南海インベーダーズ




儀来河内



 気の合う友人達と話し込んでいると、時間が経つのを忘れてしまう。
 だから、気付いたら日が暮れかけていた。紀子は校門から真っ直ぐ伸びている坂を下ると、交差点で部活仲間と 別れて家路を急いでいた。彼女達は笑顔で手を振り返し、それぞれの自宅へと向かっていった。終業式を終えたと いっても、どうせまたすぐに部活の練習で顔を合わせるのだから、寂しいことはない。携帯電話を開いて現在時刻を 確かめてから、歩調を早めた。ストラップの付いた携帯電話を制服のポケットに入れ、自分の影絵がアスファルトに 横たわる様を横目に見ながら歩道を進む。夕焼けが綺麗なので、少し遠回りになるが、どうせならと海沿いの道路 を歩いて帰ることにした。友人達と話し込んだ余韻に浸りたかったからだ。
 テニスラケットケースとジャージを入れたスポーツバッグが重たく、肩に食い込んでくる。ふと思い立って学生証を 開くと、緊張した面持ちの自分と新しい名前が現れた。少々気恥ずかしいが、何度でも見てしまう。末継紀子、との 名前を付けてくれたのは両親だ。名前は自分で決めてはどうか、と鈴本礼科からは言われたものの、斎子紀乃から 新しく生まれ直すのだから両親に付けてもらうべきだと主張し、妹もそう言ってくれたので、生まれた時と同じく両親に 付けてもらった。元々の名前の字をそのまま使ったが、読みを変えてノリコにした。古臭い響きだが、それはそれで 充分ありだ。むしろ、それぐらい落ち着きがあった方がいい。

「お?」
 
 携帯電話から着信音が鳴ったので取り出すと、妹からの着信だった。

「もしもし、露子」

『お姉ちゃん。えっとその少し頼みたいことが』

「ん、なあに?」

『来週の日曜日に仁と出かけることになったんだ。だが適当な服がないんだ』

「この前、横浜で買ってきたワンピースじゃダメなの?」

『あれは春物だから。それになんというか……せっかくだから』

「そうだね、仁にいだって露子の可愛いところを見たいだろうし。よし、それじゃお姉ちゃんも付き合ってしんぜよう。 んじゃ、どこに買いに行く? やっぱり横浜? それとも東京まで出る?」

『東京は復興途中だから大した店がないだろう。だからまた横浜で良いじゃないか』

「そっか。どうせなら、因縁の渋谷に連れて行きたいところだけど、それはまた今度で良いね。で、どこにデートしに 行くことになったの?」

『……秘密』

 電話口の向こうで、露子が恥じらっているのが解った。近頃、女の子らしさが身に付いた露子は言動がいちいち 微笑ましい。同じ顔をしている人間だというのに、たまに可愛くてどうしようもなくなる。そんな妹とは恋人同士である 鰐淵仁が羨ましくもあり、ほんの少し妬ましい。可愛い盛りの妹を独占出来るのだから。
 それから、二人は話し合い、今週末に横浜のみなとみらいに買い物に行くことになった。その頃になれば八月分の お小遣いが手に入っているだろうし、場合によっては母親の融子も付き合ってくれるかもしれない。仕事の都合が 合えば、父親の鉄郎もくっついてくるかもしれない。そうなったら、デートの服選びどころではないが、それはそれで 楽しい休日になるだろう。紀子は携帯電話を閉じてポケットに入れ直し、浮き足立ちながら歩調を早めた。その勢いに 任せて防波堤に昇って駆け足になったが、強烈な光が視界の端を掠めた。それに気付いた紀子は立ち止まって 砂浜を見やり、光源に目を留めた。階段を下りて波打ち際に至ると、その正体が解った。

「これって……」

 スポーツバッグを砂浜に下ろした紀子は、膝を曲げてスカートを折り畳むと、海水と砂にまみれている茶色の瓶を 拾った。スカートと靴が汚れないように気を付けながら波打ち際から後退すると、茶色の瓶の汚れを払った。中には 折り畳まれた紙が一枚入っていて、コルク栓で口が塞がれている。それを何度となく眺め回し、紀子は確信した。

