豪烈甲者カンタロス




第七話 絡んだ必然



 これは訓練ではない。戦いだ。
 人型クモの糸から脱したねねは、ジャケットごと糸を振り払ってから立ち上がったが、僅かに膝が震えていた。
目の前では、ブラックシャインと名乗った赤いマフラーを巻いた人型ゴキブリが、人型クモの群れと交戦している。
 ブラックシャインはカンタロスにもベスパにも劣る体格だが、小柄さを生かした俊敏さで的確に攻撃を行っている。
ゴキブリ特有の素早さで移動し、跳ね上がりながら、人型昆虫の弱点である関節や触角を狙って倒し続けている。
ねねの目から見ても、ブラックシャインは強かった。そして、敵も強い。人型クモは、逃げ遅れた人間を喰っている。
それが、生々しい畏怖を生んだ。ばきばきと容易く骨を噛み砕きながら人間を喰う人型クモに、ねねは後退った。

「クイーン!」

 頭上から、あの声が振ってきた。ねねが見上げると、人型クモを爪で切り捨てながらベスパが接近してきた。

「御無事でしたか、クイーン!」

「あ、ああ、うん」

 ねねはベスパが現れた安堵と同時に、躊躇も感じた。ベスパはねねの前に跪くと、胸部の外骨格を開けた。

「早く、合体を!」

「でも、あたしは」

「どうなさったのですか、クイーン。カンタロスと兜森繭は既に合体を終えています、ですからお早く!」

「…うん」

 ねねは仕方なく頷き、人型クモの糸に汚れた服を脱ぎ捨てて下着姿になると、ベスパの前に背を向けて立った。
ベスパの体内から伸びてきた神経糸がねねの体に絡み、陰部に差し込まれ、頸椎に接続し、神経が繋がり合う。
感覚を共有したねねは、ベスパの冷たい体内に没した。僅かなラグの後、ねねはベスパと化して立ち上がった。
 複眼に映る光景は、凄惨だった。これまでのコンクリートの箱の中の戦いとは、比較するのもおこがましかった。
車が燃え、人が喰われ、虫が死んでいる。見慣れた渋谷の光景が、血と体液の生臭い匂いに塗り潰されていた。
何度も入ったことのある店や、いつも遊び歩いていた通りや、思い入れのある場所が死体に埋め尽くされている。

「あ…あぁ…」

 戦慄したねねが震えると、脳内でベスパが叱責した。

『お気を確かに、クイーン! 私達は戦わねばならないのです!』

「解ってる、けど、こんな…」

『クイーン!』

「うっせぇ黙れウゼェんだよ!」

『カンタロスです!』

 ベスパの注意を促す声が響き、ねねは顔を上げた。真正面から、唸りを上げながら迫ってくる物体があった。
羽ばたいて身を浮かべたベスパの脇に半壊したタクシーが突っ込み、ボンネットを潰しながら入り口に刺さった。
途端に、爆発した。爆風に煽られてベスパが浮遊すると、事故車が残された車道に立つ人型昆虫が目に入った。

「今度は避けないでよね!」

 少女の口調で言葉を発したカンタロスは、気絶した運転手が乗ったままの乗用車を無造作に掴み、持ち上げた。
そして、下両足を踏ん張り、腰を捻って投げ飛ばした。ベスパが避けると、今度は複合商業施設の壁に刺さった。

「あ、惜しい」

 カンタロスは少し悔しげに呟き、また新たな車を掴んだ。背後では再度爆発が起き、運転手の断末魔が轟いた。
ガソリン臭い煙を浴びながら、ベスパは硬直した。あれが、ねねにハンカチを貸してくれた少女の行うことなのか。
気弱そうだが心優しい繭と、カンタロスの行動が結び付かない。だが、今、カンタロスを操っているのは繭なのだ。

『クイーン!』

 ベスパが叫んだのでねねが意識を戻すと、目の前に軽自動車が飛んできた。

「うわあっ!?」

 ベスパが身を翻すと、爪痕の付いた軽自動車は複合商業施設の屋上に落下し、回転しながら炎上した。

「てか何、あの馬鹿力? マジ有り得ないんだけど?」

「カンタロスはカブトムシだから。パワーだったら、誰にも負けないよ」

 カンタロスは投げられそうな車がなくなったので、手近な電柱を折り、引き抜いた。

「だから、あなたなんか簡単に殺せる!」

 大きく振りかぶったカンタロスは、千切れた電線の揺れる電柱を槍のように投擲し、ベスパへと飛ばしてきた。
今までの車よりは軽いが、速かった。ベスパが急浮上して回避すると、カンタロスはアスファルトを砕いて跳ねた。
そして、一瞬動きの鈍ったベスパまで間を詰めた。複眼一杯に漆黒の巨体が映り込んで、羽音が聴覚を叩いた。

