豪烈甲者カンタロス




第二話 爛れた関係



 ようやく、現実に戻ってこられた。
 繭はシャワーを浴びながら、恐怖と疲労で凍り付いていた血液が溶けていく感覚に、涙が滲むほど安堵した。
自分はまだ生きているのだ、と認識出来た。帰宅して人型カブトムシの体内から出た後も、現実味はなかった。
悪い夢としか言いようがない状況が続き、生き延びられた理由が今一つ掴めないまま、空を飛んで帰宅した。
信じられないことばかりだが、こうなっては信じるしかない。首の後ろの痛みも、腹部の違和感もあるのだから。
 熱い湯気の混じった空気を吸い込んで、肺を膨らませる。力を抜くように息を吐いてから、全身隈無く洗った。
粘り気のある昆虫の体液は予想以上に強敵で、洗っても洗っても落ちてくれず、シャンプーも大量に消費した。
口の中だけでなく胃の中にも体液が残っていたので、水を大量に飲んでから舌を押さえ、出せる限り吐き出した。
脱衣所で体を拭いてから、繭は替えの下着を身に付けた。その際、裂傷に布が触れたのか鋭い痛みが走った。
だが、我慢した。繭は出そうになった声を飲み込んでから、パジャマを着ると、髪を乾かしてから脱衣所を出た。
 玄関からバスルームには、繭の足跡と彼の足跡が続いていた。どちらの足跡も、虫の体液でぬるついている。
もっとも、ひどいのは繭の方だった。人型カブトムシの体内から出た時に、ろくに体を拭けなかったせいである。
そのため、まるでナメクジが這ったようになっていた。だが、今日はもう気力がないので、明日の朝に掃除しよう。
色々なことが起こりすぎて、疲れ果ててしまった。繭はふうっと大きくため息を吐いてから、リビングに向かった。

「上がったよ」

 リビングに戻った繭は、部屋の真ん中で胡座を掻いている異物を見上げた。

「だから、なんだってんだよ」

 巨体の人型カブトムシは、干涸らびた体液が付着した複眼で繭を見下ろした。

「お風呂、入らなくてもいいのかなって思って。だって、随分汚れているから」

「水は嫌いだ。羽が使い物にならなくなっちまうからな」

「あ、そうだよね。ごめん」

 繭は謝ってから、リビングと対面式のキッチンに入り、冷蔵庫を開けた。

「何か、いる?」

「いらん」

 またもや素っ気なく返され、繭は少し残念に思いながらも、スポーツドリンクを取り出した。

「そう」

 繭は三人掛けのソファーに腰掛けたが、振り返り、壁際に座る人型カブトムシの頭上にある時計を見やった。
壁掛け時計が示す時刻は、午前二時を過ぎていた。電車の音も車の音もほとんど聞こえず、外は静かだった。

「だったら、後で体を拭いてあげる。それなら、いいでしょ?」

「羽と触角は濡らすなよ。濡らしたら叩き潰す」

「うん」

「しかし、面倒なことになっちまったな」

 人型カブトムシは身を乗り出すと、短い触角を繭に近付けた。

「お前の卵は未熟すぎる。俺が犯そうにも、孕むどころか潰れちまう」

「そうなの? でも、どうしてそんなこと…」

 繭が戸惑うと、人型カブトムシは胸部の外骨格を僅かに開き、にゅるりと黄色い神経糸を伸ばした。

「さっき、お前の腹の中にこいつを突っ込んだだろう。それでだ」

「あ…」

 繭はその意味を悟り、青ざめた。

「お前の巣に戻ったらすぐにヤっちまおうと思っていたが、これじゃどうしようもねぇな」

「え…」

「俺が欲しいのはお前じゃない、お前に生み付けられた女王の卵なんだよ」

「それじゃ、私を守ってくれたのは」

「卵を守るために決まってんだろうが。お前なんかじゃなくてな」

「そっか、そうだよね」

 繭は腹部に手を当て、握り締めた。やっと他人から必要とされたのだと思って、久し振りに嬉しくなっていた。
だが、やはりそれは自分自身ではなかった。薄々感じ取ってはいたものの、きっぱりと言われてしまうのは辛い。
自分をこの世に生み出した相手からも必要とされないのだから、人間でない者からも必要とされなくて当然だ。