「私が流した手紙だ」

 間違いない。あの、二年前の夏、忌部島から海に流したボトルレターだ。紀子は少しばかり迷ったが、コルク栓を 引き抜いて瓶を逆さまに振った。細長く折った手紙はかさかさと擦れながら口から飛び出したので、それを引き摺り 出して開いた。スポーツバッグの上に腰を下ろして手紙を開くと、自分の字と名前が現れた。


  はーちゃんへ

  こんにちは。あなたが海に流したお手紙を拾ったので、読ませてもらいました。
  はーちゃんは、とても頑張り屋さんですね。これからもお仕事を頑張って、お姉ちゃん達と仲良くして下さい。それが どんなお仕事であろうと、はーちゃんは誰かの役に立っているのですから。
  私はあなたが羨ましいです。私は少し前までは普通の人間でしたが、今はもう人間ではなくなってしまいました。 それでも、頑張って生きようと思います。この島に住む、変な人達と一緒に暮らすのは大変ですが。だけど、生きて いれば、いつかまた、お父さんやお母さんと一緒に東京で暮らせるようになるはずです。
  そして、もう一度学校に通って友達を作りたいです。人並みに恋もしてみたいです。思い切り遊びたいです。他の人 から見れば下らない願い事かもしれないけど、私は至って真剣です。
  けれど、それを叶えるのは他の誰でもありません。自分自身です。だから、私はこの島で精一杯頑張って生きる ことにしました。私の体は生体兵器でインベーダーでミュータントかもしれないけど、心はただの人間だから。

  斎子紀乃


 その手紙を胸に押し当てた紀子は、過去の自分を抱き締めてやりたくてたまらなくなった。大丈夫だよ、なんとか なるよ、と慰めてやりたい。不安と恐怖と絶望ではち切れそうな心中から絞り出した切実な文章は、文字の端々が 震えていた。その頃はゾゾも信じられず、ガニガニにしか心を開けなかった。サイコキネシスも上手く扱えず、自分が 一体何のためにインベーダー扱いされているのかすらも解らなかった。今となっては、何もかもが良い思い出だ。 紀子は紀乃の手紙を丁寧に折り畳むと学生証の中に入れ、瓶もタオルにくるんでスポーツバッグに入れた。
 薄暗くなりかけた頃、紀子は帰宅した。いかにも現代的な二階建ての庭付き一戸建てで、四人で住むには最高の 広さと立地条件の家である。ガレージには父親の黒のハマーが駐車されていたので、今日は早めに帰ってきたの だろう。鍵を開けて玄関に入ってローファーを脱ぎ、ただいま、と声を掛けるとキッチンから母親が顔を出してきた。 エプロンで濡れた手を拭きながら近付いてきた母親、融子は満面の笑みで出迎えてくれた。

「お帰りなさい、紀子」

「ただいま、お母さん」

 紀子は笑顔を返し、リビングでお揃いのエレキギターを抱えている父親と次女にも声を掛けた。

「ただいま、お父さん、露子」

「お帰り。お姉ちゃん」

「お帰り、紀子」

 ソファーの上から露子が振り返ると、フローリングに直に座っている父親の鉄郎が顔を上げた。ガラステーブルには 楽譜が広げられていて、要所要所に蛍光ペンでチェックが入っている。音楽に疎い紀子にはさっぱり解らないが、 二人はそれを読めるので専門用語で会話している。親子で共通の趣味を持っているのは素敵なことだ。二人が 家で弾くギターはもっぱらZO−3で、露子のリッケンバッカーは部活専用である。鉄郎のギターは黒、露子のギター は青で、どちらもメタルバンドのステッカーを貼り付けてある。

「ただいま、ガニガニ。良い子にしてたかなー?」

 紀子は壁際に置かれた大きな水槽に近付き、中を覗き込んだ。その中では青黒い外骨格のヤシガニが収まって いて、紀子を見た途端、かちこちと鋏脚を打ち鳴らした。喜びを表現しているのだ。紀子はにこにこしながら、家族 の一員であるヤシガニの甲羅をそっと撫でてやった。きちきちきち、と顎を擦り合わせる仕草も、ヒゲと触角の動きも 全長十メートル近くの巨大ヤシガニだった頃となんら変わらない。生体洗浄された結果、変形能力も帯電体質も 失い、赤い勾玉も返上したためにテレパシーすらも失ったが、ガニガニは自分の意志を示す方法を知っているし、 紀子も他の家族もガニガニの人格を理解している。だから、紀子達はガニガニを家族として尊重し、ガニガニも分を 弁えて水槽で大人しくしている。ガニガニはただの愛玩動物ではない、生死を共にした戦友であり掛け替えのない 家族なのだ。彼の甲羅に乗って砂浜を散歩していた日々と比べると小規模だが、小規模なりに楽しい日々は続いて いる。紀子はガニガニの頭部を指先でつんと小突き、笑いかけた。

