豪烈甲者カンタロス




第九話 交わった運命



 冷ややかな体液の海は、いつもより広かった。
 繭は鈍い微睡みから意識を引き戻し、体を動かそうとした。だが、指先すらも動かず、神経が切れたかのようだ。
瞼を開こうとしても筋肉は働かず、息を吸おうとしても体液が滑り込んでくる。けれど、不思議と苦しさはなかった。
鼻と口に押し込まれた神経糸と頸椎に差し込まれた神経糸から流し込まれる情報は、いつものものとは違った。
彼の意識よりも鈍く、彼の神経糸よりも太い。陰部に押し込まれている神経糸も、二本どころか三本はありそうだ。
網膜ではなく脳に直接伝わる外界の景色は左半分がなく、底のない闇だ。右半分の視界も暗く、光すらなかった。

「カン、タ、ロスぅ…」

 早く目覚めなければ、カンタロスがヘラクレスに殺されてしまう。

「カンタロス、私、頑張る、から」

 繭は神経糸に意識を流して上両足に力を込め、下両足を踏ん張ろうとしたが何もなく、虚空を切っただけだった。
中両足は何かに触れている。それを爪で掴み、背を起こして起き上がろうとしたが、ツノがコンクリートを砕いた。
右側の視界に灰色の欠片が落ち、砂埃を上げる。背後から僅かに差し込む緑色の光が、目の前を照らし出した。
 見覚えのある看板。倒れた陳列台。砂にまみれた服。潰れたアクセサリー。先日服を買った店に違いなかった。
となれば、ここは複合商業施設だが、カンタロスが投げ飛ばされた場所とは逆方向だ。一体、何がどうなっている。
へし折れた柱に設置されていた鏡に、自分自身の姿が映っていた。見間違いでなければ、ヘラクレスの顔だった。

「え、それじゃ、私は」

 繭は砕けた鏡を見つめていたが、腹部に激痛が走った。

「ぐぇおあああっ!?」

 鋭利な刃を押し込まれ、裂かれていく。血の代わりに体液が溢れ出して、腹部が徐々に萎んでいくのが解った。
視界後方には、腹部にあぎとを突き刺しているセールヴォランが少し見えた。そして、彼の姿が飛び込んできた。
カンタロスはセールヴォランに飛び掛かるが、セールヴォランはカンタロスの拳を弾いて上右足を絡め、投げた。
カンタロスは姿勢を直すも、間に合わずに落下した。繭が体内にいないからだろう、明らかに動きが鈍っている。

「うぐはっ!」

 瓦礫の海に沈んだカンタロスは、盛大な砂埃に包まれた。

「カンタロスぅうっ!」

 痛みを堪えて繭が身を起こすが、体が抜けなかった。ヘラクレスの体は巨大すぎて、カンタロスとは勝手が違う。
力を入れればセールヴォランに裂かれた腹部が痛み、意識を戻す前にも攻撃されたらしく下半身は満遍なく痛い。
足場がないので遊んでいたと思っていた下両足も、関節の筋が切られているせいで力を入れても動かなかった。
 視界の隅では、カンタロス目掛けてセールヴォランが降下する。カンタロスはツノを振るが、掠めただけだった。
ツノを振り抜いて頭が下がった隙を狙い、セールヴォランはカンタロスの首に鋭く蹴りを叩き込み、転倒させた。
戦闘に次ぐ戦闘で疲弊したカンタロスは起き上がることも出来ず、セールヴォランの追撃を受け、地面に沈んだ。

「動いて、お願い、ヘラクレス!」

 繭は力一杯意識を送り、ヘラクレスの脳に呼び掛けるが、ヘラクレスの二つの脳は破損して機能を失っている。
生身の脳も電子頭脳も、鉄骨に潰されている。神経糸も黙していて、繭の頸椎にも陰部にも繋がりきっていない。
これでは、何が起きても解らないはずだ。繭は出せる限りの力を使って意識を強め、上両足を曲げて、起こした。

「う、ご、けぇええええええっ!」

 繭の咆哮がヘラクレスの発声装置から放たれ、カンタロスの頭を潰さんとしたセールヴォランの拳が硬直した。
セールヴォランが顔を上げ、カンタロスが触角を跳ね、駅前で人型ホタルを薙ぎ払っていたベスパもまた止まった。
なんとか意識が通じた上両足を突っ張り、重たく自由の利かない体を押し出したが、そのまま落下してしまった。
砕けたアスファルトを更に砕き、深い穴を作り出す。ヘラクレスと化した繭は、ぎこちなく動く爪を上げ、伸ばした。