「お湯、持ってくるね」

 繭は出そうになった涙を堪えて立ち上がると、熱気の残留している浴室に入り、バケツに並々と湯を溜めた。
体液で汚れてしまったタオルを洗濯カゴの中から取り出し、丁寧に濯いでからバケツに入れ、リビングに戻った。
人型カブトムシは興味も持っていないのか、繭を見ようともしなかった。ただ、触覚だけが機械的に反応している。
その様に、やはり彼は昆虫なのだと思った。どれほど流暢に喋ろうとも、人格を持っていようとも、虫は虫なのだ。
だから、繁殖以外で必要とされるわけがない。むしろ、それが自然だ。繭はそう思い直し、バケツを床に置いた。

「そういえば、まだ名乗ってなかったね」

 繭はタオルを絞り、人型カブトムシの半楕円状の背面部を拭き始めた。

「私の名前は、兜森繭」

「カブトモリ、マユ」

「そう、繭。あなたは、なんて言うの?」

「俺か…」

 人型カブトムシはしばらく黙していたが、平坦に返した。

「俺にはそんなものはない。俺を改造した連中からは、ジュウゴゴウ、と呼ばれていたが」

「だったら、私が考えてもいい?」

「なぜだ」

「だって、十五号なんて呼びにくいから」

 繭は人型カブトムシを眺め回してから、提案した。

「カンタロス」

「カンタロス?」

「そう、カンタロス。ギリシャ語でカブトムシって意味の言葉。ちょっと格好良いでしょ?」

「勝手にしやがれ」

 人型カブトムシの投げやりな答えに、繭は口元を綻ばせた。

「うん」

 他人と言葉を交わすのは、久し振りだった。相手は人間ではなかったが、受け答えしてくれるだけで充分だった。
家には自分以外の人間はおらず、クラスでも孤立している繭にとっては、他人と会話する機会そのものが少ない。
だから、無性に嬉しかった。繭は胸中に広がる温かな感情と、その相手との落差に迷いつつも、丁寧に拭いた。
カンタロスと名付けられた人型カブトムシは自分から喋ることもなかったが、繭に抗うこともなく、大人しくしていた。
 それきり、二人が喋ることはなかった。




 ずくん。
 腹の奥で、異物が疼く。
 どくん。
 子宮の中で、命が蠢く。
 ごぶん。
 体の底で、他者が育っていく。
 ぐにゅん。
 透き通る楕円形の卵に包まれた虫と、血管が、神経が、粘膜が、繋がっていく。

 どくん。どくん。どくん。

 次なる女王は、目覚める時を待っている。
 



 腹部の重みのせいで、良く眠れなかった。
 繭は浅い眠りによる倦怠感に苛まれながら、起き上がった。目覚まし時計は、まだ午前六時にもなっていない。
カーテンの隙間から差し込む朝日も弱く、空気もまだ冷たい。繭は背中を丸め、僅かに膨らんだ腹部を押さえた。
妊娠したことなどないが、妊娠したらこんな気分なのかもしれない。だが、自分が孕んでいるのは人の子ではない。
生まれてくるのは、人型昆虫の次なる女王だ。孕んでいるのが人間だったら、少しは気が楽だったかもしれない。
だが、誰も喜んでくれないのは変わりない。幸いなのは、服を着ていれば解らなくなる程度の膨らみだったことだ。

