して療養所に運んでおいてくれないか。少し、用事があるんでな」 「了解しました!」 明瞭に返答した兵士を仕事に戻るように促し、黒田は手近な縁石に腰を下ろし、外骨格から体液を拭い取った。 すると、準備の良い兵士が水を張ったバケツと布を持ってきてくれたので、礼を言ってから黒田は自身を清めた。 濡らした布で外骨格を擦ると、セールヴォランの体液と兵士達の血が混じった水が落ち、体温が奪われていった。 戦闘高揚剤で火照った体液も冷め、頭も冷えてくる。複眼も顎も拭って、体中に付着した砂埃も丁寧に落とした。 時間を掛けて体を清めた黒田は、冬の気配が混じり始めている潮風を浴びて、茶褐色の外骨格を乾燥させた。 迷うことはない。ただ、前を見据えて戦うだけだ。改めて決意した黒田は、セールヴォランの死体を見下ろした。 セールヴォランを殺さなければ、犠牲は更に増えていた。事実、セールヴォランと交戦した兵士は全員死亡した。 虫を殺すのは慣れているし、人を殺さざるを得ないことも初めてではないし、桐子はとっくの昔に死亡扱いだった。 殺すべき者を殺しただけだ。だが、黒田の胸中には苦いものが広がり、黒田は意味もなく顎をぎりぎりと擦らせた。 晴れ渡った秋空が、疎ましかった。 09 3/22 |