「カンタロス。良かった、生きてたんだね」

「…繭、か?」

 安堵と驚愕を混ぜた声を発したカンタロスに、ヘラクレスは折れ曲がった触角を動かした。

「嬉しい。初めて、私の名前、呼んでくれた…」

 繭が生きていた。カンタロスは歓喜に打ち震え、上右足をヘラクレスへ伸ばしたが、ヘラクレスの爪が砕けた。
どこからか投擲された鉄骨に外骨格が貫かれ、体液が散った。放物線の先を辿っていくと、ベスパが立っていた。

「てか、生きてられたらマジ困るんだけど」

 人型ホタルの死体に囲まれて青い体液を全身に浴びたベスパは、悪ぶった動作で唾液を吐き捨てた。

「つか、さっさと死ね」

「殺させるかぁ!」

 カンタロスは既に底を付いている体力を振り絞って立ち上がるが、下両足は自重すら支えられず、関節が軋む。
気力は蘇ったのに、体が追い付かない。歯痒さに苛立つあまり、カンタロスは残り僅かな余力で顎を噛み締めた。

「痛い…。でも、私は」

 爪を砕かれたヘラクレスが身を起こそうとすると、動かすことすら出来ない下左足が曲がり、根本まで捻れた。

「がげぇああっ!?」

 びきびきびきぃっ、と分厚い外骨格にヒビが走り、体液が噴き出す。そして、大きく捻られ、真上にねじ切られた。
ヘラクレスの下左足を担いで投げ捨てたのは、セールヴォランだった。彼は、体液に濡れた複眼をぬるりと拭う。

「お前は死ななければならない。桐子は僕のものだからだ」

 筋肉や神経が露出している下左足の付け根に片方だけのあぎとを差し込み、ねじる。その度に、絶叫が高まる。
肉が切れ、外骨格が割れ、体液が滝の如く落ちる。ヘラクレスは暴れるが、セールヴォランのあぎとは抜けない。
それどころか、上両足の爪を足の付け根に食い込ませてあぎとを押し込み、神経糸を噛んで苦痛を増やしてくる。
セールヴォランなりに、桐子の卵を奪ったヘラクレスに復讐しているのだ。だが、今、痛みは全て繭が受けている。
ヘラクレスの後頭部が割れ、脳漿が流れ落ちているのが証拠だ。だが、カンタロスには繭を救うことは出来ない。

「桐子、桐子、桐子」

 痛みの奔流で意識が遠のいたヘラクレスの下左足の付け根からあぎとを抜き、セールヴォランは顔を上げた。

「また、僕のものになる」

「いや…もう、やめてぇ…こんなの、むり…」

 息も絶え絶えに呟いたヘラクレスに、セールヴォランは言い捨てた。

「僕の桐子を壊したのはお前達だ。僕はその報いを与えているだけだ」

 セールヴォランは喘いだために半開きになったヘラクレスの顎にあぎとを差し込み、捻り、限界まで押し広げた。
ヘラクレスは顎を閉じる力もなく、上右足の爪を動かすだけだった。唾液と体液に濡れた食道が、露わになった。
セールヴォランは顎を開閉させるための筋に爪を当て、裂いた。すると、顎がだらしなく開いて、締まらなくなった。
その中に頭から入ったセールヴォランは、ヘラクレスが悶えるのも無視して、巨体の体内へと這い進んでいった。
セールヴォランがヘラクレスの口中へ没していく様に、カンタロスは憤怒に駆られ、爪を外骨格に食い込ませた。
このままでは、繭が殺される。カンタロスはひび割れたアスファルトを蹴って身を弾き出し、上右足を振り上げた。