「学校、行かなきゃ」

 繭は、クローゼットの扉に掛けてある制服を見やった。昨夜、眠る前にスペアの制服を引っ張り出してきたのだ。
あまり着込んでいないので、袖もスカートもてかっていない。プリーツも整っており、紺色の生地も色鮮やかだった。
あんなことがあっても、高校には行かなければならない。今の繭には、それ以外に社会と繋がりを持つ術はない。
 ベッドから降りた繭はパジャマを脱ぐと、控えめな乳房にブラジャーを着け、一度パンツを下げて中を確かめた。
裂傷がまだ治りきっていないので、生理中よりは少ないが血液が付いていた。なので、それを脱いで履き替えた。
 クローゼットの隣にあるドレッサーには、憔悴した少女が映った。顔色は最悪で、セミロングの髪は乱れている。
ただでさえ印象の薄い顔立ちからは表情が失われ、生気は全くなかった。これなら、幽霊の方が遙かに元気だ。
身長は低く、体格は細いというより薄べったい。元々肉の薄い方だったが、この二ヶ月で一回り痩せてしまった。
ブラジャーの下には肋骨が浮き上がり、痛々しい。繭は自分を見ないようにしながら、高校の制服を身に付けた。
 自室を出た繭は、両親の寝室のドアを開けた。だが、そこには誰もおらず、外気よりも冷えた空気しかなかった。
カーテンは二ヶ月前から閉めたままで、ベッドはマットレスだけが残り、シーツや掛け布団などは剥がされていた。
母親の使っていたドレッサーには化粧品は一つも並んでおらず、父親の使っていた本棚も空虚な箱に過ぎない。
埃っぽく淀んだ空気には、二人の気配はなかった。一ヶ月前であれば、少しだけなら二人の匂いを感じたのだが。
かつては家族写真の入ったフォトフレームが並んでいた本棚にも、うっすらと埃が積もって、板が白くなっていた。
繭はドアを閉め、肩を落としてため息を吐いた。帰ってこないと解っていても、扉を開けてしまう自分に苛立った。

「死ねばいいのに」

 両親が死んでくれれば、その保険金や資産は全て繭のものになる。そうすれば、当分は生活に困らなくて済む。
二ヶ月も過ぎれば、俗な考えを持つようになってしまう。両親がいない以上、娘の本分を果たす必要がないからだ。
 繭が物心付いた時から、両親の関係は冷めていた。事務的な言葉を交わすだけで、目線も合わせようとしない。
どちらも働いているから擦れ違ってしまうのだ、と思って二人を見ていたのだが、違う理由があることに気付いた。
父親も母親も、外を見ていたのだ。二人共、結婚する前から関係が続いた相手がいたから、繭を見なかったのだ。
世間体を守るためだけに結婚し、これもまた世間体を守るために繭を作り、円満な家庭に見せかける道具だった。
周囲もそれを知っているのか、親戚も繭と距離を置いていた。ただ、哀れむ目を向けてくるだけで何もしなかった。
 自分勝手極まりない両親が別居したのは、繭が高校に入学してすぐのことで、入学祝いの言葉すらもなかった。
どうやら、二人は繭が高校に上がるまでは仮面家族を保つという制約を交わしていたのか、その日限りで消えた。
繭が高校から帰ってくると、母親はいなかった。父親も仕事から帰ってこなかった。荷物も一つ残らず消えていた。
リビングテーブルには両親の名が書かれた必要書類と、生活費が入った封筒だけが置かれ、メモすらなかった。
謝罪はおろか、事情を説明する言葉もなかった。自失したまま書類を読み終えて、やっと事の次第を理解出来た。
高校卒業まではこの家にいさせてやる、生活費も送付する、だが、そこから先は勝手にどこかに行けばいい、と。
 それからしばらく、泣くことも出来なかった。機械的に高校に通い、勉強をし、誰もいない家に帰るだけだった。
馬鹿馬鹿しい現実を心が受け止めることが出来たのは、一人きりの暮らしが始まって二週間が過ぎた頃だった。
二人を憎む余裕が出てきたのは、最近のことだ。それまでは絶望するばかりで、負の感情も湧き上がらなかった。
 けれど、今はそんなことに気を割いている場合ではない。繭は一階に下り、足音を殺してリビングを覗き込んだ。
ドアの隙間からは漆黒の巨体が見えた。繭は深く息を吸い込んで吐いてからドアを開けて、異形に声を掛けた。