「お願い、だからっ!」

 カンタロスは空気を鈍く唸らせながら上両足の太い爪を振り回し、ベスパを追い詰めていく。

「死んで!」

「てかあんたマジおかしいよ! 何なの、キチガイ女もあんたも!」

 敏捷な身体能力のおかげで辛うじて回避したベスパは、複合商業施設の屋上に着地した。

「私は、カンタロスのために生きるって決めたから」

 どぅん、と屋上のコンクリートを砕きながら着地したカンタロスは、雄々しく屹立するツノを上げた。

「だから、私以外の女王がいると凄く困るの。だって、私は女王の卵以外には何の魅力がないから、目移りされたらきっと負けちゃうと思う。だから、私は戦うしかないの!」

 強靱な脚力で巨体を押し出したカンタロスは、砲弾にも似た勢いでベスパに接近した。

「うわマジヤベっ!」

 ベスパは慌てて身を引き、カンタロスの突撃を避けたが、カンタロスは爪で速度を殺しながら着地して直立した。
ベスパは浮上しようとするが、カンタロスはその隙を与えずに近付き、上両足の爪だけでなく下両足で蹴りも放つ。
薫子の言葉通り、ねねはまだベスパに振り回されている。リーチや体重が掴みきれなくて、空振りの回数が多い。
だから、カンタロスの攻撃を避けるだけで精一杯だった。重たいのに素早く、そのくせ間違いなく急所を攻めてくる。
だが、重み故に一回ごとのアクションが大きすぎる。それに気付いたベスパは、カンタロスとの間合いを詰めた。
力一杯上右足を振り抜いたカンタロスが、下がっていた半身から左上足を放とうとした時、ベスパは飛び出した。

「てか、あんたを殺すのはあたしだし!」

 ベスパはカンタロスの左半身が出る前に上右足の爪を振り上げ、顔面を掠った。だが、切れなかった。

「わぁっ!」

 いきなりの反撃に驚いて、カンタロスは仰け反った。ベスパはそれも見逃さずに、速度を生かして攻めていく。
一度懐に入ってしまうと、カンタロスはベスパの攻撃を避け切れなくなって、何度か爪先が外骨格を引っ掻いた。
だが、致命傷には至らない。それを悔しく思いながらも、ベスパは攻撃に転じられたことで楽しくなってきていた。
戦場の凄まじさに圧倒されたのは、最初だけだ。それさえ乗り越えてしまえば、戦闘は派手な娯楽に変化した。
攻めるうちに、カンタロスは屋上の端にまで追いやられた。だが、カンタロスは落下する前に羽を広げて飛んだ。

「あっ、それマジズルいし!」

 毒突いたベスパも浮上し、飛び出した。カンタロスはすぐベスパに追い付かれたが、急上昇して身を反転した。
ベスパが態勢を整えるよりも先に、カンタロスは組んだ上両足の爪をベスパの頭部に叩き込み、打撃を与えた。

「ぐうっ!?」

 感覚器官と脳を直接揺さぶる重たい打撃にベスパは呻き、視界が震えた。そのまま、バランスを崩してしまう。
コンクリートに叩き付けられる寸前で羽ばたき、下両足を付けたが、脳震盪に似たダメージは抜けていなかった。
すると、目の前に黒い下両足が現れた。ベスパが痛む頭を押さえつつ視線を上げると、カンタロスが立っていた。

「まだ、足りないみたいだね」

 カンタロスの上右足の爪が開き、ベスパの首に食い込んだ。関節を繋ぐ膜が圧迫され、神経も圧迫されていく。

「う、ぐぇあっ」

 そのまま容易く持ち上げられ、ベスパの体重を支えているのはカンタロスの爪だけとなった。

「さすがに戦術外骨格は丈夫だね、他の虫達とは違って殴ったぐらいじゃ壊れないもの。でも、だから厄介だな」

 ぎぢりっ、とカンタロスの爪がベスパの首に食い込み、膜を破りに掛かってくる。鋭利な先端が、膜に押し迫る。
僅かな間の後、ぷつりと膜が切れて爪先が侵入してきた。首を落とされる、とベスパが戦慄するとあの声がした。