「こんのやろおっ!」

 カンタロスはヘラクレスの体内に潜り込もうとしていたセールヴォランの下左足を掴み、引いた。

「出て、きぃやがぁれぇえええええっ!」

 カンタロスは下両足を踏ん張ってアスファルトに爪を立て、腰を捻り、セールヴォランを引き摺り出した。

「わあっ!?」

 体液と唾液にまみれたセールヴォランは地面に投げ捨てられ、砂にまみれながら転がった。

「そこまでされて、黙ってられっか!」

 カンタロスはセールヴォランを強かに踏み付けてから、筋の切れた顎の中に頭を突っ込み、ツノを押し上げた。
締める力も開く力も失った顎はカンタロスのツノによって押し上がっていき、頭部の付け根まで上顎が上がった。
それを更に押しながら下顎を下右足で踏み切り、下左足を前に進め、唾液と体液でぬるつく口中を踏み締めた。
 繭。繭。繭は、どこにいる。カンタロスは人型昆虫には手狭な食道に体を押し込み、爪を立てながら這い進む。
途中まではセールヴォランが進んだため、粘液が多少剥がれていたが、進めば進むほどぬるつきは増していく。
爪を立てても滑り、足を突っ張っても狭すぎて突っ張りきれない。だが、何が何でも進まなければ取り戻せない。
視界は最悪で、ヘラクレスの体液が触角や体毛に貼り付いて頼りの嗅覚も鈍っているが、繭の匂いは忘れない。
なんとか食道を抜けたが、そこから先へは進めなかった。屈強な両肩が挟まり、ツノしか中に入れられなかった。
だが、予想していた箇所に胃はなく、体液だけが満ちていた。恐らく、ヘラクレスの胃は切除されていたのだろう。
だから、繭は生きていたのだ。ヘラクレスを改造した人間の所業に感謝する一方で、傲慢さに苛立ちも感じた。
 青く淀んだ体液の闇。ツノしか届かないが、先端にも彼女は掠らない。下手に振り回せば、壊すかもしれない。
ただでさえ、繭は脆弱なのだ。数多の人型昆虫を貫いてきた自分のツノを受ければ、容易く死んでしまうだろう。
ならば、方法は一つしかない。カンタロスは上右足で食道の内壁を何度となく殴り付けて歪ませ、隙間を作った。
上右肩で押して隙間を広げられるだけ広げ、上右足を体内に伸ばした。爪先を動かして、触れるものを探った。
 ヘラクレスの内臓。ヘラクレスの神経糸。ヘラクレスの持つ女王の卵が入った箱。そして、カンタロスの女王。
あの、頼りない手応えの腕だった。カンタロスは夢中でその腕を掴み、引き寄せるが、繭は意識を失っていた。
すぐさま彼女の頸椎や陰部に差し込まれていた神経糸を切り捨て、引き摺り出そうとするが、出られなかった。
カンタロスの体が大きすぎて、食道を完全に塞いでしまったからだ。身を下げようにも、丸い背中が邪魔をした。
 出られないのなら、壊すだけだ。カンタロスは繭を上右足で抱え、下両足を食道にめり込ませ、ツノを上げた。
ツノの先端で弱い箇所を探ると、鉄骨に貫かれたヘラクレスの脳の穴を見つけ出し、そこにツノを押し込んだ。
食道を踏み抜く勢いで下両足を踏ん張り、ぶちぶちぶちと筋繊維を引き千切りながら、ヘラクレスの頭部を壊す。

「俺は王だ、王の中の王だ!」

 中腰で立てるほどの空間を作ったカンタロスは、上両足に繭を抱きかかえ、吼えた。

「俺から女を奪おうなんざ、百万年早ぇんだよ!」

 びぎ、と頭上が裂けた。その裂け目にツノを割り込ませたカンタロスは、大きく首を振り、裂け目を拡大させた。
外気が流れ込み、夜空が覗いた。カンタロスは繭を中両足で抱え直してから、上両足で裂け目の縁を掴んだ。
強引に体を上げて肩を出し、繭を出してから脱した先は、ヘラクレスの並外れた大きさを持つツノの傍らだった。
 カンタロスは全身に貼り付いたヘラクレスの体液を爪で落としてから、繭を見、その足に絡んだものに気付いた。
引き摺り出す時には気付かなかったが、繭の足にはヘラクレスの神経糸が繋がっている箱が引っ掛かっていた。
金属製の正方形の箱で、十五センチ程度の大きさだ。上下左右に空いた穴からは、桐子の匂いが感じられた。
これが、セールヴォランの求めていたものだろう。カンタロスは踏み潰そうと下右足を上げると、繭が咳き込んだ。
 げほげほと激しく咳き込んだ繭は、胃に溜まっていた体液を全て吐き出してから、カンタロスを見上げてきた。
顔色は悪く、体液の青さだけではない。だが、カンタロスを視認した途端に頬を緩め、徐々に血色が戻ってきた。

