夜が明ける。彼女が嫌いな朝が訪れる。 ぐじゅる、と口中に残った血液と内臓の切れ端を啜り上げたセールヴォランは、白みつつある空を見上げた。 これで、何度目の朝を迎えたのだろう。足元に転がる人間の死体の頭部を囓り、頭蓋骨を噛み砕いて脳を啜る。 髄液と血液の混じる脳漿を飲み干して、空になった頭蓋骨を捨てた。眼球は、あまり味がしないので喰わない。 髪の毛の貼り付いた頭皮を吐き捨て、爪で顎に付いた体液を拭う。今夜だけでも、十人以上は喰っただろうか。 肝試し目的で樹海に近付いた乗用車を見つけては襲い掛かり、若い男女のグループを手当たり次第に喰った。 だが、飢えが収まらない。桐子が満足していないからだ。桐子がセールヴォランの体を借りて喰っているからだ。 「桐子…」 セールヴォランは人間の血肉を詰め込んで重たくなった胃袋を気にしつつ、薄暗い森の中を歩いた。 「桐子…」 桐子が傍にいるから、セールヴォランは幸福だ。幸福すぎて息苦しくなるほど、満ち足りた日々が続いている。 だが、懸念がある。だから、幸福に浸りきれない。セールヴォランは木々の隙間から差し込む朝日を、見上げた。 この幸せはいつまでも続かないのだと、死ぬまで戦いからは逃れられないのだ、と心のどこかで理解している。 幸せすぎるから不安になるのだ、と思って振り払おうとしても、触角が、神経が、感覚が、ざらりと心中をなぞる。 全身が、何かを感じている。具体的に何なのかは解らないが、何かがセールヴォランの幸福を掻き乱している。 異形の気配を感じ取り、枝を揺らして鳥が飛び立った。林の傍に走る道路に出たが、車が通る気配はなかった。 桐子と共に旅立って空を飛ぶうちに引き寄せられるように辿り着いた森の目の前には、青い山がそびえている。 夏が訪れたために冠雪が溶けた富士山は鮮烈な朝日を浴びながら、無数の死者が眠る樹海を見下ろしている。 セールヴォラン。 「桐子」 内側に響いた愛おしい女王の声に、セールヴォランは立ち止まった。 あなたは何を怖がっているの? 「解らない。僕は今、とても幸せだ。だって、桐子が僕の傍にいるから」 セールヴォランは胸部を押さえ、その内側に収めている桐子の頭部に接続した神経糸に意識を送った。 ふふふふ、私もとても幸せよ。だから、何も怖がることなんてないわ。 「うん。僕もそう思う。けれど、そう思い切れない。だから、僕は困っている」 どうしてなの、セールヴォラン? 「僕にもよく解らない。なんて、言えばいいんだろう」 セールヴォランは微妙な感覚を上手く言葉で言い表せない自分が歯痒く、がちがちがちと顎を打ち鳴らした。 何かを感じている。だが、その何かが解らない。セールヴォランは頭を抱えて座り込み、必死に頭を動かした。 内側では、桐子がセールヴォランの思考を感じ取っている。言葉に出来ない思いを、捉えようとしているのだ。 だが、思いすらまとまりを持たない。セールヴォランは悔しさと情けなさに苛まれて呻きながら、頭を横に振った。 「う、ううう…」 セールヴォラン。大丈夫よ、落ち着いて。私が傍にいるわ。 「…うん」 あなたは何を感じたの? それを、私に伝えてちょうだい。そうすれば、解るかもしれないわ。 「解った」 セールヴォランは体内で神経糸を動かし、桐子の首の切断面に押し込んで、接続している神経糸を増やした。 セールヴォランの体液とセールヴォランの体組織を与えたことで、桐子の頭部はセールヴォランの一部と化した。 普通の人間であれば人型昆虫の体液に拒絶反応を起こすだろうが、桐子は五年以上も女王の卵を孕んでいた。 そのため、桐子の体質も大きく変化しており、セールヴォランの体液が失われた血液の代用として充分機能した。 