豪烈甲者カンタロス




第九話 交わった運命



 起こるはずのない出来事ばかりだった。
 薫子はガラスの破片で派手に切れた額をハンカチで押さえ、止血しながら、渋谷駅前の戦況を見下ろしていた。
ヘラクレスは複合商業施設に頭から突き刺さり、動いていない。まさか、カンタロスにあれほどの力があったとは。
試作十五号として育成されていた段階では、ごく平均値の個体だった。幼虫の頃の体格も、平均的なものだった。
だから、羽化しても平均的な力しか持たないだろうと予測されたからこそ、戦術外骨格になるための改造を施した。
 戦術外骨格に求められるのは、安定した戦力だ。量産化することも視野に入れて開発してきた兵器だからだ。
セールヴォランもベスパも、万が一の場合では人間が制圧出来る程度の力しかなく、持たせていないはずだった。
それはカンタロスも同じなのに、なぜヘラクレスを投げ飛ばせる。ヘラクレスの重量は、カンタロスの三倍はある。
これでは、まずベスパでは制圧出来ないだろう。ヘラクレスも、カンタロスも、未熟なねねとベスパでは倒せない。
 だが、それ以前に、なぜヘラクレスは自我を得た。自意識を司る部分の脳は切除し、電子頭脳に置き換えた。
遠隔操作を行い、命令を下さなければ行動を行わないように設定し、そういった投薬も施してあったはずなのに。
ねねの放つフェロモンに釣られて女王と繭とカンタロスが現れたことは計算のうちだが、そこから先は計算外だ。
 どうすればいい。どう動けば事態を打開出来る。薫子は懸命に頭を動かすと同時に、嘔吐感を押し殺していた。
ヘラクレスが投げてきた瓦礫が衝突し、薫子を始めとした研究員達が潜んでいた雑居ビルのフロアは破壊された。
ガラスは全て砕け散り、窓枠や壁も貫かれ、コンクリートの硬い破片や剥き出しの鉄骨が大量に降り注いできた。
それらが研究員達に襲い掛かり、ほとんどの人間が死んだ。息の残っている者も二三はいるが、皆、致命傷だ。

「とりあえず、連絡しなきゃ」

 薫子は血をたっぷり吸い取ったハンカチを捨て、携帯電話を取り出し、自分の血に汚れた指でボタンを押した。

「どこに何を連絡するつもりかな」

 いきなり、男の声が響いた。薫子が反射的に脇のホルスターに手を差し込むと、割れた壁に影が降り立った。
人型ホタルの放つ緑色の光を背負い、長い触角と黒光りする外骨格を持った奇妙なシルエットが立ち上がった。
その首に結ばれた真紅のマフラーが、ゆらりと靡く。それは、子供の頃に見た特撮番組のヒーローを思わせた。

「あなた、何?」

 薫子が訝ると、赤いマフラーを付けた人型昆虫は、瓦礫を踏み締めて近付いてきた。

「通りすがりの正義の味方さ」

「え…?」

 言葉の意味を理解出来ず、薫子はぽかんとした。人型昆虫は分厚い外骨格に覆われた胸を張り、名乗る。

「世界が滅びに向かう時、闇の底より現れる、光を放つ正義の戦士! その名もブラックシャイン!」

「聞いたことないんだけど」

「当たり前だ。俺の存在は極秘中の極秘だからな、戦術外骨格など比較にならない」

 ブラックシャインと名乗った人型昆虫が、かちん、と爪を弾くと、白衣を着た死体の一つが動いた。

「起きろ、城岡」

「城岡君? でも、彼は、さっきの攻撃で死んだはずじゃ…」

 困惑する薫子の目の前で、ガラスの破片が付着した窓枠に頭部を砕かれた城岡が妙な動きで立ち上がった。
見るからに、姿勢がおかしい。両腕はだらりと垂れ、両足は引き摺るように足の甲が付いているのに立っている。
まるで、胴体からもう一対の足が生えているかのようだ。ずりずりと足を引き摺りながら、城岡は近付いてきた。
淡い光の中に現れた城岡の姿を見た途端、薫子は息を呑んだ。城岡の両脇腹からは、茶色の足が生えていた。
ブラックシャインが両脇腹に生やしている足よりも少し長いが、色も形も同じだ。薫子は身動ぎ、後退ってしまった。