「そこまでだ、カンタロス、ベスパ!」

 カンタロスはベスパの首を離さずに振り返り、赤いマフラーを靡かせる人型ゴキブリ、ブラックシャインに向いた。

「邪魔をしないで。なんだったら、あなたから先に殺しても良いんだけど?」

「今はそれどころではないと思うがな」

 ブラックシャインは足元に散らばる人型クモの残骸を蹴り飛ばしてから、女王の死体を示した。

「何が言いたいの?」

 ベスパを投げ捨てたカンタロスがブラックシャインを睨むと、ブラックシャインは女王に向き直った。

「まあ、見ていたまえ。すぐに解る」

「んだよ…。まあ、助かったけどさ」

 ベスパは首と胸部を繋ぐ膜に空いた穴を押さえながら、ぶれていた視界を修正し、女王の死体に顔を向けた。
だが、引っ掛かりを感じて、新たに現れた戦士を二度見した。助けられた相手なので失念しかけたが、あれは。

「てか、お前ゴキブリじゃん! つかマジキモいんだけど!」

 反射的に後退ったベスパに、ブラックシャインは堂々と胸を張った。

「ゴキブリではない! 闇の底より現れる、光を放つ正義の戦士、その名もブラックシャインだ!」

「うわまたキチガイだ。てかキチガイ多すぎだし」

 うげぇ、と心底嫌そうに顔を背けたベスパに、カンタロスは同情した。

「うん…その気持ちは解るよ…。ていうか、普通に嫌すぎるよね、喋るゴキブリって…」

 だが、今はブラックシャインについて突っ込んでいる場合ではない。全てを突っ込みたいのは山々なのだが。
カンタロスは一歩引いてベスパとブラックシャインを視界に収めてから、死んだはずの女王の死体を見守った。
一見しただけでは、女王の死体には異変はない。二人が揃ってそう思っていると、死んだはずの女王が動いた。
 きちきちきちきちきち。ぎちぎちぎちぎちぎちぎち。女王の割れた胸部の中から、顎を打ち鳴らす音が漏れた。
吹き飛んだ際に粉々に砕けた腹部の根本から、何かが生まれた。青い体液に濡れた生物が、ずるりと現れた。
八本の足。八つの複眼。丸い頭部。丸い腹部。人型クモには違いないが、他の個体とは大きく違った点がある。

「…マジでかいんだけど」

 ベスパは戸惑いがちに顎を鳴らしながら、女王の胸部の中から這い出して直立した人型クモの姿を見上げた。
単純計算でも、四メートル近くはある。そして、色が違う。他の人型クモは赤茶色だが、巨大な人型クモは白だ。

「次世代の女王さ、女王様方」

 ブラックシャインは、耳障りな咆哮を吐き出す人型クモの女王を仰ぎ見た。

「君達も知っての通り、女王の卵は女王一体に付き一つしか作られない。そして、その女王の卵から生まれるのも、また女王なんだ。優れた遺伝子をより優れたものとするために、強者と交わり、繁栄するために、彼女達は母親である女王よりも強く生まれてくる。あの人型クモの女王が二本足で立っているのも、そのためだ。少なくとも、俺一人の力では倒せない。そして、君達一人ずつの力では倒せない。つまり、だ」

「協力しろって言いたいの?」

 カンタロスが呟くと、ブラックシャインは上右足の親指に当たる爪を立ててみせた。

「その通り。ああ、ゴネる時間はないぞ。相手が覚醒しきらないうちに倒さなければ、勝ち目はないからな」

「んだよそれ、マジダルいし」

 ベスパが吐き捨てると、カンタロスは少しの間の後、了承した。

「解った。だけど、今だけだからね」

「これぞ正義だ。では、俺から行こう! カンタロスは地上、ベスパは上空だ!」

 ブラックシャインは真っ先に駆け出し、人型クモの女王に向かった。

「確かにそれが一番良さそうだね。じゃ、私も行くから。あなたを殺すのは、あれを倒した後にしてあげる」

 カンタロスもまた、飛び出した。

「ああもう、マジめんどいんだけど! つかあたしに指図すんな!」

 一人残されたベスパは、嫌々ながら羽ばたいた。この状況では、二人に付き合わないわけにはいかないだろう。
ブラックシャインは飛ぶことはないが、とにかく素早かった。どれだけ足場が悪くても、確実に蹴って跳んでいった。
それを追うカンタロスは、人型クモの女王が吐き付ける毒混じりの粘液の固まりを回避しながら、雑魚を叩いた。
最後尾のベスパは人型クモの女王の頭上を抜け、視線を奪う。それを逃さずに、ブラックシャインは駆け上った。