千切れた血管や神経もセールヴォランが神経糸の先端を使って修復し、セールヴォランのそれと繋ぎ合わせた。 当初は希薄だった桐子の意識も力を得て、近頃では以前のように二人は意識を切り替えられるようになっていた。 桐子の脳に、セールヴォランは感じたものの全てを流し込んだ。掴み所のない、朧気な感覚を凝縮させながら。 思考を始めた桐子の意識が強くなるに連れ、セールヴォランは己の意識を引き下げていき、桐子に身を委ねた。 「何かしら、これ。私の卵の匂いだわ」 セールヴォランの発声器官を借りて声を発した桐子は、爪先で顎をなぞった。 「でも、確かに妙ね。私がここにいるのに、私の匂いがするなんて。どういうことかしら」 『僕には解らない。だから、僕は凄く困っている』 「放っておいたら、良くないことになるような気がするわ。とりあえず、東京に戻りましょう」 『桐子がそれを望むのなら、僕も望む』 桐子の脳内に、セールヴォランの声が返ってきた。セールヴォランと化した桐子は、琥珀色の羽を広げた。 「でも、その前にもう少し食べていきましょう。ここから東京まで飛ぶのは大変なのよね」 『うん。僕も、もう少し食べたい』 「さあ、行きましょう」 セールヴォランはアスファルトを蹴って、浮上した。しばらく羽ばたいて体を支えてから加速し、高度を上げた。 上昇すると日差しを遮っていた木々が失せ、外骨格を焼く熱が一気に増して、セールヴォランは触角を下げた。 日光を浴びすぎて体温が上昇しすぎると体液が茹だるだけでなく、桐子の脳にも悪影響が出る可能性がある。 六本木での戦闘の後、セールヴォランは桐子の頭部と彷徨い、いつのまにか青木ヶ原樹海に辿り着いていた。 だから、ここに至るまでのルートは今一つ覚えていないが、国道の看板を辿っていけば東京へと戻れるはずだ。 六本木でカンタロスに敗北し、事実上死亡した桐子とセールヴォランが研究所から別離して一ヶ月以上過ぎた。 その間、何もないのが不気味だった。常識的に考えれば、桐子とセールヴォランを追跡し、捕獲してくるはずだ。 だが、追跡してくる様子はなく、気配すらない。女王の卵を失った少女と、暴走した兵器には価値がないからか。 だとしても、静かすぎる。セールヴォランは二つの意識を同調させて炎天下の空を飛びながら、東京を目指した。 休息を取るたびに、人と虫の死体の山を作りながら。 灼熱の日光は、漆黒の甲虫には辛すぎる。 二枚のカーテンを隔てても熱を損なわない日光に辟易して、カンタロスはリビングの片隅で胡座を掻いていた。 頭上ではエアコンが唸りを上げ、冷風を吐き出しているが、カンタロスの体内に籠もった熱は抜けきらなかった。 近頃では、夜になっても気温が高いので厄介極まりない。人型昆虫は変温動物だが、基本的に体温は低めだ。 ある程度なら体温が上下しても堪えられるが、上昇しすぎると煮えてしまい、低下しすぎると冬眠に陥ってしまう。 こんな時は、恒温動物である人間が羨ましくなる。汗を掻いて体温調節を行う分、肉体への負担が少ないからだ。 「あー、くそ…」 背を預けている壁越しにも感じる夏の熱気に苛立ち、カンタロスは毒突いた。 「なんで夏になっちまったんだよ、鬱陶しいったらありゃしねぇ」 「でも、カブトムシは夏の虫でしょ?」 ソファーに座って洗濯物を畳んでいる繭は、怪訝な顔をした。 「だから、暑いのは平気なんじゃないの?」 「俺らは羽化する時期が夏場だってだけで、別に暑さが得意ってわけじゃねぇんだぞ」 「え、そうなの?」 「そうなんだよ」 カンタロスは壁から背を外し、熱気の滾る外界から僅かばかりの距離を取った。 「俺らの外骨格は基本的に黒だから、日差しの下に出るとすぐに熱を吸収しちまうから、夜行性なんだよ。