「どうだ、面白い仕掛けだろう?」

 ブラックシャインは足音を立てずに薫子の背後に付き、言った。

「俺は人の体を捨てて虫の力を得るための改造を受けた際に、ある力を手に入れた。それは、虫の王となる力だ。もっとも、俺が放つフェロモンの関係で俺が支配出来る人型昆虫の種族は同族の人型ゴキブリに限られているが、充分使える力さ。城岡には俺の支配を受けた人型ゴキブリを飲ませ、腹の中で育てさせ、そいつに城岡の脳を喰わせて肉体を乗っ取ったのさ。その間、城岡は俺が操っていたんだ。文明の利器である無線を使ってな。ヘラクレスも同じ方法で操らせてもらった。君達が脳を切除してくれていたおかげで、喰わせる手間が省けたよ」

 ぎちぎちぎち、と腹の中から虫の音を漏らしていた城岡は、両腕と両足を突き破って上両足と下両足を出した。
折れた首がぐらりと傾いて、肩と胸を破って丸い頭部が現れ、血と体液にまみれた触角がずるりと引き出された。
それは、紛うことなき人型ゴキブリだった。ブラックシャインのそれに似ているが意志の希薄な複眼が、光を宿す。

「何、気に病むことはない。よくある話でね、城岡は強盗殺人事件を起こした凶悪犯なんだが、妙な弁護士が付いたせいで死刑を免れてしまったんだ。それを俺達が引き取り、改造し、罪を償わせる意味で人間としての尊厳を奪ってやったのさ。どうだ、素晴らしい正義だろう?」

 得意げなブラックシャインに、薫子は喚いた。

「それのどこが正義なのよ!」

「君にだけは言われたくないな、水橋薫子」

 ブラックシャインは薫子の胸倉を掴み、高く掲げた。

「お前達が行った生体実験で、どれだけの人間が犠牲になってきたと思っている!」

「仕方なかったのよ、そうしなきゃもっと人間が死ぬからよ! 私達は有意義なことをしてきたのよ!」

 薫子が悲痛な声で叫ぶと、ブラックシャインは細長い触角の片方を立てた。

「有意義、だと?」

「そうよ! 私達が戦術外骨格で人型昆虫を食い止めていなければ、東京は致命的な損失を受け、この国は傾いていたわ! 私達は国を守ってきたのよ! 私達こそが正義と呼ばれる立場にあるのよ!」