「カンタロス…」

 繭が弱々しく手を伸ばしてきたが、カンタロスは先程までの嬉しさが反転してしまい、顔を背けた。

「余計な手間を掛けさせやがって」

「うん、ごめんね」

 繭は力なく謝ると、俯いた。煩わしい感情を誤魔化すために繭に背を向けたカンタロスは、人影に気付いた。
戦闘の影響を受けて一面が崩れかけたビルの屋上に、先日同じ場所で接触した個体と同じ個体が立っていた。

「生きているか、兜森君?」

 繭は再度込み上がってきた体液を吐き出して、咳き込んでから、虚ろな目線で声を掛けてきた主を視認した。
茶褐色の外骨格。細長い触角。黒光りする複眼。首に巻かれた赤いマフラー。繭は、動きの鈍い舌で言った。

「えっと…、ああ、ゴキブリの人だ…」

「ブラックシャインと呼びたまえ。とおっ!」

 ブラックシャインは軽やかに飛び降りてカンタロスらの手前に着地すると、奮戦しているベスパに向いた。

「蜂須賀君、俺の足で良かったら何本か貸してやろうか?」

 飛び掛かってきた人型ホタルを切り裂いて頭と胴体を別れさせたベスパは、鬱陶しげに吐き捨てた。

「いらねーよ! てか、だれがゴキブリの足なんか借りるかよ、マジ有り得ねーし」

「僕の、桐子…」

 砂と体液にまみれて座り込んでいたセールヴォランは、桐子の卵が収まっている箱に上両足を伸ばしてきた。

「それを渡してくれないか。君の手から返すと、また厄介なことになりそうだからな」

 ブラックシャインが繭に上右足を差し伸べてきたので、繭は桐子の卵の箱を彼に投げ渡した。

「ええ、たぶん…」

「鍬形君、セールヴォラン。君達が求めているものだ、返そう」

 そら、とブラックシャインが箱を投げると、セールヴォランは立ち止まって上両足を広げ、受け止めた。

「…うん」

 途端に、セールヴォランは牙が抜けたように大人しくなった。体液の滴る箱を眺めていたが、神経糸を出した。
十五センチ程度の正方形の箱の上下左右に空いた穴に差し込んで、接続すると、セールヴォランは嘆息した。
恍惚として桐子の名を呼び続けるセールヴォランの反応に、やはり、箱の中身が桐子の卵であるのだと解った。
その様を見て、繭は安堵した。これで、しばらくの間は、セールヴォランも桐子も大人しくしてくれるに違いない。

「そろそろ終わったかな、蜂須賀君?」

 ブラックシャインがベスパに向くと、ベスパは最後の人型ホタルを蹴り倒した。

「てか、馴れ馴れしく人の名前呼んでんじゃねーよ! マジ死ねゴキブリ!」

「おいおい、それはないんじゃないのか? 同胞なんだから、普通なら親しみを覚えてくれるもんじゃないんか?」

 わざとらしく肩を竦めたブラックシャインに、ベスパはいきり立った。

「つか、ゴキブリに親しむ奴がいるかよ! この前も今日も任務の邪魔しやがって、マジぶっ殺すし!」

「君を道具として扱う者達は死んだ。だから、君達は自由だ。そして、兜森君、鍬形君もだ」

「マジ意味解んねーし」

「何、簡単なことだ」

 ブラックシャインは上両足を組み、生臭い夜風に赤いマフラーを靡かせた。

「つい今し方まで、君達は国立生物研究所に所属していた身の上だったのさ。蜂須賀君とベスパは言わずもがな、脱皮した直後に暴走したカンタロスとその主である兜森君も、殉職扱いになっているセールヴォランと鍬形君もな。大方、連中は兜森君とカンタロスを殺して死体を回収した後に、解剖して実験材料として利用し尽くそうと思っていたのだろう。だが、それももう終わりだ。現時刻を以て、君達は俺の指揮下に入る。今後は、人型昆虫対策班の実働部隊として、人型昆虫と戦ってもらう」