「とおっ!」

 ブラックシャインは人型クモの女王の胸部に強烈な蹴りを叩き込んでよろけさせると、カンタロスに向いた。

「今だ、カンタロス! こいつの足元を掬え!」

「うりゃあああああっ!」

 人型クモの女王の下右足を抱えたカンタロスは、上両足と中両足の爪を突き立てると、渾身の力で持ち上げた。
だが、女王は尋常な重さではなかった。これまで吹き飛ばしてきた車の数台分か、それ以上はありそうな重量だ。
倒すどころか、逆に倒されそうになる。カンタロスが思い切り踏ん張っていると、上空からベスパが落下してきた。
 ベスパは人型クモの女王の視界に飛び込むと、毒混じりの粘液を吐き付けられる前にその額に蹴りを落とした。
大きく仰け反っていく人型クモの女王に、ブラックシャインが再度胸部に攻撃を加えると、完全にバランスを崩した。
そして、カンタロスが浮上して下右足を押し上げると、転倒した。ベスパは急降下し、女王の頭部に狙いを定めた。

「マジ死ね化け物!」

 ベスパは腹部の先端から毒針を押し出し、落下の勢いを用いて人型クモの女王の頭部に突き立てた。

「よし、いいぞ!」

 地上に降りたブラックシャインは、満足げに頷いた。毒液を流し込むに連れ、人型クモの女王に異変が起きた。
頭部を貫かれた痛みでぎいぎいと喚いていたが、その声が次第に鈍くなり、びくんびくんと八本足を痙攣させた。
ベスパは体液に濡れた毒針を引き抜いて体内に戻し、人型クモの女王の頭部から離れると、一際大きく痙攣した。
醜悪な断末魔を撒き散らして、人型クモの女王は悶え苦しんでいたが、スズメバチの猛烈な毒に負けて死んだ。

「最後に勝つのは正義の力だ!」

 ブラックシャインは誇らしげに笑みを零していたが、腹部を膨らませて呼吸を荒げるカンタロスに向いた。

「君達は早く引き上げた方が良い。この後にベスパと交戦するのは、パワーファイターである君達には辛かろう」

「…それもそうだね。でも、あなたの言うことを聞いたわけじゃなくて、カンタロスのためだから」

 カンタロスは、分厚い外羽を広げて琥珀色の薄い羽を出した。

「えっ、てか、それじゃあたしの任務は! つか、逃げられたらマジ台無しだし!」

 ベスパが慌てると、ブラックシャインはベスパを制し、爪を一本立てて左右に振った。

「彼女達を殺すのは、俺達が成すべき正義を果たした後だ」

「は? てか、マジ意味不明なんだけど」

 ベスパはブラックシャインを突き飛ばして、飛び立とうとしたが、カンタロスの姿は渋谷上空に飛び去っていた。
逃げ出す前に繭が買い込んだ服を回収してきたらしく、漆黒の爪には不似合いな買い物袋が複数下がっていた。

「ああもうっ! てか、あんた何、マジウザ過ぎんだけど!」

 ベスパが更に文句をぶつけようと振り向いた時には、ブラックシャインの姿も消失し、足音すら聞こえなかった。
んだよ、とベスパが顎を鳴らすと、首の膜の穴から体液が一筋零れた。間の悪いことに、追尾する余力はない。
カンタロスとの初めての戦闘は、ベスパだけでなくねねにも負担が掛かり、気を抜いたら倒れてしまいそうだった。
人型昆虫の気配も消えていることを確かめてから、胸部の外骨格を開いて、ねねは神経糸を抜いて身を出した。

