南海インベーダーズ




可及的復興活動



 次第にそれらしくなってきた。
 紀乃は暗がりの中に浮かぶ新校舎を見上げ、感心した。基礎を作る場所を掘り返し、鉄骨を並べてコンクリートを 流して固めたばかりの頃は、本当に出来るのかどうかすら解らなかった。普通、家を建てるにしても三ヶ月程度は 時間が掛かるものだし、小松は人型多脚重機で土建屋の人間だったがその他はズブの素人ばかりなので、まともに 事が運ぶとは到底思えなかった。だが、やってみれば、意外となんとかなるものである。新校舎からは新しい木材の 匂いが漂い、空っぽの窓枠から配線の済んだ壁が覗いていた。日没と同時に冷え込んできた潮風が吹き付け、 本日二度目のドラム缶風呂で汗を流した肌を爽やかに乾かし、通り過ぎていった。

「凄いですわねぇ」

 紀乃に並んで立った翠が、建設中の新校舎を仰ぎ見た。

「うん。やれば出来るもんだなぁーって思っちゃった」

 紀乃がにんまりすると、翠は手にしていた巻き尺を伸ばした。

「ええ、皆さん、御立派ですわ。ゾゾさんからお話は聞いておられますでしょう? 寸法を測らせて下さいまし」

「ね、翠さん。どんな柄の浴衣を仕立て直してくれるの?」

 紀乃が両腕を広げると、翠は紀乃の腕の長さを測った。

「私には似合わないですけれど、紀乃さんならお似合いになる色ですわ。明るい藤色に花が散っておりますの」

「うわぁ、大人っぽーい」

 肩幅を測られながら紀乃がはしゃぐと、翠は微笑んだ。

「よろしければ、着物の端切れで髪を結う紐も作ってさしあげますわ」

「なんか、もらってばっかりで気が引けちゃうなぁ。翠さんにも、何かお返ししたいな」

「いいえ、お気になさらず。浴衣を仕立て直すことも、私の手慰みに過ぎませんもの」

「いいからいいから。言ってみてよ」

 胴回りを測られてから紀乃が向き直ると、翠は厚い瞼を瞬かせた。

「よろしゅうございますの?」

「うんうん。出来る範囲でなら、だけどね」

「そうですわねぇ……」

 翠は躊躇いがちに視線を彷徨わせていたが、硬いウロコに覆われた手を頬に添えた。

「私、海を泳いでみとうございますわ。とても広くて、波がゆらゆらしていて、面白そうなのですの。ですけれど、私は 泳いでみたことなどございませんから、一人で海に入る勇気がありませんの」

「じゃ、今度、一緒に泳ごうよ!」

「まあ、よろしゅうございますの?」

「いいっていいって。私も一人で泳ぐのには飽きちゃったんだもん」

 紀乃は笑い返しつつ、翠に胸囲を測られた。翠が口にした巻き尺の目盛りの数字は、紀乃の記憶にある数字よりも 進歩していなかったのが余計に残念だった。目の前で屈んでいる翠の胸は、着物ですらも隠せないほどの存在感 で、以前に風呂場で見た光景が忘れられない。単眼トカゲのゾゾを日々見慣れているからか、翠の美貌は凄まじい ものだと痛感する。普通の人間として生まれても抜群の美人だったに違いないが、人間ではないからこそ引き立つ 美貌もある。滑らかで艶めかしい尻尾然り、薄い皮と細い骨が芸術品のような翼然り、涼しげな目元然り。帯の下に 見事な曲線の腰がある一方、胸と尻には過不足なく脂肪が載っている。たまには着物ではなく、水着を着てほしい ところだが、手元にある水着は紀乃の体格に合わせたものなので、翠の体格では上も下もぱっつんぱつんになって、 文字通り色気が弾けてしまうだろう。

「……水着、もうちょっと大きいのも持ってくるんだったかな」

 紀乃が真顔で呟くと、翠は小首を傾げた。

「その、みずぎ、とは一体なんでございますの?」

「水着ってのはね、水の中で泳ぐために着る服なの。この前、ゾゾと一緒に渋谷に行った時に持ってきたのが何着か あるんだけど、どれもこれも翠さんには小さいかなぁって思っちゃって。あー、でも、ビキニの紐を伸ばせば、どうにか 着られないわけじゃないかな? 上も下も紐のがあるし」