「じゃあね、ガニガニ。お姉ちゃん、着替えてくるからね」

 かちかちかち、とガニガニは鋏脚を軽快に鳴らしてから、鋏脚を振ってくれた。紀子はその鋏脚に手を振り返し、 リビングから零れるギターの音色を耳にしながら、紀子は階段を昇って二階に向かった。露子の部屋と隣り合った 自分の部屋に入り、制服を脱いで着替えた。手洗いうがいをしてからダイニングキッチンに入ると、既に夕食の準備が 整っていた。懐かしい匂いが立ち込めていて、途端に食欲が湧いた。ゴーヤチャンプルー、ラフテー、パパイヤの 漬け物、ハリセンボンの潮汁。紀子が感嘆すると、融子は得意げな顔をした。

「どう? お母さん、頑張ったでしょ」

「うん、凄い凄い! でも、いつのまにゾゾから沖縄料理の作り方を教えてもらったの?」

「元に戻る前に、色々と教えてもらったのよ。ちょっとの間だけだけど、ゾゾもワンの内に溶けていたでしょ。その時に、 御料理の作り方を教えてくれたのよね。おかげで、私の料理の腕もちょっとはマシになったのよね」

 材料も溶けなくなったことだし、と、融子は嬉しそうに自分の手を開く。斎子溶子だった頃の母親の料理は、どれも これも能力の弊害を受けて溶けてしまい、何を作ろうとも煮崩れてスープ状と化していた。幼い頃は単純に母親の 料理が下手なのだろうと認識していたが、今になって紀子にも母親の苦労が解る。穏やかな日々も手伝い、顔立ち が以前よりも丸みを帯びている。体型にも年相応の重みが加わりつつあるので、ぴったりとしたバイオスーツを着て 液状化能力を行使して戦っていた姿からは懸け離れていくが、本人はそれを非常に喜んでいる。

「だったら、今度、私にも教えてよ。自分で作れるようになりたいから」

 紀子は懐かしい匂いのする料理を見つつ、テーブルに人数分の食器を並べていった。

「もちろんよぉ」

 融子は快諾し、料理の説明を始めた。家族の口からゾゾの名を聞くのは久し振りだったことも手伝って、紀子は 融子の説明をいつになく真剣に聞き入った。それが一段落してから、父親と次女もダイニングへとやってきた。四人は それぞれの定位置に付くと、揃って手を合わせてから食べ始めた。南海の孤島で食べていた料理とは少し味が違うが、 母親らしいクセがある料理はとてもおいしく、ほとんど残らなかった。
 斎子一家が末継一家になってからは、全てが順調だ。斎子鉄人は末継鉄郎となり、斎子溶子は末継融子となり、 斎子紀乃は末継紀子となり、斎子露乃は末継露子となり、長らく望んでいた生活を送り始めた。鉄郎は沿岸沿いの 工業地帯にある鉄鋼会社に再就職して趣味にも程々に没頭し、融子は念願だった双子の子育てに専念し、紀子は 進学した高校で再びテニス部に所属し、露子は軽音楽部に所属した。四人の距離感は療養所で過ごしたおかげで 皆無になり、引け目も遠慮もなくなった。壁にぶち当たることもないわけではないし、紀子と露子は今のところはまだ 反抗期を迎えていないが、いずれはどうなるか解らない。露子は鰐淵仁と結婚して家から出ていくだろうし、紀子も 大学に進学して就職するだろうし、ともすれば弟か妹が出来るかもしれない。両親もまだ若いし、そんな気配が全く ないわけではないからだ。だが、そうなったらそうなったでまた大変だろう。けれど、不安はない。
 あの戦いで全員が死亡扱いになったことで、御三家は完全に亡びた。新しく与えられたのは末継という名字で、 皆、その名を背負って胸を張って生きている。末永く継いでいける血筋になるように、との願いと、忌部島の歴史の 根幹に関わる先祖の名前を忘れないためだ。結果的にゼン・ゼゼを悪行に走らせた一因を作った男ではあるが、 忌部継成がいなければ誰もこの世に産まれていなかったのだから。だから、今でも、お盆になれば忌部一族の墓を 参ることにしている。せめてもの礼儀であると同時に、血筋への戒めでもある。
 夕食を終えて和やかな団欒の後、紀子は風呂に入った。仁と長電話をしている露子を急かしてから自室に戻り、 明日の準備をしながら、空の瓶を勉強机に置いた。蛍光灯に照らしてみても、茶色の瓶には傷一つ付いておらず、 それどころか充分な光沢を持っていた。きっと、これは普通の瓶ではないのだ。ワン・ダ・バから生み出された珪素 生物の一種に違いない。だから、紀子の手元に戻ってきたのだ。紀子は瓶を小突き、話し掛ける。