俺ら人型昆虫に限らず、虫ってのはお前ら哺乳類ほど気温変動に対する適応能力が高くねぇから、体に籠もった熱を出せなくて煮え死んじまうんだ。逆に、低い方だったら結構平気なんだ。やろうと思えば、冬眠出来るしな」 「へえ…」 繭はカンタロスの話を聞き終え、頬を緩めた。 「カンタロスがこんなに長く喋ってくれたのって、初めてかも」 「なんで笑うんだ」 カンタロスが少しむっとすると、繭はソファーの背もたれに寄り掛かって身を乗り出してきた。 「だって、カンタロスって自分から話してくれないじゃない。だから、嬉しくなっちゃった」 「下らねぇことで喜ぶな」 「いいじゃない、私はそう思ったんだから」 繭は洗濯物を畳み終えてから、カンタロスに向き直った。 「ね、カンタロス」 「今度はなんだ」 「そっちに行ってもいい?」 「あん?」 カンタロスが訝ると、繭は照れ笑いした。 「だって、エアコン付けてても暑いんだもん。カンタロスにくっつけば、もうちょっと涼しくなるかなぁって」 「何を言い出すかと思えば、しょうもねぇ」 「だって、カンタロスって中も外もひんやりしてるんだもん。だから、気持ちいいかなぁって思って」 「俺はお前の体温で煮え死ぬのはごめんだ、傍に寄るな」 「えー。冷たいなぁ」 「女王のくせに調子に乗りやがって、はらわた引き摺り出すぞ」 「また神経噛んじゃうよ」 「それは俺が出さなきゃ噛めねぇだろうが。だが、俺は違う。俺の爪はお前の腹をすぐに引き裂けるんだよ」 カンタロスは上右足を伸ばし、鋭利な三本の爪を繭の目の前に突き付けたが、繭は動じなかった。 「うん、解ってる」 少し前までなら、爪を突き付ければ繭の表情には怯えと畏怖が滲み出ただろう。だが、繭の態度は変わらない。 その反応の薄さに困り、カンタロスは仕方なく爪を下げた。日に日に、繭を力で制することが出来なくなっていた。 それどころか、馴れ馴れしくしてくる。カンタロスが繭との日々に慣れたように、繭もカンタロスに慣れてきたからだ。 繭に対する乱暴な脅し文句も暴力的な態度もぞんざいな扱いも続いているのだが、肝心の繭に耐性が生まれた。 カンタロスがいくら高圧的に接しても、繭が女王である以上、致命的なダメージを与えないことを理解したからだ。 故に、爪を振り上げようが神経糸を通じて痛みを流し込もうが罵倒しようが、繭は動じるどころか落ち着いている。 それが、やりにくいことこの上ない。暴力で支配出来ていた相手を支配出来なくなると、歯痒くてたまらなかった。 「下らねぇ知恵を付けやがって」 所在のなくなった上両足を組んだカンタロスが吐き捨てると、繭は笑った。 「他には何か言うことある?」 「腐るほどな。だが、これ以上喋るつもりはねぇ。お前の相手をするだけで疲れるんだよ」 「偏屈なんだから」 繭は洗濯物を抱えると、ソファーから降りた。 「私はカンタロスともっともっと喋りたいのになぁ」 ぶつぶつ文句を零しながら二階に昇る繭を見送り、カンタロスは安堵した。あまり近くにいられるとやりにくい。 暴力で支配出来なくなったことで、繭の扱いが解らなくなったが、それを感じさせないために態度を変えなかった。 神経糸の時と同様、こちらの弱みを出すわけにはいかない。あれでいて、繭は強かな一面も備えている少女だ。 そこにつけ込まれて、今度は何をされるか解らない。下手をすれば、二人の立場が逆転してしまう可能性もある。 懸念は多いが、一番の懸念はそれだ。自分が繭に支配されるようになってしまったら、最低だ。劣悪だ。地獄だ。 「俺は最強だ」 カンタロスは萎れかけた自尊心を奮い立たせるため、自分に言い聞かせた。 「女王を支配するのは、この俺なんだ」 二階から足音が降りてくると、繭はまたリビングに顔を出した。 