「大丈夫ですか、クイーン」

 ベスパは中両足の爪ではなく関節でねねの体を受け止め、膝を曲げた。

「全然…」

 体液と唾液を吐き捨てたねねは、言い返す気力もなく、だらりとベスパの足に体を預けた。

「てか、マジ疲れたんだけど…」

「初めての戦闘でしたからね。ですが、御立派な戦いぶりでした。クイーンのお力がなければ、私は今頃、カンタロスの爪によって細切れにされていたことでしょう」

「つかそうなれ」

「ああ、なんという無慈悲な御言葉! ですがそれがたまらなく良い!」

「本気で死ね」

「もっと、もっと罵って下さい!」

「あーもう、もっと疲れる…」

 ねねはだらりと頭を反らし、ベスパを見上げた。ベスパの頭頂部には、カンタロスの打撃による傷が付いていた。
何の気なしにその傷に手を伸ばすと、ベスパは意図を違えて察したらしく、細長い舌を出してねねの腕に絡めた。
ベスパの冷たい体液に濡れた肌を舌でなぞられ、くすぐったくなったねねが頬を緩めると、ベスパは背を曲げた。
だが、抗うだけの力はなく、唇を閉じるのも億劫だったため、ベスパの舌はにゅるりとねねの口中へと滑り込んだ。
人間の舌より遙かに冷たい舌が口中をまさぐるが、ねねを苦しめない程度に力を抜いて緩やかに動かしていた。
ねねが少しでも苦しがると舌を下げてくれ、口元を緩めると柔らかく押し込んで、丹念に唾液を絡め取っていた。
ベスパはようやく味わえた女王の体液を存分に味わってから、ねねの口中から舌を抜いて顎の中に引き戻した。
 表情が見えないはずなのに、彼は満足げに見えた。ねねは暴力的な睡魔に意識を引き摺られながら、思った。
あんなに優しくキスをされたのは、初めてだ。これでベスパが人間だったら、少しは心が動いていたかもしれない。
 けれど、ベスパは虫だ。それだけで、全てが台無しになる。




 妙な一日の終わりは、やはり妙だった。
 カンタロスの目の前には、今日の買い物で手に入れた真新しい服を着込んだ繭がもじもじしながら立っていた。
リビングのソファーには繭が買い込んだ服がいくつも載せられていて、主に着られるのを今か今かと待っている。
カラフルな配色のTシャツやフリルの付いたスカート、ボーイッシュなハーフパンツ、少し大人びたワンピースなど。
繭はそれを次々に着ては、カンタロスの前に立っている。何がしたいのか全く解らず、カンタロスは固まっていた。

「ちょっと冒険しすぎたかなぁ」

 繭は照れながら、襟刳りの広いシフォンのブラウスと丈の短いプリーツスカートを抓んだ。

「お前、何がしたいんだよ」

 カンタロスが首を捻ると、繭は俯いた。

「だって、せっかく買ってきたんだし、見せたいんだもん…」

「なんで俺なんだよ」

「他に誰かいると思う?」

「そりゃあ、そうだが」

「カンタロスは、どういうのが好き?」

「好きも何も、意味が解らん」

「あ、うん、ごめん。そうだよね、カンタロスだもんね…」

 繭は苦笑し、顔を逸らした。そして、背を向けてしまった。

「また、新しい女王の子が出てきたね」

「だが、あの女王は人間共が造った女王だ。お前とも、この前のキリコとかいう女王とも匂いが違う」

「そうみたいだね。でも、女王は女王なんだよね」

「一応な。あのスズメバチが従っていたところを見ると、女王の卵が機能を果たしているのは間違いねぇ」

「だから、さ、カンタロス」

 繭は体の前で組んだ手を、きつく握り締めた。

「私、もっと頑張るから。強くなるから。だから、私のことだけ、見ていてくれないかな」

「馬鹿言うんじゃねぇ」

 カンタロスは繭の背後に身を寄せ、上右足の爪で繭の顎を持ち上げた。

「お前は俺の女王だ。俺が選んだ、俺だけの女王なんだ。女王のくせして、下らねぇこと考えてんじゃねぇよ」

「…うん」

 繭は一歩下がり、カンタロスの胸部に寄り掛かった。カンタロスは繭を引き離そうと思ったが、出来なかった。
顎を持ち上げていた爪を下げると、繭はカンタロスの上右足に細い腕を絡め、気恥ずかしげな顔で頬を寄せた。
鬱陶しかったが、なぜか振り払うのが惜しかった。繭の髪の隙間から、体温で温まったリンスの匂いが零れる。
体液を洗い流したばかりの繭の体からは、女王の匂いが少し失せ、繭の持つ繭本来の匂いが濃く感じられた。
それが、あの手応えのない感情を呼び起こしてきた。カンタロスは繭の体温を感じながら、違和感に襲われた。
もう一つの脳が作り出す疑似感情を感じても、何の意味もない。だが、意志に反して疑似感情は質量を増した。
本来の脳をも浸食していく生温い感情に抗う術を見つけられないまま、カンタロスは複眼に映る無数の繭を見た。
 疑似感情が、熱を帯びたような気がした。





 


09 2/21