「ねえ、あなたも珪素生物なんでしょ?」

 瓶は答えない。が、僅かに表面の光沢が変わった。

「だったら、今から書く手紙をゾゾに届けてくれないかな」

 紀子の指先が表面を這うと、光沢がまた変化して光の筋が曲がった。

「ありがとう、良い子だね」

 紀子は瓶を丁寧に撫でてから、机の隅に置いた。引き出しを開けてレターセットから便箋を抜き、机に広げたが、 いざ書くとなると書きたいことが多すぎて困る。伝えたいことも山ほどある。しばらく悩んでから書き出したが、納得 が行かずに握り潰した。それを何度も繰り返しているうちに夜が更けていき、リビングから聞こえてくるギターの音色 も途切れてきた。付けっぱなしにしていたラジオもトークが落ち着き、時計を見上げると日付が変わっていた。レター セットの便箋が尽きてしまい、封筒だけが残ったので、別のレターセットを開封して尚も数枚の便箋を消費した後、 ようやく納得の行くものが仕上がった。それを瓶に入れてコルク栓を填めて、パジャマから私服に着替えた紀子は、 足音を殺しながら瓶を抱えて自室を出た。リビングから明かりが漏れていたので窺うと、鉄郎がエレキギターを横に 置いて酒を傾けていた。水槽の中のガニガニは晩酌の恩恵を受けて、鉄郎が酒の肴にしている魚肉ソーセージの 切れ端を囓っていた。少々迷ったが紀子がリビングに顔を出すと、鉄郎は長女に向いた。

「紀子、こんな時間にどこに行くんだ」

「手紙を出しに」

 紀子が手紙を入れた瓶を差し出すと、鉄郎は一目見てその材質を見抜いたのか、太い眉根を曲げた。

「なんでそんなものが残ってやがるんだ? 珪素生物なんて、あいつらが全部持っていたはずだろう?」

「これはね、随分前に私がボトルレターを出した時に使った瓶なんだ。それが近所の砂浜に流れ着いていたから、 中身を出して、もう一度使おうと思って」

「誰に宛てた手紙なのかは、聞かなくても解る。だが、相手はいつ帰ってくるかも解らんぞ? その珪素生物が割れでも したら、届くどころの話じゃなくなっちまうが」

「だから、この子にちゃんとお願いしたの」

 紀子は水槽の前で屈むと、ガニガニの前に瓶を差し出した。

「ほら、ガニガニ。覚えてる? 紗奈美ちゃんのお手紙を拾った後、返事を出す時に使った瓶だよ。でも、その手紙は 結局紗奈美ちゃんに届かなかったんだ。出した本人が拾っちゃったから。だけど、おかげでまたこの子を使って 手紙を出せるから、結果オーライってやつだね」

 かちん、とガニガニは鋏脚を瓶に当て、ヒゲを上下させた。頷いているのだ。

「じゃ、行ってきます。お母さんには内緒ね、心配させちゃ悪いから」

 紀子がリビングを出ると、鉄郎はウィスキーのロックを入れたグラスを掲げ、笑った。その際に、生体復元と共に 一本残らず再生した前歯が覗いた。顔付きは少々変わったものの、鋼鉄の戦士として戦い抜いていた頃の名残で 体は今でも屈強だ。Tシャツに隠されている背には生体洗浄でも拭いきれなかった傷が深く刻まれているが、本人も 家族もそれを誇りに思っている。あの戦いを乗り越えた勲章だからだ。