「そうやって、お前は櫻子を誑かしたのか」

「どうして、今、あの子の名前が出てくるの…?」

 なぜ、この人型昆虫がその名を。薫子が目を剥くと、ブラックシャインは薫子をひび割れた壁へと叩き付けた。

「お前さえいなければ、誰も死ななくて済んだんだ!」

「うげあっ!?」

 物凄い力で投げられた薫子は、背中から壁に激突し、露出した鉄骨にスーツごと皮膚を引き裂かれた。

「お前さえ、櫻子の姉でなかったら!」

 ブラックシャインは背中を押さえて呻く薫子に近寄ると、細い腕を捻り、高く持ち上げた。

「櫻子は百香を裏切らなかった! 百香は死ななかった! 櫻子は俺達を利用せずに済んだ!」

「ももかって、まさか…あんたは…」

 痛みに顔を歪めながら薫子が呟くと、ブラックシャインはきちきちと顎を擦り合わせた。

「光栄だな、俺のことを知っていてくれたのか」

「…あんたさえいなきゃ、櫻子はずっと私のものだったのに!」

 薫子は憎悪を剥き出しにし、ブラックシャインを睨んだ。

「あんたが死ねば良かったのよ、黒田輝之!」

「俺は死ねない。お前を殺すまでは」

 ブラックシャインは薫子の腕をぐきっと曲げ、肩の関節を折った。

「あげぐああああっ!」

 新たな痛みに薫子は絶叫し、身を捩る。

「俺達は幸せだった。俺も、百香も、櫻子も、三人でずっと一緒に生きていけると思っていた」

 ブラックシャインは激痛に喘ぐ薫子を、復讐心の滾る視線で射竦めた。

「それなのに、お前が俺達の全てを壊した! だから俺は改造を受け、蘇った! お前を殺し、虫を滅ぼすために、ブラックシャインとしてな!」

「いけないのはあんたよ、あんたが私の櫻子を穢したから、だからあの子は死んだのよ!」

 ぶらぶらと垂れる肩を押さえながら薫子が喚くが、ブラックシャインは爪を振り下ろし、折れた方の肩を切断した。

「穢らわしいのはどっちだよ!」

「いぎゃあああああっ!」

 折れた右肩を切り落とされた薫子は、濁った悲鳴を撒き散らしながら転がった。

「そいつは適当に喰っておけ。但し、欠片も残すなよ」

 ブラックシャインが命じると、城岡の肉体を破って出現した人型ゴキブリは、きちきちと鳴いて指示通りに動いた。
右肩の切断面から血を垂れ流している薫子に人型ゴキブリは近寄り、ハイヒールが引っ掛かっている足を銜えた。
薫子は小さく悲鳴を上げたが、人型ゴキブリは顎を閉めて薫子の足首を容易く切断し、ぼきりと骨を噛み砕いた。
左足首から下を失った薫子は這いずって逃げようとするが、人型ゴキブリは左足の脹ら脛も銜え、噛み砕いた。
膝、太股、と喰われた薫子は完全に左足を失い、血の川を作りながら這いずる薫子の形相は醜悪に歪んでいた。

「これこそが正義だ」

 ブラックシャインは生きたまま喰われていく薫子に背を向け、渋谷駅前で繰り広げられる戦闘に複眼を向けた。
カンタロスに倒されて弱ったヘラクレスを喰うためなのか、人型ホタルの放つ光の粒が、駅前に集まりつつある。
先程まで近寄りもしなかったのに、弱った途端に手のひらを返すとは現金だが、それもまた人型昆虫の世界だ。
 戦わなければ死に、負けたら喰われ、弱ったら滅ぼされる。進化の真っ直中にいる彼らは、常に変化している。
女王が生まれ、新たな女王が生まれ、増殖し、減少し、滅び、生まれ、栄え、衰え、目まぐるしく世代を重ねていく。
人間とも昆虫とも違う生態系を持つ人型昆虫は、このままではいずれ人類を淘汰し、この星を支配することだろう。
だから、人類はそれを阻まねばならない。私怨に囚われた戦いを終えた今こそ、新たなる戦いに飛び込む時だ。
 ブラックシャインはマフラーを揺らし、宙に身を躍らせた。




 これで、繭を取り戻せる。
 カンタロスは、笑いが止まらなかった。あれほど威勢の良かったヘラクレスも、やはり自分には勝てないのだ。
やはり、自分こそが王に相応しい。それを現実にするためにも、繭は必要だ。不可欠だ。だから、取り戻すのだ。
 ヘラクレスは気を失い、沈黙している。複合商業施設の上の階に上半身を突っ込み、下両足を垂らしている。
カンタロスはヘラクレスに止めを刺すべく、羽を広げた。初速を付けるためにアスファルトを蹴り、高く飛び上がる。
接近しても、やはりヘラクレスに反応はない。念のため、複眼の端に入ったベスパを窺うが、動く様子はなかった。
その方が、どちらにとっても良いことだ。ヘラクレスを倒すのに忙しい今は、ベスパと交戦している場合ではない。
 飛行速度を緩めたカンタロスがヘラクレスの下半身に近付くと、羽音が聞こえた。だが、ベスパのものではない。
顔を上げると、想定外の相手が視界に入った。右のあぎとと女王を失った人型クワガタムシ、セールヴォランだ。

「なんで、こんなところに」

 カンタロスが呆気に取られていると、セールヴォランは優雅な仕草で爪を頬に添えた。

「ごきげんよう、カンタロス」

「あ?」

 途端に苛立ったカンタロスが凄むが、セールヴォランは涼しげにベスパに向いた。

「あら、蜂須賀さんじゃないの。相変わらずあなたは下品ね。その虫も下品ね。反吐が出ちゃうわ」

「んだとこのキチガイ!」

 息を潜めていたことも忘れ、ベスパはいきり立った。が、すぐに気付いた。

「てか、なんで、キチガイ女の喋り方なわけ? つか、キチガイ女って死んだはずだろ? マジヤバくね?」

「そういえば、そうだな」

 ベスパに言われて気付いたカンタロスは、今更ながら疑問を持った。

「ふふふふふふ。私は死んでなんかいないわ、私は鍬形桐子であって、セールヴォランでもあるのだから」

 セールヴォランは爪先ですうっと胸部の外骨格の合わせ目をなぞり、みち、と外骨格を繋ぐ膜を開いていった。
青い体液がとろりと零れ、コンクリートを叩く。体内には、内臓とは違う、黄色い神経糸が絡み付いたものがある。
ガラス細工を守るかのように柔らかく巻き付いていた神経糸が外れていくと、瞼を閉じた少女の生首が現れた。
首から下はなくとも、その美しさは変わらず、血の気が失せた白い肌は白磁の人形のような印象を作っていた。