「…おはよう、カンタロス」

 壁にもたれて四本の足を組んでいる人型カブトムシは、繭に触角だけを向けた。

「なんだ」

「ううん、それだけ」

 繭はキッチンに入ると、冷蔵庫を開けた。普段は食欲は湧かないのだが、珍しく寝起きから空腹を感じていた。
食パンを二枚トースターに入れ、卵を熱したフライパンに落として焼いたが、これだけではまだ足りない気がする。
戸棚を開けてみるが、大したものはない。この数日間、気力が湧かなくて買い出しに出かけていなかったからだ。
なので、戸棚の奥に入っていた魚の煮付けの缶詰を開けた。パンには合わないが、この際仕方ないと妥協した。
 繭は昨夜の飲み残しのスポーツドリンクと共に妙な取り合わせの朝食を食べ終えたが、まだ落ち着かなかった。
食べても食べても、胃に隙間があるような感覚だ。確かに昨夜は大変なことがあったが、普通なら逆だと思った。
目の前で人が殺されたばかりか、喰われていた。そして、カンタロスが大量の人型バッタを殺した様子も見ている。
どれもこれも残虐で、吐き気がするものばかりだった。だが、今日に限っては食欲の方が勝っていたようだった。
もしくは、神経が麻痺してしまったのだろう。異常事態が起こりすぎたせいで、開き直ってしまったのかもしれない。
 食器やフライパンを片付けた繭は、汚れた廊下を簡単に掃除した後、リビングに戻ってカンタロスを見上げた。
カンタロスは、またもや触角だけを向けてきた。複眼なので、視線を動かさずとも繭の姿を捉えられるからだろう。

「カンタロス」

「なんだ」

 面倒そうに、カンタロスは答えた。繭は、艶やかな光沢を持つ複眼を見つめた。

「私、これから学校に行くの」

「だから、それがなんだってんだよ」

「その間、家で大人しくしていてくれないかな。夕方になれば帰ってくるから」

「なぜだ」

「だって、そりゃ、カンタロスは虫だから。一緒に学校には行けないし、私は…休みたくないし」

「なぜだ」

「だって」

 繭は目線を落とし、スリッパのつま先を見つめた。

「それしか、やることがないから」

「女王は俺のものだ。俺の傍から離れるんじゃねぇ」

「でも…行かなきゃ」

 繭はリビングの壁際に置いておいた通学カバンを肩に掛け、ぎこちない笑みを作った。

「じゃあね、カンタロス。行ってきます。私が帰ってくるまで、大人しくしていてね」

 リビングを出た繭は、急いで玄関に向かった。ローファーを履いて外へ出ると、鍵を閉めて、唇を噛み締めた。
ドアノブから離した手は、震えていた。この事態に心は追い付いてきたが、体の方はまだまだ追い付いていない。
だから、自分で名を付けた人型昆虫に対しても恐怖を抱いている。信用したいと思う反面、気持ち悪いと思った。
繭は門を開けようとして、ぎくりとした。玄関から門に掛けて、昨夜自分が垂れ流した体液が乾いて残っていた。
廊下はまだいいが、ここは外だ。変に思われる。繭は通学カバンを玄関に置くと、庭先からホースを引っ張った。
冷たい水を出し、汚れを落とした。完全には消せないかもしれないが、何もしないでいるよりは余程良いだろう。
 繭は玄関先とレンガの歩道を洗い流しながら、リビングの掃き出し窓を見やり、カーテンの隙間を覗き込んだ。
カンタロスはこちらを見ることもなく、先程と同じ姿勢だった。昨夜は、あれほど凄まじい戦いを行ったというのに。
きっと、彼も彼なりに疲れているのだろう。繭は凶暴な化け物の弱さを垣間見た気分になって、少し気が緩んだ。
 奇妙だが、穏やかな一時だった。





 


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