「ああ。だが、なるべく早く帰ってこいよ。また、どこぞの南の島に攫われちゃ困るからな」

「だね。今の私じゃ、戦おうにも戦えないもん」

 紀子は軽く笑いながら、玄関に向かった。スニーカーを履いて外に出て、ポケットに詰めてきたキーホルダーから 玄関の鍵を出して施錠した。真っ暗なガレージに明かりを付けてから自転車を出し、ガレージの電気を消し、ペダルを 漕いで真夜中の住宅街に走り出た。チェーンがギアと噛み合う音がいつになくはっきり聞こえ、ぽつぽつと立って いる街灯とダイナモの明かりが頼りだ。駅前周辺の繁華街は強烈なネオンによってぼんやりと浮かび上がり、その 周囲だけは夜の闇も退いている。坂道を下り、時折車の通る幹線道路に沿って進み、海沿いの道路に出る。下校 した時とは打って変わって静まり、潮騒も心なしか遠く感じる。防波堤の階段下で自転車を止めた紀子は、スタンド を立てて鍵を掛けてから階段を昇った。コンクリートには昼間の余韻がこびり付き、靴底には熱が染みてくる。
 防波堤を降りて砂浜を歩いた紀子は、瓶を優しく抱き締めた。珪素生物で構成されている瓶の冷たさは、ゾゾの 体温を思い起こさせる。人間よりも体温が低く、肌も硬いのに、触れられていると安心した。それどころか、気持ちが 高ぶってどうしようもなかった。歩調を緩めながら星空を見上げ、紀子は目を凝らした。

「今、どの辺にいるんだろう」

 宇宙怪獣戦艦の居所を知る手段はない。たとえ、紀子が紀乃のままでいて、サイコキネシスを扱えたとしても宇宙に 旅立てるほどの力はない。並列空間の旅にしても、あれはワン・ダ・バと竜ヶ崎全司郎がいたからこそ成り立った ものであり、自分だけではどうにもならない。人類の科学力にしても、紀子が生きている間に広大な宇宙に旅立てる とは思いがたい。だから、ゾゾには会おうにも会えない。けれど、夜空を見上げるたびに探してしまう。もしかしたら、 目に見える星の傍にいるのではないかと。だが、そんなことは有り得ない。地球へと降り注ぐ星の光は過去のもの であり、数百光年先で放たれた光がようやく地球に届いた時の光だ、と仁から教えてもらった。
 全ては過去のこと。この宇宙も、斎子紀乃という人間がいたことも、インベーダーと御三家の戦いも、穢れた血を 洗い流すために多くの血が流れたことも、叶わぬ恋に身を焦がした異星の男達の思いも。だが、紀子はその全てを 覚えている。世間からは何もなかったことにされても、あの夏の暑さだけは忘れようがない。だから、ゾゾへの思いも 忘れたりしない。それが、ゾゾが注いでくれた愛に報いるための唯一にして最大の方法だ。

「ゾゾとワンが迷わず地球に戻ってこられるように、ちゃんと教えてあげてね。あなたには、それが出来るよね」

 瓶を胸に押し当て、紀乃は語り掛ける。

「また会えるって信じてる」

 最初で最後のキスを思い出しながら、瓶に唇を添えた。スニーカーを脱ぎ捨てた紀子は波打ち際に入り、ショート パンツなのをいいことに膝下まで海に浸かると、手紙と愛を込めた瓶を波間に流した。薄い月明かりを帯びた藍色 の海水に飲まれていく瓶を見送ってから、紀子は海から上がった。ぐしょ濡れの足にスニーカーを引っ掛けて階段を 昇り、防波堤の上に立った。この水平線の先に、ニライカナイはある。なぜなら、理想郷とは大きく一巡りした後に 辿り着く、自分の内にこそあるからだ。外に求めているばかりでは、見つけられるはずもない。熱帯夜を予感させる 潮風の中、紀子は防波堤に腰を下ろして気の済むまで星空を眺めた。
 ゾゾは、今、どんな星を見ているのだろうか。