「うげっ」

 思わずベスパが声を潰すと、セールヴォランは自身の体液に包まれた桐子の生首を愛おしげに抱えた。

「僕の桐子。僕だけの桐子」

「そうよ、セールヴォラン。私とあなたは一つなのよ。あなたがいるから、私は私でいられるのよ」

 セールヴォランに続いて桐子も言葉を発したが青ざめた肌の頭部の唇は動かず、同じ発声装置から出ていた。
セールヴォランは顎を開き、黄色い舌を伸ばして桐子の唇に差し込むが、切断された首の食道から舌先が出た。
カンタロスが殺害した直後よりも和らいだ顔付きの桐子は、頸椎から伸びている神経に、神経糸が繋がれていた。
セールヴォランの血管や循環器とも繋ぎ合わされており、桐子の脳へ血液代わりに体液を送っているようだった。
神経糸などを繋いで刺激を送り続けているおかげで、桐子の脳は活動を続け、意識を持ち続けているのだろう。
だが、気分の良いものではなかった。カンタロスですらそう思うのだから、ベスパの中のねねは余程のことだろう。

「んで、お前ら、何の用だ。俺は今忙しいんだよ」

 カンタロスが吐き捨てると、セールヴォランは桐子の生首を胸部に戻し、外骨格を閉じた。

「僕は桐子のものだ。桐子は僕のものだ。だから、僕は桐子を取り戻さなければならない」

 自分自身の言葉で喋ったセールヴォランは、カンタロスを一瞥し、ヘラクレスに向かって飛び出した。

「だから、僕はこれを殺す!」

「馬鹿言うんじゃねぇ!」

 カンタロスは急上昇してセールヴォランの上両足を掴み、ぎちぎちと爪を食い込ませた。

「あいつの腹の中には俺の女がいるんだ、お前なんざに触られてたまるかよ!」

「僕には関係ない。僕は桐子だけがいればいい。桐子以外はいらない。桐子しか意味はない」

 力を拮抗させながら、セールヴォランは冷淡に答える。カンタロスは疲労で重たい上両足を酷使し、押し切った。

「そいつぁ言えてるぜ! 俺もお前らには何の興味もねぇっ!」

 カンタロスはセールヴォランを突き飛ばしたが、セールヴォランはビルに激突する寸前で姿勢を直し、羽ばたく。
その勢いのまま、二匹は取っ組み合った。頭上で始まった戦術外骨格同士の戦闘に、ベスパは正直困っていた。
逃げてしまいたい気もするが、それでは意味がない。だから、この隙に、ヘラクレスと繭に止めを刺すべきだろう。
だが、カンタロスとセールヴォランの戦闘領域は丁度ヘラクレスの周辺で、近付こうものなら即刻叩き落とされる。

『クイーン』

 ベスパの声が脳内に響き、ねねは思考を止めた。

『囲まれています』

「んなこと、とっくに知ってるっつの」

 ベスパは複眼に映る全ての光を捉え、見渡した。あの女王から生まれた人型ホタルが渋谷駅前を囲んでいる。
人型ホタルの視線は、全てこちらに向いている。女王の卵が三つもあるのだから、彼らが反応しないわけがない。
だが、カンタロスとセールヴォランは己の戦いに集中していて、人型ホタルにまで気を回す余裕はなさそうだった。
人型ホタルを掃討するのは二人の露払いをすることになるが、放っておけばベスパ自身に危険が及びかねない。
不本意だが、ここは戦うしかない。ベスパはぎぢぎぢと顎を擦ってから、羽ばたき、人型ホタルの光の海へ没した。
 視界の片隅でヘラクレスの足が動いたような気がしたが、振り返る暇はなかった。





 


09 2/27