「その、びきに、とはなんでございますの?」

「あぁ、それはね」

 と、紀乃が説明を始めようとすると、作業着を脱いでフンドシ一丁になった忌部が紀乃の頭を引っぱたいた。

「俺の妹に何を着せようとしているんだ、お前は」

「えぇー、いいじゃーん。翠さんのナイスバディが封印されたままだなんて、あまりにも勿体ないんだもん」

 紀乃がむくれると、忌部はその額を弾いた。

「世の中には封印されておくべきものもあるんだよ!」

「御兄様。何か御用ですの?」

 翠は紀乃の寸法を測り終えて巻き尺を巻き取ると、フンドシ一丁の兄を見上げた。

「夕飯が出来たんだそうだ。冷めないうちに喰おうじゃないか」

 忌部がランプが明るく照らし出した食卓を指すと、エプロン姿のゾゾが待ち兼ねていた。甚平とミーコが人数分の 食器を並べていて、かまどからはデンプンが煮える甘い匂いが混じった湯気が昇っている。小松は真上からそれを 見下ろしていて、ランプの柔らかな明かりを照り返したメインカメラの縁が円く光っていた。星空の下の食卓の周囲 だけが明るく、藍色の闇がそこだけ遠のいているかのようだった。

「参りましょう、御兄様」

 巻き尺を懐に入れた翠が忌部の腕を取ると、忌部は紀乃を手招いた。

「紀乃も早く来いよ。さっさと喰わないと、ゾゾが拗ねちまう」

「りょーかーい」

 紀乃は額を押さえつつ二人を見送り、資材が山積みにされている校庭に向いた。ガニガニの巣の中にだけ、光が 届いていなかった。石を組み合わせて造られた人工の洞窟には、夜空から注ぐ月光や星の瞬きも、人ならざる者達の 食卓を照らすランプの明かりも至らず、底知れぬ闇が湛えられていた。紀乃はガニガニの外骨格から比べれば 遙かに冷たい岩壁に手を添え、中を見つめた。あの日、溶けてしまう前にガニガニが食べていたアダンの実の皮が 残っていたが、既に干涸らびていた。八本足の足跡も、丸い腹部を引き摺った跡も、その時のままだった。紀乃は ガニガニを呼ぶ言葉を言おうとしたが、喉の奥が詰まった。外骨格が擦れ合う音が、喋る代わりに顎を打ち鳴らす 音が懐かしく、どうしようもなく愛おしかった。紀乃は唇を真一文字に結ぶと、食卓に向かった。
 寂しいだなんて、思ってはいけない。




 眠りが浅いと、嫌な夢ばかりを見てしまう。
 何度も、何度も、何度も、ガニガニは目の前で溶けてしまう。サイコキネシスを放って芙蓉を引き剥がそうとしても、 肝心の力が芙蓉には届かない。たとえ届いたとしても、芙蓉の指先から落ちた一滴の雫がガニガニの外骨格を 一点だけ濡らし、その部分から崩れるように溶解する。外骨格の欠片すらも残さずに溶けてしまうから、その後には 何も残らない。透き通った浅い池がじわりと広がって、砂地に吸い込まれていくだけだ。その溶解液を掬おうとしても、 指の間から砂もろとも擦り抜ける。どれだけ泣いて叫んだとしたって、ガニガニは元に戻らない。助けられない。 救えない。守れない。あんなにも好かれていたのに、あんなにも好いていたのに。
 自分の呻き声で目を覚まし、紀乃は掛布を握り締めて震えを堪えた。外気はじっとりと蒸し暑いはずなのに、悪寒が 止まらない。全身から噴き出した粘り気のある冷や汗がジャージだけでなくシーツも汚し、荒く速い呼吸を何度も 繰り返す。目尻から滲んだ涙を拭ってから気を落ち着けて寝入ろうとするが、喉が干涸らびそうなほど乾いていて、 寝入る以前の問題だった。ぼさぼさの髪を手で撫で付けながら身を起こすと、掘っ立て小屋の中では、皆が昼間の 疲れを癒すべく熟睡していた。紀乃が眠っているベッドの下では、寝相の悪いミーコが実に気持ち良さそうな表情で 眠り込んでいる。彼女の背後には掘っ立て小屋の中を仕切る布が一枚掛けられていて、その向こうでは忌部と甚平が 眠っている気配がする。ひとまず水でも飲んでこよう、と紀乃はジャージの袖で顔の寝汗を拭き取ってから、ベッド から下りてスニーカーを突っ掛けた。ミーコをまたいでから布を避けると、居心地悪そうに身を丸めて眠る甚平と、 空っぽの布団の上で掛布が上下している様が目に入った。ただでさえ存在感の薄い忌部は、眠ってしまうと余計に どこにいるのか解りづらい。音を立てないようにしながらドアを開けると、テーブルの上ではランプが弱く灯っており、 星空の下で翠が針仕事に精を出していた。彼女はすぐに紀乃に気付き、控えめに声を掛けてきた。