 更に十万年後。
 長い長い旅だった。途方もない時間を食い潰して出来たことといえば、イリ・チ人の生き残りがただの一人もいない ことを確認出来たぐらいだ。宇宙怪獣戦艦ことヤトゥ・マ・ギーの空間跳躍地点とイリ・チ人が入植していた惑星を 一つ一つ虱潰しに探索したが、どの惑星も粉々に砕かれていて、イリ・チ人はおろか生体改造を加えた生体兵器も 生き残っていなかった。ゾゾは同族の愚行を悔い、ワン・ダ・バは同族の気持ちを理解した。事実確認が救いになる というわけではないが、妙な希望は抱かずに済むようになった。それだけが、救いと言えるものかもしれない。
 やるべきことを終えた後、目的が生まれた。五千年ほど前、地球からワン・ダ・バに向けて発信されていた亜空間 通信を受信したからである。その内容は、ワン・ダ・バとゾゾの帰還を乞うものだった。亜空間通信が経由した空間 を調査した結果、その通信が初めて発信されたのは十万年前だったが、ヤトゥ・マ・ギーの痕跡を追い掛けて宇宙 を彷徨っていたために、ワン・ダ・バが受信するまでには大きなラグがあった。その上、空間跳躍に次ぐ空間跳躍の 末に宇宙の端まで到達していたので、物理的な距離の問題とワン・ダ・バの航行に必要不可欠な反物質の採取が 滞ってしまい、空間跳躍しようにも出来ない状態が長らく続いた。それらの問題が全て解決して地球に向かえるように なったのは、ほんの十数年前である。けれど、その間、ゾゾもワン・ダ・バも一時も退屈しなかった。亜空間通信の発信源が 何であろうと、二人を知る者が宇宙に現存しているという喜びには代え難い。
 空間と次元を跳躍したワン・ダ・バは、太陽系外周部に出現した。空間自体の自己修復作用でねじ曲がった空間 が収縮し、空間が平坦になる。首長竜の如き様相の宇宙怪獣戦艦は、下腹部の水素燃焼式推進孔から高出力の 推進エネルギーを発しながら、ぐいと長い首を突き出してオールトの雲の先にある青い惑星を視認した。

「見えてきたぞ、地球が」

 ワン・ダ・バの声が、体内に張り巡らされた珪素神経を通じてゾゾの脳内に響いた。

「おやおや、そのようですね」

 ゾゾは珪素の椅子から腰を上げ、居住臓器内に設置したカ・ガンを見上げた。通常の百倍の直径に成長させた カ・ガンには、ワン・ダ・バが目視している外界の景色がそのまま映るように設定した。ワン・ダ・バが単眼を凝らした のか、ぎゅうっと視野が拡大された。クレーターだらけの衛星を伴った惑星が、恒星を背負って宇宙に浮いている。 ワン・ダ・バが瞬きしたのか一旦映像が途切れたが、その後、より鮮明な映像がカ・ガンに投影された。

「亜空間通信が途切れたが、代わりに生体電流無線で通信してきた。座標の特定も可能だ」

「それは何よりです」

「しかし、なんで俺はあの星に墜落したんだろうな? ガキの頃だったから記憶が半端なせいもあるが、首が千切れ ちまった原因が未だに突き止められないんだ。正体不明の運動エネルギーが並列空間から発射されたことまでは 解析出来たんだが、肝心の発信源が掴めないんだ。ゾゾ、お前は何が起きたのか知らないのか?」

「私はあなたの感覚器官を使わなければ、並列空間を観測出来ないのですから、まず無理ですよ」

「そうか。長年の疑問が晴れる良い機会だと思ったんだが」

「真相だという保証はありませんが、その件に関わることは存じています。いずれ、お話しして差し上げましょう」

 ゾゾは単眼を細め、尻尾を揺らした。激戦を終えた末に生体情報も生体組織も回復したワン・ダ・バは、忌部次郎 の人格が色濃く焼き付いている。細部は違うものの、声も性格も言動も忌部に酷似している。厄介な性癖までもを 引き継ぐのではないかと危惧したが、ワン・ダ・バには根本から理解出来ない思考だったそうで、早々に削除した とワン・ダ・バは報告した。小松建造とミーコの人格は完全に融和し、生体部品としての分を弁えて生きている ので、二人は個体としての能力は残っていない。だから、ゾゾの話し相手は専らワン・ダ・バだ。言葉を操る楽しさを 知った彼は雄弁で、どうでもいいことまで喋ることもあるが、終わりの見えない旅の退屈を紛らわしてくれる。