「…んだと?」

 繭を抱えて地面に降りたカンタロスは、腹立たしげに顎を軋ませた。

「君達にはそれしか生きる術はない。まあ、それは俺も同じなんだがな」

 ブラックシャインはセールヴォランに向き、爪を差し出した。

「確かに君達は強い。だが、強すぎる。おまけに、その力を向ける矛先を大いに誤っているんだよ」

「僕は桐子を守るために戦う。桐子のためにしか戦わない」

 セールヴォランは語気を荒げ、ベスパも同調した。

「てか、あたしは正義なんかマジどうでもいいし! お前一人で正義の味方ごっこやってろよゴキ男!」

「それが出来たら、とっくにやっているさ。出来ないから、君達を引き入れようとしているんじゃないか」

 ブラックシャインは組んでいた上両足を解き、声色を強めた。

「このまま戦い続けたところで、君達はいずれ潰れるだけだ。地上に現れる女王や人型昆虫だけを倒していても、人型昆虫の出現は止められない。なぜなら、女王を生み出す真の女王が都心の地下深くに潜んでいるからだ」

「真の、女王?」

 繭が聞き返すと、ブラックシャインは頷いた。

「真の女王を倒さなければ、我々人類に安息の時は戻らない。そして、君達は誰も女王にはなれない。違うか?」

「道理だ。だけど、信じられない」

 セールヴォランは桐子の頭部と卵が入った腹部を押さえ、ブラックシャインを見据えた。

「すぐに信じてくれとは言わないさ。だが、君達は俺に従わざるを得なくなる」

 ブラックシャインは三匹の人型昆虫と三人の少女を見渡し、きちり、と顎を開いた。

「改めて自己紹介しよう。俺は黒田輝之二等陸佐、人型昆虫対策班所属の特殊諜報員だ。またの名をブラックシャイン。そして、対人型昆虫用生体兵器、平たく言えば改造人間だ」

 黒田が上空を仰ぐと同時に、頭上に盛大な羽音が降り注ぎ、大型の軍用ヘリコプターが渋谷駅上空に飛来した。
軍用ヘリコプターのハッチが開き、何かがばらまかれた。風に巻かれながら振ってきたのは、新聞の号外だった。

「うげ、何これ! つかマジ最悪だし!」

 新聞を一枚手にしたベスパが、途端に声を潰した。

「あら。これ、私だわ」

 足元の体液の海に貼り付いた紙面を見、人格が桐子に切り替わったセールヴォランがやや驚いた。

「何、この記事…」

 繭も号外を一枚拾って、ぎょっとした。繭、桐子、ねねの顔写真が並び、三人全員が重大犯罪者になっていた。
繭の罪状は、女子高生誘拐殺人事件の被疑者。下には鍬形桐子の名があり、高校襲撃事件の首謀者、とある。
更にその下には蜂須賀ねねとあり、蜂須賀一家惨殺事件の被疑者と書かれており、全国指名手配されていた。
繭の罪状も桐子の罪状も事実だ。となれば、ねねの罪状も事実に違いない。彼女の性格ならば、有り得る話だ。
 見出しの横に連なる文章も事実に忠実で、カンタロスを使用したことは省かれていたが見ていたかのようだった。
いや、実際見ていたのだろう。カンタロスとあれだけ派手に行動したのだから、目を付けられない方がおかしい。
きっと、黒田を始めとした政府の面々は、三人に取り入る隙を窺っていたのだ。だから、今まで情報を隠匿した。
いざと言う時に利用し、揺さぶるために。繭は号外から目を上げて黒田を睨むと、黒田は悪びれずに肩を竦めた。

「俺は正義の味方だからな。渋谷に来た時点で、警察には通報済みだ。だから、逮捕されるのは時間の問題だ」

「つか、マジ卑怯だし」

 号外を破り捨てたベスパが毒突くが、黒田はしれっと返した。

「全て事実じゃないか。俺は何一つ嘘を吐いていない。君達は平成犯罪史に名を残す凶悪犯だ」

「このままだと、どうなるんですか」

 体液が染みて歪んだ号外を捨てた繭が呟くと、黒田は整然と説明した。

「知っての通り、渋谷は立ち入り禁止区域だ。そして、人型昆虫が多数出現している。当然ながら自衛軍が出動し、渋谷全域に空爆を行う。空爆が始まってしまえば、戦闘に次ぐ戦闘で疲弊した君達に逃げる術はない。空爆が終了し、鎮火した後には感染症予防のために消毒剤と殺虫剤が散布される。無論、建物の中にも、地下道にも、下水道にも、上水道にもだ。大量と炎と薬剤の中を生き延びることが出来る人間も虫もいないだろう。そうなれば、被疑者死亡のまま送検されて、弁解の余地も与えられないまま、犯罪史に名を残すことになる。そういう情けない死に様をお望みなら、今ここで手を下してやろうじゃないか。それもまた正義だ」