「あら、紀乃さん。はばかりですの?」

「ううん、ちょっと目が覚めちゃっただけ。水飲んだら、また寝るから」

 紀乃が苦笑すると、翠は頷いた。

「そうですの。明日もお早いのでしょう、ごゆるりとお休みなさいまし」

「翠さんも、あんまり根を詰めないでね。カーテンだって浴衣だって、すぐじゃなくていいんだから」

「ええ、承知しておりますわ」

 翠が笑みを見せると、紀乃は軽く手を振りながらテーブルの傍を通り過ぎていった。水場は掘っ立て小屋からは 少し離れていて、暴走した翠の破壊を免れた給水塔に繋がっている蛇口を捻ると真水が出てくる。汗ばんだ手には ひんやりと心地良い蛇口を捻った後、紀乃は気付いた。これは生水なので、熱を通さなければ飲用には適さない。 昨日の朝にゾゾが煮沸してくれた水も、一晩過ぎてしまえば生水も同じだ。だが、火を通した熱湯を飲むような気分 でもない。しかし、生水に当たって腹を下すのはもっと嫌だ。水を汲んだ桶を片手に紀乃が悩み込んでいると、肩に 大きな手が掛けられ、穏やかな声が耳元に届いた。

「どうかなさいましたか、紀乃さん」

「うへぇあ!」

 思い掛けないことに心底驚いた紀乃が仰け反ると、ゾゾは心外そうに尻尾を振った。

「そこまで驚かなくてもよろしいでしょうに」

「だ、だって……」

 紀乃は中身を零しかけた桶を置き、深呼吸して気持ちを落ち着けた。ゾゾは桶の中身を見、悟った。

「水をお飲みになりたいのですか?」

「うん。でも、これ、一度沸かさないといけないでしょ? だから、どうしようかなって思っちゃって」

「でしたら、私の研究室にお出でなさい。果物でもお切りしますよ」

 ゾゾは紀乃の背に手を添え、促した。紀乃はちょっと迷ってから、桶の中の水をサイコキネシスで給水塔のタンク の中に戻した後、ゾゾに従って歩き出した。背中に添えられたゾゾの手付きはいつものように優しかったが、寝汗が ひどいのが気になってしまい、紀乃は心持ち歩調を早めてしまった。
 ゾゾが向かった先は、集落の一角にある廃屋だった。隙間の空いた板壁からはランプの柔らかな光が零れ出し、 玄関からは太い光条が伸びていた。ゾゾは尻尾を揺すりながら中に入ったので紀乃も続いて入り、目を見張った。 手狭な古い民家の中には、外側からでは想像も付かない世界が出来上がっていた。多種多様な植物が色とりどりの ツタを生やし、瑞々しい果実が実り、色鮮やかな花弁を広げ、古い板壁も何本もの根を生やし、養分を吸収しようと 土を浸食している。ランプだと思った明かりも、よく見ると、天井に貼り付いているホタルに似た昆虫が出している光 だった。至る所に命が根付き、目に付くもの全てが生命を持っていた。ゾゾは太い柱から直接生えている枝から赤く 熟れた実を取り、やはり地面に根付いた木の椅子に腰を下ろすと机からナイフを取った。

「どうです、面白いでしょう」

「こんなの、いつのまに……」

 紀乃は感嘆しながら家に入り、見回した。天井にもびっちりとツタが這い回り、柱という柱から艶やかな厚い葉が 生え、濃厚な花の甘い匂いが全身を取り巻いてきた。上ばかり見ていたせいで足元が疎かになってしまい、木の根 に蹴躓いた紀乃は転びそうになったが、ゾゾが尻尾を伸ばして支えてくれた。

「ありがと」

 紀乃はちょっと気恥ずかしくなったが、ゾゾの向かいの椅子に腰を下ろした。

「これらは全て、元々廃校の地下室で行っていた研究をそっくり地上に引っ張ってきたものなのですよ。直射日光に 当てれば枯れてしまう植物もありますし、地球の大気中の酸素濃度が高すぎるために富栄養化した植物もありますが、 暴走してしまうことはありませんので御安心下さい。さあ、どうぞ」