「じゃ、とっとと行こうじゃないか!」

 ワン・ダ・バは急加速し、オールトの雲へと突入した。その余波を受けて居住臓器内の人工重力帯も揺さぶられ、 ゾゾは若干よろめいたが尻尾で踏ん張って止まった。太陽系の外周部から内周部に入り、土星、木星、火星と通り 過ぎていく。一本の筋と化した火星が緩やかに縮んで惑星らしい姿でカ・ガンの隅に留まると、ワン・ダ・バの加速も 収束した。衝撃破を何度も噴出して制動を掛けたワン・ダ・バは、青い水を湛えた惑星に接近していく。文明の進歩 の痕跡が見える月を過ぎると、それをそっくり覆い隠すほどのワン・ダ・バの影が掛かった。十万年もの歳月の中で ワン・ダ・バも脱皮を繰り返し、幼生体から成熟体に成長したからだ。その様を御三家の誰にも見てもらえないのは 残念だったが、仕方ないことだ。月の地表には地球人類が築き上げたコロニーが連なり、太陽光を受けて発電する パネルが光っている。衛星軌道上には軌道エレベーターが伸び、宇宙と地上を繋いでいる。スペースデブリの量は 十万年前の比ではなく、宇宙船らしき残骸も見える。出来る限り緩やかに大気圏突入したワン・ダ・バは、衛星軌道上に 胴体を残して首だけを大気圏に差し込んだ。それだけでも恐ろしく膨大な質量があるため、意図せずに暴風が 発生し、大気が掻き乱された。
 視界には、海、海、海、海、ひたすらに海。ゾゾはワン・ダ・バに指示を出して視野を広げさせるが、どこを見ても 海以外のものは見えない。大陸はどこにもなく、地表と呼べる場所は一つとしてない。予想していた事態ではあるが、 目の当たりにすると衝撃を受ける。ワン・ダ・バが海上五百メートルに達したので、真下へ目を向けさせたゾゾは、 海面の下に没している大陸を見つけた。かつて栄華を誇っていた都市が、ビルの群れが、ありとあらゆる人類の 営みが、青く冴えた海に包まれていた。ワン・ダ・バは高度を下げて下顎を着水させ、ぐるりと眼球を回転させて 地球を見渡した。ゾゾが見上げているカ・ガンにも、彼が見た光景と全く同じものが映る。

「なんだこりゃ。海だけになっちまってるぞ?」

「十万年も経過すれば、どんな惑星でも気候変動が起きるというものですよ」

 ゾゾは手近なヴィ・ジュルを手にして、瞬間移動を行った。ワン・ダ・バの頭部に移動した直後、ゾゾに吹き付けた 風は遮蔽物がほとんどないために強烈で、爪を立てて踏ん張らなければ煽られかねなかった。その風を条件反射で 分析したのか、ヴィ・ジュルが生体電流に乗せて情報を伝えてくる。地球上の生物であれば十五分と生命活動を 保てないであろう、濃密な放射線だった。恐らく、大きな戦争が何度も何度も繰り広げられた末、大陸すら消し飛ぶ ほどの戦いが起きたに違いない。ヴィ・ジュルを使って生体情報に対放射線処理を行ってから、ゾゾは改めて景色を 見渡した。カ・ガン越しではなく己の目で見た地球は、いかに大気が穢れていても美しかった。

「人間ってのは、脆いもんだな。たった十万年程度も長らえられなかったんだ。一人ぐらいは生きていてほしかった もんだが、そう贅沢は言えないか。星自体が残っていただけでも、御の字ってところか」