「ね、カンタロス」 「だからなんだってんだよ」 カンタロスは思い切りドスを利かせたが、繭は笑みを崩さなかった。 「これから買い出しに行くんだけど、何か食べたいものある?」 「ハンバーグ」 「うん、解った。じゃ、今日もでっかいのを作ってあげるね」 余所行きの服の繭が玄関に向かうのを見送りながら、カンタロスは反射的に即答してしまった己に気付いた。 だが、繭はカンタロスに引き留められるよりも早く、灼熱の日差しの下に出て、自転車に乗って行ってしまった。 カンタロスは中腰になったが、またもや所在をなくして座り直した。考えないようにしていたが、これは絶対に。 「俺…飼い慣らされちまってる…」 これでは、セールヴォランやベスパと同じことではないか。ああはなりたくない、と常々思っていたはずなのに。 どこから間違えた。何を間違えた。二つの脳を動かして必死に考えたが、やはりハンバーグを食べたせいだろう。 あれさえ食べなければ、ハンバーグの味を覚えなかった。人間と人型昆虫の血肉の味しか知らなかったはずだ。 だが、食べてしまった。血生臭い筋肉や骨とは違った味は人型昆虫の味覚にも好ましく、今では旨いとすら思う。 だから、すっかり繭手製のハンバーグを食べることがクセになってしまった。王たる人型昆虫にあるまじき失態だ。 「俺は強い、俺は最強だ、俺は人型昆虫の王だ!」 カンタロスは抗いがたい事実を振り払うために立ち上がったが、勢いが余ってしまった。 「うおっ!?」 ばずん、との頭応えの後、細かな破片が落ちてきた。視点を上に向けると、ツノが天井に深く突き刺さっていた。 引き抜こうと首を引くが、二股に分かれた先端が構造材の隙間に入ってしまったらしく、抜けるどころか侵攻した。 しばらくの間、首を動かしたり、上両足で天井を押しやってみたりしたが、最大の武器であるツノは抜けなかった。 暴れ回って天井ごと部屋を破壊しよう、との考えが頭の隅を掠めたが、巣を壊すわけにはいかないと思い直した。 雨露や日差しや気温変動を凌げ、身を隠せる場所は欠かせない。だから、繭のためではなく自分のためなのだ。 それから数十分後、大量の食料品の買い出しを終えて帰宅した繭に発見されたカンタロスは、繭に笑われた。 カンタロスの醜態を見た繭は笑うまいと多少堪えたのだが、すぐに我慢出来なくなったらしく、噴き出してしまった。 その間、カンタロスは妙な感情に襲われて動けなかった。それが羞恥心であると知ったのは、もう少し先のことだ。 涙が出るほど笑って気が済んだ繭は、物置から脚立とノコギリを運んでくるとツノの刺さった穴を広げてくれた。 だが、所詮は大工仕事などしたことのない繭の仕事なので、天井の穴はいびつで断熱材を切り裂いてしまった。 ようやく自由を取り戻したカンタロスは、笑われた分を取り返すためと自尊心を癒すため、繭を襲うことにした。 夕食の支度に取り掛かろうとした繭を取り押さえ、汗の味が混じる体液といつもより温度の高い唾液を摂取した。 押し倒された繭はカンタロスを引き剥がそうとしたが勝てるわけもなく、いつものようにカンタロスが勝利を収めた。 女王を制した征服感と女王の体液を存分に味わった満足感に満たされたカンタロスは舌を収め、繭から離れた。 すっかり服が乱れてしまった繭は、泣き顔と怒り顔を混ぜたような顔をしていたが、服を直して夕食を作り始めた。 カンタロスもまたリビングの端に戻り、座った。繭は時折カンタロスを見やったが、視線が合う前に顔を逸らした。 繭の唾液が絡んだ舌を口中で遊ばせながら、カンタロスは、これこそ俺だ、と己の立場を守れたことに安堵した。 王たる者は、こうでなければ。 09 2/23 |