 ゾゾはマンゴーを二つに切り分けて格子状に切れ目を入れると、紀乃に差し出してくれた。

「いただきまーす」

 紀乃はマンゴーを受け取り、囓ると、たっぷりとした甘酸っぱい果汁と熟した果肉が口一杯に広がった。

「何これ、すんごいおいしい!」

「そうでしょう、そうでしょう。そうなるように、彼らを改良していましたから」

 ゾゾは裂けた口元の端を上向け、半分残った実を囓った。

「ここしばらく、私は物思いに耽っておりましてね。これまでに私がやってきたことは正しかったのかどうか、今一度、 最初から考え直してみたのですよ。この星に来た時からのことを一から思い出し、なぞってみたのですが、やはり、 動かなさすぎていたようです。もう少し早く手を打っていれば、事態が悪化せずに済んでいたことでしょう。著しく生体 組織を損傷し、通常の生命活動すらも心許ない彼の身を案じるあまり、ニライカナイへと旅立った龍ノ御子たる彼女を 思うあまり、前に進めずにいたようです。ですが、それももうお終いです。私も、あの男と戦いましょう」

「ねえ、ゾゾ。その、龍ノ御子って女の人なの?」

 紀乃は食べ終えたマンゴーの皮を握り、俯いた。針よりも細く、氷よりも冷たいものが、胸中を刺してきた。

「ええ。彼女は紀乃さんと同じく地球生まれの人間であり、ミュータントだったのですよ。ですから、龍ノ御子たり得る 力を持ち、彼と通じ合うことが出来たのです」

「もしかして、さぁ。私って、その人の代わりとか、だったりするの?」

 紀乃が兄妹代わりにガニガニを可愛がるように、ゾゾもそうなのでは。

「いえ、違います。彼女は彼女であり、紀乃さんは紀乃さんなのです。どちらも大切な方です」

 ゾゾは即座に言い切り、赤い単眼を紀乃に据えた。

「私は、私がやるべきことを思い出したまでです。ただ、それだけなのです」

「ゾゾは、そのニライカナイに行きたいって思わないの?」

 疑念を振り払えずに紀乃が問うと、ゾゾは目を伏せた。

「紀乃さんや皆を犠牲にしてまでも、行きたいとは思いませんよ。彼の地では理想は叶うかもしれませんが、現実には 抗えませんからね」

「もしかして、ガニガニはニライカナイに行っちゃったのかな」

「いえ。それは有り得ません。ですから、ガニガニさんはいずれ戻ってきて下さいます」

「ゾゾは嘘なんか吐かないよね? ゾゾの友達も嘘を吐かないよね? ガニガニは本当に生きているんだよね?」

「ええ、もちろん」

「本当に本当だからね、本当に」

「本当に、本当ですとも」

「また、ガニガニも一緒に暮らせるよね? 今度こそ、ちゃんと守れるよね?」

「ええ、ええ」

 ゾゾはゆっくりと頷き、厚い瞼を細めた。その優しい眼差しに、紀乃はそれまで保てていた緊張の糸が途切れた。 そんなの、根拠なんてない。自分が弱いことは、自分が痛いほど知っている。超能力があっても、ミュータントでも、 自分自身が打たれ弱ければ何にもならない。その証拠に戦うべき時に戦えなかった。もう一度ガニガニに会えたと しても、そんなことでは胸を張って顔を合わせられない。無条件な好意は、優しければ優しいほどに鋭く突き刺さる。 だから、ゾゾに甘えてはいけない。今、ここで踏ん張らなければ、ガニガニどころか他の誰も守れないほど弱くなる。 だが、紀乃の胸中とは裏腹に、引きつった喉からは絶叫に近い泣き声が迸っていた。

「うぁぁああああああああああああああっ!」

「気が済むまでお泣きなさい、紀乃さん。いつまでも、いつまでも、お付き合いしますから」

 ゾゾは紀乃を抱き寄せ、頬を濡らす涙を舌先で舐め取った。

「ぅぐぁ、あぁ……」

 その行為に言葉を返そうとしたが、喉が発した音は声にすらならず、紀乃は更に泣いた。ゾゾは紀乃の丸まった 背を柔らかく撫でて、詰まりがちな呼吸を楽にしてくれた。自分でも訳が解らなくなるほど泣きじゃくりながら、紀乃は 心中を吐き出した。ガニガニがどれだけ好きか、忌部島での日々がどれほど楽しいか、ミュータントと化してからの 生活がいかに満ち足りていたか、世間から蔑まれていても自分の能力に心から誇りを持っているか、何があっても 傍にいてくれるゾゾを信頼していること、などを。言葉に出来たのはほんの僅かで、大半は支離滅裂な叫び だったが、ゾゾは最初から最後まで聞いてくれた。それが余計に嬉しくて、紀乃は涙を止められなかった。
 心の底から、彼を信じようと思えた。





 


10 9/20