 セールヴォランは、苛立たしげに顎を擦った。

「従わなければ殺すなんて、穏やかじゃないわね」

「君達はそういう存在だ。俺もだがな」

 黒田は複眼を上げ、夜空を仰いだ。鈍い唸りを撒き散らしながら、自衛軍の航空部隊が接近しつつあった。

「空爆は十五分後に行われる。それまでに離脱しなければ、君達は確実に死ぬ」

「てか、あたしは別にいつ死んだっていいんだけど」

 ベスパの体内から上半身を出して神経糸を吐き出したねねに、ベスパが前のめりになった。

「そのような悲しいことを仰らないで下さい、クイーン。クイーンがいなければ、私はただの虫として一生を終えていたことでしょう。ですが、クイーンがいたからこそ、私は戦術外骨格としての力を得ることが出来たのです。ですから、私にはクイーンが必要なのです。他の女王ではなく、クイーンでなければいけないのです。クイーンは生きなければなりません、いえ、生きていてほしいのです。心からお慕いしているのですから」

「何それ、つかウザすぎだし」

 背筋が痒くなるほど真っ当な言葉に、ねねは顔を背けた。

「…てか、それ、マジ?」

「私は常に本気ですが」

「あっそ」

 ねねは素っ気なく言い捨てたが、上目にベスパを見上げた。

「ま、そこまで言われちゃね。ゴキ男に従うっつーのはマジ面白くねーけど、なんかまだ死にたくねーし」

「それでこそ、私のクイーンです」

 ベスパはねねを引き摺り出し、神経糸を抜いて胸部の外骨格を閉じると、ねねの前に跪いた。

「さあ、どうぞお踏み下さい!」

「つかマジ死ねっ!」

 途端に、ねねはベスパの頭を蹴り飛ばした。あああああっ、と至福の歓声を上げながら、ベスパは仰け反った。
 その様を呆れ半分で見ていたセールヴォランと桐子は、言葉を交わさずに思考を重ね、互いの意思を確認した。
黒田に従うのは不本意だが、この状況では従う他はない。この場で死んでは、幸せに暮らせる場所を探せない。
研究所を脱した時も、東京に戻ってきた時も同じ理由だったからだ。二人で幸せになることこそが、二人の願いだ。
卵を取り戻した今、桐子は女王となる資格も取り戻した。だから、真の女王を倒し、桐子を真の女王にするのだ。
 新聞の号外をばらまいていた軍用ヘリコプターが着陸すると、セールヴォランは黒田に続いてそれに搭乗した。
次に、ベスパは戦闘で疲弊したねねを肩に載せて機内に入ると、またもやお仕置きをせがんでは蹴られていた。
 最後に残された繭はカンタロスを見上げると、カンタロスは顎を開いて細長い舌を出し、繭の口に滑り込ませた。
繭の口中に残っていたヘラクレスの体液を絡め取って捨ててから、再度舌を差し込み、繭の唾液を舐め取った。
疲れと名を呼ばれた嬉しさで、繭は抗わなかった。カンタロスはひとしきり繭の唾液を味わってから、舌を抜いた。

「お前はどうする。ゴキブリ野郎の話を信じるのか?」

「真の女王が嘘か本当かは解らないけど、話を聞くだけ聞いてみた方がいいかも。カンタロスはどうしたい?」

 繭がカンタロスに尋ねると、カンタロスは上両足で繭の濡れた体を抱え、立ち上がった。

「俺は王の中の王だ。だから、俺の女王であるお前が真の女王になってもらわなきゃ困るんだよ」

「…うん。解ってる」

 繭はカンタロスの首に腕を回し、しがみ付いた。カンタロスの足取りは鈍く、重く、今にも崩れてしまいそうだった。
だが、いつになく力強かった。まだ力が戻らない繭が滑り落ちそうになると、背中を冷たく硬いものが支えてきた。
カンタロスの中両足が背を支えてくれ、繭の薄い肌を突き破らないように爪は横たえられ、仕草も柔らかかった。
こんなことは初めてで、繭は嬉しくもあったが困ってしまった。きっと、疲れ切っているから力が出せないのだろう。
それだけのことだ。だから、変な期待は抱かない方が気が楽だ。そう思った繭は、カンタロスの肩に顔を埋めた。
 訳もなく、胸が高鳴っていた。





 


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