 ワン・ダ・バの嘆息混じりの呟きに、ゾゾはゆっくりと頷いた。

「ええ、そうですね」

「……ん?」

 ふと、ワン・ダ・バが瞼を見開いたので、ゾゾは問うた。

「どうかしましたか、ワン」

「見つけたぞ! あいつが俺に通信を送ってきていたんだ!」

 あそこだ、とワン・ダ・バが視線で指し示した先には、海面から僅かに尖端を覗かせている火山があった。噴煙は 途絶え、十万年分の地殻変動で原形は止めていなかったが、忘れもしない火山だった。ゾゾは途端に目を見開き、 即座に生体操作を行って翼を生やし、しきりに疑問を口にするワン・ダ・バの声が聞こえなくなるほどの高揚と期待 を膨らませながら海上を滑空した。距離にすれば相当なもののはずだが、ゾゾには一瞬にしか感じられず、火山の 尖端に足を下ろした時にやっと自分の息が切れていることを知った。冷えた溶岩が凝固している岩場に爪を噛ませて 目を凝らすと、すぐにそれは見つかった。ゾゾは斜面を滑り降りて波打ち際に至ると、水面に半分没している茶色の 瓶を拾った。ワン・ダ・バもゾゾに追い付くと、生体反応の主である茶色の瓶を見下ろした。

「そいつが俺達を呼び付けたわけか。珪素生物のようだが、中に何が入っているんだ?」

「それは見てのお楽しみですよ、ワン」

 ゾゾは風化寸前のコルク栓を抜くと、瓶の中から全く風化していない便箋を取り出した。

「ありがとうございます。今の今まで、彼女の手紙を守ってくれていて」

 ゾゾは手近な岩に腰を下ろし、その便箋を広げた。忘れもしない字が、忘れもしない名が、忘れもしない過去が、 ピンク色の便箋に綴られていた。ワン・ダ・バは忌部の記憶を模倣しているので、日本語を読み取れるので、ゾゾの 肩越しに便箋を覗き込んできた。短い文面だが、だからこそ伝わるものは大きい。愛おしい少女からの手紙を何度 となく読み返したゾゾは、肩を怒らせて唸った。恋しさのあまりに生まれる苦痛は甚大で内臓が引き千切られるか のような感覚に苛まれるが、それが心の底から嬉しかった。今でも、紀乃と愛し合えている証拠だからだ。


  親愛なるゾゾへ

  御元気ですか。私は元気です。
  色々あったけど、皆、元気に暮らしています。だから、ゾゾはもう何も心配しないで下さい。
  書きたいことが山ほどあるし、伝えたいこともうんざりするほどあるけど、上手く言葉が出てきません。
  だから、本当は自分の口で言いたいけど言えないことを、ここに書いておきます。

  お帰り、ゾゾ。また会えたね。今度という今度は、ずっと一緒にいようね。
  でないと、もう二度と好きだなんて言ってやらない。
  愛している、なら、いくらでも言ってあげるから。

  斎子紀乃

  P.S ゾゾのニライカナイは見つかりましたか?


「ええ、もちろん」

 ゾゾは手紙から目を上げ、火口に海水が溜まって噴煙すら上げなくなった火山に振り向いた。ワン・ダ・バも 意味を悟ったのか、ぎゅいいいい、と鈍く唸って同意を示した。ゾゾは手紙を折り畳んで再び瓶に戻すと、それを携えて 火山の火口に昇った。愛して止まない少女が生きていた惑星は海に覆い尽くされ、最早、果てはない。故に、ニライ カナイと現世は物理的に接したようなものだ。紀乃の心も、紀乃の魂も、紀乃の思いも、紀乃の肉体も、全ては海に 溶けている。だから、ゾゾもこの世界に浸り、身も心も溶かしてしまおう。今生では生まれの違い故に交わることが 許されなかったが、境界を越えた先の世界であれば、いかなるものもゾゾと紀乃を阻めないはずだ。
 空も海も、おぞましいほど美しい。ワン・ダ・バの巨体によって歪められた海流が筋を作り、絶えず姿を変える雲が 放射能混じりの暴風に千切られ、青と青に挟まれた世界を彩っている。容赦なく降り注ぐ日差しは紫色の肌を熱し、 激しい季節の到来を告げていた。強い潮風に瞼を細めながら、ゾゾは茶色の瓶に口元を寄せた。
 ニライカナイは、ここにある。






THE END.....




11 2/19



あとがき